第三十一段 (2003.10.1) 平成15年上半期の報告をご覧頂きご返事をたまわりしこと。

□一遍会の会報などいただきました。ありがとうございました。
産経新聞の記事は、別に刊行されないようで、残念です。貴会か、どこかで、そのままか増補してパンフレットに出来たらよいと思いますが、新聞社の許可も要り、難しいでしょうね。
ところで、一遍さんに関わって、小生の関係するニュースがあるのですが、まだ公表する段階でありませんのでこんな言い方でとどめておきます。

□秋晴れの候、厳しかった残暑がおさまり、ようやく秋を感じるようになりました。この度はご丁寧に「一遍会報」をお送り頂き誠に有難うございました。ゆっくり拝読させてもらいます。なお「一遍と神々の出会い〜夢託ということ〜」興味深く読ませていただきました。
お便りで会がますますご発展のご様子で心からお慶び申し上げます。

□拝復 「一遍会報」お送りくださってありがとう存じます。大変勉強になります。とりわけ「一遍と神々の出会い」、貴論にひかれています。「播州法語集」の44「又云 称名の外に見仏を求むべからず 称名即真実の見仏なり」の条で「但し夢に・・・無分別の位にみる故なり。」のところは、フロイト的というよりユングの無意識にかようのかなどと思ったりします。

直接その意味ではありませんがでしたが以前どこかで拙論にこのか所を引用し、あれこれ愚考致しましたので印象は格別でした。西欧流の合理主義をフロイト・ユング流に打ち砕いていく果に突き当たる無意識の宇宙が、「無分別」の無我無心、「はからい」のない世界と交差することもあるのかと想いを誘われれるところです。そこが御説にもありました「親鸞の如くアイデンティティを主張することの」の無用、あるいは親鸞の「信」さえも「はからい」として捨てることが所以なのか、その道が神とも通う世界、無我無心の果てに「夢託」を聴く世界かなどと・・・(以下略)