第八十三段  時宗・宝厳寺と一遍

 宝厳寺といえば一遍上人(一二三九〜一二八九)の生誕寺として有名であり、一方では参道筋(上人通り)には旧遊郭「松ヶ枝町」があったことを戦前派の方はとくとご存知のことだろう。
 明治二五年、正岡子規が喀血後の療養で帰郷し、当時松山中学で英語の教鞭をとっていた夏目金之助(漱石)の寓居「愚陀仏庵」で五十余日を共に過ごした。十月六日、漱石と共に道後界隈を散策し宝厳寺にも立ち寄り、『散策記』に次の一文を残している。

「松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ こゝは一遍上人御誕生の霊地とかや 古往今来当地出身の第一の豪傑なり 妓廓門前の楊柳往来の人をも招かでむなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあわれに覚えて
 古塚や 恋のさめたる 柳散る
   宝厳寺の山門に腰うちかけて
 色里や 十歩はなれて 秋の風」
境内には、子規の「色里や十歩者なれて秋の風」のほかに、一遍上人、酒井黙禅、斎藤茂吉、川田順、河野清雲の詩・句碑が建っている。

 さて宝厳寺の歴史は古く、天智四年(六六五)斉名天皇の勅願により越智守興が創建した法相宗寺院で、開山は法興律師である。斉明七年(六六一)天皇が百済救援の為、中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)らとともに「熟田津来湯」され、越智守興が「白村江の戦」に伊予水軍を率いて出陣した史実と深く結びついている。万葉歌人額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の一首もこの時この地で詠まれた。奥之院が天皇一行の行在所であったとの伝承がある。

 風早(旧北条市)出身の天台宗別当でもある光定(七七九〜八五八)の影響もあり天長七年(八三〇)天台宗に改宗しているが、松山市の東部には天台宗別院弥勒寺(食場)、河野院円福寺(藤野)、西法寺(伊台)、常信寺(祝谷)、佛性寺(菅沢)、正観寺(小野)など天台宗寺院が散在している。宝厳寺の寺名は「豊国山遍照院宝厳寺」であるが、鎌倉・室町期には総門、地蔵堂、毘沙門堂、庫裏、鎮守社、楼門、本堂、開山堂、奥の院と塔頭十二房(法雲・善成・興安・医王・光明・東昭・歓喜・林鐘・正伝・来迎・浄福・弘願)を持つ大寺であった。

 鎌倉時代に入り河野氏が急速に力をつけるが承久の変(一二二一)で当主河野通信一統は後鳥羽上皇側に加担して北条方に敗北し殆どの所領を没収される。一遍の父通広は奥谷の一塔頭に隠棲し、そこで一遍(幼名松壽丸)が誕生した。一遍(智真)は寺域内の塔頭や大宰府で浄土教典を学び、信濃の善光寺、伊予の窪寺や岩屋寺で修業し、熊野本宮で神託を得て、薩摩の大隅(鹿児島県姶良郡)から陸奥の江刺(岩手県北上市)まで念仏勧進を始める。踊念仏・賦算・遊行により一遍が教化した時衆は大衆の支持を受けて急速に拡大する。近世の「道後八景」では「宝厳寺黄鳥(鶯)」を挙げ「道後十六谷」では「奥谷」があり法師谷と尼谷に分けられている。

 建治元年(一二七五)一遍により宝厳寺は時衆寺院となり正応五年(一二九二)時衆寺院(奥谷派)として一遍の実弟仙阿が中興開山となる。河野氏や小早川氏の支援、松山藩を治めた加藤、蒲生、松平(久松)家の庇護を得て幕末を迎えた。山門脇に在る「一遍上人御誕生旧跡」碑は元弘四年(一三三四)得能通綱が建立し、道後公園北口にある「湯釜薬師」の宝珠部に彫られている「南無阿弥陀仏」は従弟に当る河野道有の求めにより一遍が揮毫したものと伝承されている。

 時宗の本山は「藤澤山無量光院清浄光寺」であるが、法主が「遊行上人」と呼ばれるので「遊行寺」が一般名となった。遊行寺の門前町が山号藤澤山から藤沢と呼ばれ、やがて東海道の宿場町として発展し今日の藤沢市となった。時宗の聖地としては@生誕地「道後奥谷・宝厳寺」ほかにA発心の地「信濃・善光寺」B成道の地「那智・熊野大社」C終焉地「神戸・真光寺」がある。時衆である善光寺聖、高野聖、熊野修験者が嘗ては全国津々浦々で南無阿弥陀仏の世界を広めていき、室町期には少なくとも全国に八六〇寺院、四国に二十寺院、伊予に六寺院存在した。現在は四国に三寺院で、伊予には宝厳寺と願成寺(内子)の二寺院を残すのみである。  

 夕暮れ時、本堂の廊下に座して西を眺めると城山や瀬戸内の島々・海原が広がり正に西方浄土を連想させ、本堂階段に座して南の御仮屋山と対峙すると道後十六谷の一つ奥谷が迫り、早暁や深夜には幽谷の感すらする。「豊かな社会の崩壊」が囁かれる今日、一遍が希求した「捨ててこそ」を求めて宝厳寺を訪ねる参詣者が多くなってきている。尚、文化団体「一遍会」では月例会とあわせて一遍生誕会(松寿丸湯浴み式)一遍忌(窪寺まんじゅしゃげ祭り)などを市民対象に企画実施している。

(注)本編は松山東高校同窓会の依頼で平成21年度版『明教』誌に寄稿したエッセイである