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第五十三段 一遍生誕寺・奥谷宝厳寺の「記憶」(第2回)
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〜五帝「伊予の湯」来湯? 〜道後山と道後十六谷 〜 三好 恭治 (一遍会 事務局長 理事) 1,伊予の地勢〜熟田津から奥谷へ 都人(みやこびと)が瀬戸内の海路を利用して伊予国に向かうには、今も昔も顕著な差異はなかろう。淡路島(おのころじま)の北端を通り、四国(伊予の二名嶋)を左(南)に遠望しながら、播磨灘・備後灘・燧灘(ひうちなだ)・斎灘(いつきなだ)・伊予灘(いよなだ)に出る。 斎灘、伊予灘に面するのは北条、堀江、和気、三津、松前の津(港々)であり、田(耕作地・牧草地)が温和な饒(にき)な村落が点在する。「熟(饒)・田・津」(にぎ・た・つ)の古代の光景であろうか。 万葉集にある額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」は、歌人斎藤茂吉の『万葉秀歌』にも記載され、松山人にも愛されてきたが、熟田津の所在については、郷土史家や研究者の見解は多々あり決定できていない。 本章で「熟田津」論議する余裕はないので、最大公約数的に、北条、和気・堀江、三津、松前の津々浦々で、最有力の「津」は和気・堀江の「津」であろう。 (注)一津三名説 「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜」(第一巻:0008) 額田王 「百礒城の大宮人の饒田津に船乗りしけむ年の知らなく」(第三巻:323) 山部宿祢赤人 「柔田津に舟乗りせむと聞きしなべ何ぞも君が見え来ざるらむ」(第十二巻:3202)作者不詳 熟田津に上陸した都人は奥ノ谷(行在所)を目指すことになるが、山と川を頼ることになろう。 古代悲恋であり兄妹婚の咎で流された軽大娘皇女の伝承がある姫原「比翼塚」周辺までは、川舟を利用することになろう。そのあとは「里山の道」を通って「奥ノ谷」に向かうことになるが、里山と谷について触れておきたい。 (注)軽大娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)を伊豫に流す」(日本書記) 「太子(ひつぎのみこ)自ら大前宿禰(おほまへのすくね)の家に死せぬ。(一に云ふ。伊豫国に流すと)(日本書記) (注)松山市山越の名刹寺で育った斎藤さん(伊予史談会)や宝厳寺の前住夫人長岡さんの回想では、山道を伝って近郊に移動されている。現在はみかん畑や「砂防ダム」により、「里山の道」は寸断されている。 道後周辺で最も高い山は「道後山」である。国土地理院の報告を見てみたい。 道後山から遠望は困難だが、東方は東温市(古代「久米官衙」西方は「熟田津」、南方は道後・松山、北方は高輪山(鎌倉初期河野氏拠点、伊予国衙・府中)に通じる。
筆者の歩き体験からは、古代伊予国初の「定額寺」が建立された奥道後にある「食場」(じきば)の4差路は 道後山にも近く、検証すべき交通の要所かもしれない。
@伊佐爾波崗は「い斎庭崗」であり、通説では伊佐爾波神社が創建され、熟田津行在所跡であり、この地は大和神(天神)の領分であった。一方、出雲崗はその名の通り出雲神(大国主、少彦名)を祭る出雲社があり大和神(天神)に対比する出雲神(地祇)の領分である。道後温泉は、大国主と少彦名命により誕生したとされる。 A伊佐爾波崗が古墳ではないかとの指摘がある。(「「伊予史談」363号中野栄夫論文) 考古学での知見が皆無であり郷土史家には無視されているが、古代における斎場(い斎庭)として「神聖な場」であったと考えられる。 出雲崗には南側の石段の中腹に「子守社」がある。(現在は、本殿前に「中嶋神社四国分社」」の南脇に移転。祠の裏に一遍の父「通広」を葬った石棺が残っている。(伊佐爾波神社・野口宮司) この社には、歴代遊行上人の回国時に立ち寄っている。治世にあって水の支配は重要であり、水配り(みずくばり)→水分社(みくまり社)→御子守社(みこもり社)と変化し、庶民にとっての子守神として信仰を集めたのであろう。御子守社は時宗開祖一遍の父通広が祭神であったとの伝承がある。歴代遊行上人が参拝したのは、河野家一族に関しての由緒が進ぜられていたのであろう。 B道後公園内の丘に在った伊佐爾波神社は、河野氏の湯築城の建造に当たっての移転先が現在の御仮屋山である。湯月八幡とも云い、道後村の鎮守社であった。一説には行宮跡とも云う。御仮屋山の名称は御+仮屋であり、古代の天皇の来湯時の行在所(休養所)であったのかもしれない。一方鳥越山は、温泉が自噴したとされる鷺谷に近く、この地に後年、鷺谷寺(律宗?)→大禅寺(黄檗宗)、龍穏寺(曹洞宗)、天徳寺(臨済宗)が建立された。『予陽郡俚諺集』『愛媛面影』によれば、「鳥越山鷺谷寺、後世大禅寺と云 湯の上、本尊観音作分明ならす、大宮形と有、(中略)山上に唐仏観音を安置す、麓に井あり、鷺の井とて霊水なり、(略)故に此所を鷺谷と云、(略)」 とある。温泉場をはさんで鷺谷と烏谷があるが、鷺谷の白、烏谷の黒を対比させている。 (3)道後の川 古代の川は、通説では城山(味酒山)の北方を流れていた。後には流路が南に移動し、味酒山の南方を流れる。加藤氏の松山城(勝山城)の築城に当たり、奉行の足立重信の下、湯山川(石手川)と伊予川(重信川)の工事が進められ、現在の姿となった。石手川は別名「寳川」ともいうが、河川改修で田畑が拡大し「大御宝」(おおみたから 百姓)を生み出したことに起因するか。昭和時代には、現勝山町は御宝町であり、電停名も御宝町であった。ご記憶の方も多いと思う。 現在、道後を流れる主な川は下記である。 @高輪山系→井(上)川→湯山川→石手川(<大御>宝川)→寺井(内)川・石手寺川→義安寺川→烏渓→御手洗川・湯築城内・外堀→放生池(南・北)→大川→樋又川ほか→宮前川(三津)&堀江 A道後山→奥谷(川)・鷺谷(川)・祝谷(川)→大川(合流) (4)道後の谷 道後十六谷については後述するが温泉と関連して下記を特記した。@鷺谷と烏谷(烏渓)は「道後の山」で触れたが、道後温泉場(現在、重要文化財である道後温泉本館がある辺り)が「湯月谷」である。 自噴井があり、井水とも神井とも呼ばれた。その上が奥谷であり、時宗宝厳寺が存在するが、先述の道後山へは奥谷から唯一の登山道があった。(現在は砂防ダムが設置され登山道は消失した)A道後山の周辺に湯ノ山があるが、古来「湯山七湯」と呼ばれ(『湯山誌稿』(湯山小学校PTA発行 昭和34年) 現在奥道後温泉が開業している。伊台は「湯台」、祝谷は「井(湯)湧キ谷」とも解釈できよう。(注)音韻転化 「ゆがむ」→「いがむ」
「おかゆ」→「おかい」B高輪山系温泉群として道後温泉<湯山・湯月>、鈍川温泉、B本谷温泉が現在も存在し、伊予国三古湯と呼称されている。 C道後(村)は東・北・南は低い台地に囲まれている。中代(中台 現在の呼称は上市)、北代(北台 現在は北代<きたしろ>と呼称す)、南代(南台 現在の持田あたり)である。 (1) 道後十六谷 @谷の定義 山あいなどの細く長い窪地。谷川が流れているところが多く、渓谷という。山を「峯」というのに対する語。谷(たに・や・やち・やつ・やと)・迫(さこ・せこ)・渓・谿
仮説であるが、「道後山」を目指し東行、「祝谷」(湯湧谷)から「鷺谷」に出て、「湯月谷」「円満寺谷」を越えて、「奥谷」への道が一般的ではなかろうか。鷺谷から宝厳寺へは道後山の山腹の道が通じており、今日でも往来がある。 奥谷から道後山頂上へは「金剛の滝」からの登山コースがあったが、「砂防ダム」(複数)の建設により登頂が不可能になった。
金剛の滝 滝つぼ 砂防ダム 途中に荒廃した祠があり「聖徳宮」と呼ばれている。聖徳太子との関連があるか否かは不明である。 「聖徳宮」開祖の女性は「拝み屋さん」で城北に住まいしていた。大正時代の話だが、この「拝み屋さん」は失せ者、探し人を依頼するとぴたりと当てるので評判になり、帰依者(信者)が増えた。 道後山には「桜谷古墳群」が広がり、道後山から少し西の場所で「桜谷本尊古墳」が発見されています。この「「拝み屋さん」もここで遺跡を発見し(ここからは想像であるが)「聖徳宮」を建立し、多くの信者が参詣したらしい。 今日でも供花されているので信者がいるのかもしれない。
追記 「奥谷山」なる名称を「石手寺縁起」にて見出す。
追記 「道後山」は、河野氏と加藤(嘉明)氏、毛利氏が、豊臣秀吉の四国征服に起因した「古戦場」(大袈裟に表現すると)であった。 <ウイキペディア> 河野通軌(かわのみちのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。伊予国の戦国大名河野氏の一族。伊予河野氏の名目的当主であった。養父は河野通直。 豊臣氏によって大名としての河野氏が、養父通直の代で滅ぼされ、これに不満を持つ旧臣らによる文禄の役に赴く豊臣秀吉の暗殺未遂事件に関わったとされるが、真偽は不明である。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、支援者である毛利氏に同調して西軍に与し、安芸国より毛利輝元の家臣・宍戸景好(宍戸景世・河野通軌と同一人物説あり)や桂元綱および同じく毛利氏に庇護されていた浪人・村上武吉、村上元吉、因島村上吉忠、曽根景房らの諸将と松山沖の興居島を経て9月17日に伊予国三津浜に上陸、河野家の旧領回復を目指して兵2500を率いて攻め入った(四国攻め)。伊予では平岡直房ら一部の旧河野家臣もこれに同調して蜂起した。 攻められた松前城(正木城)は城主加藤嘉明が国を空けており、兵数的にも手薄であった。侵攻軍は豊臣秀頼の朱印状を示して開城を迫ったが、嘉明の老臣の佃十成らは返答の引き延ばしを行った。その夜、楽観していた侵攻軍に対し、佃十成や足立重信らが兵200を率いて三津で夜襲と火攻めを敢行、村上元吉、曽根景房らが討たれた(三津浜夜襲)。 河野軍(現地蜂起勢も含む)は久米如来寺など数か所の城砦に立て籠もるが、それぞれ加藤軍の攻撃を受けた。如来寺の河野軍を平岡直房が指揮して反撃を加え、佃は負傷し黒田直次を討取るが、蜂起した一揆勢もことごとく鎮圧され、河野氏らは「道後山」に逃れた。 その後、侵攻軍(毛利勢)は北方、すなわち毛利領が近い海岸本面へ撤退した。ただし加藤軍にも徹底追撃する兵の余裕はなく、23日の小戦闘が行われたその夜、両軍に関ヶ原の東軍勝利の知らせが届くと、毛利勢は撤退した。 お願い 宝厳寺檀家総代の三好隆氏との語らいで「道後山」は道後人の記憶からすでに失われている由。 昭和30年代の道後小学校に通学した少年少女で「道後山」周辺で冒険した思い出があれば是非お知らせ頂きたい。「道後(村)町おこし」に活用したい。 *実現はしなかったが頂上までのケーブル設置案もあった由。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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