第四十二段 一遍会前会長 故 浦屋薫先生を偲ぶ  謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


 一遍会前会長の浦屋薫氏には平成19年9月25日午前6時心不全にて永眠された。同日通夜式、翌26日告別式並びに葬儀がムラタ斎場で執行された。子規会、松山坊っちやん会の会長を歴任された。松山に帰省して間もなく知己を得て、何かとご指導を頂き、拙宅にもお越しいただいた。又令夫人ともよくお話をし、浦屋先生がご病気になってからは個人的なご相談を受け、ご援助を申し上げた。以下の文章は、平成12年初春に取り纏めた『ひと・出合い・旅』(平成12年版)に掲載したものである。その後、ご推挙を得て、一遍会・子規会の理事に就任した。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 浦屋薫先生については、平成十年十一月帰郷するまでは全く存じ上げない方であった。  道後で一ヵ月生活してやっと少しは余裕ができたところで、伊予史談会と一遍会事務局に電話した。愛媛新聞に次回の一遍会の開催通知が掲載されており、連絡先が浦屋薫先生であった。入会の希望を伝えると心よく了承していただき、「ところで、三好さんというのは道後の三好さんですか」で、気分的には落ち着いた。道後にも松山にも三好姓は多いが、「道後の三好さん」と言っていただくのは昔の道後のことをよく御存知の方だと直観した。想像通り「お父さんの章さんとは昵懇でした。一遍会の外に子規会、坊ちゃん会も私が世話しているので気軽に参加しなさい。」と親切に言っていただいた。有難いことである。早速入会させていただくことにした。
 それから丁度一年が経過した。この一年間でもっとも長く共通の時間を共有した先輩である。一遍会、子規会ともに毎月一回例会があり、坊ちゃん会は年四回開催されている。 出席率は七〇%であり優等生とはいい難いが熱心な聴講生ではあると自負している。会員の過半は先輩であり、なかには九四歳で「野獣」を主宰しておられる現役の詩人もいて六五歳は洟垂れ小僧でしかない。出席の度に浦屋薫先生と一言二言話すだけだがそれだけで充分満足した気分になるのは不思議である。
手元のある「愛媛年鑑」(平成十一年版)での同氏の紹介は次の通りである。 
浦屋薫(雅号・南風、南光)  
〔職〕松山坊ちゃん会会長 一遍会代表 松山子規会副会長
〔生〕大正六・八 ・四
〔出〕松山市
〔学〕旧制松山中学卒 昭十七同志社大学経済学部卒 
〔経〕伊予銀行支店長・歴任 今治造船役員 昭六一(財)済美会専務理事   
〔賞〕市功労賞ほか
〔信〕継続は力なり 
〔趣〕スポーツ観戦 俳誌歌 読書 
〔家〕妻絢子
〔住〕〒七九〇−〇八五四松山市岩崎町二−三−二八  TEL〇八九−九二一−五二三八   


 一見して豊かな趣味人であり、静にして動ぜず、微笑みを絶やさず、大人の風格であ る。大正六年と云えば八三歳、結構なお歳ではあるが頭脳明晰である。各会合には皆勤 であり「継続は力なり」を実践しておられ頭が下がる思いである。尚、御令室実姉中尾 (旧姓室)千春様と母とは旧制県立松山高等女学校第二九期生(昭和六年)で同期であることを後日知った。

 浦屋家と我が家とは、江戸時代から御縁がある様である。 
 浦屋薫先生の祖父に当たると思うが、浦屋雲林なる著名なる文学者が居た。明治二十七年五十五歳の時拙宅を訪ねれれた時の漢詩が残っている。
        訪 道 後 村 三 好 生 観 牽 牛 花  
奇 種 多 移 自 武 州  
奚 唯 一 様 碧 牽 牛     
非 経 暮 〃 朝 〃 苦     
争 得 紅 〃 紫 〃 秋 
満 砌 牽 牛 帯 露 萃    
温 泉 咫 尺 是 君 家    
好 将 浴 後 清 澄 眼    
對 比 西 風 澹 〃 花  

 又、湯之山三好氏伝承の蛇骨についても明治二十九年五十七歳の時に一言触れている。 
蛇 骨 引  近 藤 南 洋 有 此 題 之 作                       感 嘆 之 餘   予 亦 倣 顰    

石 手 川 源 潭 如 湧    
激 石 觸 巌 水 勢 踊
長 林 深 莽 壓 其 傍    
産 出 妖 怪 蛇 一 種       
澎 湃 声 中 常 潜 居   
食 盡 汀 禽 與 淵 魚
貧 婪 猶 欲 呑 行 客   
夜 々 変 幻 化 彼 妹     
三 好 祖 先 膽 頗 大     
銃 丸 一 發 貫 蛇 身    
単 身 誓 要 除 民 害 
三 日 三 夜 血 成 瀬    
遺 骨 収 来 幾 百 春   
深 蔵 豈 啻 趙 璧 珍
子 孫 振 々 家 亦 富    
昊 天 厚 報 陰 徳 人    
借 問 鳥 銃 今 存 否  
願 與 遺 骨 相 對 偶 
両 函 併 護 三 好 家 
祖 先 之 功 長 不 朽       

 漱石も湯之山三好氏伝承の蛇骨について一句詠んでいるので紹介しておきたい。 
                 湧が淵三好秀保大蛇を斬るところ 
                        蛇 を 斬 つ た 岩 と 聞 け ば 淵 寒 し  
 (注)明治廿八年十二月十四日付/正岡子規へ送りたる句稿(その八) 

  ここで浦屋雲林翁と浦屋家のことに触れておきたい。 
 浦屋雲林   
松山藩士浦屋寛親の長男。名は寛制、通称は登蔵。幼より学を好み、日下伯厳、高橋復斎らに学んで漢学を修め、最も詩文を善くし、その書また雅致に富んだ。藩に仕へて小姓役より祐筆に進んだ。明治維新の後は城南藤原村に私塾桃源黌を開いて少壮子弟を教育し、来り学ぶもの頗る多かった。温厚にして声色を動かすことなく、恭倹にして常に古めかしき袴を着け、冬季には自ら手附き火鉢を携へて、しづしづと教場に入り、満堂の生徒を一々懇導して倦まなかった。又独立自営を尚び、後年松山中学より聘せられんとしたが固辞して応じなかった。
 その家塾の趾は今は亀の井(柳井町)といふ料理屋となってゐるが邸内に広大な池あり、夏季は水浴する門生もあったらしく、又旱魃の時は藤原村民の請ひに応じ水車を据えて灌漑の利に供したといふ。 門下には太田格広、野中水村、金崎彦四郎などあり俳聖正岡子規、内藤鳴雪らも嘗て漢学の教を受けたさうである。近藤南洋、河東静渓らと親交したが、何よりも詩作を好み夜を徹して草すること稀しからず、終ひに数千首に及んだといふ。明治三十一年十月に没す。年五十九。西山の宝塔寺に墓がある。(現戸主−−浦屋魁)    
(注)「伊予偉人録」城戸徳一著 昭和十一年六月十五日発行 愛媛県文化協会刊行 

 正岡子規(常規)は浦屋雲林翁に漢詩を学んだが尽きせぬ敬愛を一句に残している。 尚翁の住居は「庭清水藤原村の七番戸(子規)」であった。       
                   浦屋先生村荘(居)の前を過ぎて 
                      花 木 槿 雲 林 先 生 恙 な き や      
(注)明治廿八年「寒山落木巻四」所載。

  浦屋家については「浦屋家牒」と「係譜累稿」が残されており、甲冑・槍・刀剣と古文書は近年松山市に寄贈された。 初代家寛は元豊前小倉の細川忠興の家臣で承応元年(1653)松山藩主松平定行の寄力に採用され松山藩に定住することになる。 
@家寛−−A家正−−B家賢−−C義久−−D寛裕−−E寛親−−F寛制(雲林)−−G魁(東村)−−H薫と続いている。維新当時は寛親の代であり、小姓、書簡役、江戸在番、藩主の供奉、宗門奉行、皇学所御用懸などを藩主の近くで勤務した。その子が寛制(浦屋雲林)であり文化人であり多くの漢詩を残している。(尚、浦屋家と当家との姻戚関係は特にないと思われる。) 

 この一年特に印象に残った浦屋薫先生がお世話しておられる研究会の出来事を記しておきたい。 

 (一)一遍会  
 一遍会は毎月第二土曜日に開催される。浦屋薫さんが代表である。平成十一年十二月例会が第三三四会であるから二七年十ヵ月経過している計算になる。創設は昭和三十八年頃であろうか。当時のことはまだ何も知らない。これからぼつぼつ先達に教えていただこうと思っている。
 一遍会は勿論捨聖一遍を顕彰する会合であるが、一遍会の精神的な支柱は足助威男氏である。父は金沢庄三郎と共に「広辞林」の編纂者であった足助直次郎である。足助威男氏の人となりは平成十二年年初の愛媛新聞出版文化賞を受賞した青山淳平著「人、それぞれの本懐」中「一遍を蘇らせた現代の一遍〜捨聖を訪ね歩いた男の生涯〜」に詳しい。たまたま家内の叔父本多盛雄が同氏と大学が同窓であり、愛媛県下で同じ教職の道を歩んだので、同書に書かれていない事柄も承知しているが、私的なことであるので割愛する。ひとことで言えば、足助さんは一遍に惚れ抜いている、純愛を通しているとでも云うべきか。夕暮れに買い物か入浴の途中で同氏の後ろ姿を見かけると、正直男やもめの侘しさと着古した様な服装とが重なって「現代の一遍」が歩いている感じを強くする。毎回の様に足助さんの卓話があるが、一遍を通して八十余年の人生を語るのでなかなか味がある。 一遍は伊予の豪族河野氏の一族であり、時衆・時宗の創始者である。延応元年(一二三八)道後の宝厳寺に生まれた。(異説あり)一遍の生涯は「一遍聖絵」十二巻(正安元年・一二九八)と「一遍上人絵詞伝」十巻(徳治二年 ・一三〇七)に詳しく描かれている。その外に熊野権現に納入されたと云う「奉納縁起記」十巻があったはずだが現存していない。研究書・解説書もあまたあるが栗田勇「一遍上人−−−旅の思索者」と大橋俊雄「一遍」(吉川弘文館人物叢書)は私にとっては最良の道標である。一遍の「捨」の思索は今日もっとも関心があるが整理がついていない。 
 「無」は「有」であり、「無一物即無尽蔵」であり、「捨」は「無限大」でもあり「無限小」でもある。釈迦の時代には印度では零(0)の概念がなく、当然にマイナスの概念もなかったと考える。一遍の考えの中にマイナスの思考があったかどうかは不明だ。「捨身飼虎」の理念は理解しても、全てを捨て(無限小)念仏を通して阿弥陀の世界への再生(無限大)ではなかったか・・・・こんな素朴な疑問を感じている。一年間の例会の中で印象深い一遍との触れ合いがあった。      

一遍上人第七六一回生誕会    三月十五日開催 
一遍は延応元年(一二三九)旧暦二月十五日生誕
開会挨拶   浦屋  薫氏(一遍会代表) 
生誕会法要  長岡 隆祥師(宝厳寺) 
 長岡 義尚師(願成寺)      
記念講演    越智 通敏氏(元県立図書館長) 「永遠のいのち・一遍の生と死」 
松寿丸像「湯浴み」   注)松寿丸は一遍の幼名  
閉会挨拶   浦屋  薫氏(一遍会代表)  

 松寿丸像「湯浴み」の行事は平成十一年が第五回であり比較的新しい行事である。この行事には因縁話がある。足助威男さんが昭和四十六年十一月下旬時宗の寺巡りの遍歴の途上、別府鉄輪温泉に居た。この地は一遍が文永の役で戦功のあった大友頼泰の帰依を受け、頼泰の領地から同行を得て伊予に帰ったが、これが時宗の始まりでもあった。鉄輪では一遍上人湯あみ祭りで知られる永福寺を訪ね、湯あみ会に使う木像を拝観した。この寄木づくりの木像が十年程前に湯あみの最中にバラバラになり修復したことを足助威男さんは一瞬の内に感じ取り永福寺の住職を驚かした。見破ったのは足助威男さんが最初であると云う。もっとも由緒ある一遍生誕の地での生誕行事に足助威男さんは一遍を祈念しつつ砥部の陶器でつくった松寿丸像がここに誕生したのであった。素晴らしい因縁話であり、信じるか否かは別として物語は必要である。ただこの話は道後の人が殆ど知らないのは残念なことである。      
 出席者全員で松寿丸像に道後温泉から汲み取った湯をかけ、松寿丸(一遍)の生誕を祝うのである。キリスト生誕を祝うクリスマスキャロルの様な一遍念仏歌があればなあと思う。「南無阿弥陀仏」の現代歌謡で若い世代の眠れる宗教心を覚醒させたいものだ。

一遍忌第七一一回法要    九月十一日開催
一遍は正応二年(一二八九) 旧暦八月二十三日入寂 
開会挨拶      浦屋  薫氏(一遍会代表)
読  経   長岡 隆祥師(宝厳寺)
 長岡 義尚師(願成寺) 
物故者回向    過去一年間物故会員(七名)  
閉会挨拶   浦屋  薫氏(一遍会代表)     
記念講話    田村 憲治氏(愛媛大学教授)「一遍の和歌」   



一遍上人窪寺祭り    九月二十日開催      
 当日の日記から祭りを描写しておく。   
 九月二十日(月)晴れ一時雨。 一遍上人窪寺祭り(第十七回)に初参加。道後温泉駅(九時三十分)発の貸切りバスにて窪野町北谷に向かう(十時三十分着)。最初に「窪寺閑居跡」(十一不二 法門に達した所)、次いで「窪寺遺跡」(明治の廃仏毀釈時に撤去)、最後に「窪寺念仏堂」に集結する。付近に「十王様」「竜神権現」もあり、この山道は岩屋寺、石鎚山への修験道でもあったらしい。 
昼食をはさんで、数珠回し、念仏踊り、伊予万才(須賀富子さんほか)、法要(宝厳寺長岡隆祥師)、御詠歌、講話(足助威男さん「怨親平等」)で恙なく行事は終了する。  田圃道や山道や丘の曼珠沙華が周辺を明るくしている。そこで一句。「 厠にも彼岸花咲く遊行寺  」
 往復のバスでは元愛光学園教諭の今村威さんと話が弾む。(@子規の東京予備門時代の親友大谷是空についてA俳句とハイクB伊予と愛媛C古事記と道後温泉D現代の敬語E海洋遭難の「美談」と国際親善・・・)。昼食時は宇和宣さんが加わって宗教談義(宗教経済学、教団組織論)と大江健三郎・伊丹十三さんの交遊と高校時代の秘話など・・・。昼食は窪野町北谷部落の方々が用意していただくのは有難いことである。  
 もっとも「窪寺閑居跡」「窪寺遺跡」は厳密には特定出来ていないらしい。一年前に帰郷した旅人としては冷静な批評家になるのは避けて、「窪寺閑居跡」を発掘した先達の御苦労を感謝したい。歴史は事実とあわせ歴史的真実とロマンもまた必要である。疲れが出たらしく二十時過ぎに眠くなる。知的興奮が連続した一日となる。  

 (二)子規会   
 子規会は平成十一年十二月の例会で六八三回を迎えた。昭和二十年の八月を除いて毎月十九日に開催したと云うのだから奇跡に近い。アメリカ軍による大空襲で松山の市街地が全壊しいたのが昭和二十年七月二六日、八月十五日が敗戦だから文学を語る余裕などなかった筈だが先人たちは子規会を継続してきた。松山人の鷹揚さと云うのか達観とでも云うのか同じ松山人でもよく分からない。 
 浦屋薫先生は子規会では副会長である。会長は和田茂樹元愛媛大学教授で子規記念博物館長を歴任した、正に子規一筋の研究者である。近年体調を崩されて主要な例会しか出席されないが精神的には随分お若い。夏には内子町の内子座での人形浄瑠璃@牛若丸弁慶五条橋A絵本太閤記夕顔棚の段・尼が崎の段には車椅子で感激されていたし、新年会では催馬楽「伊予の湯桁」を披露され喝采を受けられた。 亡母(末美)が「愛媛県史 資料編 文学」の俳人の列に加えていただいたが、編纂者でもある和田茂樹会長の御配慮もあってではないかと内心では感謝申し上げている。
 浦屋薫先生は会の運営に徹しておられ、例会では開会と閉会の挨拶をされるだけだが氏の人材ネットワークの広がりには恐れ入りやの鬼子母神である。この下支えが子規会六八三回の例会を支えている力なのだろうか。 
 子規会に於ける正岡子規は神様であり一切誤謬がない神聖にして侵しがたい存在として認知され、それを前提に全てが展開するので全面的に同調する訳にはいかないが、俳句については「無学文盲」であるのでただひたすら先達のお話を拝聴するばかりである。感覚的には子規から虚子に引き継がれた現在のお茶の間俳句は子規の俳句の革新には程遠い存在であり、まさに月並み俳句のオンパレードではないかと思っている。河東碧悟桐、荻原井泉水、種田山頭火らの新傾向俳句、自由律俳句に魅かれる。
 二十一世紀においては日本固有の俳句を頑に守るよりは世界的視野でのハイクを考えるべきではあるまいか。最近少しづつ俳句らしきものを詠んでいるが、自己評価としては欧米人やアジア人に理解できるかどうかの視点をひとつのポイントにしている。その意味では日本的季題を固守するのは俳句自体の自己否定になるのではないだろうか。 明治四十四年(一九一一)から四十五年に「文章世界」に「文壇人国記」を発表した横山健堂は松山について九章にわたって記述している。 ここでも子規は別格扱いである。 
◎子規は、俳壇の大才、芭蕉、蕪村以外、更に匹儔を見ず、若し修辞の才を以てすれば、或は虚、紺の二字に若かざる点もあらん、然れども其の才の大気の雄即ち、紛々  たる名家者流の敵に非ず。
◎子規は、趣味豊博、一高に学生たりし時代には、野球に、二塁手として、キャプテインを勤めし事すらあり、若し生きて今日に在らしめば、新たらしく、趣味ある野球  の句や論を、彼の口から聞く可かりし也。
◎畢竟、子規は人格の人也、斯の人出でて、松山の文才、皆振ふ。梅花先ず天下の春  を為して、而して野辺の草花までも自から春栄を為すが如し。 
◎若し一の富士山無くんば、日本は、唯だ山岳国といふに止まらん。子規無くんば、  松山は空しく文才の国たる可かりし也。 
全く同感である。所詮は子規あっての伊予・松山文学か。子規会あっての伊予・松山俳壇か。参った参ったである。 
 子規会は子規の命日にあやかって毎月一九日に子規堂のある正宗寺の本堂にて開催される。年四回「子規会誌」を発行している。発表内容にはバラツキが多いが、キラリと光る発表に出会うと誰かに無性に話したくなる。郁とした学的香りのある発表も良いが、独特の切り口の発表も印象に残る。毎月一回子規会に顔を出して、俳諧のゆとりを感じるのは松山人の特権だろうか。以下は平成十一年度の講演の題目である。  和田 茂樹(子規会会長)  子規晩年の決意   
和田 克司(成蹊女子短大教授) 正岡子規と大谷是空との交流について
今村 威 (子規会理事)  樗堂宛二通の手紙  
竹田 美喜(愛媛大学講師) 子規と万葉集〜「竹乃里歌」長歌を考える〜 
井手 康夫 (子規会理事)  歌人西村清臣について  
乾  燕子(子規会理事・俳人)  世紀末に思う子規俳諧の偉業  
宇和 宣    子規・美の創造者〜書について  

  歴史と伝統のある研究会では新入生であり、目下の所は盲目的摂取に努めているが、平成十二年度は批判的摂取も心掛けていきたいものではある。名コンダクター浦屋薫先生が健在な限り松山文化は健在だろうと楽観している。

(三)坊ちゃん会(漱石研究会)      
 一遍会、子規会と較べると、この会の性格が捉え難い。詳しくは設立の経緯をお聞きしていないのだが、それだけに自由に発想してみよう。勿論「坊っちゃん」は夏目漱石の作家としての誕生期の「我輩は猫である」と並ぶ代表作の一つであり詳しい説明が必要ないのだが、故郷松山の「坊っちゃん」に対する思い入れは正直な所うんざりしている。   
 旧制松山中学の漱石(夏目金之助)在職当時の教師を小説に描かれた教師に当てはめてみるなどといったことは朝飯前のことである。列挙すると、狸は住田昇校長、山嵐は渡部政和、赤シャツは西川忠太郎といった具合である。旧制松山中学出身の故安倍能成元文部臣・学習院院長の随筆にも「世に山嵐といわれて居る、渡部政和先生には私も教わり、その教授会議でしゃべる口吻なんかは、実によく写されて居るが、・・・・」と記しており青二才の私などが一言しゃべるものなら袋叩きか村八分になるに違いあるまい。  
 「坊っちゃん」だけで漱石の全貌を語ることは不可能だし、漱石の著作を精読するには根気が続かないだろうし・・・・。第一、「坊っちゃん」のモデルは、夫人が漱石の孫に当たる半藤一利氏が東京帝国大学教授連中であると指摘している。明治三十九年(一九〇六)年四月はに「ホトトギス」に発表したが、翌四〇年(一九〇七)三月帝大と一高に辞表を提出、同月一高、翌四月帝大を辞職した。漱石が「坊っちゃん」の中で扱き下ろしたのは帝大卒の文学士である赤シャツと校長である狸(帝大卒?)だけで、漱石自身のモデルは自己の中に潜む江戸っ子の嫌らしさを野だいこで表現している。漱石も教鞭をとった旧制松山中学の明治期の教師や学生群像を個別に焙りだして漱石の時代の松山気質を長期的なテーマにすることも一案ではないかと思う。  
それはそれとして、坊ちゃん会の集まりは年四回で、漱石〔慶応三年(一八六七)旧暦一月五日〜大正五年(一九一六)二月九日〕の誕生日と命日(平成十一年は八十四回忌)はもっとも重要な会合となっている様だ。 
第一三一回(七月一八日) 道後温泉「椿の湯」会議室  講話 「村上齊月の人育て」 戒能申脩(役員) 
第一三二回(十月二日) 松山東高校視聴覚教室  講話 「松山中学校歌と林古渓」 寺岡信子(済美高校教諭)
講話 「『明暗』の行方」 武内哲志(松山東高校教諭)
第一三三回(十二月九日) 県郷土美術館「愚陀仏庵」