第二十九段 (2003.08.19) 窪寺さまから窪寺氏の縁起のご連絡がありしこと。
<三好様> 偶々 自分の名前=窪寺=を検索しておりまして、貴SITEを見付けて嬉しくなってMAIL致しました。
1)「窪寺」という名前は 長野県安茂里の旧「窪寺」村から出ております。==>善光寺平の端・川中島の周辺。犀川に沿った 杏の花の名所で、窪寺観音なども御座います。
2)長野善光寺の世話役として、700年後半に 窪寺入道の名前が 出ております。
3)その後 窪寺氏は、近隣の小田切氏に滅ぼされ、窪寺城は落城し 一族の内、 一派は甲府近郊に落ち延びて武田家に仕え、武田家滅亡後は 帰農して 名字帯刀を
許された名主として 甲府近郊に 住まいしています。
4)もう一派は、足利の新田義貞に仕え、これも敗れて当時の 武蔵野に 新井薬師(東京都中野区)を建立しました。現在でも その付近に 窪寺姓が多く見られます。
一遍上人は、善光寺修行の直後に 「窪寺」を建立されて そこに籠もられておられますが、善光寺で 当時の「窪寺氏」と 何かのご縁が有ったのかも知れません。
因みに 小生は、山梨の「窪寺氏」の子孫ですが、今回 縁有って 松山市に本社の在る会社の東京事務所に本年4月から 奉職しています。
<窪寺様> お彼岸にメールを頂戴し、一遍聖とのご縁を感じております。お便り頂き衷心より御礼申し上げます。
窪寺は地勢的に「窪」に所在する寺と理解しておりまして、今回窪寺様のお知らせで正直驚いた次第です。
一遍聖は善光寺で「二河白道図」から阿弥陀信仰の確信を得る転機を掴み窪寺近くので閑室で念仏修行することになりますが、斯様な縁起があったとは・・・・・
目下孫たちの襲来を受けて時間の余裕がありませんので盆明けにHPにも記載させていただき度存じます。とりあえずご返信まで。これを機会に宜しくお願い致します。
<三好様>
早速の ご返事有難う御座いました。私も 窪寺は、「窪」地 或いは 谷間に在る「寺」がそもそもの由来だと思います。
一遍聖の窪寺にしても、「窪野」町 北「谷」に 在ると承っておりますし、地図を見ても、山の北側の谷間に思えます。
善光寺平の窪寺城も 恐らく 犀川の河原から、旭山の山裾へ斜面が 立ち上がる処の 何処かの谷間に在ったのでは?と 思います。