エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第弐拾四章  鐘紡への尋ね人  平成22年4月27日午後15時45分着信のメールからこのドラマは始まった
平成22年4月27日午後15時45分着信の一通のメールからこのドラマは始まった。
現在も継続中である。なんとしても、昭和17年に奉天のヤマトホテルで逝去された鐘紡OBの黒田留造氏の会社でのご活躍ぶり、お人柄をお孫さんにお伝えしたい。ご記憶のある方は、ぜひ「鐘紡関所番」ならぬ「道後関所番」にお知らせいただきたい。
(注)故人の方は実名にさせていただきましたが、現存の方のお名前はすべて抹消しております。ご了承ください。
第一信【2010・4・27】
はじめまして。
突然のメールで驚かせたことと非礼をお詫び申し上げます。日頃から気になることがあって、インターネット上を検索しておりましたら、あなた様のホームページに行き当たりまして、ご迷惑を顧みず、少し教えて頂きたいと、お便りしている次第です。

実は私の母方の祖父が、昔鐘紡に勤めておりまして、亡くなったのは、奉天のやまとホテル、昭和17年のことなのです。単身赴任だったので、ホテルで暮らしていたそうです。朝亡くなっているのが発見されました。後に鐘紡の社長になった方の伊藤さん?だかまだ若かりし日に鹿児島で指導のようなこともしたと聞いています。我が家には武藤山治と言う方が書いた?兎の日本画の衝立があり長く大切にしていました。兵庫県の高砂、京都、奉天等々が勤務地で、母の話で工場の建設に携わっていたのではないかと思っています。話してくれた母も今は亡く、もうだれもこの祖父については知りません。

私はこの祖父の亡くなった五年後に生まれたので、一度も会ったこともないのです。父はこのおじいさんの紹介で北京の大倉土木に就職し、戦争も生き残って、サラリーマン生活を全うしました。人事部長もやっていたので、なんだかお親しい気がしています。失礼をお許し下さい。母の兄に当る一家はおじいさんのつてか、南満州鉄道に勤めていて、戦後命からがら引き揚げてきました。その後兄妹の行き来も無く、おじいさんの詳しい人柄とか、仕事の内容とか知らぬまま日を過ごしてしまいました。かつて一度神戸で建設業を営む父のいとこが、おじいさんのことが鐘紡の社史に出ていたよと言ったことがあり、集合写真なのか、記事の一部なのか読んでみたいものだと、心に掛かっていました。名前は黒田留造といいます。昭和17年に奉天のやまとホテルで客死し鄭重に日本へ移送されたと聞きました。

一度国会図書館にでも行って鐘紡の社史にあたって見たいと念願しているところです。
何か調べるヒントがあったらどうぞ教えて下さい。ちなみに私は62歳で俳句結社『駒草』で校正をしています。伊予松山と言えば俳句の聖地、何かお親しいものを感じ、厚かましくメールいたしました。お許し下さい。 
第一信(返信)【2010・4・27】
驚き且つ感動しつつメールを拝読いたしました。

故・黒田留造様は「大鐘紡時代」の大先輩ですね。鹿児島で指導された方は、時代から判断して「武藤山治」の子息で戦後社長になった「武藤絲治」のことでしょう。絲治は戦前・戦中には鹿児島の鐘紡関連企業に居りました。「伊藤淳二」は昭和17年当時は慶応の学生でした。

高砂、京都、奉天等々は、いずれも鐘紡の中での有力な工場でしたから、建築の技術者として大活躍された大先輩と存じますが、戦前のことは残念ながら資料で確認するしかありませんので、ご期待の副えるかどうか分かりかねます。

「昭和17年に奉天のやまとホテルで客死」されたということですので、記録として残っている可能性もあろうかと思います。OB会で90歳くらいの長老に尋ねてみたいと思っています。もし旧制の専門学校をご卒業であればお知らせ下さい。

『鐘紡百年史』は東京都中央図書館が所蔵しておりました。ウエッブの記録を添付しておきます。取り急ぎ、メールを拝見しましたのでご連絡いたします。ご参考になる情報を得ましたらご連絡申し上げます。

俳句結社『駒草』の俳人であられる由、ご発展をお祈りしております。当地は「坂の上の雲」ブームで多くの方が子規記念博物館を訪問されます。松山子規会の世話人の一人としてささやかなボランティアを致しております。
第二信【2010・4・27】
見ず知らずの者からの突然のメールに対して、大変暖かいご返信を頂き、ありがたく胸が一杯です。5月の16日に身内だけの父と母を偲ぶ会を催す予定で、その時に集まる子孫達に今日のことを話してあげたいと思います。

祖父は鐘紡に入る前に福島県庁庁舎を建てた建設の一員だったと聞いています。その時は何に所属していたかわかりませんが、課長の次に偉い人だったとそのおじいさんの愛娘だった母が言っていました。お役人だったのかなと思った記憶がわずかにあります。
ただし書いた物とかは見た事はありません。福島県庁関連から調べたこともあるのですが、記録に行き当たらず今日に至っています。母は福島で生まれたので、陸奥の陸(みち)と名付けられ、母の妹は京都の時生まれたので、京といいます。おじいさんは一字名が好きだったからと、私は桂にしたと言っていました。私とおじいさんの繋がりは名前のエピソードぐらいなのです。

墨絵のような兎が寝そべっている1メーター四方ほどの衝立の絵は武藤山治さんがお礼に下さったと聞いています。もしかしたら鹿児島での帝王学養成の端くれにでも居て、感謝して下さったのかもしれませんね。多分今でも姪が住む実家にあると思います。歴史上の人というより何か親しく『武藤山治さん』と両親が話していたのが、子供心に残っています。

おじいさんの出身学校は神戸のケンコウ(どんな字か聞き漏らしました)と母から聞いたような気がします。それはもしかしたら母の兄の満鉄の黒田章雄と混同しているのかもしれません。もしかしたら親子共々同じ学校だったのか、聞いた当時が私が子供過ぎて定かではありません。父はやはり高砂出身で母の弟の家庭教師をしていました。学校は姫路商業から神戸高商でした。おじいさんは建築の技術者だったと思いますので、工学系の学問を持ったのだと思いますが、生き証人が皆亡くなってしまっているので、聞き様がありません。残念です。

荼毘に付した遺骨が加古川の駅に戻ってきた時は社葬のような扱いだったとは母が繰り返し語っていました。愛して止まない父親のことですから、少々大げさに言ったのかもしれません。今日は天上のご先祖様達が虫干しのようにいきなり話題の中心になって、きっと戸惑い驚いて居ることと思います。お忙しい中さっそく返信下さり本当に有り難うございました。

囀りや天上の扉の開きしやう
茄子の馬父へ母へと脚作る

こんな句を作って遊んでいます。
取り急ぎ御礼まで。有り難うございました。     
第二信(返信)【2010・4・27】
お近くの埼玉大学図書館にも「鐘紡百年史」がありました。一般市民にも開放されていますし、図書館のガイドによれば「貸し出し可能」となっています。 お知らせまで。  
第三信【2010・4・27】
さっそく近くの図書館を教えて下さりありがとうございます。
さっき東京のは広尾にあるんだなと確認していたところです。埼玉大学は車で20分ぐらいで行けますので、どうやったら借りられるのか、閲覧できるのか聞いてから行って来たいと思います。念願の鐘紡社史にこんなに早くたどり着けるかもしれないなんて、夢のようです。どんな発見があったか、いずれお知らせします。大切なお時間を頂きまして有り難うございました。
第四信【2010・5・13】
昨日やっと一日空いたので、埼玉大学の図書館に伺い、『鐘紡百年史』という本を手に取る事が出来ました。ずっと見たかった本だったので感動しました。
一気に斜め読みでしたが、(黒田留造)をキーワードに読み進みましたが、ついにその名前は発見することが出来ませんでした。ただ母から聞いていた武藤山治という方がヒューマニズムの精神を持って会社経営をし、社員は家族という意識で国と社業の発展に努められ、最期は鎌倉で非業の死を迎えられたことも改めて読ませていただきました。
おじいさんが住んだ京都、高砂、鹿児島などに鐘紡の工場や養蚕の場があったこと、国策による中国進出時、父が祖父の口利で入社したと聞いている大倉土木との仕事上の関係や、鹿児島でのお守役と符合するような、絲治氏の入社すぐの鹿児島勤務等々、ピタリと名前は出てきませんでしたが、母のほら話でもなかったのかなと今は思っています。こうして思いがけなくご先祖様を辿る旅が出来ましたのも、見ず知らずの者へご親切にしてご教示くださった三好様のお蔭と深く感謝しています。
この日曜日には身内だけの父母の偲ぶ会をするのですが、少しそのことを纏めた栞を配ろうと作ってみました。その一部を添付いたします。
本当に有り難うございました。取り急ぎ顛末をご報告いたします。
第四信(返信)【2010・5・15】
ご祖父母様、ご父母さまへの敬愛のこもった清々しいご草稿を、皆様よりも早く拝読させていただきました。有難うございました。皆様方もお慶びになられることでしょう。

高砂の地にありました紡績工場は団地になりましたが、化学工場は「カネカ(旧鐘淵化学)高砂事業場」として現存しておりますし、武藤山治が愛した須磨の別邸も一部改築しておりますが現存しております。下記アドレスです。【http://kobe-mari.maxs.jp/kobe/kitsunezuka.htm】

偶然ですが、今週末に大連・旅順・金州を観光します。その折、旧ヤマトホテル(現・人民解放軍招待所)にも立ち寄ります。今回のお便りで、このホテルも身近に感じられることでしょう。OBとの情報交換の中で「黒田留造」氏のことを耳にしましたときにはご一報申し上げます。

当地は「坂の上の雲」ブームで「明治」を求めて多くの旅人が立ち寄りますし、歩き遍路も多くなりました。古きを温ね新しきを知る機会を得ましたことを感謝しています。貴「三輪有三・陸を偲ぶ会」のご盛会をお祈りしますとともに、皆々様のご多幸を祈念申し上げます。
第五信【2010・5・15】
浅学の私に暖かいお言葉を有り難うございました。鐘紡は今形を変えて存続していることをやや言い足りなかったと悔いておりましたところです。化学会社だけでなく山荘も残っている由、関西には時折行きますので、そんな折には外からでも拝見したいなと思いました。
当時の日本の産業の基盤をになっていたとは今カタカナのカネボウしか知らない若い人にはぴんと来ないかも知れませんね。偲ぶ会ではそこのところをしっかりアピールしてきたいと思っております。誤解を与えるような文脈で大変申し訳ありませんでした。

大連にいらっしゃるとか。
私も母校のマンドリン倶楽部OGが参加しました平和の青少年音楽祭参加で5年ほど前大連・旅順に行きまして、203高地、ステッセル将軍と乃木将軍の会談の場の棗の木の農家にも足を踏み入れました。懐かしいです。反日的説明があったのがちょっと残念でしたが・・・。
ちなみに母校マンドリン倶楽部は慶応大学マンドリン倶楽部のご指導を戴いていました。服部正氏が教えに来てくださったことが一回ありました。40年も前のことです。

祖父・黒田留造のことを折があったら聞いてくださる由、誠に有り難うございます。偲ぶ会をきっかけに、先祖を思う機会に恵まれ、又三好様にご縁を戴きましたことを厚くお礼申し上げます。こんなに早く社史に辿り着けたのは、三好様のお蔭にほかなりません。社史を拝見し、今のご時世は社員を会社の一つの歯車としか思っていないようなのに、昔は思った以上に暖かかったのだなと随所の記述で感動しました。ただ時間が無く斜め読みだったので、今度はちゃんと貸してもらおうと思っています。社史に活写された激動の時代を精一杯生き抜いた方々に今感謝の頭を垂れています。

どうぞ楽しい中国の旅をなさって下さい。益々のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。有り難うございました。
第六信【2010・7・14】
お元気でお過ごしですか。いつぞやは、祖父黒田留造の消息の件で大変お世話になりました。五月の偲ぶ会から早2ヶ月が経ったのだと、改めて月日の流れの速さに驚く今日この頃です。
中国の旅も無事終えられ帰国なさった由、なつかしい地名に、私もかつて音楽仲間と行った大連近郊を思い出しております。又お忙しい中、祖父に纏わる顛末を鐘紡のOBの方達に知らせて下さり、調べて下さっているホームページを拝見し、感激いたしております。もう遥か昔の大陸でのほんの数年のことですし、ご存命の方も少なく、またご存命でもご高齢であろうと推察しています。お手を煩わせましたこと、感謝とともにお詫び申し上げます。
先日の偲ぶ会でのスナップを恥ずかしいですがお送りします。若い人達が大勢揃ったので、祖父についてのちいさな栞を作りました。お知らせしたものに、父が好きだった山登りの歌『雪山讃歌』を附記しました。義兄の「夏に入る孫丸々と機嫌よく  亨」いうその週の句会で駒草の主宰の天に選ばれた句も加えました。子々孫々が仲良く機嫌よくやっていってほしいというみんなの思いが託されたいい偲ぶ会になったのではと、姉と自画自賛しています。
若い連中がどのくらい読んでくれたか判りませんが、きっと誰か一人か二人ぐらいはご先祖様の若かりし日に思いを馳せてくれるのではと期待しつつ渡しました。写真の左、薄い冊子がそれで、中央の黄色い本は父が亡くなった後に作った『大脱走のマーチ』という記念誌です。その日、子供が泣いたり笑ったりの賑やかな偲ぶ会の臨場感がお伝え出来ればと、取り散らかった店のままですが、お送りします。
その後確か母が言っていた福島県庁云々については、インターネットをあれこれ検索してみましたら、郷土史家のホームページに、福島県庁の葉書写真がアップされ、建設が明治40年ということまで判り、モノクロでセピア色した写真でしたが、往時の威容は充分伝わってくるものでした。母の話は『お母さんが(黒田留造の妻)言うには竣工式にお父さんは立派な紋付を着てえらいさんのなかで、芸者さんらしき人にお酌をしてもらいながらさんざめいていたけれど、自分は幼い二人の子をおんぶし、手を引きながら、宴会のまかないの手伝いをしていた・・・・』というもので、時代らしいなと思うとともに母が明治44年福島生まれで、上に兄と姉が居た事実と符合するななどと、あれこれ推測し、又改めてご先祖様達に、またその時代へ思いを馳せています。こうやってとりとめがないのですが、祖父や祖母へ思いを寄せることで、天上の方達も日頃のご無沙汰を許してくれるのではと思っています。
去年は結社の吟行でみちのくの遊行柳へ行きました。
「ありがたき柳と聞きて草虱   桂」
なんて句を作ったりしました。(お笑い下さい)
その時は何も思わなかったのですが、あの話に出てくる方は、三好様が綴っていらっしゃる一遍上人さんだったのですね。又違った思いで、一遍上人さんについてもっと知りたいなと思いました。いろんなことで横糸が縦糸と合わさったようで、心が豊かになりました。いろいろときっかけを与えていただき有り難うございます。
これからもまたふらりとホームページを訪問させて頂きたいと思っております。松山では豪雨で、記念すべき愚陀佛庵が倒壊してしまったとか。残念でしたね。一度訪問したかったところです。大切な文化遺産を無くしお見舞い申し上げます。早い再建をお祈りいたしております。梅雨明けにはまだまだ豪雨を何度も体験しなければならないことでしょう。
どうぞお健やかにお過ごしくださいませ。取り急ぎ御礼まで。
中国(満州)旅行メモ 【2010・5・21〜2010・5・25】
5月21日(金
6時20分始発の大阪・神戸行きの「松山エキスプレス」で神戸三宮で下車、新快速で大阪梅田に11時に到着する。「ホテルグランヴィア大阪」で開催の鐘友会関西支部例会&長寿会に初参加。といっても鐘友会例会は17年ぶりだから、当時は現役であった。参加者は会員126名とクラシエ鰍フ幹部10名で大盛会であった。上司であった岡本進カネボウ元会長や、教育課長当時に新入社員として受け入れた中嶋章義・現クラシエ会長はじめ先輩・同輩・後輩との語らいに食事をする時間もなかった。
散会後、大阪駅前第2ビルで開催中の「鐘友美術関西展」を鑑賞する。絵画・写真・書・彫刻などなど、現役時代に考えられない人物の作品を眺めるのは楽しかった。どっぷりと鐘紡の思い出に浸った半日であった。梅田新道のメンバーズホテルに一泊する。
5月22日(土)
大阪駅からリムジンで関西空港に向かう。メンバーズルームで休憩し、新聞を一覧する。昼過ぎに手続きを済ませる。14時30分中国南西航空CZ638は離陸し、15時30分大連周水子国際空港に着く。北京料理を賞味し、19時ころグランド・メルキュール・ホテル(中山区中南路205)に着く。ホテルは客室もまずまずの雰囲気と備品で、ツアー料金3泊4日3万5千円を勘案すれば満足、満足である。ヨーロッパの安ホテルと違い、バスの設備は日本のシティホテル並みで、NHKはリアルタイムで放映されている。ツアーは20名、現地ガイドが30歳代の美人の「満州娘」で、共働きで子供は義母が面倒をみている由。
夜のツアーはTVタワー、夜市、星美広場、人民広場を巡る。週末でもあり人出は多く、日本に比べればうらやましい限りである。
5月23日(日)
スケジュールのみ記す。ホテル出発(08:30頃)
○関東民生署
○旅順港
◎旅順駅
○旧日本橋
○旧関東総督府
◎旅順博物館
○旧関東軍司令部
○旧粛親王府
○旅順ヤマトホテル
◎大谷光瑞旧居
◎水師営会見所
昼食は会見所傍の食堂の「田舎料理」
◎203高地
大連への帰途小雨になったので中国茶の試飲で寛ぐ。夕食はビビンバがメインの朝鮮料理。
5月24日(月)
スケジュールのみ記す。 ホテル出発(08:30頃)
◎大連港見学後、金州に向かう。
◎響水寺
◎金州副都統衛門<正岡子規句碑あり>
郷土料理(餃子シリーズ)に舌鼓をうつ。昼食後、大達市内に戻り市内観光。
◎中山広場<大連ヤマトホテルほか>
○旧満鉄本社ビル
◎旧・日本人街で往時を偲び
◎老虎灘公園を散策。
ツアーの「必要悪」である総合民芸品店とラテックス寝具専門店に立ち寄る。夕食は「天天漁港」で海鮮料理を頂くが、日本人好みの薄味で美味であった。
5月25日(火)
大連発10時30分発のCZ637機で関西空港に13時30分ジャストに到着する。拍手ものである。梅田阪神百貨店で「551の饅頭」と「いか焼き」を買い、16時20分発の松山エキスプレス(高速バス)で夜10時帰宅する。
満州(大連・旅順・金州)を訪ねる(2010.5.22〜25)
阪急交通社企画の「大連・旅順・金州4日間」ツアーに参加する。予算はオプションを加えて3万5千円迄という割安ツアーである。
日清・日露の戦役で死没された10万2千余柱の英霊と、昭和20年の終戦時に望郷の念にかられながら異郷の地で骨を埋めた同胞がこの地に今も眠っている。終戦まで満鉄に勤めていた伯父と従兄弟は無事帰国したが、満蒙開拓地の居た叔父一家と伯母と乳飲み子は叔父を除いて大陸で命が尽きた。どのように悲惨だったのか、叔父は誰にも語ることなく秘密を持ったまま他界した。
「ここはお国を 何百里    離れて遠き 満州の
  赤い夕日に 照らされて    友は野末の 石の下」
軍歌にしてはあまりにも切なくもの悲しいメロディーを何十年かぶりに思い出して口ずさんでみた。
5月22日(土)
昨日は鐘友会関西支部例会が「ホテルグランヴィア大阪」で開催されたので参加し、梅田新道の「サンメンバーズホテル」で一泊したので、ゆったりとして目覚め、朝食をとる。11時に関西国際空港に着き、「メンバーズルーム比叡」で一時間ほど新聞に眼を通し、昼食は、機内食を考えて、「ざるうどん」で済ます。12時半に阪急交通社の受付、両替を済ませ、14時まで待機。中国南方航空CZ638号機は定刻14時30分離陸してジャスト15時30分に大連周水子国際空港に着く。時差は一時間あり、飛行時間は正味2時間である。
現地の添乗員「関 賀(カン カ)」さんの出迎えを受ける。自称満州娘、丸顔で30歳後半、子供は一人で夫の父母が仕事中は面倒をみている由。ツアー参加者は19名で夫婦家族組みが中心で、一人参加は2名である。最高齢は83歳の終戦時大連在住の記憶力抜群の老女で2番目が老生である。
(注)3人組(川柳さん一家、不満親父さん一家、エリートさん一家)
   2人組(引揚者さん、香川さん、無口さん、中年ペアさん)
   1人組(大連さん、老生)
@空港から大連中心街に入り「大連園海鮮楼」で10数種の「東北料理」を賞味する。量に圧倒されたが、味はまあまあといったところか。夜景散策は@テレビ塔A夜市B星海広場C人民広場のコースである。
テレビ塔は当初は「大連広播テレビ塔」と呼ばれたが、現在は「大連観光塔」に改名されている。建設は1990年で塔の高さは190mであるが、小高い山の上に立っているので海抜は360mである。東京タワーは333mだから、展望視界は広く、夜景は100万ドルならぬ100万元の素晴しい世界であった。
A夜市は大連市で最も有名な太原街で道幅25メートルで約500メートルにわたって衣類から靴、雑貨、食品の露店が連なる「縁日」である。20年前の北京の夜市とはまったく異なり品数は豊富である。もっとも価格は交渉次第で決まる世界だから分からないが、混雑ぶりは通勤ラッシュかデパートの特売場並みである。ツアーの女性群の眼が輝いてきた。
B星海広場は総面積は110万平方メートルにも及ぶアジア最大の都市広場である由。中央にはシンボル塔「漢白玉華表」が建っている。白玉で作られた高さ20メートル、直径2メートルの塔で、台座に8頭、柱に1頭の龍が彫り込まれ、頭頂部には天に向かって吠える龍王の子供「望天吠」が据えられている。オープンは香港が返還された1997年6月30日というから、龍王の子供「望天吠」には99年に及ぶ香港租界から解放された中国人民の喜びがこめられているのかもしれない。
 C人民広場には大連市の主要官庁が並んでいるが、戦前の建物は日本の行政府のもので、大連市人民政府(旧関東州庁舎)、大連市公安局(旧警察訓練所)、大連市裁判所(旧最高裁判所)などが嘗ての威容を誇っている。
21時ころホテルに帰着。ホテルは「大連泰美居大飯店」と云うらしいが、英語名称は「グランドメルキュールホテル大連」でシティーホテル並みの快適さがある。ベッドもバスもインテリアも、旅行費用から判断すれば文句のつけようがない。リアルタイムでNHK海外放送が見ることができるので、日本と変わらないテレビでエンターテインメントを楽しめた。
5月23日(日)
朝5時(日本時間6時)に目覚める。朝風呂に入り、6時からホテルでの朝食バイキングである。朝食のコーヒーの味を除けば、洋食・中華・朝鮮料理が揃っており、良質ともに満足、満足といったところである。8時30分専用車で旅順観光に出掛ける。お目当ては203高地と水師営会見所である。
○旅順港 日本のロシア国交断絶通告は1904年2月6日で同月24日に第一回旅順港閉鎖作戦を開始、第3回まで敢行したが失敗した。広瀬武夫中佐と杉野兵曹長の「軍国美談」はよく口にした。黄海への出入り口としては確かに狭い。
○旅順駅 旅順駅は風格のある駅舎である。大連駅と違い、ロシアの雰囲気が残っている木造建築。旅順支線(旧南満州鉄道終着駅)。旅順(軍)港の傍に在る。
旧日本橋 車窓から
○旧関東総督府 1903(明治36)年に旅順を占領したロシアが極東総督府として建築。日露戦争後,旅順・大連の行政の中心として関東都督府が設置された。組織の改変により関東庁、関東州庁を経て旅順高等女学校になった。戦後は、人民軍の保養所であった由。
○旅順博物館 西本願寺二十二世門主大谷光瑞氏が隊長となってアジアのほぼ全域を踏破し、多くの美術品や仏典などを請来した。其の多くが旅順博物館と大連図書館にに保管されている。大人と子供のミイラは着衣のままである。
○旧粛親王府 清朝王族の家で、「東洋のマタハリ」こと川島芳子の実家です。元旅順師範学堂(教員養成所)で、現在は旅順215医院。
○旅順ヤマトホテル
客室数15室・定員25名の小規模なホテルで、現在は政府の招待所になっている。男装の麗人・川島芳子(清朝の皇族粛親王の第十四王女、本名は愛新覺羅 顯シ(あいしんかくら けんし)が結婚式をしたホテルの由。
○大谷光瑞旧居 大谷探検隊の西本願寺二十二世門主大谷光瑞師は、本願寺会計から不当に流用した責めを負い1914年門主を辞し、旅順に移り別邸「二楽荘」で研究を続けた。現在は廃墟であるが、復元の可能性もある由。
○水師営会見所 日露戦争でロシアが降伏した1904年1月2日、乃木希典将軍とロシアのステッセル将軍が会見した旧跡である。記念写真など展示多い。庭の棗(なつめ)も4代目とかで背丈ほどに伸びている。傍らに食堂(東北の家庭料理)、売店が揃っている。
○203高地 日露戦争(1904〜1905)の戦跡。標高203米の高地にある。「爾霊山」と記した銃弾の記念碑が残っている。正面攻撃で日本軍は死者1万5千、負傷者4万5千人に達した。乃木将軍の無能ぶりを司馬遼太郎は指弾するのだが・・・
○(市内遠望) 第一次世界大戦時、ドイツがフランスのヴェルダン要塞を攻略した際には、一ヶ所の戦場で70~75万人の戦死者を出している。「肉弾三銃士」を称えたが、戦闘とは勝者にも敗者にも過酷かつ悲惨なものであることを教えている。
5月24日(月)
朝5時に目覚め、朝風呂に入る。8時30分専用車で金州一日観光に出掛ける。お目当ては勿論金州の正岡子規句碑「行く春の酒をたまはる陣屋哉」である。
○金州・響水寺 大黒山は金州城の東側約4km離れ、主峰は663.1m。西北麓にある「響水観」は唐代の時期建築始められた古廟で、泉水が穴から琴のような音をしながら流れ出すため「瑶琴洞」とも呼ばれる。道教寺院である。参詣者が多いのに驚く。金州・副都統衙門 金州中心部(旧城内)に位置する金州に駐在する駐防八旗の衙門(役所)で、ここが遼東半島南部の政治と軍事の中枢だった。
金州のように清代の建築をほぼそのままに残しているのは非常にまれである。入り口の骨董店は展示場を兼ねている。
○金州副都統衙門
(子規句碑) 副都統衙門の後院(裏庭)は、正岡子規の句碑や清代の石碑を展示。
「行く春の 酒をたまはる 陣屋かな    金州城にて  子規」
大連港 帝政ロシアが築港し、日露戦争後は日本との窓口として拡張、1907年5月、自由港として国際的に認知された。埠頭待合室の前にそびえ立つ7階建ての「満鉄大連埠頭事務所」が目を引く。戦後23万人の日本人がこの埠頭から帰国した。
○中山広場 旧称:大広場(直径213mの円形広場)昭和初期に建築されて現存する10棟のうち7棟が、日本人建築家による設計である。朝鮮銀行・大連警察署・大連ヤマトホテル・大連市役所・東洋拓殖株式会社大連支店・横浜正金銀行大連支店・関東逓信局。
○南満州鉄道(満鉄)は初代総裁・後藤新平が掲げる「文装的武備」の思想の下で多角経営を進めホテル網の展開も率先して進めた。ヤマトホテルは西洋人旅客を招致するとともに、満鉄の迎賓館としても機能する西洋式の高級ホテルとなった。
○大連旧ヤマトホテル
 (玄関口)    旧大連ヤマトホテルはヤマトホテルの旗艦店である。1907年(明治40年)旧ダーリニーホテルを改装して開業し、1914年(大正3年)3月に大広場(現中山広場)前に巨大なホテルを建築した(客室数115室・収容人数175名)。
旧大連ヤマトホテル
 (客室配置図) 現在は3つ星ホテル大連賓館として、当時の建物のまま営業している。1987年と1997年に大改修を行い、客室(86室)には近代的な設備が整えられた。エントランスホールや宴会場などは当初のクラシカルな装飾が維持されている。
○旧満鉄本社ビル 現在も中国鉄路局の大連支局として使用されています。堂々とした建物である。旧満鉄図書館や旧満鉄社員倶楽部も残っており、日本では喪われてしまった戦前のビジネス街を思い出させてくれる。
○旧日本人街 満鉄の幹部や官僚、実業家を中心にした日本人の高級住宅が山の手に広がっている。日本家屋と云うより洋館であるので瀟洒かつ重厚である。戦前にこの地で住んだ日本人は、まさに新天地であっただろう。もっとも立替が進んでおり、やがては・・・
○老虎灘公園 黒虎と龍女と青年を巡る伝説から生まれた景勝地である。岩貌も虎に見えるし、35mの巨大な6頭のトラのモニュメント「群虎彫(群虎彫像)」も目玉である。遊園地になっており、大連市民の憩いの場であるらしい。
5月25日(火)
朝5時起床、朝風呂に入り、朝食バイキングはゆっくりと、たっぷり食べる。8時20分専用車で大連周水子国際空港に向かう。大連発10時30分(日本時間11時30分)発の中国南方航空CZ637機で関西空港に13時30分ジャストに到着する。拍手ものである。
梅田阪神百貨店で「551中華饅頭」と「いか焼き」を買い、JR大阪駅16時20分発の松山エキスプレス(高速バス)で夜10時帰宅する。まずは無事でなによりだが、海外旅行の一人旅は結構気を使うものだ。やれやれ。