| 11月30日(木) |
| NHK神戸から電話取材。なんと当方のHP「神戸大震災私記」から割り出したらしい。来年の1月17日の大震災特集番組用だが婉曲に断る。罹災者、特に肉親を喪った当事者にとっては静かに冥福を祈ることしかあるまい。自主防災システムが機能するのは限界状況でない場合のみと思う。 |
| 柴田美佐子来訪。60年ぶりの再会である。写真コンクールの常連で、入賞作品が「伊豫鐵道古今東西
フォトギャラリー」にも掲載されている。 |
| 一遍会12月度講師菊池佐紀から講話原稿、来年3月度講師田村憲治氏から演題が届く。会員の田中弘道氏、七尾みつお氏から貴重な情報が届く。有難し。 |
| 11月29日(水) |
| 下田市内はペリー上陸記念碑、了仙寺で切り上げ「一碧湖」の紅葉狩り。周囲4キロの湖畔を散策する。20数年前、一碧湖カントリーで日野、松浦、向井先輩とラウンドしたが社長になった二人が既に他界している。そして会社は大手に吸収された。空しい。伊豆高原から熱海梅園の紅葉を眺め、十国峠から小田原に下りる。晴天で富士を満喫する。鈴広の「かまぼこ博物館」に立ち寄る。 |
| 3日間の紅葉狩りの旅は天候はいまひとつであったが充分にエンジョイできた。定刻20:30松山空港に着く。300本のメールを処理する。 |
| 11月28日(火) |
| 精進湖・西湖・河口湖・本栖湖の紅葉を鑑賞するが曇天で富士は拝めない。白糸の滝の紅葉は見事である。葛城山で昼食。奈良の葛城山と関係があるのだろうか。修善寺自然公園の紅葉狩りは全山紅葉・黄ばみで絶好のタイミングとなった。町中のお寺は「曹洞宗修禅寺」であり納得する。浄蓮の滝から川津ループ橋、天城峠を経て下田に入る。川端康成ゆかりの湯ヶ島温泉は大型バスが走れないので寂れてきている由。これも時代か。宿泊先の「ホテルまさき」。温泉、サービスともに過去最低のホテルである。深夜廊下灯迄消す徹底振りはいかがなものであろうか。 |
| 11月27日(月) |
| 9:40羽田空港到着。八王子から徐々に山々の紅葉も鮮やかに見える。13:30頃御岳昇仙峡に着く。昇仙峡は国の特別名勝で全国観光地百選・渓谷の部第1位にも選ばれている。昇仙峡の主峰『覚円峰』『仙娥滝(せんがたき)』『石門』など見所が多い。 |
| 15:30武田神社・躑躅ヶ崎館跡に立ち寄る。来年のNHKの大河ドラマは「風林火山」でありブームに期待できよう。紅葉に間に合って良かった。甲府には何度も来ているが今回も『甲府城』(鶴舞公園)には立ち寄れなかった。歴史的には天正10年に
徳川家康が築城した平山城である。甲州ワイン工場(モンデ)と石和宝石工場を見学し、石和温泉「ホテル石庭」で宿泊。石和は旅情は全く感じられない山梨県下最大の温泉地となってしまった。 |
| 11月26日(日) |
| 「県土横断リレーシンポジウム2006 in 松山 ネットワークの再構築・松山」が午後から宝厳寺で開催。第一部は「地域づくりの実践」で松山離島振興協会会長・田中政利氏、堀江公民館長・久保田公夫氏の報告。第二部は「道後の地域文化とまちづくり」でフィルム・ネットワーク泉谷昇氏、道後商店街振興組合石丸明義氏、宝厳寺長岡隆祥師と東雲短大犬伏武彦教授。各論ではばらばらの発言となる。長岡隆祥師は相変わらずの毒舌でハラハラする。悪乗りして小生も「道後温泉は塩素消毒で明日はない」との悲観的発言をする。 |
| 3日間紅葉狩りを兼ねて関東に出掛けます。年齢の割には動き過ぎかな。昭和33年繊維会社の女子寮舎監からスタートした猛烈社員でしたから年休を取った記憶はありません。 |
| 11月25日(土) |
| 内子・願成寺での一遍会11月度例会開催。参加者20名。願成寺の開祖は河野家の遠祖にあたる越智益躬(マスミ)ですが一祖は一遍、二祖は聖戒、三祖は河野道有後家万松院・・・・・という時宗にとっては名門寺。 |
| 午前中は曹洞宗の古刹高昌寺からスタートして芳我邸(本、上、中、下)、内子座から27代目の遊行上人堂を見学する。午後の例会は@願成寺・長岡義尚師の卓話A小沼大八代表の講話「人類の教師たち」(釈尊・キリスト・孔子・ソクラテス)B懇親。 |
| 11月24日(金) |
| HP「一遍会」の表紙をリニューアルしました。ご覧の皆さんに「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」賦が伝わるようにとの気持ちです。如何でしょうか。明日の内子・願成寺で開催する「一遍会11月度例会」の準備に追われる。天候は心配なさそうなので一安心ではある。メールが2本届く。 |
| ○「道後壱」さんからは幾つかの基本的な質問。 |
| @個人的に一遍さんの周りの人物が気になってます。特に超一が重要な役割だったと思うのですが、時衆の中で超一に関して何も行事をしてないようですが、これはやはり女性だからでしょうか?それとも超一の功績ではないからでしょうか?もし超一がいなかったら違った遊行だったでしょうね。超二と念仏房の行方も気になります。 |
| A道後というか伊予は一遍さん生誕の地なのに、時宗の寺院が少ないのも不思議です。聖戒は京都にという説がありましたが、一遍さんの後を継ごうかとまでした人が、時宗を伊予で広めるとかなかったのでしょうか?仙阿が奥谷派を開いた時は遊行をしなかったのでしょうか? |
| Bなぜ地元から念仏で救っていかなかったのかな〜と思っています。河野一族だから伊予にはいられなかったのでしょうか。後日ご返事することにして産経新聞社提供の「一遍 旅に生きる 苦闘編 伝法編」ファイルを添付する。是非皆さんご覧になってください。 |
|
| ○岩田憲明さんからは早速メールを頂く。 |
| 確かに一神教は日本の自然崇拝よりは非寛容に思えるのですが、それは他民族との相克という歴史をその背景に持っているからでしょう。それについては、以前「バビロンとローマ」で書いたことがあるので、良かったら参考にされてください。【バビロンとローマhttp://www.oct-net.ne.jp/~iwatanrk/br.htm】 |
|
| 11月23日(木) |
| 小春日和から一変して秋冷氷雨である。道後温泉の観光客も困り果てている。「山陽路の紅葉狩り記」をやっと取り纏める。 |
| インターネット会員の岩田憲明さんから「名古屋大学哲学会会報」とイラン紹介のDVDが届く。早速拝見する。「DVD、大変興味深く拝見しました。アジア人でも「アラビアナイトの物語」はお伽噺の世界のように感じています。大河、緑の公園などが沙漠のイメージが強いイランにあるとは思ってもいませんでした。ゾロアスター教が今日も存在することに歴史の重みを感じました(略)岩田さんのご都合がつけば一遍会でご講話をお願いします。小生は「浄土時宗開祖 一向俊聖〜一遍上人と一向上人の邂逅〜」を次回話す予定です。 |
| 先日の宮島・弥山登山でお世話になった広島県山岳連盟顧問の瀬尾幸雄さんに佐藤辰生著「戯曲一遍伝〜白道のかなたに〜」をお送りする。 |
| 11月22日(水) |
| 午後、松山市内の古書店めぐり。収穫多し。 |
| @一遍会叢書「句文集堂守歳時記」(手束妙絹尼著) |
| A一遍会叢書「松山地方のわらべ唄」(山本冨次郎著) |
| B「南無阿弥陀仏・一遍上人」(柳宗悦著) |
| C「一遍上人語録」(大橋俊雄校注/岩波文庫) |
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| 岩国・宮島の旅行記を「東の窓」で報告したところ早速両市の女性からメール届く。輪が広がるのは嬉しい。御幸中学校の同期会HPが立ち上がる。 |
| 11月21日(火) |
| 世界文化遺産・宮島に渡る。もみじ谷公園は朝から観光客で賑わっている。お目当ての原亜生林に包まれた海上の霊山である弥山(みせん529・8米)に登る。海抜0米からの登山だから四国最高の石鎚山に土小屋から登る距離である。求聞持堂(弥山本堂)と霊火堂を参拝し頂上の展望台から羅漢山などの中国山地と瀬戸内を360度展望する。大鳥居が小さく見える。下山は『広島県の山』(山と渓谷社刊)の著者で広島県山岳連盟の顧問でもある「瀬尾幸雄」ご夫妻と私ども夫婦で尾根伝いにもみじ谷公園まで歩く。 |
| 厳島神社・天神王社・長橋・能舞台・反橋など国宝・重文施設を回遊して、干潮の大鳥居に近づき海の境内を歩いて渡る。五重塔、千畳閣は15世紀以降の建物である。宮島には大聖院、大願寺と著名な寺院が点在しているが、一遍はいずれで夜を過ごしたものか。 |
| 11月20日(月) |
| 山陽路の紅葉見物に出掛ける。初日は世界文化遺産候補に名乗り上げた「錦帯橋と岩国の町割り」を半日歩く。岩国駅から電車型レトロバスで錦帯橋に向かう。渡橋料300円也。吉川家5万石のご城下だけに「吉川資料館」「吉香神社「香川家長屋門」「目加田家住宅」「吉川家菩提所」から「紅葉谷公園」で休憩。岩国城(高さ200米)まで小春日和の中を登る。汗ばむ。眺望良し。宿泊は広島のビジネスホテル、夕食は「みっちゃんのお好み焼き」。 |
| 11月19日(金) |
| 「現代の巡礼〜四国遍路と世界の巡礼〜」研究集会(愛媛大学)に出席する。 |
| @「響振する苦しみ〜ある女性遍路にみる<救い>の構築プロセス」淺川泰宏明治大学情報コミュニケーション学部講師 |
| A「フレデリック・スタール(お札博士)と四国遍路」ディビット・モートン徳島文理大学客員講師 |
| B「四国遍路における接待の『援助性』〜文政期・天保期を中心に」井原恒久新居浜西高等学校教官ほか。 |
|
| 前日の公開シンポジウムに較べ真剣にテーマに取り組んでおり啓発されることが多い。特に極貧の遍路が食にあり付くプロセスは中世の時衆の遊行にも当てはまる。愛媛大学図書館で「鈴鹿文庫の貴重書〜900年前の書物がかたるもの〜」を見学する。特に『宗鏡(すぎょう)録』『中阿含経』は逸品である。 |
| 「子規会11月度例会」は欠席したが、「松山発子規事典編纂委員会」には参加しメンバー相互の情報交換と和田克司編纂委員長から具体的な指示を受ける。(例会講師:福田安典愛媛大学教育学部助教授「伊予を訪れた大阪俳人) |
| 11月18日(土) |
| 「浄土一向宗開祖一向上人」のワープロ執筆を開始する。年末までには完了したい。午後、愛媛大学で公開シンポジウム「「現代の巡礼〜四国遍路と世界の巡礼〜」に出席。講演・報告は3講師で、明日6氏の研究発表がある。 |
| @「現代の四国遍路〜道空間の視点じゃら〜」河野昌弘(早稲田大学 道空間研究所) |
| A「聞き取り調査から探る現代の四国遍路」竹川郁雄愛媛大学法文学部教授 |
| B「現代ツーリズムと四国遍路〜「まつづくり」「アウトドア」への展開〜」野崎賢也愛媛大学法文学部助教授 |
|
| 四国遍路は宗教性が薄れたアウトドアスポーツ化しているが、自然と他人との交流で人の心は癒されていく。神なり霊性は自然に宿っていることを日本人や一神教に染まっていない人間は直感するのではなかろうか。もっとも聞き取り調査からの類推は学生レベルか。 |
| 大阪から一遍さんの入門書を教えてほしいとの電話があった。本屋で直ぐ買い求められる三冊を紹介した。ご意見を聞かせて頂きたい。@岩波文庫「一遍聖絵」A岩波文庫「南無阿弥陀仏」(柳宗悦)B講談社学術文庫「一遍聖」(大橋俊雄) |
| 11月17日(金) |
| 井手康夫(子規会会長)、風本幸子氏と3名で子規「散策集」による石手寺吟行コースを廻る。寺からは道後公園外壕を通り宇佐八幡社で別れる。 |
| 「道後壱」さんから照会があった『三界萬霊之塔』の現地確認。下記メールする。 |
| 松山藩主4代定直公が創建した「黄檗宗大禅寺」はご指摘のように「ホテル椿館」周辺です。現在の鷺谷墓地が大禅寺の旧墓地、温泉客駐車場周辺が本堂、ホテル椿館周辺が境内であろうと推察します。この石碑「大禅寺六代春国募縁立焉」は寛文年間に建立されていますから、寺域全体が見渡せる場所ですから「仏縁を募って三界の万霊を供養する碑」に相応しいかなと思います。子規の「散策集」中「明治28年10月6日」に道後温泉から鷺谷に向い「黄檗の山門深き芭蕉哉」を詠んでいます。山門から本堂まで距離があったことがこの句からも察することが出来そうです。何故廃寺になったのかは調べておりません。 |
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| 次いで井関農機保養所が介護施設に改築中で、職員の河野君と話する。心身の癒しに道後温泉は必要だが心の癒しとして宗教の必要性を強調する。好青年で両親を入所させたくなる介護施設を作るんだと熱っぽく語る。一遍会への参加を勧める。 |
| 11月16日(木) |
| 「松山坊っちやん会」12月例会は漱石60回忌を兼ね命日の12月9日愚陀仏庵で開催。講師は頼本富夫氏「漱石の手紙と『不浄の地』」。一遍会11月例会(内子・願成寺)は松山から20名参加で目標達成。現地組を併せて30名か。事務局としては「やれやれ」である。「六時屋サミット」のメンバーとの情報交換の続編。 |
| 【着信】C「四番町」の件了解。一つ物知りになりました。四を嫌って武家地と外側との境道との意味で「外側筋」とでも言ったのかなと想像してました。「四番町」の町人町分を「魚棚」と読んだ伝承はあります。「千舟町」の町名は明治以降の命名と聞いておりました。「小唐人町一丁目」・「唐人町一の丁」と言った表記はあったのかなあ、とも思います。 |
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| 【発信】D表記は無いと思います。伊予史談会の武智会長や高須賀副会長に「江戸地図」のように新旧対比の地図を作成しませんかと提案しましたが実現していません。ご存知のように「代官町1〜4丁目」が南北の道に沿って西側から区分されており、松山のご城下はなんだかマトリックスな区分だなあと思います。小林小太郎の松山での住所を「伊予史談会」で「四番丁・代官町横三番丁西詰」(現千舟町三丁目三番地)」と京都風に表記しました。研究者には役立つと信じてはいるのですが反響は目下ゼロです。 |
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| 11月15日(水) |
| 「六時屋サミット」のメンバーとの情報交換。 |
| 【発信】@漱石と自転車ですが、漱石全集に「自転車日記」が載っていました。「ロンドンで初乗り」とすれば松山では乗っていないことになります。 |
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| 【発信】A子規の散策路は愚阿陀仏庵⇒2番町⇒玉川町 ⇒』松山商業前でした。玉川町の道路(高浜虚子の実家(池内邸)の在った)を通学しました。現在の2番町の市道は「砂土手」にぶつかって開通しておらず小道の筈。初期の商業学校の入り口は北側にあったのではないかな。子規は砂土手に上がって「草の原少しありけば道後なり」「砂土手や山をかざして櫨紅葉」の句を詠んだのだと思います。 |
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| 【返信】@漱石と自転車」・「子規が歩いた道」云々二番町説の件了解致しました。 |
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| 【返信】A松商の正門は現在と同じ西向きかと思われます。北向きというのは聞いておりません。写真などもその様です。疑念がおありならば調べてみますが? |
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| 【返信】B四番町と言うのは呼び名としては無いみたいです?町並み区画は確かに北から四筋ありますが、外側筋ではありませんか、今の千舟町筋では? |
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| 【発信】B松山商業の件は「西向き」ですか。城下を向いていたということですね。了解しました。 |
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| 【発信】C「平凡社刊「愛媛県の地名」では一番町、二番町、三番町、四番町、湊町と呼称していて、明治初年に南の湊町に対して千船町と改称したと記述。他の城下町のように、「町」ではなく「丁」ではないのかと思います。或いは「一の丁」「二の丁」と呼んでいたのかもしれません。町人町は「町」でしょう。 |
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| 11月14日(火) |
| 「一向上人伝」(全5巻・本山蓮花寺蔵)を複写する。「一向上人立往生図」「同葬送図」は迫力があり胸に迫ってくる。南無阿弥陀仏。 |
| 久しぶりで「六時屋サミット」開催。近況を話し合ったが「松山中学当時、漱石は自転車に乗ったか」で明治中期の松山の文明論に発展する。帰宅後「漱石全集」で彼の「自転車日記」を発見。初乗りはロンドンであった。高給取りの漱石が何故自転車に乗らなかったのか。ものぐさだったのだろうか。 |
| 「芸術新潮」11月号を求む。愛蔵版特集「日本の仏像誕生!」は読み甲斐見甲斐のある
仏像解説書になっている。 |
| 11月13日(月) |
| 「友達(村上公平君)の友達」である牧野晃三氏と愛媛大学図書館で落ち合う。小学校時代、一年間疎開で道後小学校に在籍していた由。全く記憶なし。退職後、郷里松山に戻り郷土史に没頭中で同学の士に出会い感激す。母校御幸中学校の永井先生が「亭主」である「酒房 論愚亭」での再会を約す。 |
| NHK宗教の時間テキスト「『詩篇』をよむ(下)」を求める。神との契約という基本的な観念が不明だから「聖書」は何度読み返しても「蛙の面に」である。「道後壱」さんから『金剛の滝』碑を「発見」の旨メール。更に湯之町ニュータウンの途中に建つ『三界萬霊之塔』の存在で横面に「大禅寺」と彫って在る由。由来をご存知の方、ご教示下さい。 |
| 11月12日(日) |
| 「伊予史談会」11月例会(郵政局講堂)出席。愛媛大学名誉教授白方勝氏から著書「源義経 虚実の間」を贈られる。義経が頼朝の異母兄弟でないというフレイムの叙述である。小説として読む。 |
| @農関喬教氏:「近世後期四国遍路における宿組合について〜『永代笠講定宿附』をてがかりに〜」 |
| A中平景介氏:「河野通直(牛福丸)の家督相続について〜代替時期の検討を中心に〜」 |
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| 松山市民文化祭「坊っちやん映画祭」(キャメリアホール)出席。映画3本立て鑑賞でさすがに疲れる。 |
| @映画「坊っちやん」(1935年)監督:山本嘉次郎 |
| A映画「吾輩は猫である」(1936年)監督:山本嘉次郎 |
| B映画「妻よ薔薇のやうに」(1935年)キネマ旬報ベストテン第1位 監督:成瀬巳喜男 |
| C講演:門田俊三氏(丸山定夫を語る会) |
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| (注)3本ともに丸山定夫出演(松山出身。1901年〜1945年広島原爆に被爆死。44歳。築地小劇場・新築地劇団所属) |
| 11月11日(土) |
| 一晩中豪雨と雷鳴。朝になって小降りとなった。いよいよ冬型に移行するので紅葉の季節に入る。今秋は宮島弥山の登る計画である。所要時間3時間+α。「一遍上人・一向上人 対比略年表」「一向上人・一遍上人 遊行対比表」がやっと完成する。その生涯において類似する遊行・出来事が多いのに改めて驚く。「文芸春秋12月号」掲載の「桂沢圭子・玄侑宗久 般若心経いのちの対話」は興味深い。 |
| 11月10日(金) |
| 「一向上人伝」では一向は一遍と建治元年に大隈正八幡で会っている。「一遍聖絵」では秋、伊予に帰り、いづくともなく去っており極めて曖昧である。「時宗闕記集」(近世中期成立か)では大隈正八幡宮に参篭し神示の詠歌を得ている。しからば「一向上人伝」の記述は正しいか。興味が湧く。 |
| 「道後壱」さんからメール。「金剛の滝」碑を調べに宝厳寺霊園奥に出掛け第2砂防堤まで歩かれた由。マイHPを見て得心された由。お役に立ったらしい。「那須の極楽蜻蛉」さんから試行錯誤の末、松山市民の歌である「この街で」を試聴できた旨報告あり。多くの方に新井満作詞作曲の「この街で」を愛唱して欲しい。【アドレス】http://www.city.matsuyama.ehime.jp/kokusai/kotobanotikara/kotoba-top.html |
| 11月9日(木) |
| 手紙書きに精出す。9月度講師の折原直子氏、田中弘道氏、一遍生誕会講師依頼で愛媛大学教授の田村憲治氏、北上市の河野通信墓碑建立の徳山義恭氏他。愛媛新聞社、ミニコミ2社に12月度例会の掲載依頼状と続く。 |
| 11月8日(水) |
| 冬の到来を予感させる冷え込みである。半日かけて障子の張替えをする。襖に続いて家人との共同作業である。独り身になったらと思うと到底無理である。歯科の年一回の定期検査。歯垢を取れば特に問題なし。「80歳20本」が標準だが、すべて自歯である。聖たちの歯はぼろぼろだったのでは・・・・・書斎にコタツを用意する。夜ともなれば暖房が恋しくなった。あながち年のせいとも云えまい。 |
| 11月7日(火) |
| 村上公平君と「天竜会館」で会う。実兄(村上空山)のビルである。同氏は書家であり仏教家でありファイアパック鰍フ会長でもある。社長は実弟。書道、著作、講演、ボランティアと活動は幅広いが、その生活態度に見習うところが多かった。一遍会の小沼大八、今村威氏とご昵懇とは知らず。 |
| @郵便切手は一国の文化であり、切手による日本文化史の取り纏め。 |
| A葉書を保存し物故者ファイルに保存し年二回(盆・暮)供養。 |
| B賀状の十二支は「鳥獣戯画」から抜き出し。 |
|
| 公平君とは「いろは屋」で俳句を中心に文学談義。来年の再会を約す。 |
| 11月6日(月) |
| 待望のお湿りがあったが庭木や草花にはあまり役立ちそうもない。NHKラジオ深夜便(060901)で時宗・湯行事宝物館館長の高野修氏が「先祖を偲ぶ癒しの踊り〜踊念仏と一遍上人」を語る。テープで学習したが、高野氏は宗門の人でないだけに客観的に説明されるので好感が持てるし、よく理解できた。名講義である。「時宗」は本来「浄土時宗」と呼称すべきでなかったかの指摘は、私自身常々感じている時宗の曖昧さを一掃する発言だったように思う。 |
| 11月5日(日) |
| 11月例会は内子・願成寺で開催するので会員に案内状を出す。30名出席を目標にしている。 |
| 松山市民の愛唱歌である新井満作詞・作曲の「この街で」を高校同期会のメンバーに流す。県外からの感想を松山市にフィードバックしたい。著作権を考慮し「ウインドウズ メディア プレイヤー」での再生のみに限定している。お間違えの無いように願いたい。 |
| 11月4日(土) |
| 半月以上の晴天に畑は完全に「干上がって」しまったようだ。砂漠のようだ。今夜の十四夜も明るく輝き夜間照明などいらない。 |
| 「熟田津今昔第98号」発行。一遍会会員に11月例会(内子・願成寺)参加依頼状作成・発送。秋田の佐藤さんから「紀行 一遍遺跡探訪 一遍上人祖父 河野通信の墓所を訪ねて」の書簡が届く。「一遍会報」に掲載の予定。乞うご期待。 |
| 夕、県民総合文化祭「開会式・総合フェスティバル」に出席。三時間のエンターテイメントを楽しむ。オープニング(愛媛交響楽団)第一部「祭りの芸能」(津島平安太鼓・野球拳エイサー・江差追分と津軽三味線・今治おんまくダンスバリサイ)第二部「心の歌」(ミュージカル・愛媛総合フェスティバル合唱団<秋のメロディー>・藍川由美<唱歌から古賀メロディーまで>フィナーレ(全員合唱) |
| 【東の窓】に投稿しました。 |
| よくぞ男に生まれける!? |
| 「文化の日」に国旗を掲揚している家はチラホラといったところでしょうか。「日の丸」といえば昭和39年に芦屋に転居した時、選挙区の自民党代議士である故原健三郎さんから贈られた国旗を今も大事に保存しています。兵庫県1区の方、如何ですか。特に予定もなかったので映画「父親たちの星条旗」を鑑賞しました。ご覧になりましたか。戦勝国である米海兵隊から見た「硫黄島攻略」のドラマですが、イラクとダブらせて見ると正に今日的であるのに驚きました。 |
| 英雄に祭り上げられた三人の兵隊の苦悩と除隊後のドラマは、「兵士にとっては戦争の勝者も敗者もいない。戦争に英雄はいない。戦死者こそ英雄だ。」ということを教えてくれました。「国家で徴用されたが戦場では戦友の為に生き、戦友の為に死ぬのだ」という台詞は重々しく耳に残りました。日本語でしゃべったら日本映画とも思えるアメリカ映画ですが、こんな「反戦映画」を製作できるアメリカはやっぱり素晴らしい自由な国なんですなあ。後編に当る「硫黄島からの手紙」は松山ではなんと12月9日公開です。 |
| 靖国論議は依然活発ですが祖国を護っていただいた戦死者の気持ちはと考えると胸が痛む今年の「明治節」でした。「男たちの大和/YAMATO」同様に男であることの誇りと強さと優しさを感じさせてくれた「男の映画」でした。いやはや。 |
| 11月3日(金) |
| 「文化の日」に国旗を掲揚している家はチラホラである。困ったことである。映画「父親たちの星条旗」を鑑賞する。戦勝国である米海兵隊からみた硫黄島攻略のドラマであるがベトナム、イラクとダブらせて見ると正に今日的である。英雄に祭り上げられた三人の兵隊の苦悩と後半生のドラマは兵士にとって戦争の勝者も敗者もいないことを教えている。戦争に英雄はいない。戦死者こそ英雄だ。 |
| 11月2日(木) |
| 一遍会10月度収支決算作業。銀行での残金確認終了。11月度理事会検討資料作成。 |
| 夕、道後「山の手ホテル」で50年ぶりに「村上公平」君と会食。故伊賀上湛君の紹介で大学一年の時に出会い、2年後不自然な別れ方をした友人だ。慶応の図書館学科から跡見女子学園の教諭としてスタートし、アメリカ式図書館学の先駆者として跡見の図書館を全国的に有名にした男である。「村瀬」「梅本」「山本」「牧野晃三」「向坂」「野口」「石田道子」など城南中学・松山南高校の友人達の人物像が浮かんできた。再会を約す。 |
| 11月1日(水) |
| 一遍会インターネット会員に10月度の定期便をメールする。内容は平田玲子氏の「浄土教の変遷と阿弥陀仏「像」」を仏像写真付きで要旨を取り纏めたもの。カラーの画像はインターネット会員のみへのサービスとなった。今後はこのやり方でインターネット会員に喜んでいただこうと思っている。 |
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| 「子規記念博物館」天野祐吉館長推奨の平成18年11月の子規さんの句は「銭湯で下駄換へらるる夜寒かな
子規」です。 |
| 「寒山落木巻五」に書かれています。明治29年の秋の句」で、明治32年9月5日号の「日本」に「夜寒」と題して掲載されています。戦前、戦後の貧しい時代を心豊かに過ごした「小国民」には平易な句ですし、そのままに感じ取ればいい素直な俳句に違いありません。子規さんが元気な頃に子規庵近くの銭湯に通った記憶かと思いますが、不勉強ですので銭湯の所在を確認していません。現代の「小国民」にとっては難解な句になるのでしょうか。「銭湯」も「下駄」も、そして「夜寒」も死語になってきたようです。 |
| 私事になりますが神戸に出掛けた時は、夕方孫と手を繋いで近くの銭湯に出かけることにしています。今ではお土産よりも銭湯を楽しみにしてくれています。成人してから「おじいちゃんとの思い出は銭湯」であって欲しいと願っています。 |
明治29年といえば、前年の明治28年には喀血で須磨の病院に入院し、小康を得て松山に戻り漱石の下宿している「愚陀仏庵」で52日間をともに過ごし、
郷友と俳句に興じ、漱石から借金して奈良で遊び・子規さんにとって思い出に残る一年だったと思います。
年明けた明治29年2月には脊椎カリエスの診断を受け、手術をし、やがて病臥の身になりますが、この年は外出もしばしばしています。 |
| 子規さんの明治29年の作った「夜寒」の句を幾つか列挙してみます。 |
| ○三厘の風呂で風邪引く夜寒かな |
| ○牧師一人信者四人の夜寒かな |
| ○大寺のともし少き夜寒かな |
| ○腹に響く夜寒の鐘や法隆寺 |
| ○穢多村のともし火もなき夜寒かな |
| ○夜を寒み俳書の山の中に坐す |
| ○夜を寒み背骨のいたき机かな |
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| 「夜寒」のイメージからは加藤登紀子さんの「ひとり寝の子守唄」や南こうせつさんの「神田川」が浮かんできます。「三厘の風呂」「牧師一人信者四人」「ともし少し」「腹に響く」「背骨の痛き」のフレーズからは、今日の物が豊かで心わびしい風情とは違った一昔も二昔も前の時代を連想します。子規庵で床に臥したまゝ深更まで詩歌革新に情熱を傾ける子規さんの痛々しい姿に「夜寒」の真髄を感じるのは僕一人でしょうか。 |
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| 子規さんにあやかって一句 |
| 「町会で靴換へらるる夜寒かな 子規もどき」 |
| 若い世代の方への「注釈」です。居住しています道後今市上町内会の出席はいまや高齢者の方が殆どです。公民館の薄暗い出口の下駄箱からそそくさと出席者は家路に急ぎます。決まったように最後の人には他人様の靴がご主人様を待ってくれています。皆さん慣れっこになっているので、そのまま間違った靴を履いて帰ります。翌日下駄箱に靴が戻っています。取替えにきた人も黙った靴を置いて帰ります。翌々日、下駄箱には靴が見当りません。いつまでもこんな町内会でありつづけて欲しいと願っています。町内会長さんの顔を見たいって、それは勘弁してくださいな。いやはや。道後関所番 |