第四十三段 シンポジウム「一遍がいた風景 中世・伊予の国」で語りしこと。


 平成20年5月31日(土)、南海放送55周年記念番組(ラジオ)で一遍特集があり、ラジオシンポジウム「一遍がいた風景〜中世・伊予の国〜」とドラマ「SAINT IPPEN 〜永遠の嘘をついてくれ〜」が披露された。今秋、「劇団みそ汁定食」を中心に上演予定です。ご期待ください。コメンテーターは愛媛大学・川岡勉教授と私、コーディネーターは田中和彦南海放送編成局長、司会は寺尾英子アナほかである。
以下は事前に連絡があった質問に対する内容である。実際の放送では時間との勝負であり、半分くらいの内容をお話した。

@「一遍会というのはどんな組織なんですか」

 伊予が生んだ時宗の開祖一遍さんに親しみを感じている人が集まったフアンクラブです。最年少参加はお母さんが連れてきている満3歳の可愛いお嬢さんなんですよ。会員は約100名で地元が70名、県外が30名といったところです。時宗宝厳寺の檀家の方も入会しておられます。
主な活動ですが三つあります。
 一つは毎月第二土曜日に道後公民館で開催している月例会です。哲学・宗教・歴史・文学・美術など講師をお招きしてお話をお聞きしています。併せて「国宝 一遍聖絵」という絵巻物をスライドで鑑賞しています。
 二つ目は特別行事です。春には時宗・宝厳寺で一遍さんの生誕会と松壽丸(一遍さんの幼名です)湯浴み式を開催して、道後温泉のお湯で湯浴みしてもらっています。例年50名以上の参加です。秋には窪野に出掛けて一遍忌と地元の協力を得て「まんじゅしゃげ祭り」を開催しています。例年200人以上の参加です。年一回の会員のバス旅行です。一遍ゆかりの大三島とか内子とか卯之町に出掛け、寺院や博物館を訪ね、食事をして、観光して・・・という企画です。 
 三つ目は「一遍会叢書」の出版です。今までに12巻発行しています。県立図書館で読むことが出来ます。

 最後に一遍会の簡単な歴史を申し上げます。大雑把に言って三つの時期に分かれます。創設は昭和45年(1970)ですから約40年前になります。
 第一期の会長は拓川学園(幼稚園長)の佐々木安隆さんで北川淳一郎さん、古川雅山さん、坂村真民さん、足助威男さんらを中心にした勉強会でした。皆さん、ご立派な一遍の研究書を出版されました。
 第二期の会長は県の図書館長をされた越智道敏さんで、子規記念博物館初代館長の和田茂樹さん、子規会や坊っちやん会の会長をされた浦屋薫さんのトリオで運営されました。10年近くかけて一遍さんに因む全国の殆どの遺跡を回りました。
 第三期の現会長は愛媛大学名誉教授の小沼大八さんです。少子高齢化社会に対応する21世紀型の宗教文化の探求がメインテーマです。団塊の世代の方々の参加が増えてきました。皆さん勉強熱心です。


A「三好さんは「一遍会」のお世話をする以前、現役のサラリーマン時代は大企業(鐘淵紡績)の人事部長さんだったということですが、その頃の生き方と「一遍」とのつながりはなにかありましたか。

 難しい質問ですなあ。「跡付け」になると思いますが、大いにあったと思っています。勤めていた会社(鐘淵紡績⇒鐘紡⇒カネボウ)は明治20年5月6日(1887)創業<120年前>ですから、日本で最も古い近代工業の一つでした。いわゆる「日本的経営」<終身雇用・年功序列・企業内組合>を踏襲して、一般には「大家族主義的経営」の典型的な企業といわれていました。 人事部長当時の本採用従業員が3万5千人、臨時・パートを加えると5万人を越えましたから、従業員をどのように束ねていくかは大変なことでした。従業員への呼び掛けは「会社の繁栄は従業員の繁栄 従業員の繁栄は会社の繁栄」で、会社・労働組合・従業員一体の「運命共同体」と捉ました。現在の企業経営から考えると夢見たいな「万事人間本位」の会社でした。
 ひとつだけ経験談をご披露します。この時期、人事部では「信じあうなかに悦びを 生活の知恵のなかに稔りを」をモット―に人事施策を展開してきました。「性善説」の立場で人事の仕事が出来る喜びはまさに人生の喜びでもありました。やがて繊維事業は構造的な不況になり人員整理の必要が生じてきました。「完全雇用」の立場から当初は「全従業員の賃金一割カット」で対応できましたが、それでは危機を乗り切れませんでした。従業員は人員整理の噂におののき、実行責任者である私から目をそらすようになりました。
 その時期には「信じあうなかに悦びを 生活の知恵のなかに稔りを」のモットーは崩れておりました。やがて「信じなければ確かめることの出来ない存在がある」ことに気付きました。それは、従業員への絶対的な信頼ですし、「会社を救いたい。そのためには自己犠牲も止むを得ない」と願う従業員の究極の愛社心の存在でした。。また『三国志』のなかに「泣いて馬謖を斬る」くだりがあります。諸葛亮は愛弟子である有能な部将馬謖を「軍律の遵守が最優先」として涙を流しながらも処刑に踏み切った物語であります。諸葛の気持ちを思うと涙が出ますが、ここで「非情であっても、無情であってはならない」ことを知りました。「非情」こそ逆説的には「愛情が深い」ことの証左でもあります。組織人として「泣いて馬謖を斬る」ことになるが、無心になりきりあくまで公正(平等)に人員対策を進めることを決意しました。「首切り」は決して後ろから切らない。必ず面と向かって話をするから、噂に惑わされないでほしいと宣言し、年齢序列を建前にして就職斡旋を進め、子供の「身代わり入社」を認めて「ギリギリの企業内ヒューマニズム」を通しました。他の経営政策と相俟ってお蔭様でなん とか危機を脱しました。
 10年前にリタイアして故郷道後に戻り「一遍会」に入会しましたが、たとえば「坂村真民さん」の「念ずれば花開く」とか「空也上人」の「捨ててこそ」はすうっつと体に入りました。一方、@熊野で伊予から同行した超一や超二を「放ち捨て」たりA武蔵の国の「あぢさかの入道」が時衆に入ることを懇請したが許可されず富士川で入水するなどはすぐには理解できませんでしたが一遍さんは「非情であっても無情ではない」ことで納得できました。人間集団の「喜怒哀楽、生老病死」は時代を超えて共通する掟というか、業の深さを感じました。一遍さんの行きかたは現代人の胸にすうっつと入っていけると信じています。

B一遍会では聖戒の残した「一遍聖絵」の解説、講演会とかいろいろされていま思っていますが、「聖絵」の中で、特に三好さんが興味深く思っている点などを教えてください。

 いやー、いろいろあり過ぎて、一晩でも語りつくさない位です。二つに絞ってお話してみます。
 ひとつは「一遍聖絵」は国宝ですが、特に絹布に描かれた絵が実に素晴らしい。一遍さんを中心に描くのではなく、季節、山野、河川、海、寺社、市場、人物(貴族、武士、僧侶、町民、乞食、貧民、病人)、動物、樹木、家屋、踊りなどなど、中世(13世紀)の日本を町や村や寺社を旅している気分になります。専門的には「画像分析」という手法ですが、いろいろの世界をイメージすることが出来ます。「百聞は一見にしかず」です。宗教を離れて絵巻で「中世の旅」を楽しんでいただきたい。
 もう一つはこの『一遍聖絵』は、「聖戒の、聖戒による、聖戒のための一遍物語」です。そのほかにも後継者である二祖他阿上人真教が述べた『奉納縁起記』や二祖他阿上人の弟子が作った『遊行上人縁起絵』や『麻山集』という無量光寺の縁起などの「一遍伝」が残っています。が『一遍聖絵」がダントツと思います。
 妻子である超一房、超二房や念仏房の出会いと別れ、熊野権現参詣、小田切里での踊り念仏、東北江刺での祖父通信の墓参り、京都での踊念仏、観音堂での臨終などなど、一場面一場面がドラマの見せ所、泣かせ所なんです。引き回し役の聖戒も、ちらちらと登場します。とにもかくにも面白いお話ばかりです。ぜひご覧になってください。


C「一遍が県内で修業のためにこもったといわれている「窪寺」と「岩屋寺」。窪寺の特定と論争について・・・

 一遍会活動の成果の一つに一遍さんが信濃の善光寺から戻って修業した「窪寺」と「閑室」を「窪野町北谷」と特定して「窪寺遺跡碑」と「窪寺閑室跡碑」を建立しました。20数年前のことです。場所の特定に当たっては地元のご長老から窪寺の伝承を伺い、石鎚山修験道の宿坊で古河坊<こっかぼう>のご子孫のお話と併せて『一遍聖絵』の「窪寺閑室の絵」を細部まで検討して特定しました。
 一方、ややこしくなりますが、昭和50年(1975)に「時宗立宗七百年記念遠忌行事」として同じ「窪野町の丹波」に「窪寺一遍上人修業地記念碑」が宗門によって建立されました。伊予鉄バスの丹波停留所の近くです。ここには時宗の尼さんのお墓があります。また一遍さんが伊予国に最後に立ち寄った時に同行して窪寺の住職になった「丹波の国の山内入道」の墓もあります。「丹波」という地名も「丹波の山内入道」にいわれがあるらしいです。
 又、近年、京都国立博物館が『一遍聖絵』の修復作業を実施して大幅に描きかえられていることが判明しました。専門的になるので割愛しますが・・・一遍会は「窪野町北谷」説、宗門は「窪野町丹波」説で決着はついていません。考古学的な「窪寺の発掘調査」をすれば白黒が明確になるかもしれませんが・・・もう一度『一遍聖絵』を新しい眼で見直していきたいと考えています。

D「一遍聖絵」の編者・聖戒については一遍の関係に諸説ありますが、彼の存在が今の時宗にとって大きいと思うのですが・・・

 聖戒と一遍さんの関係とは具体的には「異母兄弟」「実弟か「一遍の実子」かということでしょう。ご興味をお持ちの方が多いと思いますが割愛します。ドラマでは「異母弟」になっています。ただ二人の年齢差が22才ということは抑えておくポイントでしょう。
 次に時宗内での聖戒の位置づけですが、これは「曰く云い難し」です。一遍さんは「わが化導<けどう>は一期<いちご>ばかりぞ」と「自分の念仏勧進一代限り」であると明言していましたし、聖戒は一遍さんの教えを忠実に守ろうとしました。二祖他阿上人真教が創設した今日の「時宗」との直接の関係はありません。「時宗」サイドからいうと聖戒は「時衆」ではありませんし「時衆過去帳」に聖戒の名前はありません。・・・と云ってしまうと身も蓋もないのですが・・・
 『一遍聖絵』は宗門とは無関係に、聖戒が発願<ほつがん>して聖戒が文章を書き、法眼円伊という都で著名な画家が絵を描きました。最後の文章は「たとひ時移り、事去るとも、もし古<いにしえ>を尋ね新しきを知らば、百代の儀表、千載の領袖にあらざらむかも」<百代の後の世まで手本となり千年の後の人々の導き手とならないことがあろうか>正安元年(1299)8月23日と書かれています。810年前の制作ですが、聖戒が『一遍聖絵』を残して一遍さんの実像を伝えてくれことこそ、何物にも代えがたい時宗への貢献であり、聖戒なくして今日の時宗は存在しなかったかもしれません。一遍さんの最大のフアンは聖戒さんでした。

E三好さん、数年前この「跡部の念仏踊り」は松山に来られたことがありましたよね。

 平成17年9月19日)<子規忌・へちま忌>子規記念博物館で長野県佐久市から「跡部の踊り念仏(国指定重要無形民俗文化財)」保存会の方々によって披露されまました。講堂が超満員になりました。子規博の天野館長とダイキの大亀会長がコメンテーターをされました。念仏を唱えながらゆっくりと舞台を回り、飛び跳ねながら鐘を打ち鳴らす踊りでした。「静中動あり、動中静あり」で素晴らしかったです。

Fフリートーク
一遍という人はどんな人ですか

 郷土出身ですべての教科書に顔を出しているのは子規さんと一遍さんだと思う。二人とも、伊予・愛媛を限りなく愛した人物である。一遍さんは「すべてを捨てきろう」としたが、「ふるさと・伊予国」と「血縁(河野家)」という因縁は捨てきれず、誰よりも伊予を原点にした聖であった。一方いろいろの顔を持っていました〜「遊行聖」・「医聖」・「湯聖」・「捨て聖」など・・・また親鸞は「上品」、法然は「中品」としたが、一遍は「下品」であるから家族を捨て物欲を捨ててはじめて「救われる」とした。己に厳しい人でもあった。

一遍会が今後していきたいこと

 やりたいことばっかりですが、ひと言で云うと「一遍さんのことを知ってもらいたい」に尽きます。そのためも毎月の例会や「ふるさと」に根差した企画をやりたいと思います。一遍さんは「時宗の開祖」ではありますが、愛媛の皆さんにとっては野辺にぽつんと立って子供の守っているお地蔵さんに当たるのが一遍さんと思って親しんでいただきたいものです。「いかに生きたらいいのか」(自力)で悩まないで「生かされている自分」(他力)に感謝してゆったり生きていくのが今様ふうではないでしょうか。
具体的には
@「踊り念仏聖」の一遍さんとしては「観客型カーニバル」ではなく「参加型カーニバル」で昔風の盆踊りや踊り念仏で夜通し踊りたいですね。
A「湯聖」の一遍さんとしては、大分の鉄輪温泉、熊野の湯の峰温泉は一遍ゆかりの温泉ですから、「一遍サミット」を実現して歌舞伎「小栗判官・照手姫」鑑賞などいいですね。
B「捨て聖」の一遍さんとしては、浄・不浄を問わない「怨親平等」の思想をそのまま人権や平和や環境保護の運動への参加を促したい。
C「遊行聖」の一遍さんとしては、ウオーキングして一遍さんに関係する場所をみんなで回りたいですね。


子規が「伊予の国最高の傑物といった理由」

 子規さんが明治28年帰省して漱石の下宿先「愚陀仏庵」で共同生活をしますが、漱石と道後を歩いた紀行を『散策記』に残しています。正確には「古往今来当地出身の第一の豪傑なり」ですが・・・
既成仏教からの圧迫、時の鎌倉幕府への抵抗など一遍の遊行の旅は苦難の連続でした。「不可能を可能」にした一遍さんの強靭な精神力や行動力に、子規は「当地出身の第一の豪傑なり」と賞賛した。子規は28歳、健康の不安があったが、「脊椎カリエス」を飼い馴らして俳句の革新に己を賭けようと決意し、一遍さんの実像に迫っていった。