第八十一段   一遍会「掲示板」(平成二十年皐月五月)に日録を掲載せしこと。

5月31日(土)
南海放送55周年記念番組(ラジオ)ラジオシンポジウム「一遍がいた風景〜中世・伊予の国」の放送。
12:00からランチを取りながら田中和彦コーディネーター、愛媛大学・川岡勉教授、寺尾英子アナウンサー、平田瑛子担当者と打ち合わせ。13:00から一時間シンポジウム。しゃびり過ぎで後半はテンションがあがる。14:00からドラマ「SAINT IPPEN 〜永遠の嘘をついてくれ〜」。TVニュースで放映。本多の義兄から電話、インターネットで感想が届く。一番厳しいコメントは家人である(一応合格点はつけてくれたが・・・)
神田東陽堂から@「時宗開宗七百年記念 一遍上人の研究」A「重要文化財 時衆過去帳」B時宗末寺帳」入手。読み応えのある内容である。
○江戸期初期の四国の時宗寺院は20寺院(伊予6・阿波4・土佐3・讃岐7)
○「時衆過去帳」の一遍、聖戒の取り扱い
○和田茂樹論文「時衆と連歌〜道後宝厳寺寺僧と大山祇神社連歌〜」
5月30日(金)
月末の「一遍会HP」更新作業は順調に進む。
@「月例会のお知らせ」&「一遍会」
A「子規博『今月の子規さん俳句』」
B「一遍徒然草神」(平成二十年皐月号)
C「一遍会ニュース」
D「インターネット会員宛『月初定期便』」
尚、マスコミはじめ情報機関への「6月度例会案内」は完了。
明日の南海放送「ラジオシンポジウム『一遍がいた風景〜中世・伊予の国』」最終点検。神田東陽堂に@「時宗開宗七百年記念 一遍上人の研究」A「重要文化財 時衆過去帳」B時宗末寺帳」注文。
5月29日(木)
時宗宝厳寺・長岡隆祥師の依頼があり、本山遊行寺の執事長宛に、当面の一遍会活動の要旨を取り纏める。「一遍会報」も10回分を添付。
竹田氏のアドバイスもあり、前原実知雄氏(樫原考古学研究所資料室長、奈良芸術短期大学教授、真言宗豊山派法蓮寺住職)に一遍会例会講師を依頼予定。子規記念博物館に出掛け「子規さんの今月の俳句」を確認、カメラに納める。【五月雨は人の涙と思ふべし】である。一気に鑑賞を記述する。この句の背景には「明治三陸地震・津波」がある。5月2・3日のミャンマー南部を襲ったサイクロン「ナルギス」と12日の中国・四川省の成都の近郊を震源とする大地震を無視して鑑賞はできない。  
スルガ銀行とのテレホンバンキングによるビジネスをまずはトラブルなしに完了。サルビアと千日紅の播種。椿湯でのんびりする。 
5月28日(水)
午前中日野歯科受診。歯科衛生士の話では高齢者でしっかりと歯が揃っているのは素晴らしいことですねと賞賛してくれる。本人のおじいさんと対比しているのかな。
午後、子規記念博物館を訪ね、竹田美喜館長から「万葉集と[温泉]」について話を聞く。問題提起は当方から「古事記、書紀には「温泉」なる言葉がないが万葉では如何」という点である。万葉集でも歌では「温泉」がでてこない。山部赤人の「伊予温泉歌」も表題のみ「温泉」が使われているが、これは赤人でなく編纂者が後代に付けたもの。その他万葉集に関して個人レッスンを受ける。有意義な時間を過ごす。聖徳太子絡みでは上原和氏の著作に目を通す必要あり。
青汁ケールの定植完了。
5月27日(火)
午前中一遍誕生寺宝厳寺(長岡隆祥師)定期訪問。
@故和田茂樹一遍会顧問戒名「寶壽院茂阿樹繁硯堂居士」
A「サライ」近々号に宝厳寺一遍立像掲載
B10月初旬本山(遊行寺)参詣
C本山に「一遍会」活動報告
D「能山踊り」と土佐時宗寺院存在調査など
午後、喫茶「セラ」で田中弘道理事と情報交換
@「道後温泉最古絵図」の河川検証
A「天徳寺」伝来史料取り扱いなど
南海放送田中和彦編成局長から「ラジオシンポジウム『一遍がいた風景〜中世・伊予の国〜』」の最終進行表届く。応答のレジュメ作成完了。
柿本哲子さんから和田茂樹著『愛媛の民俗芸能』と旧北宇和郡津島町と広見町の「五つ鹿踊り」のビデオが届く。残念ながら「能山踊り」は写っていない。
5月26日(月)
長屋門土間改修の「勉強」で、朝散歩を兼ねて喜多町、御出町、岩崎町の旧家やそれなりの邸宅の門や庭を覗き歩きする。座敷の整備に午後4時間。やっと三分の一が終わる。
やっと「ラジオシンポジウム『一遍がいた風景〜中世・伊予の国』」のマニュアルに基づいた応答集の執筆完了する。後はいかに分かり易く話すかである。
「トノクラ(門の倉・殿倉)」について持田村では庄屋の「門の倉」としたが、旧潮見村の「トノクラ」は「殿倉」で藩の備蓄倉庫と判明(幸田志万『熟田津追想』).。一遍会理事田中弘道氏と「道後温泉最古絵図」で,明日午後喫茶「セラ」で情報交換することにした。『時衆文化』(第17号)入手。砂川博、戸村浩人、古賀克彦、梅谷繁樹氏は健在である。井原今朝男氏論文「信濃国大井落合新善光寺と一遍」に注目している。
5月25日(日)
引き続き「ラジオシンポジウム『一遍がいた風景〜中世・伊予の国』」のマニュアルに基づいた応答集の執筆。『一遍聖絵』を久しぶりに読む。公民館貸し出しの】@浅田次郎「沙高楼綺談」(徳間書店)A浅田次郎「霞町物語」(講談社)読了。
【⇒犬伏教授】
早速のご返信有難うございました。「御手洗川・寺井内川が本通りまで描かれている」ことについての仲間内の現在までの討議内容は下記の通りです。
【仮説】
1)「本川」と「湯之川」が「二名称二異川」とすると、「道後温泉最古地図」に描かれた町中の川は「湯之川」と推定する。削除されている右三分の一に「放生池」が描かれ、左(北)に川が伸び「湯之川」に注ぐ(または湯の川から注がれる)寺井内川⇒(烏渓)⇒御手洗川⇒本川⇒樋又川は「放生池」建設以前の鎌倉期には存在した河川であり、削除された右三分の一に冠山(湯神社)や伊佐爾波神社が描かれていたとすると直下方に御手洗川(⇒本川)が当然描かれていた。
2)「本川」と「湯之川」が「二名称同一川」とすると「道後温泉最古地図」の絵師が「本川(湯之川)」の位置を思い違いをしたと推定せざるを得ない。 
【疑問】
「道後村在百姓発想」ですが、江戸時代から明治初年、南北に通る町屋(商店街)の100米以西は田圃でした。「本川」は通説の商店街からではなく、「湯之川」「常信寺谷川(仮称)」「放生池(川)」が合流する地点までは別の流れではなかったかと思います。「道後村最古の絵図」が「発見」されれば氷解するのですが・・・
【前提】
1)松平定長による伊佐爾波神社の造営が寛文4年(1664)から寛文7年5月(1667)であり「道後温泉最古地図」<元禄16年(1703)〜享保7年(1722)>制作時には「放生池」が存在し、寺井内川⇒(烏渓)⇒御手洗川(今市川分岐)⇒本川(湯之川)⇒樋又川の水路は存在した。但し、御手洗川から本川への流路は現状と異なるか。江戸末期〜明治初期の用水差配は「和田家」であるが、明治初期に和田家は御手洗橋付近から現在地に移転しているので、一部変更があったのではないか。
2)古来より「道後十六谷」の「谷川」は低地である温泉場・町屋周辺に流れ込んで「湯之川」として下流域(樋又川)に注いでいたと推定する。「本川」と「湯之川」は「二名称同一川」か「二名称二異川」かは不明であるが、現在は温水を中心に本町通りからの排水は「道後グランドホテル」前を左折して「本川」に流れ込んでいる。町中を西に抜けてから「本川」に合流するとすると、戦前まで存在した馬湯(牛湯)の説明も整合性が出てくる。
【犬伏教授⇒】
絵図の制作年代の推定ばかりに注目し水路や橋には気がとられていませんでした。ご指摘の点について、他の絵図と比較したことについて書き加えます。
享保7年(1722)の道後湯惣絵図(子規博蔵)には御茶屋の間取りが描かれ、温泉と御茶屋の中間に水路が描かれています。水路は本通りへと抜けています。
天保3年の道後湯絵図と同じです。が、温泉東の池からの水路も玉の石の東に描かれその水路に合流しています。その点、天保の図と異なります。橋は本通りの出たところでなく、本通りの中間に「石橋」と明記されています。
歴博蔵の道後温泉絵図(幕末制作と推定)では、寺井内川の流れは現在と同じに4丁目から西に描かれています。この図では、石橋らしいものが、本通りの東端、温泉へ出た位置に描かれています。参考になればと、申し上げます。
一度、資料をもってお話できたらと希望します。水路・水利のことには注目していませんでした。
5月24日(土)
終日雨。「ラジオシンポジウム『一遍がいた風景〜中世・伊予の国』」のマニュアルに基づいた応答集の執筆取り纏め。明日にも完了か。喫茶「セラ」で「ラジオドラマSAINT IPPEN〜永遠の嘘をついてくれ〜」再読。インタビューとの整合性を検証する。
公民館図書室で2冊貸し出し。
@浅田次郎「沙高楼綺談」(徳間書店)
A浅田次郎「霞町物語」(講談社)
【犬伏教授⇒】
先のメールにあった「本通り」の水利と橋は初知見ですので、これをめぐって目下歴史仲間と喧々諤々中のことですが・・・
このこと、絵図からの話題としたらと気が付きメールしている次第です。二通りに考えられます。藩絵師の研究をされている矢野徹志氏に見てもらったところ「描いた絵師は、地方の者でなく、しっかりとしたところに居た絵師の描いたものと考えるのが妥当。地方で描いたものではない」と言われました。
@作者が道後を歩き、町や建物、山などの地形を頭に入れ、スケッチなどして江戸で描いたと推定した場合、水路を誤って描いたのではないかと考える一説
A そして、元禄の頃は本通りまで流れ、そこから西へ水路があったと考える説です。
以上のようなことです。
5月23日(金)
一遍生誕寺宝厳寺の長岡隆祥師が本山(遊行寺)に出掛けられたので面談は数日後にペンディング。
【⇒犬伏教授】
【「鷺観音」は、「明王院文書」には「鳥越観音」と書かれています。】
貴重なるご指摘有難うございました。既にご高承の内容とは存じますが下記致します。「鷺谷寺の縁起」と関連があろうかと存じます。
1)「鳥越山」は『予陽郡俚諺集』『愛媛面影』中に「鳥越山鷺谷寺、後世大禅寺と云 湯の上、本尊観音作分明ならす、大宮形と有、(中略)山上に唐仏観音を安置す、麓に井あり、鷺の井とて霊水なり、(略)故に此所を鷺谷と云、(略)」 ⇒「鷺観音」と「鳥越観音」は同一観音かと推察されます。「明王院文書」は見ておりませんが、明王院家は「鍵(鈎)屋・金子家」で「道後三好家」とは三百年来の付き合いを致しておりました。
2)「鳥越山」ですが残念ながら「地図」で確認できておりません。精力的に「発掘」に努めます。
午後から庭の手入れを約四時間。椿湯で山本氏と情報交換。南海放送ラジオシンポジウム『一遍がいた風景〜中世・伊予の国」の準備を開始する。
5月22日(木)
潟tジの株主総会に出席。株価は下がっているがまずまずの業績である。「レディ薬局」を傘下に収めることで販売拠点は量・質ともにレベルアップする筈だが・・・
18:30〜「坂の上の雲」シンポジウム出席(コミュニティーセンター)。パネリスト:松本健一・黒鉄ヒロシ・真野響子、コーディネーター:松平定知
松本健一氏の発言から
@「坂の上の雲」は現代の「平家物語」である。
A30年遅れて「竜馬がいく」から「坂の上の雲」が女性に読まれている。女性の社会進出と期を一にしている。
午後、先日「発見」された久松家所蔵の「道後温泉最古の絵図」の内容について東雲女子短大・犬伏武彦教授に照会する。宝厳寺住職宛資料作成。
【⇒犬伏教授】
5月20日付の「愛媛新聞」一面の「道後温泉最古の絵図」は強烈な印象を受けました。「東雲短大犬伏武彦教授」のお名前を見つけ、さすが犬伏先生だなあと納得致しました。感謝を申し上げますとともに絵図もまた良き人の元に辿りついたのだなあと喜んでおります。
ところでお願いがあるのですが、新聞の絵図からは御茶屋・道後温泉の上に描かれている建物の文字が読み取れません。三字のうち、下は「寺」と読めますが、寺とすると円満寺・宝厳寺以外は存じませんので混乱しております。ご多忙と存じますが、寺名をご教示のほどお願い申し上げます。
【犬伏教授⇒】
早速にメールいただきありがとうございます。あのような絵図に出合えたことに感謝しています。
道後温泉絵図に描かれている建物など、文字については「鷺観音」です。他に書かれた文字は「玉之石」「温泉」「札場」「御茶屋」「鎰家?」「湯之町」そして「東」「北」「西」の方位です。鷺観音は、明王院の文書には鳥越観音と書かれています。鷺観音とは、これまで見た文書の中からは見つけられませんでした。聞かれたことありましたか?
明治になって温泉東の山を振鷺園と呼び、そこは円満寺の所有だったと書かれていたことを何かの本に記憶しているのですが、今回の絵図には、名は書いてないのですが東の上に茅葺の建物(他と比較して大きい)が描かれています。円満寺ではないかと推測しています。以上のようなことです。
5月21日(水)
早朝5時から書斎に篭る・
@寺井内川:寺=安養(石手)寺・井=井堰・内=井内(いない)の新解釈
A大寺:@寺領=正法寺A寺格=正安寺B「散策集」描写とのミスマッチ=石手寺か
B河川敷:篠原能憲カノン地質梶u重信川水系河川整備計画」
C万葉集記載「温泉歌」:竹田美喜子規博館長宛照会
D「句集 著莪の花」寄贈:宇和宣氏宛礼状
E「明治30年版 松山全図」確認(複写)
F「松山俚人談」(砂土手)確認(複写)
G土間=三和土確認
H一遍会6月例会案内(愛媛・朝日・毎日・読売・ミニコミ2社)
I「時衆文化第17号」注文。
午後、日野歯科受診。道後温泉ハイカラ通りで同期の柿原哲子さんと出合う。大江健三郎、大澤剛志先輩や義安寺住職のことが話題となる。今村威一遍会理事から「栗田樗堂 その人と作品 今日ありて」、宇和宣子規会理事から「句集 著莪(しゃが)の花」の寄贈を受ける。
5月20日(火)
昨日(5月19日)の子規会例会に向けて子規さんに集中したので、今日一日はリラックスに向けて奥道後温泉でバイキング&ジャングル風呂で半日休養する。
プレス(愛媛・朝日)で「道後温泉最古の絵図」(江戸中期)が久松家で発見され紹介された。イラスト的であるだけに御茶屋と鈎屋が大きく表示されている。伊佐爾波神社と宝厳寺は分かるが左下隅の建物が分からない。大通りに橋が架かっているのは新知見である。一遍会会員にインターネットで紹介する。下旬は一遍中心に学習したい。
5月19日(月)
子規会5月度例会で「子規『散策集』(石手寺・道後コース)」について話をする。例によって時間が足りず後半は端折ってのスピーチとなる。副題的には「『散策集』所載の子規俳句の経済史的分析」である。切り口(発想)は異質であるので戸惑った出席者も多かったようだ。竹田美喜・子規記念博館長と和田克司・成蹊女子短大教授(共に子規研究者)のご両所から高く評価していただいた。「松山発子規事典」編集会議では今回の論文を中心に今後の進め方について議論が展開した。
潟Lイチ(山岡勲)二度来訪、長屋門土間などの改修の最終見積りをセット。7月中に完成の予定。江戸期の長屋門がおめかしすることになる。
夜、土居俊夫氏(南海放送)の呼び掛けで有志がふなやで会食をすることになった。「道後サロン」として継続できればと願っている。小菅亘恭(前副知事)、高須賀康生(伊予史談会)、古茂田進雄(県図書館、土居俊夫と仲間である平岡英・二神将・田中弘道と小生の8名。
大澤剛志さん逝去。大江健三郎研究資料「江澤文庫」主宰。高校同期で文芸部長であった彼は大江さんの初期原稿から始まって膨大な資料を収集し発表している。。もっとも大江さんとの仲は残念ながら疎遠になっている。理由は彼の側ではなく大江さんの側にある。プライバシーなので記述できないが・・・無念の死であろう。
5月18日(日)
景浦勉著「松山城史」を読む。加藤嘉明の松山築城と併行して進めた伊予川、湯山川の改修についての知見を得る。
岩堰から湯渡までは現行流域で、西行して持田の中央部(お囲い池)を走り、二番町から八股に出て三番町の「妙清寺a跡」を通過し吉田浜へと向かう。
午後、畑の除草をほぼ終える。初夏の暑さが堪えるようになった。静養中の一遍会理事松本松吉、矢野敬子両氏に見舞い状を送る。元気な顔を見せもらいたい。
5月17日(土)
「キイチ」(山岡勲)の担当者を呼び、長屋門土間、溝の改修の見積もりを依頼する。コンクリートも使用するが、江戸期の石積みは残置するように伝達する。県図書館で「砂土手の規模」につき資料確認、「へちま水」につき「都風俗化粧伝」(佐山半七丸著 文化10年)には未記載。
午後、花、野菜の定植作業。
5月16日(金)
子規会5月度講演「子規『散策集(石手・道後コース)』レジュメ執筆完了。A3版で本文5枚,資料4枚となる。論旨は「砂土手」に集約されよう。会場での質疑が楽しみである。いずれにせよ「砂土手」は論文の形で「子規会誌」か「明教」に掲載したい。子規記念博物館に立ち寄り調査。
午後3時間、カルチベータで畑づくり。明日以降で青汁ケールを定植する。
5月15日(木)
四国がんセンターで前立腺がんの定期診断。基準値4.00に対して7.49は異常値であるが、ここ数年は横ばいであり引き続き「観察」となる。
南海放送田中編成局長から「一遍がいた光景」の放送台本が届く。テレビの秒単位でなく、分単位なのコメンテーターとしては救われる。
高校同期会役員編成についてミスマッチがあったようだ。過去の貢献度をどのように評価するか、ゲゼルシャフト的でなくゲノッセンシャフト的であってほしい。奥さん卓球大会のゼッケンのパソコン印刷を依頼される。汗で滲まないか心配だが外注すると@300円。勿論無料サービスである。是非上位に入賞してほしいものだ。
5月14日(水)
南海放送田中編成局長(一遍会会員)から月末放送の「一遍がいた光景」の骨格の提示あり。どうやら「人事部長の宗教的感受性」に興味がおありのようだ。
松山東高校同期会役員会に顧問として出席。同窓会は5月31日夕開催である。放送が終わってから会場(県民文化会館)に駆けつける予定。
ITネット会員の「朝日」さんからのメール【一遍会報などの資料が届きました。有難うございました。お亡くなりになった和田先生は、私が松山にいた約20年前、子規記念博物館館長をされていました。温厚な素晴らしい人でした。その開館記念だったかどうか忘れましたが、朝日新聞企画部が一遍上人展を開催しました。それが一遍上人を知ったきっかけです。「紫雲のことは紫雲に聞け」という言葉がありますが、読売の5月12日夕刊に彩雲のことが載っておりました。】
子規会講演レジュメの資料をセット。@松山周辺遺跡一覧A愛媛県災害年表B明治30年版「松山市全図」C現行地図での子規散策コース
5月13日(火)
5月度子規会講演資料「明治28年前後 松山地方略年表」を取り纏める。明治9年から29年までの20年間の松山の特記的な事件を採り上げた。決して「坂の上の雲」ではなかった。
午後六時屋サミット。「野獣」主宰の現代詩・詩人森原直子氏に出会う。梅木賢正氏から上野のパンダ「リンリン」の死について問題提起。地方紙(共同通信)は「死ぬ」、毎日は「逝く」、読売は「天寿全う」朝日は「天国へ」で、全国紙の中国への媚び報道の「一事が万事」を嘲笑う。小生からは「子規会誌」掲載の『散策集』(石手・道後)の解説。「へちま」(唐瓜<とうり>)から「ほまえ<屁=へ>」(ダウンタウンヒーロ)に発展す。
夕、県文ザブホールで開催された松山市民劇場「天国までの百マイル」(劇団文化座)を観劇。原作が浅田次郎だけに悪人は出ない。俳優では佐々木愛しか知らない。脚本は八木柊一郎(1928〜2004)。題名を忘れたが20歳代に素人芝居で主役を演じた思い出がある。
5月12日(月)
四国がんセンターの定期診断。特に問題なく、手術後8年経過でサクセスの判定。「生かされている自分」に感謝する。病院の道中では「文芸春秋E」に目を通す。島田裕巳「真如苑はなぜ運慶を買ったか」で本件の疑問が解消した。偶像(仏像)で信仰が確かめられるのは世の常である。
午後から、子規会5月例会「子規『散策記(石手・道後)」の最終講義案づくり。散策ガイドではなく自分なりの歴史的な見方で取り纏めた。後日「熟田津今昔」に掲載する予定。
5月11日(日)
伊予史談会(1116回・平成20年5月例会)に出席。会場は元の道後小学校運動場跡地の「にぎたつ会館」である。
1、創立95周年記念式典  来賓祝辞は土居貴美・市教育長、関啓三・セキ社長、寺内浩・愛媛大教  伊予史談会賞は山崎善啓氏
2、記念講演は下向井竜彦・広島大大学院教授「藤原純友の乱の実像」。高校教科書記述(通論)の全面否定であり、資料の読み取りが興味深い。「日振島は海賊の拠点たり得ない」論証は、理解するが納得できず。武士勃興の先駆であった「純友の乱」を支えた「瀬戸内海賊」・・・河野氏も海賊の頭領であった。
3、懇親会では高須賀会長、斉藤事務局長、土居俊夫・ニ神将氏らと懇談す。散会後、会館浴場を独占して温泉気分を味わう。
夜、本格的に「散策集(石手・道後編)」の講演レジュメ作成に取り掛かる。東雲女子短大・犬伏武彦教授宛に下記礼状を送る。
【ご書状並びに写真受け取りました。お心遣いの程、ただただ有難く存じます。衷心より御礼申しあげます。その後、ご清祥にてお過ごしのこととお慶び申し上げます。県歴史文化博物館所蔵の「道後温泉絵図」は同館の所蔵品パンフレットで見つけ、現物の確認はしました。この度お送りいただいた画像は実物以上に極めて鮮明でしたので、驚きと併せて感激しました。宝物になりましょう。
ご指摘のように楠が江戸時代から道後村の「シンボルタワー」であったらしく、この楠を遠くから眺めて道後村がもう少しだと疲れも忘れて早足になったとか
(一昔前になりますが)長老がしゃべっておりました。歴史を証言する大木の範疇に入るのかなと思います。
ご質問いただいた「御出町」ですが、町名変更までは、当方が住んでいます「道後今市町」に並んで「道後御出町」がありました。
現在は双方の町は道後町一丁目」と「道後町二丁目」に分断されています。但し住民の知恵で町内会は、戦前の通り「今市上町内会」「御出町町内会」と呼称しています。
さて「御出町」については第一級資料で確認しておりませんが、地元の共通認識は次の通りです。湯築城の西口は「搦手門」でした。電車道を隔てて河野家ゆかりの「曹洞宗市隠軒」が現存しています。「御出」とは「お出まし」の意味ではないかとも考えられます。今市は室町期の市であろうと推定されています。
加藤氏の松山城下町の町割りで移転し城北に「道後(今市)町」が形成された由です。「今市」「御出」とも小字として江戸時代を通して、からくも残ったものと思われます。一度歴史書に当たって、改めてご返書申し上げます。取り急ぎ御礼とご返信まで。】
5月10日(土)
終日一遍会デイとなる。
午前中は例会資料の点検と追加印刷。
13:00〜13:45 平成20年度総会。
13:50〜15:10 講話「仏教の年中行事」、講師は大本敬久・県歴史文化博物館主任研究員でスライドを使って県下の宗教年中行事の実証的な解説。
15:20〜15:40 理事会で9月度の大三島巡察計画承認。
帰宅後インターネット会員宛「5月度定期便」を用意する。週初にはお手元に届く見込みである。資料「仏教徒年中行事」は保存資料として重宝していただきたい。
5月9日(金)
朝、子規記念博・竹田美喜館長と湯築城資料館・石野弥栄館長に会い、近況の話し合い。県歴史文化博・大本敬久主任研究員とは5月例会の細部を詰める。午後からは一遍会5月例会配付資料(一遍会報ほか)の印刷と取り纏め。
TVドラマ「鯨とメダカ」を観る。主演は田中邦衛と志田未来、ストーリー原案は松山善三である。浅草の雷せんべい屋が舞台だが、「生きる」意義を問い掛けている。秀作。
高校同期会の役員の死去の報あり。「東の窓」につぶやきをメールする。
【「此岸」から「彼岸」に向かわれる知人、友人が5月に入って続いています。子規会の和田茂樹先生(1,2日)から東京の親友が(5,6)と通夜式、告別式と続き、同日大阪の知人の葬儀と重なりました。そして今日は渡邊幸子さんの悲しいお知らせ・・・すっかり滅入ってしまいました。心からお悔やみ申しあげます。明日「一遍会」を開催しますが、テーマは「仏教の年中行事」です。死を拒否することは出来ませんが、「大事今日只今之事」として、生かされている自分の一瞬一瞬を大切にしていきましょわい。】
5月8日(木)
四国ガンセンターで年一回のCTスキャンでの定期診断。病院食堂で青木健著「ゾロアスター教」を通読する。真言密教に似た宗教儀式あり。ゾロアスター教の創始者「ザラスシュトラ・スピターマ」の英語読みが「ゾロアスター」ドイツ語では「ツアラトストラ」である。ニーチェの「ツアラトストラかく語りき」、ナチス・ドイツ第三帝国、アーリア民族至上主義に結びつく。
午後から畑と裏庭の除草作業で疲れる。
5月7日(水)
四国ガンセンターに年一回の定期検診に出掛ける。予約日は明9日の由。記憶力の減退に呆れる。往復2時間は「「ゾロアスター教」(青木健著)読書。
病院の食堂で5月度子規会講話の大項目を取り纏め、帰宅後「大項目」を中心に講義録目次を作成。 1)道後平野の成り立ち 2)明治20年代の松山 3)砂土手を巡って 4)持田を巡って 5)道後村を巡って
畑と裏庭の除草作業で大汗。プレスによれば京都東山円山の時宗「長楽寺」の収蔵庫から出火、。幸いにも一遍上人立像などの仏像は古文書の運び出した。不幸中の幸いというべきか。
5月6日(火)
子規会5月度講話のテーマについて宇和常任理事から問い合わせ。井手会長からも同様の問い合わせあり。「散策集注解@ 石手・道後コース」とした。県図書館で3冊貸し出し。
@青木健著「ゾロアスター教」(講談社)
A網野善彦著作集F「中世の非農民と天皇」(岩波)
B「持田町3丁目遺跡」(愛媛県埋蔵文化財調査センター)道後平野における「縄文式村落」の特定は興味深い。
午後、亭庭の草むしり。夫婦の共同作業で8割程度進捗する。
5月5日(月)
奥村力氏の連絡で松石恒雄氏の急逝を知る。配属事業場が同じ、人事労務と労働組合、最後の事業は薬品で退任日が同じだあった。告別式に列席したいが連休最終日の航空機チケット取得は絶望的。燦燦会メンバーへの連絡を買って出る。大学ゼミと会社の親友を二人失った。哀しいかな。
長男ファミリーが午後神戸に戻り急に静かになる。表庭の草引き・・・日常的な生活に戻る。
5月度子規会発表用に「明治28年前後の松山地方の略年表」を作成する。コレラ、赤痢が流行し死亡率の高さに驚く。30%〜50%超が普通である。坂の上の雲ミュージアムの松原正毅館長宛「一遍会報」への寄稿を依頼する。
5月4日(日)
長男ファミリーは母(妻)の実家へ墓参り。それなりの年齢になれば、それなりの「古里還り」をするらしい。結構なことである。蚊帳の外に置かれたのでコリウスの播種と青汁ケールとマリーゴールドの初回の移植。ケールは300本以上生育中であり引き取り手を考えねばなるまい。
5月3日(土)
松原正毅編「王権の位相」を読む。国立民族学博物館のシンポジウムの報告書であり、専門的で理解は難しい。日本と関係する部分はなんとか理解できるので東アジアから読み始め東南アジア(ジャワ・タイ・ビルマ)、南アジア(スリランカ)オセアニア(トンガ)と読みすすむ。山折哲雄「天皇制の柔構造」、大林太良「王権と稲」は貴重なる提言である。
夕、神戸から長男ファミリーが帰省する。数日は慌ただしい非日常的な生活となる。毎年のことではあるが・・・夜、椿湯で故和田茂樹氏の長男克司氏に出会う。本館でなく昔の道後村浴場(椿湯の前身は「西湯」)であったことが嬉しい限りである。
5月2日(金)
宝厳寺檀家総代(島崎・野本・烏谷・蜂須賀氏)の車に合流して、和田茂樹氏の告別式に出席(ベルモニー天山)。葬儀・告別式は10:00開始したが、宝厳寺長岡住職(導師)、弔辞(今村威子規会・一遍会理事)、焼香(500人超)、喪主挨拶が長く11:30終了。中村時広松山市長と15分程立ち話(NHK「坂の上の雲」、子規会「松山発『子規辞典』、南海放送『ドラマ『一遍』など)。
パソコンの異常発生中で、取りあえずの修理。手引書を読んでの修理は黄金週間明けか。
5月1日(木)
朝一番に「南海放送創立55周年記念ラジオドラマ『SAINT IPPEN〜永遠の嘘をついてくれ〜』」に目を通す。「歴史的事実」は別として「宗教的真実」は伝わってくる。面白い芝居になりそうである。「子規博『今月の子規俳句』鑑賞」の定期便を「east29」「sunsunn会」に送付。一遍会会員には「5月度定期便」を送る。
道後公民館で7月度一遍会会場の予約。8月末に公民館主催のセミナーで「郷土と一遍」の講話を依頼される。
夕19時、和田茂樹氏の通夜式に出席(ベルモニー天山)。導師は宝厳寺の長岡隆祥師子規博、子規会、愛媛大学の関係者多し。隣席が伊佐爾波神社野口宮司。帰途は宝厳寺檀家総代(島崎・烏谷・蜂須賀氏)と行動をともにする。