第四十六段  一遍会「掲示板」(平成十六年〜平成十七年)日録断章を掲載せしこと。



三好 書き込み:1/18
和田さんのメッセージに対するレスポンスです:

拙稿「神戸大震災私記」をご覧頂き有難うございました。「とは言え何をどうする?と思いつつ、何も出来ない日々を過ごすのみです。」は、現在の私の心境でもあります。
拙稿の表題を決める時にいろいろ悩みましたが、副題を「臨危不変」としました。
「臨機応変」は必要でしょうが「臨危応変」は大変危険なように考えています。危険が迫った時こそ「平常心」が肝要なのでしょう。10年前を振り返ってみて、落ち着いていたのは家人だったと思います。
男性は格好はつけたがりますが案外役に立たないものです。「女は強し」です。女性の皆さん、「お父ちゃん」のためにも「臨危不変」で宜しくお願いします。

和田 書き込み:1/18(火)
 昨日のTVを見て、三好さんの震災日記を感慨深く読ませていただきました。 ほんとに生と死の境を分けるのは何なのでしょうか。多くの方がお亡くなりになったのに、ご無事であったのは何よりでしたね。 
通常私どもは外面のニュースや映像などにに接するのみなので、内側からの生々しい当事者の方の体験の記録は、実感を伴って心に迫って来るものがあります。
わが身であればどうするだろうかと昨今の多くの天変地異?の襲来に、不安を募らせています。
とは言え何をどうする?と思いつつ、何も出来ない日々を過ごすのみです。 当地も活断層が通っているとか、考えれば怖いですね。どうぞ皆様お気を付けくださいませ。

三好 書き込み:1/18(火)
幼馴染さんのメッセージに対するレスポンスです:

心温まる素晴らしいメッセージを頂戴し感激致しました。「あの時から10年」・・・還暦から古希までの10年に相当するだけに貴重な体験の積み重ねでした。「物を失ってみて心の豊かさを知る」ことを体験できたことは、負け惜しみでなく有難いことでした。
古い「往復書簡」ですが、昭和30年の前半は勤務地大垣と愛媛県との電話連絡は交換手経由でしたから、申し込んでから通話まで3時間は必要でした。そんな訳で週一回の往復書簡を書き続けた次第です。発掘しました「往復書簡」をワープロ起こしして「たった一冊の豪華本」を制作しました。最後に残った方がその本を持参して浄土で読もうかと云っております。お惚気になりましたか、いやはや。

松山周辺でも今後半世紀中に大地震が発生するとか報道されていますが、「一大事今日只今之事」と割り切って毎日を心豊かに過ごしたいなあと思っています。

幼馴染 書き込み:1/18(火)
 この度は貴重な震災手記を読ませて頂き、もうあの日から10年の歳月が流れたのかと、感慨を新たにしています。
そして自然の脅威の怖さと、当時テレビ新聞等で報じられた以上に被災された方々の苦難を改めてしみじみ知りました。「当事者でないと本当のことは分からない」とはよく言われる言葉ですが、私なりに色々な思いが去来しました。
人は常に生と死を裏腹に生きていることも心すべきで、もしあの日一階にお休みになっていたら・・・想像するだけでも戦慄を覚えますが、奥様の言われる通り、ご先祖様が守ってくださったと私も思いました。人生は判断の連続で、いかに速やかに正しい判断を下すかが運と不運を決め、結果的に幸運をもたらせば、その判断は正しかったと考えるのが妥当だと私は思います。
手記を読み進むうちに、何時も光明と幸運がもたらされたのは頭のどこかで救いでした。首飾りや家宝の古文書もさることながら、奥様との古い往復書簡に胸をなでおろされたことは異性の立場から感動でした。鱒のすし、清酒立山には昔(富山時代)を懐かしく思い出しました。「備えあれば、憂いなし」「無一物即無尽蔵」等、大きな山を越えるとそれまで見えなかったものが見えてくる・・・
私たちのまだ経験していない多くの人生の示唆と教訓を教えて下さるかけがえのない手記を読ませていただきまして有難く深く感謝いたします。今年がお二人にとって、また、すべての人々にも良き一年でありますように!

橘 書き込み:1/17(月)
早速ホームページ「阪神大震災私記〜臨危不変〜」読ませて頂きました。君があの震災で罹災されていた事は、今まで話に出ませんので存じませんでした。幼少時の空襲体験より、まさに危機迫る体験ですね。よくぞ生きられた!が実感です。
私の方も、家内の妹が西宮に住んでいるので、罹災しました。小さな家ですが丁度少々手を加えた後だったので、何とか倒壊は免れました。
隣家は倒壊し、今は取り壊され空き地になっています。現今の神戸の街からは、既にあの惨事を窺う事は出来ませんね。

梅木 書き込み:1/17(月
阪神大震災も今日で10年目。
当地松山でも震度3の揺れで何事かと驚いた記憶はまだ新鮮です。しかし、本当に良く凌いでこられましたね。さぞ感慨深いものがおありだろうと思います。10年一昔。平素の多忙が危急の時を忘れさせてしまいますが、素晴らしい手記です。宝ですね。
様々な追悼・鎮魂の催しが営まれてきましたが、その願いは生かされている者の知恵を、自然災害からの安全と共生に活かしすことだと思います。鎮魂の10年ご苦労さんでした。想いは後ろにあっても希望は眼の前に耀くものと思います。
阪神大震災の日に当たって一言。

三好 書き込み:1/17(月
早いもので平成7年1月17日の阪神淡路大震災から10周年を迎えます。ルミナリエの輝きとは違った感慨をお持ちになることでしょう。あわせて新潟やインド洋での大地震や津波のニュースがダブって深い悲しみと人間の無力さすら感じます。
10年前には最激震地であった「神戸市東灘区森南町で罹災した一人ですが、震災時の日記を中心に【阪神大震災私記〜臨危不変〜】を2年後に取り纏めました.今回期間を限って(一月中)マイホームページに一部を掲載しました。
個人的な日記ですが、阪神淡路大震災当時の記憶を蘇らせていただければ有難いのですが・・・それにしても「カネボウの猛烈社員だったな」と猛省?しています。「時既に遅し」です。いやはや。

三好 書き込み:1/16(日
岩田さんの素晴らしいネットワークをご紹介頂き有難うございます。インターネットによる21世紀の「賦算」で一遍さんにも驚いてもらいましょうか。インターネット会員には岩田さんはじめ素晴らしい方が多く、事務局としては責任の重さを痛感しています。
秋田の会員の方からは、『私訳本 一遍聖絵』『戯曲 最後の一遍』をご恵贈頂きました。面白くて面白くて再読、三読しました。実は新国劇の座付き脚本家「高橋丈雄」さんが松山に疎開され、その縁で劇団に出入りしたものですから芝居は大好きです。戯曲 最後の一遍』はゲーテの『ファウスト』を読む心境でした。いつの日かお名前を明かしていただきたいなあと思っています。

岩田 書き込み:1/16(日
岩田です。
一遍会の継続的な活動には頭が下がります。
月12日には「一遍聖生誕会」と「松寿丸湯浴み式」を宝厳寺で行っているとのことですが、出来ればその時期に松山に出向くことが出来ればという感じです。
実は、仏教活動に関わらせていただいております。その一つが、前東国東郡広域病院の医院長をされていた田畑正久先生の「歎異抄に聞く会」です。現在、正信偈を読む集いを大分市の光西寺で行っていますが、私もそのお手伝いをしております。
  歎異抄に聞く会  http://www8.ocn.ne.jp/~sangha/
また、最近は別府南無の会にも時折顔を出させていただいております。別府では、町づくりグループがシルバー移住計画を推進しているのですが、将来に備えて、個人的に別府の宗教関係者と関係を保っています。
  別府南無の会  http://www6.plala.or.jp/kouyaji/namu.htm
「一遍会報」には浄土教をはじめとした日本仏教を考える際に多くの示唆に富む論考を目にすることが出来ました。これらの会にも機会があれば、一遍会の活動をご報告しておきたいと思います

三好 書き込み:1/16(日)
古都京都はサンクトベルグ並みの寒さの由。この寒さの中で大宮人や時衆一行は一冬も二冬も過ごしたのですなあ。
「拙H旅館で京都のもてなしを習得するのは難しい。むしろ将来の町家小宿開業に向けてのいい反面教師は、ルポルタージュとしては興味が湧きますが・・・
それにしても大変なご苦労ですね。
別府鉄輪の五室しかない「入舟屋」の女将は「鉄輪温泉・一遍上人探求会」の事務局長として大活躍の由です。女将(奥方)の力も必要不可欠かもしれませんなあ。ホームページで見る限りあったかそうな宿屋です。今年中には鉄輪に出掛け宿泊のつもりです。
【入舟荘  http://www.irfnso.ne.jp/ 】
「早くいい物件を見つけて、独立開業」されますようお祈りしています。ところで「マックの件」・・そうなんですか。そうなんでしょうね。いやはや

三尾 書き込み:1/16(日)
京都移居もはや3週間。やっとネット開通。以後、本アドレスで宜しく御願い申し上げ候。
巷間伝わる京都の寒さは尋常にあらず。今冬は例年の暖冬ではなく、小雪舞い、刺骨。隙間ありまくりの傾家町家ゆえ、毛布二枚重ねでないと寒さに震えて黎明に断睡。ファンヒーターが恋人、否、愛人だ。とてもじゃないが、新車原付で通勤できぬ。
マクド(関東では「マック」だが関西では「マクド」)でバイトすると、ハンバーガーが食べれなくなるように、どの仕事でも裏方を知ってしまうと、え!これでよく客に出せるな…(絶句)状況ばかり。
仔細はやぶさか故に記述しないが、拙H旅館で京都のもてなしを習得するのは難しい。むしろ将来の町家小宿開業に向けてのいい反面教師。早くいい物件を見つけて、独立開業したいものでごでざる。

三好 書き込み:1/16(日
入舟荘女将さんのメッセージに対するレスポンスです:

早速にメールいただき有難うございました。「一遍さん」は実在の人物であっても、それぞれの方の描く「一遍さん」は皆違っているのでしょう。鉄輪温泉の「一遍さん」のご発展を祈っております。
お送りした「一遍会報」に拙稿「一遍と神々の出会い(2)〜医聖・湯聖ということ〜」を掲載しております。道後・鉄輪・熊野湯之峰の温泉に触れました。
京都で町屋宿屋に挑戦中の一遍会のメンバー三尾さんに入舟荘さんのHPを紹介しておきました。メールという「賦算」でご縁が広がるとは一遍さんも驚かれるでしょうね。宜しくお願いします。

入舟荘女将 書き込み:1/16(日
一遍上人探究会、名前は仰々しいですが中身といいますか望むところは単純なのです。私たち鉄輪温泉は殆どが旅館を始めとする観光業です。昨今の厳しい経済情勢の下、鉄輪温泉にとって観光客の増加が自分たちの『いのちき』 となります。実は一遍さんにそのお手伝いをしていただこうかと・・・甚だ世俗的なことで一遍さ んには申し訳ないのですが。
むかしから湯治場として人々を癒してきた鉄輪温泉。『健康』というのは体はもちろんですが、心も元気でないと健康とはいえません。鉄輪温泉のお湯で体を癒して、一遍さんで心を癒してくださいというのが私たちの願 いです。それは多分一遍さんもお怒りにはならないと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

三好 書き込み:1/16(日)
入舟荘女将様 

貴誌「一遍上人と鉄輪温泉」をご寄贈いただき有難うございました。平成15年からのご当地の皆様方のご研究の素晴らしい成果を拝見し大いに刺激を受けました。有難うございました。ご縁があって岩田様には当一遍会の会員になっていただき「一遍上人探求会」のことを教えていただいた次第です。今後とも宜しくお願い申し上げます。
故 浅山円祥師が道後・宝厳寺の住持当時から「一遍会」活動は活発になり、今年の6月に400回の例会を迎えます。手元にあります「一遍会報」をご送付いたします
のでご覧頂きたく存じます。今後発行の都度ご参考までにお送りさせていただきます。
3月12日には鉄輪の「湯浴み会」「湯かけ」を見習って、「一遍聖生誕会」と「松寿丸湯浴み式」を宝厳寺で執り行っております。残念ながら一遍会のみの行事で「町ぐるみ」まで発展しておりません。ホームページ「一遍会」を立ち上げておりますのでご笑覧いただければ幸甚です。「一遍探求会」と会員の皆様方のご発展を心からお祈り申し上げます。

三好 書き込み:1/16(日)
岩田さん

別府の鉄輪で「一遍上人探究会」が数回にわたって開催され、「一遍上人と鉄輪温泉」というパンフが作成された由お知らせいただき有難うございました。是非パンフを入手致したく宜しくお願い申し上げす。併せて事務局が分かれば今後何かと連携を保ちたく存じますので連絡先、責任者などご連絡をお願い申し上げます。

岩田 書き込み:1/16(日)
鉄輪の「一遍上人探究会」は鉄輪の女将たちの会である「かんなめ会」が中心になって発足させた会です。現在特に活動はしていないようですが、入舟荘の女将の後藤美鈴さんを中心に今でも一遍上人を生かした町づくりを続けています。取りあえず、入舟荘のホームページをご紹介しておきます。入舟荘 http://www.irfnso.ne.jp/
「一遍上人と鉄輪温泉」のパンフは後藤さんから三好さんのところに送っていただけるようお願いしておきましたので、近日中に届くと思います。

三好 書き込み:1/1(土)
田中 さん

年賀メール有難うございました。論文拝見しました。
寺井内川(道後川)への問題提起有難うございました。犬伏武彦さんとのお話で「古建築」のトポス(時と場の記憶)として「山が在って川が在ってそして道が在って家が在る」と申し上げました。「道後十六谷」と結びつけて山と川と道の昔話を道後湯之町の「論愚亭」で語りたいですね。「論愚亭」の亭主は城東中学・御幸中学でロングの渾名がついていた先生です。

三好 書き込み:1/1(土)
あけましておめでとうございます。道後温泉もうっすらと大晦日の雪が残っています。初詣は寄り道して宝厳寺も参詣し皆々様のご多幸をお祈りしてまいります。
ホームページの鶏の声はいかがでしたか。驚かれました。「一遍会」も「ホームページ」も今年一年がんばってまいります。ホットニュースをお寄せ下さい。本年もよろしくお願いします。

三好 書き込み:12/31(金)
佐藤 辰男 様

貴戯曲「最後の一遍  一遍聖絵 」先ほど拝受致しました。目下師走の庭掃除に忙殺されておりますので、正月中にゆっくりと拝読させていただきます。大いに楽しみであります。衷心より御礼申し上げます。
松山地方独特の言葉使い・・・漱石が「坊っちゃん」の草稿を「ほととぎす」の虚子に送ったら、虚子が漱石の意図に反して徹底的に松山方言に「改竄」してしまい漱石は気分を害したとか。それにしても「坊っちゃん」も教科書から「追放」されて随分の年月が経ってしまいました。
大晦日は全国的に大雪になりました。南国松山は雪こそありませんが気温は摂氏五度に下がっております。残り九時間半で新年を迎えます。よき新年をお迎えになります
ようお祈り申し上げます。 

道後関所番 書き込み:12/30(木)
元旦にオープンする道後の新名所「ガラスミュージアム・道後ぎやまんの庭」の内見会があり出席しました。

江戸末期から明治初期のギヤマンと江戸切子には秀作が多く、観光地の見世物的ミュージアムとは一味違っており、正直ほっとしました。約300点の展示ですが見応えがありました。ガラスの虫籠、煙管、灰皿、衣紋掛け、茶器などは実用的にはミスマッチと思いますが、江戸職人の好奇心というか遊び心に惹かれました。また鮮やかな色彩のガラス製品が多いのですが、「ボカシ」というのか「おぼろ」というのか日本独自の「ほのかな色合い」のガラス製品も数多くありました。

ライトアップされた庭園と池を眺めながらのティータイムも今までの道後のイメージとは違いました。ところで入場料が1,000円(当初は600円)、コーヒーが525円で、お値段は東京・大阪並でした。道後の住民としては客人を接待できるスポットが「子規記念博物館」と「ふなやの庭園」に「道後ぎやまんの庭」が増えたので喜んでいます。
市内の方も是非お立ち寄り頂いて、道後にお金を落として下さい。ところで場所は「大和屋本店」を道なりの上って「道後山の手ホテル」と「椿館別館(旧春日園)」を右に折れて「しらさぎ荘」の前です。
「朝日楼」(元遊郭)再生プロジェクトが一件落着すれば、もうひとつ違った道後の一面が紹介できるのですが、市民の同意が中々取れそうもありません。推進メンバーは20〜30台の若者たちだけに、観念論先行の成り行きを危惧しています。

三好 書き込み:12/16(木)
田中 さん

ご指摘有難うございました。一遍会例会は第二土曜日(2月12日)です。一月度の連絡で訂正いたします。
松山中学・東高校機関誌「明教」の平成17年版(来春発刊)に拙文「『坂の上の雲』異聞」が掲載されます。ご高覧いただければ幸甚です。

田中弘道 書き込み:12/11(土)
2月度定例会の日時について
2月13日(土)となっていますが、13日は日曜日です。??

三好 書き込み:11/28(日)
やっと遊行?から戻って参りました。インターネット会員の皆さんご迷惑を掛けました。明日11月度月例会資料と「一遍会報」をご送付致します。
よろしくお願いします。

三好 書き込み:11/18(木)
暫く遊行に出ます。ご了承下さい。

三好 書き込み:11/7(日
お便り有難うございました。 一遍会ホームページをご覧頂き有難うございました。今後とも宜しくお願いいたします。
私も長いサラリーマン生活を無事終えて故郷道後に戻りました。家の宗派も違うのですが、時宗一遍さんの生誕の地でもあり、お手伝いを致しています。
四年も経つと結構情報も溜まるものだと驚いております。恐らくNHKの梅谷繁樹師の「一遍の語録をよむ」放送をお聞きになっておられると思います。梅谷師もこのHPに関心を持って頂きアドバイスも頂いております。
一遍会は在野の一遍さんが好きな「老中男女」の集まりですので、お気楽にメールして下さい。お手伝いできれば幸いと存じております。

春日井 書き込み:11/7(日
初めまして!
私は、まったくの無宗教人、普通のサラリーマン生活を送っておりますが、十数年前にもなるでしょうか。上人の願興僧都へのお言葉を読み、上人の生き様を知って、この方こそわがこころの師と感じておりました。久しぶりに、昨日上人さまの語録を再読したばかり。
いまがた、貴会のホームページを知り、嬉しくてついお声をかけたくなってしまいました。一遍上人の立像のお写真、素晴らしいですね。そのうちに絵伝も含めて、本物に対面できるのを楽しみにしております。

一遍会 書き込み:10/19(火)
10月30日(土)一日体験遍路が実施されます。 47番八坂寺、46番浄瑠璃寺を「逆打ち」して遍路宿坂本屋までの約2里のコースです。会費は3000円。松山市駅9時バス乗車で現地に向かい、坂本屋からバスで市駅15時着です。昔ながらのお接待料理も用意されています。先着100名で10月20日締め切りです。
申し込み・問い合わせは089−963-4332、email:sakamotoya@nora.or.jp 【NPO法人地域共創研究所NORA】です。
一遍会例会で講師をお願いした黒田仁朗さんと一遍会理事の中川重美さんらが中心になって実施されます。お気軽にご参加下さい。

三好 書き込み:10/10(日
「うどん」の次は「さとうきび」へ、讃岐から与那国島へ・・・一遍さんも沖縄までは足を伸ばせず!
HPを拝見中です。読了するのに一時間はかかりそうです。一遍さんフアンに是非読んでいただきたいものです。HPをお持ちの皆さん、HPをご披露していただけませんか。

三尾 書き込み:10/10(日
昨年、日本最西端の与那国で、シベリア抑留の強制労働よりキツイと称されるさとうきび刈りワンシーズンに参加しました。その経験を筆にまとめた拙『与那国きび刈り日記』HPhttp://naha.cool.ne.jp/nanao320を開設しましたのでお知らせします。日記編は、若者らしい放埓な記述もありますが、トピックス編は、離島を介して「日本」を描いたいと執筆しました。つれづれに御覧いただけれ幸いです。

三好 書き込み:10/4(月
東奔西走の取材活動何よりと存じます。特に食欲の秋を迎えて「色気より食気」がなによりですなあ。

琴平宮(金毘羅さん)の祭神は出雲系の大物主神ですから一遍が立ち寄っても当然でしょうが、海上の神」でもあり河野・村上水軍と必ずも・・・ということではなかったのかなと思います。山岳信仰との関係はよくは存じません。ご覧頂いている方の中でご存知あれば是非ご教示下さい。
「お伊勢参り」ならぬ「こんぴらまいり」は江戸時代から盛んで、伊予から讃岐への道は「こんぴら道」でもあり、往時は四国遍路よりも盛んだった様です。当家にも「金毘羅講」の古いお札が残っています。例年正月三ガ日中に千三百六十七段歩いてお参りしております。
うどん如何ですか。新橋に伊予(鯛めし)と讃岐(うどん)のサテライトレストランがありますので、帰京後もお立ち寄り下さいますように・・・

三尾 書き込み:10/4(月)
寒暖の差が大きく、体調はいかがですか?歴史好き故、一遍上人以外に浮気をしがいがちです。
さて、この週末も四国へ渡り候。讃岐といえば、うどんとこんぴら様。明日2日は勇壮な氏人祭を拝見予定です。
岩屋寺もそうですが、一遍上人は善通寺など空海の遺碩をめぐりますね。空海生国讃岐にはコトヒラ宮があるのに、絵詞などでは訪れた記述がない(と記憶する)一遍上人の宗教活動は山岳信仰の修験道と深く結びついているのに、讃岐の山岳信仰の中心地コトヒラに関心を払わなかったのか?と車中のつれづれに疑問が生じました。
とにかく、うどんを食べて食べて食べまくる予定です

一遍会 書き込み:9/29(水)
Jさんからのメール有難く拝見しました。

「橘俊道」師から検索の由、まさに「歩き遍路」のご苦労で「一遍会」をお訪ね戴き御礼申し上げます。時宗は日本では最も檀家の少ない宗派ですから、日本最大の信徒を擁する「親鸞上人」サイトとは比べものにならないと思います。宗派の方にはお叱りを受けると思いますが、住職を育て宗派を守り立てるのは、住職だけではなく、檀信徒や「一遍さん」をこよなく慕う一般人だろうと思います。
梅谷繁樹師が『一遍の語録を読む』で一回だけ「一遍上人」といわれましたが、以後は総て「一遍さん」で通して居られます。画期的なことです。10月からの講義が待たれる今日この頃です。近々のお訪ねを待っています。

J [URL:http://www.h5.dion.ne.jp/~hajimeno/] 書き込み:9/29(水)
橘俊道で検索をかけて辿り着きました。Jも一遍上人に深く傾倒しております。法然上人、親鸞上人のサイトは多いのに、一遍上人を本格的に取り上げたサイトがないことを残念に思っていました。やっと見つけて安心しました。
今日『一遍の語録を読む(下)』(梅谷繁樹著、NHK出版)を買いました。またちょくちょく寄らせてもらいます。

道後関所番 書き込み:9/25(土)
休日にのんびりと検索エンジンを楽しんでいたら「三日見ぬ間のHP」に出くわし驚きました。

ご存知の方は勿論いらっしゃるでしょうが「Google」の「ニュスnew」です。見出しを眺めるだけで世界や日本の動きが瞬時に「展望」出来るし、詳しく調べることも出来ます。これで「一日遅れの夕刊なし」の地方でも東京と「時間差なし」になりましたよ。多忙な女性方もご自分の都合の好い時間にご覧になれますね。他のHPとは比較にならない情報量と便利さがあると思います。
当方「US版」を引き出して見出しだけは何とか読みながら、これからアフタヌーンティを楽しもうかと思っているのですが・・・一度「Google」の「ニュスnew」をお確かめ下さい。

道後関所番 書き込み:9/24(金)
道後温泉駅前の放生園で足湯をしている観光客から「湯釜は幾つあるのだろうか」との質問がありました。松山の方でも正確にご存知の方は殆どいらっしゃらないのでは・・・実は「道後関所番」は男なので女湯についての知識は皆無です。悪しからず。

神の湯湯釜  3基(男湯2基、女湯1基)
霊の湯湯釜  2基(男湯1基、女湯1基)
又新殿湯釜  1基(皇族用1基)
椿湯湯釜   2基(男湯1基、女湯1基)
放生園足湯釜 1基
湯釜薬師湯釜 1基
合計    10基

湯釜には古事記、万葉集から子規の句まで道後温泉に因んだ歌が刻まれており、入浴しながら「勉強」するのは楽しいものです。湯逆上せや湯当たりならないように気をつけてくださいや。

参考までに椿湯の湯釜の句を記します。
「十年の汗を道後の温泉に洗へ 子規」(男湯)
「順礼の杓に汲みたる椿かな 子規」(女湯)


道後関所番 書き込み:9/24(金)
関所番の地獄耳です。

(1)一遍生誕寺である宝厳寺大施餓鬼に出席しました。隣席が俳人黒田杏子さんなので関所番は年甲斐もなく「驚き桃の木」でした。なかなかざっくばらんのおばさんなので好感を持ちました。
(2)旧松ヶ枝町は「ネオン街」と呼んでいましたがネオンならぬ駐車場化しましたので「上人坂」と呼ぶことになりました。大賛成です。
(3)遊郭・朝日楼はアジアフィルムセンターの若いスタッフが精一杯守っています。この建物を残すべきか否か・・・ぼつぼつ市民の声を形成する必要がありそうです。
関所番は「遊郭」と「遍路宿」を神代からの温泉場のシンボルとして残して欲しいと思っています。
(4)昔の道後小学校(メルパルク)からテニスコートを経て風土記の丘を縦断して石手寺に抜ける道に「予算」が付いたようです。喜ぶ人と哀しむ人が出るでしょうなあ。
いずれにしても付近の風景は変わり、石手から道後へのバイパス道になるのでしょうか。

三好 書き込み:9/16(木)

10月2日(土)13:30から松山東高校(旧制松山中学)で「漱石と湧ヶ淵大蛇伝説」という演題でお話をします。主催は漱石研究会(通称「松山坊っちゃん会」)です。時間のご都合がつけばご参加下さい。初回は無料です。漱石の湯山紀行での大蛇の句は下記の通り。
「冬木立寺に蛇骨を伝えけり」
「蛇を斬った岩と聞けば淵寒し」
尚「家も捨て世も捨てけるに吹雪哉」は一遍さんを念頭においているのではなかろうか。

三好 書き込み:9/15(水)
湯月城址様

メール有難うございました。早速「一遍徒然草紙」と「熟田津今昔」に[トップ戻り]をつけました。ご覧になって下さい。凄く便利になった思います。「窪寺・まんじゅしゃげ祭り」にお仲間とお出掛けになりませんか。【ホットニュース】に記載しています。今年のまんじゅしゃげは最高だと現地から情報が来ております

湯月城址 書き込み:9/15(水)
貴兄のHPを楽しみに拝見しています。ものすごく充実感があります。一件気がついたので申し上げます.
内容が充実しているので小生はじっくり拝見します。読み終わってから面白いな。次の章を読もう・・としたとき、「トップ」への戻り方がすぐには分かりませんでした。各章の終わりにも「トップ」へのリンクを設けるとさらに見やすくなるな・・と感じました。

三好 書き込み:8/20(金)
三尾様

お盆にメールを拝見しながら数日が経ってしまいました。お仕事ご苦労様です。
第2次大戦時に消失した菩提寺の竜穏寺に存在した河野通宣、通直(河野家最後の通直【牛福丸】の祖父・父)の画像模本が東京大学資料編纂所に現存することが判明し、住職と共同作業をしてお盆は大変でした。これも一遍さんのご縁だと思っています。(注)執筆される時の河野家武将のイメージのご参考までに検索NOをお知らせします。 東京大学史料編纂所肖像画データベース架蔵番号呂1400・呂1401・呂1402

紀行の道順(津山、備中高梁、岡山、徳島)を辿りながら、私自身の旅の記憶を思い出しました。美作国一宮こと中山神社は初めて拝見しました。有難うございました。備中高梁の寅さんは第8作の「寅次郎恋歌」で池内淳子さんが「恋人」でしたか。30年以上も前の「今は昔の物語」ですが・・・

猛暑を忘れるべく「聖戒、一遍実子説」の見地で「一遍聖絵」を見直したのですが、決定的な矛盾が出てきませんでした。驚きました。21歳差がありますから、腹違いの弟より実子説の方が「真実味」があります。「真夏の夜の夢」かも知れませんが・・・

三好 書き込み:8/20(金
窪寺様  

「窪寺への旅」を実行された由、なによりのことと存じます。現地を確認されてご高説が明確になってきたように感じます。もっとも小生は信濃の土地勘が皆無ですから、イメージが湧かなくて残念です。
信州大学 牛山佳幸氏の論文によれば以下の通りです。
@現在の長野市「小田切地区」の周辺は、中世には滋野を本姓とする武士団が所領を有していた。
Aその代表は善光寺と「小田切」地区の間に位置した窪寺郷の地頭「窪寺氏」である。
B「窪寺」とは領内にあった月輪寺の通称で当郷はもともと同寺に寄進された免他が起源であろう。
「聖絵」にもありますように、善光寺・窪寺・小田切・伴野・大井は一遍さんにとっては、まさに遊行のコースであり、河野通政・通末への鎮魂の道筋でもあったと考えます。
伊予の「窪寺」で河野一族を供養した・・・となると信濃「窪寺」との繋がりが密になりますが、これは小説の世界かもしれません。大分面白くなってきまた。今後が楽しみです。
地名「窪」⇒寺院・寺領名 「窪寺」⇒地頭「窪寺氏」(例えば滋野⇒窪寺)ということになるのかなと思います。例えば阿波の「三好」姓ですが元来細川氏の所領ですが、配下の小笠原氏が管理し、拠点を吉野川沿いの三好郷(今回水害で大被害を被りました)におきましたので三好氏に改姓しております。そこで細川氏の集まりでは全員が細川姓ですから、領地名で「三好氏」とか「窪寺氏」とか「来島氏」とか呼び合ったのではないのでしょうか。やはり地名が先ではないでしょうか。
尚小笠原氏と三好氏の「家紋」は全く同じで「三階菱」です。
「窪寺への旅」を実行された由、なによりのことと存じます。現地を確認されてご高説が明確になってきたように感じます。もっとも小生は信濃の土地勘が皆無ですから、イメージが湧かなくて残念です。

信州大学牛山佳幸氏の論文によれば以下の通りです。
@現在の長野市「小田切地区」の周辺は、中世には滋野を本姓とする武士団が所領を有していた。
Aその代表は善光寺と「小田切」地区の間に位置した窪寺郷の地頭「窪寺氏」である。
B「窪寺」とは領内にあった月輪寺の通称で当郷はもともと同寺に寄進された免他が起源であろう。

「聖絵」にもありますように、善光寺・窪寺・小田切・伴野・大井は一遍さんにとっては、まさに遊行のコースであり、河野通政・通末への鎮魂の道筋でもあったと考えます。伊予の「窪寺」で河野一族を供養した・・・となると信濃「窪寺」との繋がりが密になりますが、これは小説の世界かもしれません。大分面白くなってきまた。今後が楽しみです。

地名「窪」⇒寺院・寺領名「窪寺」⇒地頭「窪寺氏」(例えば滋野⇒窪寺)ということになるのかなと思います。
例えば阿波の「三好」姓ですが元来細川氏の所領ですが、配下の小笠原氏が管理し、拠点を吉野川沿いの三好郷(今回水害で大被害を被りました)におきましたので三好氏に改姓しております。そこで細川氏の集まりでは全員が細川姓ですから、領地名で「三好氏」とか「窪寺氏」とか「来島氏」とか呼び合ったのではないのでしょうか。やはり地名が先ではないでしょうか。尚小笠原氏と三好氏の「家紋」は全く同じで「三階菱」です。

三尾 書き込み:8/17(火)
無事四国より歸家しました。
盆明けの勤務は先日の猛暑が蜃気楼であったかの涼さで秋は近いのですね。
夏季旅遊は、京都から津山、備中高梁、岡山、徳島と城下町めぐりを致しました。『一遍聖絵』吉備津宮こと安仁神社及び福岡の市には参らず、美作国一宮こと中山神社のみに一遍上人関連の足跡を刻みました。ともあれ夏季旅遊では徳島の阿波踊り悦に浸ったのは勿論、個人的にお勧めは津山。城東の旧出雲街道沿いに居並ぶ古い町並みは、ひょいと寅さんが出てきそうで(実際にロケ地になった)一歩の価値ありです。さて津山駅前で借りたレンタカーで城北郊外の中山神社に参拝しました。

一宮だけあって樹齢八百年のケヤキをはじめ参道は鬱蒼とした杜。旧津山城の二の丸にあった中門を潜ると古社めいた拝殿と本殿がそびえる。
が、それは大社級ではなく道後伊佐爾波神社ほどのスケールではあるが、中山造の本殿は土地の者たちの信仰を啓示物に相応しい。ともあれ農耕の神ゆえ境内の脇には清水が豊かに流れる。
中山神社は「今昔物語」の猿神で有名だが、禰宜にお聞きしたところ、現在付近には山猿は生息していないとの事。釜鳴神事を実施しているかを聞き忘れたましたが、いかにも神官らしい色白の細面の方が若しかして一度は一遍ら遊行一団を追い払った禰宜のご子孫ではないかと夢想すると、中世も遠い世界ではないのだと恣我にふけりました。
まだ暑い日が続くようですのでご自愛下さい。恐々謹言
窪寺 書き込み:8/17(火)
些か 旧聞に属しますが 7月19日(月)に長野市安茂里で開催された「第3回くぼでら大集合」に 参加致しました。主催者からの連絡が悪く 開催場所・時間の変更がこちらに伝わらなかったので 結局 最後の10分間だけに参加出来ました。

さて、窪寺城の跡地の山の麓にある西運寺で 集会は開催されたのですが その隣地に 月輪寺・月林寺=がつりんじ とも げつりんじ とも読む=の山門と墓地だけが無住で残っており、その脇に立っていた長野市教育委員会の立てた説明の立て札に「正覚院 月輪寺・月林寺 平安から中世にかけて この地に 窪寺という大寺院が在り その跡地に 建立されたのがこの月輪寺・月林寺である」と ありました。

起源は どれが先かは分かりませんが
 1)氏族としての 「窪寺氏」
 2)地名としての 「窪寺」
 3)お寺の 「窪寺」
 4)そして、 城砦の「窪寺」城
が かって存在した事が はっきりしました。
然し「寺」という名前の感じからすると
 1)お寺の 「窪寺」が 先ず出来て、
 2)それが地名となり
 3)地名から 氏族・城砦が
こんな感じでは?  と 思います。

窪寺氏が歴史に初出するのが 天安2年 858年ですから、当然 一遍上人が 長野善光寺で修行なさった頃=1272-73年には その傍に 「窪寺」という大寺院が存在し、「窪寺氏・窪寺城」も健在?でした。やはり、信濃国 安茂里の「窪寺」と、伊予国 窪野町 「窪寺」そして、安茂里の隣に在る 小田切の里とは 何らかの「御縁」が在ったのでは? と 想像したくなります。 取り急ぎ ご報告まで

三好 書き込み:8/13(金)
ご質問の件ですがHPに記載されておられます「すばる星空友の会・西岡千頭会長」は存じ上げて居りますが、いま少し「道後村」的アプローチをさせていただきます。
ご指摘のあった記述は「予陽郡郷俚諺集」の一文かと存じますが、この件の「地理的」アプローチとしては「伊予古蹟志」の方が具体的かと存じます。
「樋股邑有閑田曰月輪田、耙田之時水上有光輝、因名焉、或伝、水清正見日月星、因呼曰三光田、此村川分派、北為山越川、南為清水川、有斗門俗呼為樋、又分派為股、故名焉、清水有泉可為酒、味酒之名取義於此云、」
樋股(ひまた)の根拠でありますが、山越川・清水川は現存の町中を流れる河川でありますし、味酒についても触れております。庄屋である「三好家文書」では道後村庄屋が味酒村の一部を差配しており、水利権の関連もあろうかと思います。従いまして江戸時代に於ける「樋股(ひまた)」を特定することは困難かと存じますが、「樋+股」の地域はイメージすることは可能かと存じます。
お盆は孫たちの襲来を受けておりますので、落ち着いて調べる余裕もありませんので、思いつくままにご返信申し上げます。お許し下さい。

東雲 書き込み:8/13(金)
先日、江戸時代の祐筆の方が書かれた古文書をみておりましたら、道後村に関することが記載されていました。そのことで、もしご存知でしたら教えていただきたいことがあります。
「三光田」というものです。その古文書には、「道後にあり、苗代とるべき日、この田に月日星うつるなり」と記述されているのですが、どこの場所なのかがわかりません。インターネットで調べてみると、http://home.e-catv.ne.jp/ja5dlg/subaru/kinsei.htm
このページに「温湯の西五六町に樋股(ひまた)というところ有り。是を すみ田 とも 三光の田ともいう。」と記述されていました。
現在のどの場所のことか、もしご存知でしたら、ぜひ教えてください。急ぐ話ではありませんので、お時間のあるときで結構です。お返事をいただけたら幸いです。