第弐拾六 | 鐘紡経営史について |
(神戸大学大学院「鐘紡研究会」からの質問に答える。2015年12月4日 自宅にて) | |
(1)武藤山治氏の精神、功績、経営の継承について |
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@ 「語り」継ぎ 社長訓示(「年頭挨拶」「入社式」「創立記念日」) 社長談話(マスコミ記事 月刊誌記事 単行本 著作) 社内教育(階層別 業種別 教育機関<技術学校 セールスマンスクール>) 人事部作成テキスト(事業部 事業場での作成分を含む) OFFJT 先輩からの実体験 A語り継がれる内容(テキスト) 「鐘紡講座」(昭和25年頃 実施) 「前進の日にあたりて」 (自社版) 「鐘紡(カネボウ)の社史社風」 「導入教育テキスト」 (自社版) 「労務管理を中心にした社長回章抜粋」(明治37年〜昭和12年) (自社版) 『私の身の上話』(武藤山治 新樹社) (自社版) 『女工哀史』(細井和喜蔵 岩波文庫) 『日本の紡績 鐘紡と系列』(田中宏 日本コンツェルン刊行会1958 ) 『続日本経営理念史』(土屋喬雄 日本経営新聞社 1967) * 『鐘紡百年史』 B継承の方法 イ)昭和33年(1958)入社以前者(昭和33年「不況対策」:採用中止、分社化) 社長は武藤絲治(山治次男)、戦前派が最高幹部(部長以上)を占め、「天下の鐘紡」を通して武藤山治、津田信吾の事績が「語られた」。 「日本最大の戦争被害会社の復興」は、戦争や戦災、引揚の体験があり、鐘紡の再建が新生日本の再建に結びつくと素直に理解された。 ロ) 昭和33年〜昭和43年(1968)頃 「不況対策」を機に経営の危機意識が芽生える。工場中堅幹部対象に「鐘紡技術学校」が設置され「魂ある技術者」育成強化。技校修了生を中核に、鐘紡の歴史、伝統精神が深化。 次いで「カネボウセールスマンスクール」設置、鐘紡(精神)への同化。 ハ) 昭和44年(1969)以降 伊藤淳二の社長就任。武藤絲治が「反面教師」的に「語ら」れたが、一方、武藤山治は「神格化」され、鐘紡の多角化戦略(例 ペンタゴン計画)を背景として、津田信吾が社史で「正当に」位置付けられた。 ニ)平成(1988〜) 経営の体制が繊維から非繊維(化粧品・食品・薬品など)に移り、伊藤淳二(名誉)会長が自ら「語り部」として鐘紡(カネボウ)の歴史とビジョンを語り始める。平成生まれ(1988)は「繊維の鐘紡」は知らず、鐘紡の大陸進出は否定的。 武藤山治の系譜 鐘淵紡績株式会社は明治19年(1886)の「東京綿商社」が嚆矢、明治21年(1889)三井の出資で隅田川畔の「鐘ヶ淵」に紡績工場建設。明治26年(1893)社長 中上川彦次郎、専務 朝吹英二(中上川の妹婿)、明治27年(1894)武藤山治(三井銀行神戸支店副長)鐘紡入社、明治32年(1899)本店支配人。(以下略) | |
(2)津田信吾氏の精神、功績、経営の継承について | |
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アンダーラインの部分は事実誤認 津田信吾は田中宏『日本の紡績業 「鐘紡と系列」』(青蛙社1957)にて社内外で鐘紡コンチェルンが認知され、津田信吾社長が正当に位置づけられた。又「淀川争議」の労働者側のリーダーは西尾末広であり、教科書的にも重要である。誰の記述か知りたい。 @ A について 「武藤山治氏の精神、功績、経営の継承について」に類似するので省略。 特記 昭和24年(1959)9月1日に鐘ヶ淵実業(鐘紡)は鐘ヶ淵紡績と鐘ヶ淵化学に分離独立する。津田信吾の経営は@紡績 A重工業 B化学工業の3本柱であり、戦時下には非繊維化を強力に進め「民間企業第1位」の大企業であった。 A重工業 B化学工業は、鐘淵化学(現カネカ)等に継承されている。津田信吾の鐘紡での精神、功績、継承は、鐘ヶ淵紡績でなく鐘淵化学に「正当に」伝承されている(と考えている。) 分離後の鐘ヶ淵紡績社長は「武藤絲治」、鐘淵化学社長は「中司清」 『鐘紡百年史』でようやく津田信吾氏時代について光をあてた とする記述は、破綻した「ペンタゴン経営」を正当付ける理屈が底流になかったヵ | |
(3)労使間関係観の形成における新入社員時の経験の影響 | |
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@ 大卒幹部は、昭和50年(〜1975)頃までは「幹部職員要員」(エリート)としての位置づけ。「見習生」(みならいせい)と呼称し、原則2年(〜1年)工場勤務です。「見習報告」を人事部長に提出、正式配置(業種別、職種別)。この段階で5級社員(事業場籍)から4級社員(本社籍)に移る。 「見習生」のイメージは「見習士官」。 個人的な体験 勤務は前期が工場実習、後期が事務所実習。原料から紡績・織布・加工を体験し、倉庫の棚卸、経理の月次決算までの工場の流れを把握。 勤務外は17時から20時まで女子工女の高校(または各種学校)の教師役、労働組合オルグ、サークル活動、22時遅番寮生の出迎え、苦情処理。当時の休日は日曜だけだが、、休日は寮生のレクリエーションなどなど。「365日16時間(勤務)」。 テーマの「労使関係観」でなく「日本的家族主義経営」「会社の繁栄は従業員の繁栄 従業員の繁栄は会社の繁栄」「労使運命共同体」「生産協力分配協議」などなど。 昭和30〜40年代には「家族(共同体)」「農村(共同体)」が残存しており、大家族に「参加」し、「認知」され、「仲間」になり、「リーダー」になることが、「見習生」には「予定」され、寄宿舎舎監や組合の役員として「組織の中のキーマン」に育成(される)。 A 不況期に「賃上げ中止 完全雇用」を労使で提唱、全繊同盟から除名、労使ともに完全雇用を守る。 しかし「完全雇用」も、繊維事業(非衣料)の非採算化(構造的慢性的赤字化)により「人員整理」の道を選択する。 個人の思い(願い)と経営判断は異質であり、人事課長、人事部長としては「人員削減」が通常化する。(労務費の固定費から変動費に転換・・・現在は「定着」している) 「ギリギリのヒューマニズム」とは | |
(4)三好様の防府工場長時代のご経験について | |
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防府合繊工場長勤務は、昭和61年(1986)7月25日〜平成元年(1989)7月10日の3年間。カネボウ防府殖産(梶j取締役、カネボウ防府食品(梶j取締役を兼任。防府合繊工場はナイロン、ポリエステル、アクリルの合繊3プラントから構成。その他に産業資材用の合成皮革工場を併設。鐘紡の巨艦事業場。 工場長のミッションは @ 防府工場の母体であったスフ(スパンレイヨン)工場の閉鎖に伴う防府全体での余剰人員吸収 (スローガン「光を西へ 防府はひとつ」) A 雇用確保とあわせ、余剰となる工場用水、自家発電の有効活用で大量水活用のコーヒー工場の設置 B ポリエステルフィルムプラントの増強による工場コストの削減 C 労働組合の理解と協力(昭和38年防府合繊労働組合設立時の執行委員で、支部長・書記長は労働組合の創成期の同志) 缶コーヒー工場は自動化されており雇用確保が主理由ではないが、プラス要因ではあった。 食品経営としては、工場立地の優位性の議論のウエイトが高い。(輸送コスト、原料調達コスト、工場操業コストなど) 結果としては、業種転換による自発的な退社を除き、防府工場内(生産チーム、下請けを含む)で全員雇用を確保。 昭和62年の工場スローガンは「光を西へ 防府はひとつ」で従業員意思を統一。 | |
(5)社員の矜持について | |
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@ 旧帝大(東大・京大)、私学の雄(早慶)の学生の「矜持」は・・・?「名門鐘紡」「大鐘紡」は、マスコミや史観や大衆社会が生み出した 歴史的事実と歴史的真実の認識(ズレ) 昭和40年代 「日本の企業社の知名度 鐘紡(カネボウ) ほぼ100% ダントツ」 こども カネボウハリスガム 女性 カネボウ化粧品 母親 カネボウ毛糸 高齢者 カネボウ薬品(八味地黄丸) ビジネスマン 日経ランキングベスト2~10位 世間的評価(歴史的真実)による自己規制・自己規律 創業期(武藤山治⇒暗殺)中興期(津田信吾⇒追放)の歴史評価(歴史的事実)による自負 A 経営トップの言動(年頭、入社式、創立記念日 ほか) 社内教育(階層別教育 入社教育<ブラザー制度> 社内教育施設<技術学校 SS 教育センター>) 教えること(語ること)が学ぶこと(社内教育の原点) B 昭和期(「鐘紡」)には大きな変化はなし。 平成期(「カネボウ」)は事業業績の低迷・悪化、繊維事業の合理化、非繊維化等により変化。 C 一般社員の「矜恃」(誇り、自負、プライド)と経営への影響は・・・? 経営者の「矜恃」(例 東芝 VW)こそが・・・ 東芝 VW社員の「矜恃」は・・・ 「会社の繁栄は従業員の幸福」「労使運命共同体」「鐘紡モンロー主義」 | |
(6)部門間の人事異動について | |
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(注)手元資料なし。人事回章(社長<部長以上> 人事部長<課長以下>)で検証可能 @ ○部門間定期移動は係長以下(組合員)は原則なし ○管理部門(主に総務、経理課長、部長クラス)は、部門間、部門内を含めて平均3~5年 ○営業部門は、事業部門内異動が原則。 ○ 経営幹部育成人事は別(参考 官庁のキャリア育成策 事業場―事業部―管理部門―他社出向(含む海外)ローテーション) A ○ 事業部内(事業場内)の人事ローテーションは、基本的には人事評価、自己申告、適正調査に基づき、当該事業部が実施 ○ 事業間(合成繊維と天然繊維など)の人事ローテーションは原則なし(参考 商社) ○ 新規事業の立ち上げにあたっては、当然、既存事業部門から新規事業部門Gへの集団的大量人員移動(「配置転換」)あり。 ○ 長所、短所は結果論 異動先事業部の実績反映 本人の意欲・適正 ○ 「同一職場、同一職位」は避けるべきヵ 経験的には3〜5年。経営トップも3期6年が一般的。 | |
(7)繊維に関するアイデンティティについて | |
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(作業中) | |
(8)部門間での社風の違い | |
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鐘紡(カネボウ)としての「社風」は、長期的には同一である。同一でなければ、企業は存続できない。一般に、吸収合併・対等合併の場合は一世代を要するといわれる。(新会社新事業のトップに当該部門の第1期採用の新入社員が就任した時期) 各事業は業界の特異性もあり、営業分野では大きく相違することある。 ○繊維事業の基本的な営業形態は「商社取引」であり、いわゆる「セールス」はない。個別の商取引の取引量、取引額も大きく、「中期的」は営業視野が必要である。 ○化粧品事業の基本的な営業形態は「チェーン店取引」であり、いわゆる「セールス」ではなく「ルート営業」(取引先が決まっている)である。昭和期は、資生堂とカネボウで7〜8割のシェアを占めており、寡占的業界であった。営業マンの過半が「美容部員」という専門的職能を持つ女性社員であり、当然に社風(カラー)は異なる。(女子大カラー) 営業実績が明確に出るので「短期的」な営業が求められる。「中長期」はマーケティング部門が担当する。(参考 コンビニ) ○食品事業の基本的な営業形態は「問屋取引」であり、いわゆる「セールス」はない。食品関連の問屋は「行儀が悪く」、マニュアル的な営業ではない。短期・中期の営業駆け引きが要請される。 ○薬品事業の基本的な営業形態は「公共機関取引」である。病院(大学・公共・個人)が中心であり、専門的・高学歴集団内での営業であるが、商品は限定されているので、医師との人間的な付き合いが重視される。取引は「中・長期的」。法的なミスが許されない。 商品開発は最低10年は必要。厚労省、大学研究機関の連携など。 ○管理、間接部門は、人事交流と定期人事により、一本化されている。営業部門から見ると「占領軍」的な一面もある。 | |
(9)大学からの新卒採用について | |
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「経営学の学会においては、『福澤精神を共有できる幹部を育成するために』慶応から積極的に採用を行ったのではないか」に驚きました。 「福沢精神」なる定義があるのでしょうか。゚「独立自尊」は、最晩年(1900年)に定めた象徴的な言葉ですが・・・ 人事・教育部20年間で「福沢精神」なる言葉を聞いたこともなく、人事・教育の責任者として発言したこともありません。全面的に否定しておきます。 @ 明治中期創業の民間企業で、財閥系を除けば、昭和期まで継続している企業は多くありません。鐘紡の採用は、総務系は慶応義塾、経理系統は神戸高商、紡績は蔵前高等工業と繊維専門学校、研究は帝大系(スカウトを含む)が中心です。 人事課長時、大卒採用の責任者として、事務系は慶応は50%以下とし、早稲田、神戸、同志社、関西、関学その他で枠を設定、最終的には早慶をほぼ同数を目指す。 慶応の場合、大学の推薦枠をもらうのが5〜10倍でしたから、優秀な人材を確保できました。 昭和期の最後の時期では、事務系の指定校は@旧帝大 A早慶明立法 B上智・国際基督教・東京外国 C名城 D関関同立・甲南 E旧高商系(彦根。和歌山など)で、国立大学には門戸を開いていました。採用数は150~200名の大量採用です。 A 1990年代の採用大学が拡大の要因は、鐘紡本体の採用数の減少と各事業の営業人員の採用拡大で、慶応・早稲田はじめ優秀大学の応募者が減少したことがあります。1988年にカネボウ薬品を退任しましたので詳しくは知らない。 B @ を前提に、慶応色を薄めました。(70%→50%→ ) 人事ノウハウとしては、○カネボウ商品の全国展開のための全県で1名確保 ○地元有力高校出身者 C 「知命教室」は(人事部長退任後ですが)「人材開発室」を設け、伊藤淳二名誉会長を頂点にした鐘紡精神復興運動でした。個人的には、この教室は「個人崇拝」化したのではと考えます。人材開発室メンバーは化粧品は主体です。 D 慶応出身者ですので、公平な判断はできません。他大学出身者は被害者意識が当然あったし、「アンチ慶応閥」意識が挑戦意欲を高めたのではないか(官庁の東大閥) | |
(9)続 中途採用と離職について | |
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手持ち資料なし | |
(10)評価の方針、運用について | |
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建前と本音がまったく違うテーマです。管理職について、たとえば人事部門で人事部長のほかに労務部長・教育部長・厚生部長があって序列付け(考課査定)をする場合、実績は別としてこの順序になります。逆にこの順序になるように「適正配置」します。 財務関係で言えば、経理部長、財務部長が第一選抜で、他の部長が第二選抜にならざるを得ません。 「成果主義」は「建前」で、「絶対評価」や「加算主義」ではない。「相対評価」にならざるを得ません。給与総額(グロス)が労使交渉(例 春闘)で決定されますから、成果が10%アップしても、グロスが2%アップなら、2%しかアップしません。 鐘紡では、事業決算に応じて、事業部別のグロスを決定し、次段階で個人の査定額が決まります。たとえば5事業部(A、B、C、D、E事業部)があり、この順序での業績であれば、標準額はC事業部、A事業部20%アップ、B事業部10%アップで、D事業部は―10%、E事業部は―20%となる。 人事管理的には、E事業部の5段階のA格付け者が標準(C)の5段階のC格付け相当になるという仕組みです。 管理部門の業績評価は、標準(C)でセットします。 従って事業部内の評価は、基本的には、事業部内に一任します。ただし管理部門(間接部門)は、人事部で再度職位別に査定します。 C伊藤淳二氏の抜擢 口頭 経営トップの交代は、社長任期制が制度化されていないと「闇」が介在します。「禅譲」という奇麗事では済ませられません。(往々に「相続」は「争族」化します。 E 鐘紡の人事制度 「人の三井、組織の三菱」といわれますが、もじって云えば「人事の鐘紡 組織の東洋紡」ヵ。 「労使運命共同体」で「事前協議分配協議」で鐘紡の労使関係は極めて強固でした。この強固な信頼関係が、「長所」であり「短所」でもある。 アンチテーゼがでない。総論賛成各論反対 | |
(11)トップ層への登用の傾向 | |
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トップ層(特に役員候補)への登用は、当時は「代表取締役(社長)の専権事項」ですので、人事部長としての回答は差し控えます。総理による大臣の任命も個々には疑問に感じますが、鐘紡の役員候補も同様です。 「才ある者には地位を、功ある者には禄を」という人事の鉄則がありますように、トップの恣意的な人選も致し方ないかと考えます。 前文にあります「役員などトップ層への登用は人事、労務、企画ご経験の方が比較的多い傾向」ですが、顕著になったのは昭和42年の伊藤淳二社長以降です。 戦後の先鋭化した労働組合への対応で優秀な人材が会社側にも組合側にも輩出し、その後各部門に分散し、20〜30年後に経営者として表舞台に出てきたということでしょうか。否定はしませんが「鐘紡伝説のひとつ」かもしれません。 【歴代社長】 武藤山治(1894年 - 1930年) 津田信吾(1930年 - 1945年) 倉知四郎(1945年 - 1947年) 武藤絲治(1947年 - 1968年) 伊藤淳二(1968年 - 1984年) 工場 → 組合 → 企画・人事・労務 岡本 進(1984年 - 1989年) 工場 → 組合 → 労務 → 工場長 → 人事 石澤一朝(1989年 - 1992年) <技術系> 永田正夫(1992年 - 1994年) 工場 → 秘書 → 工場長 → 総務 石原聰一(1994年 - 1998年) 工場 → 企画 → 工場長 → 化粧品 →人事 帆足 隆(1998年 - 2004年) <カネボウ化粧品> 中嶋章義(2004年 - 解散まで) <カネボウ化粧品> | |