松山騒動八百八狸-1
 享保の大飢饉の頃の松山藩での模様を題材にした話。享保17年(1732年)・蝗(イナゴ)が大量に発生し大飢饉の被害を蒙った。幕府から借り入れた救済金の不始末をめぐって、家老の奥平久兵衛が私利私欲のためお家騒動になった話。
 飢饉により、久万山(久万町)では農民一揆がおこり、大洲藩へ逃げるものいたという。そんな頃、飛騨の高山の家臣で猟師番をしている後藤右源太の一子=小源太正信がある日、伊予松山藩へやって来た。小源太は幼名を伏太郎といって、早くから母を失い、飼い犬の乳で育ち、夜でもよく目が見えることから、夜間の剣法をあみ出し、一流の剣術の使い手であった。松山へ来た後藤小源太は間もなく家老の奥平久兵衛に見出され、松山藩に抱えられた。
 その頃、久万山では神通力に優れた古狸で八百八狸の眷族(けんぞく)=一族一門=を率いる「隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)」が居て妖術を使い里人を悩まし、幾人もの武芸者が立ち向ったが妖術にたぶらかされさんざんな目にあっていた。後藤小源太は、この「隠神刑部」退治の命を受けて久万山に向かった。後藤小源太は、夜間の剣法で、この狸共を手厳しく痛めつけたので、「隠神刑部」は恐れをなし、ある日、和尚に化身して寺に招き、辞を低くして言った。『今後、狸族退治を思い止まってくれるなら、我ら八百八狸眷族は、あらゆる神通力で貴公の一生を守護するであろう。』この約定が成立してより、その神通力は松山藩一帯に及び、五風十雨をもらせて五穀豊穣・天下泰平が続いた。
 小源太は身に危険が迫った時、呪文を唱えると、何処からともなく八百八狸の眷族が現れ不思議な神通力を発揮して彼を救ったという。
 この頃、家老の奥平久兵衛は松山藩のお家横領を企て、不思議な狸の神通力を持った小源太は重用され700石の中老格に取り立てられ、企てを小源太に打ち明け一味徒党に引き入れていた。小源太は、刑部狸に次第を打ち明け協力要請したところ、刑部狸は大いに驚いたが約束と恩義もあり受託していた。
                      
松山騒動八百八狸-2
悪企ては着々と進められていたが、一方、藩主の若殿(江戸詰め)の忠臣達のうち、近習頭の「山内与右衛門」は、藩主に悪事を身をもって諌言(かんげん)したが、奸臣(かんしん)達の諌言に合い切腹を申し付けられ憤死した。その亡霊は、松平家に伝わる名剣「菊一文字」と結んで、狸の神通力に対抗して主家を守護するために、江戸と松山で怪異を生んでいたその頃、かって後藤小源太と知り合いであった一刀流の芸州広島の剣士=稲生武太夫が浪人して松山へやって来て、良家の美人娘とねんごろになった。ところがこの娘は、小源太が武太夫を味方にするための計略で、刑部狸の回し者の化け狸であった。武太夫は怒り、昼夜の区別なく出没する化け狸と戦っていた。この行動を知った忠臣組は武太夫を家臣に召抱えた。しかし、城下町の騒動は一段と活発となり、武太夫も八百八狸のために幾度も失敗をなめていた。しかし、武太夫は日頃から信仰していた宇佐八幡大菩薩から不思議な力を持った「神杖」を賜り、この威徳で隠神刑部狸の眷族と戦い、久谷の奥深く追い詰めて退治したという。

松山騒動の話にまつわるゆかりの場所
 『山内神社』⇒亡霊になって活躍する忠臣<山内与右衛門>を祀っている神社。
松山藩の西の守りの守護神でもある。松山総合公園近くの、南江戸5丁目<朝日八幡神社>の近隣。
 『山口霊神』⇒八百八狸の隠神刑部狸を封じ込めて祀られている小さな祠。久谷町ー久谷中組ー山口公園入口近くの市道に面している。松山騒動にまつわる石碑もある。
『大宝寺』 ⇒隠神刑部のモデルは、久万町<大宝寺>の怪傑和尚=斉秀だとも言われている。 四国88ヶ所霊場=44番札所。 

山口霊神 山口霊神
山口霊神 松山騒動 八百八狸の碑(山口霊神・敷地内)

大宝寺(久万高原町) 松山城