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第五十二段
一遍生誕寺・奥谷宝厳寺の「記憶」@
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〜五帝「伊予の湯」来湯 「『宝厳寺縁起』と弘法伝承」〜 三好 恭治 (一遍会 事務局長 理事) 1,はじめに 道後温泉誇れるまちづくり協議会が2024年に制定した「道後温泉2050ビジョン」の重点プロジェクトである「第4の外湯『道後斎戒沐浴の湯』の建設計画が公表された。 計画場所として@道後奥谷「金剛の滝」碑 A宝厳寺門前 B「ひみつジャイナ基地周辺」が挙げられている。 (注)(注)「百年先を見据え続ける道後温泉のまちづくり 」公益財団法人日本交通公社 https://www.jtb.or.jp 令和8年(2016)3月20日に奥谷・宝厳寺で開催された「いっぺん花まつり」(協力・一遍会)で、一遍上人生誕法要「松壽丸(一遍幼名)像湯浴み式」に引き続き、兎月庵館長 小椋浩介氏の「斉明天皇来浴の史実と宝厳寺縁起」について講演があり、講演会後「金剛の滝由来の碑」の現地見学があった。 長年にわたり一遍会では、月例会や『一遍会報』で一遍生誕寺・奥谷宝厳寺と一遍聖の事績を採り上げてきたが、この機運に対応して、改めて「一遍生誕寺・奥谷宝厳寺の『記憶』」として纏めることとした。お付き合いいただきたい。なお、ご質問、ご照会があれば、お気軽にお問い合わせください。 メールアドレス miyoshik@tau.e-catv.ne.jp 日本の古代史は、戦前と戦後で、まったく違った視座で論ぜられてき た。戦前派の懐かしい記憶は、小学校の通学の道中、神武天皇から始まる歴代天皇名をどこまで暗唱しているか互いに競い合ったものである。 「神武・綏靖・安寧・威徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀・応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古(女帝)・舒明・皇極(女帝)・孝コ・斉明(女帝)・天智・弘文・天武・持統(女帝)・文武・元明・元正・聖武 ・・・」 この章で登場する天皇、皇子7氏は、景行(12代)・仲哀(14代)・聖徳太子(推古33代 甥)・舒明天皇(34代)・斉明(35代 舒明天皇妃)、中大兄皇子(天智38代)、大海人皇子(天武40代)である。 2,宝厳寺縁起の概要 寺史なり寺院の由来・縁起については、論理的にあるいは史料的にみて事実(史実)であるか否かは不明確であることが多い。一遍生誕寺(?)ともいわれる時宗奥谷宝厳寺もまた例外ではない。 (注)時宗本山遊行寺発行の小冊子『時宗二祖上人七百年御遠忌記念 法統を継ぐ ―真教上人の生涯とその教え―』では下記である。 「時宗宗祖一遍上人は、伊予(現在、愛媛県)に勢力を誇った河野氏の出身です。父である河野通広(出家後)如仏」は、「別府七郎左衛門尉」と称していたことから「別府」(現在、松山市・東温市などの諸説があります)の地に居住していたと考えられます。そのため、一遍上人も其の地で誕生したのでしょう。」 (注)本山遊行寺刊行図書で、一遍生誕地が「別府」と推定している記述は卑見ではこの小冊子のみである。 今回「宝厳寺の記憶」として古代、中世(鎌倉期)、中世(室町期・戦国期)、近世(江戸期)、近代(明治・大正・昭和戦前期)、近代(昭和戦後期)、現代(平成・令和)に分けて報告したい。会員各位の意見や研究内容をご報告いただいて「宝厳寺小史」が更に充実できれば幸甚である。 古代については、テキストとして宝厳寺第四十六世住職・小林覚住師が著述した『一遍上人略伝並に和歌』(昭和二年三月三十日発行)並びに第五十二代住職・浅山園祥師著『一遍と時衆』 (一遍会 昭和五十五年刊)を 使用する。 (注)小林覚住師 略歴 大正十三年三月二三日宝厳寺就任(正住) 昭和五年四月十一日辞任(神戸薬仙寺へ担住)。(遊行寺「遊行寺僧籍簿」記載) (注) 浅山圓祥師 略歴 神戸普照院住職越智義祥徒弟 神奈川県瑠璃光寺元住職 藤嶺学園藤澤商業高等学校校長 時宗教学研究所所長 大正大学講師歴任 法名 桂光院其阿上人 足下圓祥老和尚(遊行寺「遊行寺僧籍簿」記載) 明治四十四年三月生まれ。明石・法音寺住職浅山成円師長男。東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科で宇井伯寿博士の薫陶を受ける。卒業論文は「部派仏教における時間論」。宗門では、宗学林教授、藤嶺学園・藤沢商業高等学校校長、時宗教学研究所長を歴任、昭和四十七年九月宝厳寺第五十二世として来松、昭和五十一年九月七日愛媛県立中央病院で示寂、六十五歳。其阿上人圓祥和尚。一遍会創設時の最大最高の指導者であった。(『一遍と時衆』あとがき 記載) (1)宝厳寺建立
宝厳寺には二つの寺院名が残されている。一つは「豊国山誓願院宝厳寺」であり、他の一つは「豊国山遍照院宝厳寺」である。現在の寺院名は「豊国山遍照院宝厳寺」である。 (注)越智守興(もりおき) (2)法相宗から天台宗へ
法興律師の詳細は不明である。 (3)真言宗 弘法大師 留錫
弘法大師の事績と合致しない。弘法大師伝承(伝説)の一つといえよう。大同元年(八〇六年)は、空海は帰国途上又は大宰府「観世音寺」に止住しており、同年、宝厳寺に留錫することはあり得ない。矛盾点を明らかにしておく。 ○延暦二二年(八〇三年) 遣唐使「藤原葛野麻呂」、最澄、空海(学僧)ら唐に出立。 (延暦二三年再出) ○延暦二四年(八〇五年) 遣唐使船帰国。 空海 唐長安「青龍寺」恵果和尚から「遍照金剛」の潅頂名を受く(八💤)。 恵果和尚入寂(十二月) ○大同元年(八〇六年) 遣唐使判官{高階遠成}の帰国船に同乗し帰国(博多津)。(一〇月) 「請来目録」朝廷に提出。(一〇月) (注)浅山圓祥師は、弘法大師「空海が留錫して、十二伽藍を建立したが、その一寺である」と記述しているが史料は不詳である。 現在活動中の「弘法大師巡錫伊予二十一ヶ所霊場」には宝厳寺は加わっていない。 (注)「衛門三郎伝説」との整合性については、年代的には矛盾しない。衛門三郎伝説は天長年間(八二四〜八三四年)の物語であり、衛門三郎の死去は天長八年(八三一)十月、弘法大師空海の他界は承和二年(八三五)である。 (4)「豊国山遍照院宝厳寺」に改称
法相宗から天台宗に改宗に当たり、天台別院の定額院となり「誓願院」から「遍照院」に改まる。一遍生存中に時宗を称することはあり得ない。(浅山圓祥『一遍と時衆』) (5)出雲岡及び伊佐爾波二社の別当兼務
貞観十三年(八七一年)六月、勅許により全国の名社にて「祈雨祭」実施。宮中「神泉苑」 で雨乞いの儀式を執り行う。伊予においても出雲岡(湯神社)、伊佐爾波岡(現湯築城跡 伊佐爾波神社は湯築城築城時御仮屋山に移転)で「祈雨祭」を実施した。 (6)藤原純友の乱と寺領拡大
天慶三年(九四〇年)勅命により逆徒降伏の祈願をするが、伊予で起こった「藤原純友の乱」である。国守散位好方は純友を備前児島で誅している。「橘郷饒田の里」の橘郷を「立花」とすると「饒田の里」は、石手川南の現・立花周辺の豊穣の田(饒田)を指すのだろう。 (7)古代から中世へ、そして一遍誕生 (8)河野(得能)通俊の宝厳寺再建
(注)国守伊豫之介通俊 得能通俊は河野通信の(長)子。一遍の伯父に当たる。「得能」の祖で承久の乱で戦死。その子通秀は北条方。曾孫が「通綱」で宝厳寺に寄進(石碑 大位牌など)。「友月台」は現在の本堂奥の墓地と推定される。中世の項で説明の予定。 (9)伊予国主西園寺實氏の寄進
(注)西園寺實氏(一一九四〜一二六九年)従一位 太時宗政大臣 嘉禎元年(一二三五年)当時 右大臣 嘉禎二年四月から寛文二年(一二四四年)まで職を辞しており(政争・鎌倉幕府?)、難を避け、伊予国宇和庄(西園寺領)に「下向」したか。西園寺氏が在地領主化し松葉城を築城し宇和盆地を支配するのは永和二年(一三七六年)以降である。『宇和旧記』 (10)一遍智真誕生
「宝厳寺の記憶 古代」を一応閉じるが、古代の寺院に関しては、資料が殆どない。 「延喜式」に三社(湯神社・出雲社・伊佐爾波神社)があり、祭神は@大国主命(大己貴命)・少名彦名命A櫛名田比売 大己貴命の母B応神・仲哀天皇、神功皇后、宗像三女神で、出雲朝と大和朝廷の影響が混在している。宝厳寺は「伊予の湯」に近接する寺として、古代においては「迎賓館」的役割を果たしたと考えられる。 |