第三十二段 (2003.10.23) 足助威男著「若き日の一遍」に興味ある「窪寺」の記述がありしこと。

 <窪寺様>

ご無沙汰しています。お変わりありませんか。本日偶然に足助威男著「若き日の一遍」(緑地社・昭和50年刊)を古書店で見つけ早速目を通していましたら、下記の興味ある「窪寺」の記述がありました。早速ご連絡致します。ご参考になれば幸いです。

「東鑑」によれば善光寺市中に辻奉行があったのを、文永二年にこれを廃止している。和田石見入道仏阿、原宮内左ヱ門入道西蓮、窪寺左ヱ門入道光阿、諏方部四郎左ヱ門入道宗心。「善光寺名所図会」には「此近きわたりに和田村、北原村、南原村、久保寺村あり。諏方部と云ふ村はなけれど此奉行四人はこのわたりに荘園のありてそこに住せるなるべし」とある。「姓氏家系大辞典」によれば窪寺、久保寺は甲信の豪族で@信濃、水内郡窪寺邑より起こるA甲斐,御嶽衆の一・・・この信州の窪寺という名称は何か無視できないような気がする。

予州においてはどうかというと、窪寺というはっきりした地名は見当らないので、一遍は自分が修行参篭したところをひっくるめて「窪寺」と称したのではないかと思う。
「窪」という字は辞書には「くぼみ」「ふかい」「ひくい」とかいうような意味しかないが、案外当時には深い意味を持った字であったのかも知れない。次の建武の中興の政府の機構の中に、正確不明の「窪所」という役所があるところからもそのように考えられないだろうか。その窪所の責任者には、当時の実力者の高師直と結城親光がなっている。

何となく面白くなってきました。今後とも宜しくお願いします。時折HP一遍会をご覧になって下さい。


<三好様>

拝復、有難う御座います。

窪寺氏は、現在の長野市安茂里周辺=川中島の近所=の窪寺城に拠った豪族です。現在の窪寺観音を安置した御堂が残っている由。どうも、地名から出た姓の様に思えます。

700年頃には、ご指摘の通り善光寺の奉行だった由。その後1400年には、信濃の国人が守護を追い出した大塔合戦で小田切・落合氏と共に活躍した。窪寺城が国人側の前線本部となった由。

その後、1500年以降に小田切氏に追われて一族は離散し、近隣に逃れたものは姓を窪寺から替えました。従って、現在長野市には窪寺姓は一家族だけで、それも他所からの移住者です。逃れた一派は、甲府市近郊に棲みつき武田信玄に仕えました。又 別の一派は、武蔵野に逃れ、現在の中野区新井町新井薬師を創建しました。その為、新井町周辺には窪寺姓が多く見られます。因みに小生は 山梨に逃げた一派の流れです。

取り急ぎ 御礼まで。