エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第弐拾五章 インド7つの世界遺産と聖なるガンジス河7日間
4月24日(日)
JR高速バス(大街道7:19発 〜三宮11:00着)で定刻より早く三宮に着いたので、11:00発のリムジン(三宮〜関空)で関西空港に向かう。添乗員の小森さんから説明を受け、渡航手続き終了後は半時ほど「ラウンジ比叡」で休憩する。

関西国際空港より13:15発AI―315機で香港経由デリーに向かう。香港では機内で70分待機しデリー空港には21:10到着する。機内待機中に、搭乗券と手荷物の確認があり時差は3時間30分あり、11時間半の長旅となった。機中ではゲームか映画を楽しみにしていたが、日本語バージョンがなく、ミュージックを楽しむのみ。

現地のガイドは日本語が堪能なインド人(ニックネームは「ディックさん)で、全コースに同行する。日本円(1万円)をインドルピーに交換する。1ルピーが約2円である。23:00頃、空港近くのAIRPORT RESIDENCY(デリー)チェックイン。設備は都市ホテル並で安心する。疲れているのでシャワーも浴びずに就寝する。
4月25日(月)
ホテルを8:00に出発して国内線にてベナレス(バラーナーシー)。着後、市内レストランにて昼食バイキング。サルナートに向かう。インド旅行がスタートする。
サーナルートは仏陀の初転法輪の地<ブッダが初めて説法した場所>である。ベナレスの北東約10キロにある四大佛跡の一つである。ダメーク・ストゥーバ・モニュメントは木々の緑と芝生の中に遺跡が点在している。6世紀に建造されたダメーク・ストゥーバやアショカ王が建てた円柱の基部も残っている。唐の時代、中国から三蔵法師(玄奘)が仏典を求めてインドを訪れたときにはこの地でも収集活動を続けたであろう。
次いで考古学博物館を訪ねる。@アショーカ王柱頭の四頭のライオン像、柔和な眼差しの初転法輪像などこの地の出土品が陳列されている。
(注)四大佛跡とは@生誕の地、ルンビニー A大悟の地、ブッダ・ガヤー B初転法輪の地、サールナート C入滅の地、クシーナガル をいう。


サナルートへの道(村) サナルートへの道(町) 昼食レストラン

初転法輪の地サルナート アショカ王石柱(ダメークストーバ) ダメークストーバの幾何学模様

サルナート観光後バラーナシー(ベナレス)へ戻り、HINDUSTAN INTERNATIONAのL(バラーナシー)チェックイン。夕方、ホテルからのバスを町中で名物「リクシャー」(日本のかつての「輪タク」)に乗り換え、神秘的な祈りを捧げる聖なる儀式「アルティ」を見学する。気温も40度近くで高いのだが、それなりの興奮と大群衆と敬虔なヒンズー教徒の祈りに正直圧倒されてしまった。沐浴場前の広場に7つの祭壇が設けられ、青年僧がヒンズー教のお祈りを続ける。踊りたくなるようなリズムである。ガイドの的確な案内で建屋の屋上から見物する。ホテルまでリクシャーで運んでもらう。100ルピーのチップを要求されたが、無視して20ルピーをポケットにねじ込んでバイバイした。


バラーナシーの中心街 聖なる儀式「アルティ」 ガンジス川に灯が映える

20:00過ぎに夕食。
4月26日(火)
04:00のモーニングコールで飛び起き、04:45専用車でガンジス川の沐浴場に急ぐ。沐浴場(ガート)は西岸に約20ある。川を隔てた東岸には建物も人影もなく「聖なる場」となっているらしい。南の一角に「クミコの家」と書かれた建物が見える。長男が学生時代に数日此処で過ごしている。
専用ボートに乗って日の出と母なる大河、ガンジス河の沐浴を見学する。残念ながら日の出は雲のため拝めず。船上でガンジス川の水を掌で掬って、額や首筋や頭部に注ぐ。ガイドいわくスピリチュアル沐浴もまた結構とのことである。北のはずれに火葬場が見え、煙がたっている。
ヒンズーの教えである人生の4住期とは@学生期 A家住期 B林住期 C遊行期 を指すが、男子が生まれ、やがて男子の孫が生まれれば人生の終末に向かう。各地を遍歴し、バラーナーシーで死を待つことは最高の幸福であるらしい。沐浴場(ガート)の階段に終日坐っている老人は、貧者や非可触民ではなく、かつては大学の哲学教授であったかもしれないし、老婆はスクリーンを沸かせた女優であったかもしれない。「色」であることは「空」であるとは「般若心経」の教えだが、ヒンズー教でも輪廻を超越するには、すべてを捨てきることが求められるのであろうか。


ガンジス川の沐浴 ガンジス川の沐浴 沐浴への道

ホテルへ戻り朝食をとり、鉄道駅へ向かい、鉄道にてムガール王朝時代の首都アグラに向う。乗車時間は:約10時間である。
座席は窓際の2段ベッドである。車内にてホテル調当弁当だがパンとジャムとドリンクでは喉を通らない。ベッドにもぐりこんで仮眠をとる。
荷物の積み込みは頭に載せて運ぶ。トランクの最大重量を30キロとすると最大60キロの荷物を運ぶことになる。チャーイ(インド紅茶)は、牛乳と紅茶と砂糖のほかにショウガや香料(シナモン)も加えて独特の風味とおいしさを味わう。飲み干すごとに素焼きの茶碗を捨てるらしい。鎌倉時代に河野通信が陣中で杯を干す毎に破棄したのを鎌倉武将が奇異に感じたという記録を思い出した。


チャーイ(湯飲みは一回で捨てる) トランクを頭に載せて・・オタタ! 列車の仲間

アグラ到着後、20:30分頃 MANSINGH PALACE(アグラ)に到着し、ホテルでの夕食となる。 
4月27日(水)
8:00ホテル出発予定を30分早めて、今回のインド旅行のメインでもある世界遺産タージ・マハルに直行する。テレビや写真集で何度も見てはいるが、その場に立つとムガール王朝の文化の粋が迫ってくる。実に壮観である。
「タージ・マハル」は直訳すれば「マハルの宮殿」であるが、宮殿ではなく「マハル王妃の墓所」である。
1631年、シャー・ジャハン皇帝が熱愛した妃アルジュマンド・バースー・ベーガム(ムムターズ・マハル)の死を悼んで建造したという。伝承では、ヤムナー河の対岸に黒大理石で自分の墓(宮殿)を造りは橋梁で結ぶ予定だったという。
国力を疲弊させる大事業に息子が叛乱し、皇帝が造ったアーグラー城に幽閉され1666年74歳で逝去。


タージ・マハル相思相愛でありたい なんたってタージ・マハル タージ・マハルを釣る

ついで世界遺産アーグラー城塞(赤砂岩の壮大な城 世界遺産)に向かう。最愛のマハルの墓を建造した夫である王は息子に幽閉され、アーグラー城の一隅からタージマハルを眺め生涯を終えたという。

ウラーアーグラー城 柱が一本? 王の気持ちになって・・・

大理石店に立ち寄る。インド商人の執拗な売り込みに一喝したくなった。昼食はターリー料理(カレー料理)を出されたが、さすがに右手の指で器用に食べるとまではいかなかった。

その後、アーグラー郊外にある幻想的な廃墟の町 世界遺産ファティープル・シークリーを見学する。アーグラーから南西40キロ離れた場所にアクバル帝の城跡がある。アクバル帝でこの地に住む聖者(シェーク・サリーム・チンュティー)の予言で男子(後の皇帝ジャハーンギール)を得、都をこの地に移転したという。壮大な廻廊が四方を囲み、円柱の玉座や預言者の廟や宮殿が点在している。宗教の融和を図るため、第一夫人はヒンズー教徒、第二夫人はキリスト教徒、第三夫人はイスラーム教徒であったという。

ファティープル・シークリー ファティープル・シークリー ファティープル・シークリー

見学後、専用車にて約5時間]かけてジャイプールへ向かう。HOTEL MANSINGH TOWERS(ジャイプール)でチェックインしてホテル内での夕食となる。
4月28日(木)
ホテルを08:00に出立してジャイプールの市内観光に出かける。
シティ・パレスには今もマハーラージャは暮らしているが、1726年の建造である。シティ・ホールの入り口を入ると博物館があり、家の豪華なテキスタイルや楽器類、膨大な量の武器が展示されている。
更に中央部の貴賓閲覧の間の入り口には二つの巨大な銀の瓶が安置されている。1902年、宗主国であるイギリスのエドワード7世の戴冠式に列席したマハーラージャは敬虔なヒンズー教徒であったので、旅行中もガンジス川の水での沐浴を欠かさなかったという。この瓶は世界盛大の銀製の瓶としてギネスブックに登録されている由。
おたちが
隣接して世界遺産 天文台がある。280年前に天文好きのマハーラージャが自ら作った屋外天文台であるが、「サムラート・ヤントラ」と呼ばれる高さ27メートルの観測機に圧倒される。機器は15台あり、日時計は2秒単位で測定できるというから驚きである。
「風の宮殿」なる建物はシティ・パレスの東側の道路に沿って建っているが、ガイドの説明では、王宮に仕える官女たちは市中への外出がままならないのでこの建物から眺めたという。いかにも風が通り抜けて涼しいそうに見受けられる建物ではある。
アンベール城は市の北側の小高い丘の中腹に建てられ、ジャイプール遷都まで藩王国の首都だった由。強大なムガール帝国にも屈しなかったラージプート族の居城であり、ツアーはジープで上がったが、象に乗っての入城こそが相応しい観光なのだろう。外観はがつがつしているが、内部は見事な美的空間が広がる。太陽の門・獅子の門・謁見の間・象頭のネーシア門・浴場・食膳の間・ハーレム・象舎・寺院・歓喜の間などなどの部屋を廻りながら、誇り高い現地人のプライドを支える城なのだろうなと思う。町中では、アラビヤナイトの世界とは違うが、笛を吹いてコブラを扱う男の姿を見つける。
デリーに向かう途中に湖上の城があった。ガイドいわく「東洋のベニス」とか。タージ・レイクパレスはピチョーラ湖に浮かぶインドの最高級ホテルで、1754年にジャガート・シン2世によって建てられた夏の離宮を改装しホテルとして営業を始めている。客室からは、シティパレスやアラヴァリ山脈、隣の島に建つ宮殿、ジャグマンディール・パレスなどを眺めることができる。

シティパレス(現マハラジャの住居) 天文台(世界遺産) 天文台(世界遺産)  日時計

天文台(世界遺産) 王宮 街角で 街角で

アンベール城 アンベール城 アンベール城  増の一群

アンベール城 アンベール城 湖の城(タージ・レイクパレス)

シャイプールからバスで約5時間走って、20:00頃ASHOK COUNTRY RESORT(デリー)に着く。インドツアーの最終宿泊ホテルでもあり、ホテルでタンドリ
4月29日(金)

ホテルにて朝食後、08:30デリー市内観光に出掛ける。
ラクシュミナラヤン寺院はニューデリーの繁華街コンノート広場地近くにあるヒンズ
ー教の寺院である。手荷物をすべて預け靴下も脱いで素足でじゅうたんの廊下を歩む。
ラージガードは、インド建国の父と云われるマハトマ・ガンジーが荼毘にふされた場所に設置された黒大理石の記念碑で、公園になっている。暗殺されたのは1948年1月30日午後5時17分、中学生だったからこの暗殺のニュースのショックは良く覚えている。多くの観光客や現地人がお参りしている。
インド門は、高さ42メートルあり、第一次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑である。イギリスからの独立を条件に参戦したが実現しなかった。インド人にとっては屈辱の門か。戦死者1万3500人の名前が門柱に刻まれている。ぐるりと一周した。
世界遺産レッドフォードはオールドデリーの象徴的な建物でムガール帝国時代の遺物である。セポイの乱で華麗な宮殿は破壊され、残った一部がはく博物館として使用されている由。毎年8月15日の独立記念日には首相も臨席し-
てこの場所で式典が開催されているらしい。
世界遺産クトゥブ・ミナールはニューデリーの南15キロの地にあり、高さ72メートルの5層の塔が目立つ。下3層は赤砂岩で上2層は大理石と砂赤岩で、三代の王によって建てられたヒンズー教徒に対する勝利記念塔とか。その隣りにモスクがある。ということは、ここはイスラム教徒の殿堂か。
世界遺産フマユーン廟は、ムガール帝国第2代肯定フマユーンの廟を1565年に妃が建造した。ツアー客の一人が「デーリー・タージ・マハル」と発言したが至言である。よく似ている。一族の墓が左右の部屋に数十安置されている。

観光の最後にオールドデリーの市場を歩いたが、裏通りは不可蝕民らしき乞食も多く写真を撮ることに躊躇した。表通りに出れば、よく見かける市場に変貌するのだが・・・
昼食は日本料理、夕食は中華料理でということで体調を整え、空港に向かう。23:00/デリーより空路、帰国の途につく。。(香港経

ラクシュミナラヤン寺院(ヒンズー) ラクシュミナラヤン寺院 ラージガード(ガンジー墓)

インド門 クトゥブ・ミナール(世界遺産) クトゥブ・ミナール(世界遺産)

世界遺産フマユーン廟 ムガール帝国第2代皇帝の霊廟
「デリー・マハル」は傑作駄洒落 裏通りは写真に写せない悲惨さだ
4月30日(土)
11:50関西国際空港到着。今回はJCBトラベルのサービスでトランクは自宅に宅急便で送ってもらう。リムジンバスでで神戸三宮に出る。家人は神戸牛肉や豚饅などを「そごう」で調達、14:20発のJRバスで松山に向かう。帰国でほっとしたのか体調を崩し、車中では横になって安静する。インド旅行につきものの下痢は大したこともなく翌々日には元気に、神戸からの長男ファミリーの帰省を迎えいれる。
次回は、次男が学生時代に出掛けたアルゼンチンかモロッコを考えている。めでたし、めでたしであった。