エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第19章  鐘紡の社史社風
第1話 鐘紡の社史社風~昭和48年(1973年) 大学卒新入社員講話
第2話 鐘紡とは何か~昭和52年(1977年) 第3回読書感想文コンクール表彰式記念講話
第1話 鐘紡の社史社風~昭和48年(1973年) 大学卒新入社員講話
 鐘紡の社史社風について語る機会は、定期入社、過年度入社、社内定期教育で年間数回は担当した。大学卒新入社員教育では、人事課長、人事部長が担当したので、担当者により個性的な語り口となった。昭和40年代後半から50年代後半は執筆者が担当した。講話要旨と併せて部下と共に執筆した「社史社風」を掲載した。
 昭和43年に伊藤淳二氏が社長に就任する。私の人事課長・人事部長在任時、伊藤淳二氏は社長、会長であり、歴史でなく現在であったので「鐘紡の歴史」としては語っていない。平成19年(2007年)カネボウは消滅し、鐘紡の遺伝子は「クラシエ」として微かに残存している。鐘紡の中興の祖である武藤山治、津田信吾両社長の企業家精神は今日「鐘淵化学株式会社」が継承している。「カネボウ」は滅んだが「鐘紡」は生き続けていると信じている次第である。
1 はじめに
  鐘紡への入社
(1)男子の決断 → 何を基準にしたか → 己の一生を賭けるに価するものか
  企業の将来性か
  企業の規模か
  企業の経営方針・経営哲学か
  企業の中での生き甲斐・働き甲斐か
(2)今日只今の諸君には「燃える心」がある。「志(こころざし)」がある。「感激・感動」がある。
  美しいといえる生き方があるとすれば それは 自己を鮮明にした生き方だけである。 
  鐘紡は日本でもユニークな企業(会社)であり、経営哲学を鮮明に表明している企業(会社)である。
  極めて多事多難ではあるが、理想を現実に、現実を理想に近づけしめんと企業努力を日日夜夜続けている。
2 「鐘紡」とは何か
  私とは何か、家族とは何か、日本とは何かを 今日まで自らに真剣に問い掛けたことはあるか。
(1)鐘紡とは、過去・現在・未来にわたり「鐘紡」の名の下に参集した人材の総称である。
   決して物質的なものではなく、時間の経過と共に摩滅、疲労、消滅していくものではない。
   継承していく鐘紡の歴史とは  ①愛と正義の人道主義
 ②科学的合理主義
 ③国家社会への奉仕 である。
(2)「知る」ことは「愛する」ことである。
  鐘紡を知るためには、鐘紡の歴史を知らねばならぬ。
  鐘紡を語るためには、共通の言語(歴史)を持たねばならない。 
  そのためには
  鐘紡の原点(メーカー・製造業)である工場(モノづくり、ヒトづくりの現場)の実体験が必要である。
3 鐘紡の歴史
(1)日本を代表し、歴史を先取りする企業である。
時代区分 時代の特徴 代表的社長 メーカーとしての特質
 戦前
 (明治・大正期)
成立期
(明治20年5月6日)
武藤 山治
(明治32年~)
天然繊維(綿・絹)
 戦時
 (昭和元年~20年)
成長期 津田 信吾
(昭和5年~)
基幹産業・軍需産業
 戦後
 (昭和21年~45年))
成熟期 武藤 絲治
(昭和22年~)
総合繊維(合繊転換)
 現代
 (昭和45年~)
変革期 伊藤 淳二
(昭和43年~)
ペンタゴン経営
 歴史的に見て、繊維産業は我が国で最も早く成立した近代産業であり、最も早く成熟期を迎えた。今日、繊維産業を中核として発展した鐘紡の将来モデルについて歴史が与えてくれる手本はない。
 我々の自負は「歴史の創造者」である。ヒューマンライフインダストリー(ペンタゴン経営<繊維・化粧品・食品・薬品・住宅>)への挑戦以外に歩む途はないと考える。
(2)生命と人格を尊重する企業である。
  ○天下第一等の会社(業績・社員)の実現
  ○会社の繁栄は従業員の繁栄(運命共同体)の実現
 年代  具体的な施策  施策の今日的な意味付け
 明治36年  注意書箱の設置       日本初の提案制度
,  「鐘紡の汽笛」         日本初の社内報創刊
 明治38年  鐘紡共済制度          日本初の健康保険組合 
 大正3年」  職工幸福増進係  産業カウンセラー
 大正13年  鐘紡無料診療所  コミュニティー リレイション
 大正14年  「女工哀史」(細井)  「鐘紡は別だが・・・」の記述
 (略) , ,
 昭和38年  鐘紡全事業場に高校導入  NHK高校との全社的取り組み
 昭和39年  「従業員繁栄協定」成立  労使共通の理想追求(労使運命共同体)
 (注)「労使運命共同体」の根底には【自己の持続的利益の根源は自己の利益の中にはなく、他人の利益の中にある。自己の利益と他人の利益が同時に存在する所に真実の利益がある。】との基本的は思想がある。
4 鐘紡の社風
  歴史によって形成されながら、歴史に向って働きかける。それが人格(社格→社風)というものである。
(1)営利会社の一考察・・・・・利益とは何か
(2)鐘紡技術学校教諭の実践・・・・・誠実とは何か
(3)カネボウ化粧品美容部員の苦労話・・・・・献身とは何か
(4)鐘紡京都工場某舎監(女子寄宿舎係)の実話・・・・・ヒューマニズムとは何か
(5)津田信吾社長と会社・・・・・国家への奉仕とは何か
 鐘紡は(1)異質の事業を吸収し拡大してきた。<化粧品・食品・薬品・住宅関連などなど>
     (2)純血主義ではない(学閥<慶応閥>はない。あるとすれば<鐘紡閥>である)
     (3)正義・同義を大切にする。
     (4)「人」を大切にする<万事人間本位>
     (5)大学卒幹部要員(見習生<見習士官>)がエリートとして、その義務を果たしてきた。       
       エリートとは「ノブレス オブレージ」である。全体に「奉仕」すること、自己犠牲(献身)が要請される。
(総括)
 鐘紡を大河にたとえると、ひとりひとりは「大河の一滴」であるかもしれぬ。我々の業務が、売り上げ、利益に直結しないならば、かつて清流であった川床にペンペン草が生え荒廃してしまうであろう。又たとい水が流れていたとしてもその河川に一臂金p魚も住まぬ汚れた水質であれば、後代の誰がその河を誇りに思い口にすることがあろうか。
 今日只今明確に言えることは「現在の鐘紡の大河には水量は多く、水流は堂々と流れ、豊富な魚が棲み、悠久の歴史を形づくっていると自身を以って新入社員に告げることが出来る。是非歴史の継承者として、より優れた大河に、より偉大な大鐘紡に育てて云った欲しい。
5 鐘紡の歴史の継承者に望む
 (1)鐘紡の「経営哲学」の実践者たれ
①「企業の中のギリギリのヒューマニズムとは何か」を真剣に考えて取り組め。
    安直な人道主義に振り回されるな(若年女子労働是非論、3交代システム罪悪論、休日・残業ゼロ化など)
②「真実を語る」ことは全人格を賭けることだと知れ。
    技術者としての良心を失うな。内部告白も許される。
 (2)現場現物主義に徹せよ
①正しいのは「現地」であり、「地図」ではない。常に「現地」と「地図」を確認しあう。
②大衆の中で、自らを鍛え直せ。真のリーダーを目指せ。
鐘紡の歴史
昭和48年(1973)記述
 
鐘紡は歴史の古い会社である
1887 鐘紡は明治20年(1887年)に誕生した歴史の古い会社てある。
 我々が過去80余年にわたる鐘紡の歴史をたどるのは、単に先達の事鎚を知り、苦難の歳月、栄光の日々を回想するためてもなく、まして社歴の良さを誇り、輝かしい伝統を誇示して社外に宣伝するためでは決してない。
 我々は社業の盛衰や先達の事鎚をiあるがままの姿に於いて見つめもう一度考えなおして、それから新しい意味を妄及みとらねばならないと信じているのだ。
鐘紡は紡績業から出発した
 ようやく産業革命を迎えた臼本カミはじめて興した近代自勺工菜は明治15年頃から開始された工拳としての綿紡績菜てあった。原始的には日本の紡績業は三つの流れがあった。即ち〈1〉藩の殖産事発としての紡績工場  〈2〉官営模範工場 (3〉純粋の民間企業の三つてある。
 明治中期には純粋の民間紡績間のみが残されていた。これには権勢の庇護に縋って育った紡績業と、独立独歩の紡締とては最初からその気迫に雲泥の差かあり、技術的にも経営上からも一歩ぬきんてていたことか一つの大さな原因てあった。この独立独歩の精神か、この業界の伝統となる素地はこの時につくられたのてあった。
1886 〈明治19年〉東京日本橋に9軒の繰綿問屋があったが、その中の5軒がシナ綿の定期売買を主業とする東京綿商社という資本金10万円の会社を創立した。
1887 〈明治20年〉ところか需給の関係から、綿花の在庫に悩まされ.、その打開策として90万円の増資を断行し、紡績経営に乗り出すことになった。5月6日設立登記。8月、「東京綿商社」を解散し「鐘ヶ淵紡績株式会社」と改称し、初代社長に三井得右衛門が就任した。
1888 〈明治21)三井の出資を得て土地を東京府南葛飾郡隅田村隅田川畔「鐘ヶ淵」に求めイギリスより最新式の機械を輸入して模範的工場の建設に着手した。
1889 〈明治22年〉工場の設計は挙げて学者に託し、費用を惜しまず建材や設備に舶来品を用い、30,240錘の当時我が国最大の工場を造った。世間てはこの工場を見て「三井の道楽工場」といったという。
初期の苦境
 こうして出発した鐘淵紡績株式会社てはあったが明治25年頃までは極度の経常難であつた。その原因としては
〈1〉機械と人間の調和を欠いたこと。〈機械に人間がついていけないほど機械が最新式であったともいえる)
〈2)熟練工はもとより職工数も不足していたこと。
(3)日本綿は糸切れが多かったこと。
等が挙げられる。
 しかし、これらの創業期の苦しみも後年の大を成すための貴重な試練てあった。例えば日本綿は糸切れが多かったことは、インド綿の使用と混綿技の開拓を進めることになったのてある。
中上川彦次郎の登場
1892  初期の経営の失敗から、株主問には解散を主張する者もあつたが、監査役の稲廷利兵衝かこれに強く反対し三井家の顧問てもあつた井上馨を動かし、井上の命により、・中上川彦次郎が改革に乗り出した。中上川は明治25年の第10回総会に於いて、朝吹英二と共に取締役に就任し、明治26年に社長となり朝吹を専務に鐘紡の積極的経営に乗り出した。
1894  中上川は紡績菜の将来に遠大な抱負を持っていたのて明治26年に東京工場に10・000錘の第二工場を設け、さらに朝吹と謀つて第二次の拡張を断行することとなった。それも工場を関西紡績業地の真只中へ進出させ、そこに、大陸を柏手とする大紡績工場を営もうとする意図て明治27年兵庫支店を設立、40,000錘の工場建設に着手した。
朝吹英二
 朝吹英二は中上川の妹婿てあるが、専務に就任してからは人力車は不経済だからと自転車て会社通いをはじめたような人物て「仕事に厳しく、人には温かくを実躇した人てあつた。
 その頃、どこの会社ても賄(まかない、食堂)は請負になっていたのを直営にしたのも朝吹てある.請負だと利益をあげねばならないが、直営ならば会社が負担すればよい、それだけ食物ガよくなるというのて、日本最初の賄直営をはじめたのてある。
中央l司盟会との紛争
 明治20年前後から大規模な紡績工場の出現て、労働力とくに熟練職工が不足し層々職工の奪い合いがみられた。紡績適合会は職工に関する規約を強化したが、これには鐘紡も加盟していた。ところか明治25年頃から各社の増錘、新工場建設か盛んとなり、職工不足は再び甚だし<なって釆たのて、明治26年には新たに中央綿紡績業同盟合が結成された0同盟会によって職工の雇い入れ、解雇、給与、労働時間、疾病、衛生、賞与、貯金、懲罰まて詳細に規定し、職工の移動を防止せんとしたものてあった。
1896  鐘紡兵庫工場が明治29年に操業を開始すると、約3,000人の従業員を必要とし、また、当時鐘紡の待遇は日本一てもあったのて他社を退めて鐘紡に入る者か続出した。
中央同盟会はこれを大きく取り上げ、全国新聞に広告し、当社に対して宣戦を布告するにいたった。中央同盟会から再三の入会勧告があったが、兵庫工場支配人武藤山治は、「職工は自己の欲する工場に移動する自由を奪われることになり、自然会社側に於ても賃金待遇上に進歩、改善の必要がなくなり、職工の利益幸福は非常に殺がれる」として頑として入会しなかった。
 これに村し、同盟各社は綿花綿糸を取扱う商人や運送業者に鐘紡との取引中止を要請し、さらに大阪の侠客に依頼して鐘紡の経験工を連れ出してきた者には金5円、本人に1円、未経験工を連れ出してきた者には金3円、本人に1円を出すことにした。そして武藤に全治1週間以上の傷を与えた者に300円の賞金を出すと言ったという。
1897  この紛争に中上川が乗出して、三井銀行が同盟側の各社との取引を拒絶するまてに至り、財界の重大問題となった。そして遂に日銀総裁岩崎弥之助の仲裁に委ねることとなり、渋沢栄一もこの間を斡旋して、同盟の規約の一部を修正するかわりに鐘紡も入会するということになって明治30年2月15日を以て落着した。  
 この事件は我国紡績会社の職工待遇上一大転機を画したもので、鐘紡の人間尊重の精神は世間に高く評価されると共に、これを契機に紡績会社全般の待遇が改められたことは事実てある。
武藤山治
 三井銀行神戸支店副長をしていた武藤山治が朝吹英二によって中上川に推挙され、鐘紡に入社したのは明治27年4月てあつた。以後昭和5年1月まて36年にわたり鐘紡の経営に当り、終始ヒューマニズムを貫いて、当時稀有の縫営者として注目を浴びた。
ヒューマニズムと進歩牲
 山治は企業の許すギリギリの線までヒューマニズムを貫徹した稀有の経営者として、又常に進歩的経常施策を実践する時代の先駆者として名声を馳せたのてある。
1899  明治32年本店支配人となってから2年程は極度の金融雉に見舞われる等、苦心を重ねたが、山治は常々抱いていた従業員の幸福増進のためいろいろの施策を着々と実施しはじめた時には厚きに過ぎるとして社内や外部の同業者から非難を浴びるほどてあった。
1919  大正8年5月にワシントンて開かれた第1回国際労働会議こ雇主側の代表として出席した山治は鐘紡従業員に対する待遇方法の英訳本を出席者に配つた。これは各国委員や顧問の中ても労働者側の委員間にセンセーションを捲き起こし、このため日本から出席した労働者側代表は却つて各国の同情を失なうような結果にもなった。
鐘紡の福利厚生     
 大正14年に発行きれた『女工哀史』は紡績工場の職工の立場から見た当時の紡績工場の実態を描いたものてあるが、その中てさえ「鐘紡は別だが」という鐘紡賞賛の言葉を随所に散見するのてある。(例えば職工に対する電話の扱い、社宅事情、工場内の床の整備状況、医局の医師の態度、休日の催し物、休憩施設、等てある。)
温情主義論争
1925  このような鐘紡の経営は「温情主義」と呼ばれたが これに対して一部に批判的な者もあったことは事実てある。大正8年から大正10年にがナて京大の河上肇と武藤との間に行なわれた温情主義論争はその一つのあらわれである。
 前述の第1回国際労働会議こ出発する前に、山治は雑誌『タイヤモンド』に「吾国労働問題解決法」という論文を公にした。この中て山治は、近来学者論客の中には温情主義排斥の議論を為す者が多いけれども、それは西洋の労働者と日本のそれとの境遇を同一視することによつなされる誤つた議論てあり、西洋の労働史には温情主義の時代はないから、労働者は権利を主張するのは当然てあるが、だからといつて労働者が権利を主張しさえすれば労働問題は解決するかの如くいうのは誤りてあると述へた。
 これに対して河上は『社会閑地研究』に載せたロバート・オウエン評伝の中て多少冷かし気味に論駁し、温情主義は日本独特のものてはなく、西洋にもそれ以上の温情を労働者に注ぐ事業家かあると述べた。これをきっかけに何度か論争がなされたが、議論か噛み合わぬ面もあり、両者共納得せぬまま自然消滅した。
 このような批評はあつたにせよ、山治は「鐘紡の経営方針でも営利よりは道義に立脚することを信条としていた」ことは確かてある。
武藤山治の事蹟
明治35年 (1902) 男女工手のため補修学校設立
 同 , 女工手のため乳児保育所設置
明治36年 (1903) 注意書箱設置(自己を表現することの比較的少なかった当時にあつて、従業員の声を聞こうという試みあった)
 同 , 『鐘紡の汽笛』創刊、後に『女子の友』発行(共に現在の社内報てある)
明治38年  (1905) 鐘紡共共済組合設立(ドイツクルッブ社から学んだ制度で、現在の健康保険の揺籃であった)
 同 , 鐘紡職工学校設立
大正 3年 (1914) 職工幸福増進係を置く
大正 4年 (1915) 精神的工場操業法を実施
 同 , 高砂保養院を創設 〈従業員の転地保養先)
 同 , 年金制度発足
大正 7年 (1918) 鐘紡研究所を設立(理化学研究所を範とした研究所)
大正12年 (1923) 鐘紡無料診療所を開設(現在も鐘紡病院として残っている)
戦時体制下の鐘紡
 鐘紡が在華紡(中国本土にて紡績業を営むこと)として大陸への進出を企てたのは大正8年中国の関税改正で関税自主権を取り戻し、日本製品に対する関税引上げによって、日本品の中国進出を抑えようと図つたことへの対応である。これを見てとって、資本と機械と技術をもって現地に乗り出すことになったものである。
 鐘紡の最初の在華紡は大正11年の上海の公平紗敞である。日本の紡績が当初上海に工場設置を集中したのは、治外法権の共同租界があり、租税負担は日本内地はもとより、中国人紡績より軽く、著しく経営を有利にしたためてあった。なお鐘紡はすでに明治44年に絹糸を合併した際、同社の経営下にあった上海製造絹糸の工場を経営下におさめていたので、実際には鐘紡の大陸進出はこの時すてに行なわれていたものとみてよい。
1930  このように鐘紡は海外にまて発展を開始していたが、昭和5年春、淀川工場に大掛かりなストライキが起り、全社に波及した。その頃、経済情勢は、第一次大戦後の異常な好景気の反動として世界を襲った恐慌のさなかであった。紡績業者は戦後の好況期の体制のまま、整理調整の必要を感じながらも、思い切った企業の合理化には手をつきかねていた。
 そこへ鐘紡が企業合理化の先頭を切って、賃下げ等を発表した。その内容は「戦時手当支給を廃止し、あらためて一律3割の特別手当を支給する」というものてあった。戦時手当とは第一次大戦による物価騰貴に対応するものとして出された臨時給で、社員には本給の6割、職工には日給の7割を支給し、以来10年間続いてきたもので、この貸下げ等によって社員は本給の3割、職工は日給の4割を削られることになり、本給、日給を含めると、各自の実収入は2割3分程度の減収となり、会社側は年間300万円の経費節約を見込んでいた。ところが当時鐘紡は3割5分という高率配当をしており総同盟の西尾末広の指導によって大争議が起きたのてある。
 この争議は解決まてに56日間を要したが、西尾末広に立ち向い一歩も退くことなく、堂々と所信を貫いたのが、当時副社長になったばかりの津田信吾てある。後に西尾は「(従業員例の態度も立派だったが)それにもまして津田の態度は立派だった。教え子に対する情愛と会社の重役としての威厳と落ち着きを兼ね備えた立派な態度てあった。」と述べている。
戦時下の紡績
1937  戦時体制下の紡績菜の変化は昭和12年から昭和16年の対日資産凍結まての期間と、太平洋戦争突入以後との二つの段階に分けられる。
 第一段階は軍需物資や生産財を輸入するための外貨獲得の手投として、繊維は輸出促進、内需抑制の政策がとられた頃てある。輸出品以外には強制的にスフが混用されることになり、木綿物の買いだめが起り、真冬にユカタの売れたという。
 第二の段階は、円域以外の綿花輸入は全く杜絶し、生産は大巾に縮小され、企業の整備統合と、遊休設備の軍需転換が進められた頃てある。したがって紡績業にとっては生産は縮小の一途を辿るばかりて、かっての黄金時代とは似ても似つかぬ日々を迎えることになった。強いてプラスの面をとりあげるなら、強制的なスフの混用で、戦後における化繊工業確立の基盤がこの時代に培われたことぐらいてあった。
 昭和13年鐘紡は資本金を6千万円から1億2千万円に増資して事業の拡張につとめていたが、昭和13年11月資本金6千万円で新たに鐘淵実業株式会社を創立し、繊維部門以外の各種事業に手を伸ばしはじめた。昭和19年2月両社は解散して、鐘淵工業株式会社を設立し、資本金3億2千4百万円、社長に津田信吾、副社長に倉知四郎が就任した。昭和19年末の鐘淵工業の事業は、直営事業域129(内国内87、海外42)直系会社52社を数え、民間企業としては日本で最大の会社であった。その事業内容は繊維は言うまてもなく、各種鉱業、金属、航空機部品、化学、パルプ、製紙、農牧畜業にわたっている。
   企業の規模比較  (昭和11年の上位30社)
順位
会 社 名
収入 順位
会 社 名
収入 順位
会 社 名
収入
  1  日本製鉄 332  11 明治製糖  85  21 片倉製糸紡績  55
  2  鐘ヶ淵紡績 301  12 大日本麦酒  75  22 神戸製鋼所  54
  3  王子製紙 231  13 古河電気工業  75  23 郡是製糸  51
  4  三菱重工業 120  14 日立製作所  73  24 旭ベンベルグ絹糸  43
  5  内外綿 110  15 日本石油  71  25 日本塗料製造  42
  6  三井鉱山 101  16 台湾製糖  70  26 住友金属工業  42
  7  日本鉱業  95  17 日本鋼管  61  27 大日本紡績  41
  8  三菱鉱業  94  18 富士瓦斯紡績  56  28 日本電気工業  40
  9  大日本製糖  89  19 旭硝子  56  29 東京電気  40
 10  日本毛織  87  20 東洋紡績  55  30 日清紡績  39
(注)昭和11年、収入は売上高、投資収入及び雑収入の合計(単位百万円) 三菱経済研究所「本邦事業成績分析」により作成
   昭和19年当時の鐘紡直営・直系事業
直 営 事 業 場
直 系 事 業
兵  器  4工場(内3、外1) 航空機用部品  8社(内7、外1))
航空機部品  7工場(内) 造船舶用関連機器  7社(内)
造船舶用関連機器  4工場(内3、外1) 製  鉄  2社(内)
製  鉄  6工場(内2、外4) 鉱  業  3社(外)
鉱  業  7工場(内2、外5) 軽金属工業  3社(内)
航空燃料・化学工業  6工場(内5、外1) 航空燃料・化学工業  7社(内6、外1)
繊  維 繊  維  9社(うち3、外6)
綿  スフ
絹  業
毛  織
麻  紡
15工場(内9、外6)
18工場(内15、外3) 内外研究所5乾繭場1
7工場(内)
6工場(内4、外2)
パルプ及び製紙  3工場(内2、外1) パルプ及び製紙  5社(内)
油  脂  2工場(内) 油  脂  2社(内1、外1)
窯  業  3工場(内2、外1) 農  業  1社(内)
製薬・化粧品  2工場(内)) 水  産  1社(内)
農・牧畜  農牧場など外20ヶ所 その他  4社(内3、外1)
研究所  3(内)
(注)田中宏 『鐘紡の系列』 直営事業 119事業場  直系事業 52社
敗戦による痛手と復興
1945  戦時体制の事業の拡張と発展は、当然敗戦こよる打撃を大きなものにした。紡績10社の内ても戦争による損失の最も大さかったのは鐘紡てあり、その特別損失の合計額は12億4千万円余と、第二位東洋紡の倍額てあった。戦時中の企業整備によつて昭和16年当時の設備の半分を供出した上に、戦災によって喪失した設備の帳簿価格が1億円余、戦争で喪失した在外資産が3億円余てあった。
 昭和20年12月、津田社長が追放て退社、副社長の倉知が社長となったが、やがて倉知も財界追放となり、昭和22年6月武藤絲治が第10代目の鐘紡社長に就任した。昭和21年5月社号を鐘淵紡績株式会社の旧商号に改めたが、昭和21年12月には特殊会社に指定きれ、さらに昭和23年2月には過度経済力集中排除法による指定を受けた。
 武藤は紡績10社と共同歩調をとって、指定解除を総司令部に働きかけ昭和24年3月、全面的にこの指定はとり消された。武藤が最も頭を痛めたのは、12億円余の戦時特別損失金の処理てあった。一時は資本金の9割、旧債権の2割8厘を打ち切らねばならぬ破目にさえ陥つた。 しかも法律に基いてそれはてきることてあった。重役の中には、後に負担か残るからこの際切り捨てて、新しい会社として出発した方か良いという意見も多かつた。しかし彼はこれに反対し苦しい中からのやりくりで、見事この難局を切り抜けた.
 戦後の鐘紡の復興は、次の三つの時期に区分することがてきる。
(1)終戦からドッジラインまての復興と再建の時期(昭和20~昭和24年)
 前述のような経過を辿つて戦争の痛手から奇捌的に立ち直った鐘紡は昭和24年に化学部門を分推し(鐘淵化学)、再出発の歩みを始めた。昭和24年には3S運動が提唱され、新しく3Sバッジ(社章)、社旗、社歌が制定きれた。「鐘紡新聞」の創刊もこの年てある。 3S運動とは、スピード、サービス、セービングの3つの運動をいう。
(2〉朝鮮動乱ブームの発生から、デフレ政策が実施される問の設備の拡大と、経営の飛躍的発展の時期(昭和25~昭和26年)
 いわゆる糸ヘンブームで、この時期に新規に紡績業を始めるものが続出した。(新々紡)
(3〉合理化と近代化の推進による経営の充実と企業基盤の強化を図つた時期(昭和27~昭和32)
不況対策    
1958  繊維産業の不況は他の産業に先がけて昭和32年初めにはすてに現われはじめた。繊維業界があらゆる繊維部門にわたって不況に突入したのは、戦前戦後を通じて初めてのことてあった。このため昭和33年4月の各社決算は軒なみに収益の低下を示した。鐘紡も例外てはなかった。ここに至って、昭和33年9月末曽有の不況を克服すべく歴史に名高い「不況対策」を実施したのてある。この内容は従業員の貸金を1年間1割カットし、幾つかの不採算工場は閉鎖するというドラスチックなものてあった。
 当時、産業界は朝鮮動乱の特需、神武景気といった好況と不況とが繰り返される不安定な時期を迎えていた。そして昭和33年は最大の不況の波カくおし寄せていたのてある。統計によれば、この年の労働争議の総件数は1.864件、総参加人員は636万人を数え、警職法改正反対闘争とからんで争議は激化の一途を辿ったのてある。そして、この年の争議て特徴的だったのは、不況を反映して企業整備・人員整理反対のための争議が非常に多かったことてある。 こうした状勢の中て「鐘紡の不況対策」は実施きれた。全従業員は打って一丸となり「鐘紡護持の精神」に徹し、賃金の切下げに応じ、慣れ親しんだ職場を離れて合理化に協力した。鐘紡のいずれの事業場にあっても赤旗一本立つことなく、労働歌の合唱きれることもなく、ただひたすら鐘紡の理想実現のために、この試練を克服したのてある。
 この不況合理化を通して鐘紡は労使間係を単なる利害村立する斗争の関係としててはなく、運命を共にするパートナーとしての新しい労使間係へと発展する契機を作ったのてある。即ち鐘紡労使の考え方は①「生産における労使の信頼にもとずく協力」②「分配における労使の誠意ある協議」ということてあり、「会社の繁栄は従業員の繁栄てあり、日本の繁栄にもつながる」という考え方に発展するのてある。
不況対策の成果
1961  労使一体となつての必死の努力により、昭和34年4Rには黒字に転換し、昭和35年10月には売上高、利益高共10大紡のトップに躍り出て、鐘紡の戦後第二の奇蹟と云われたのである。(第一の奇跡は戦後の復興)。そして労使間係における運命共同体理論そして事前協議制は不況対策というキャンペーンのなかて生れ、育ち、成長したのてある。
 不況村策が成功し業績が回復すると直ちに一年間にわたってカットされていた賃金は一括して支払われ、新たに退職金の増額・女子優遇資金の設定(勤続の短しい女子従業員に退職金面で優遇する)・持家奨励制度などを内容とする従業員繁栄村策が次々に打ち出され、同時に長期経営計画として安定5ヵ年計画を発足させたのてある。
GK(グレーターカネボウ)計画
 昭和36年には「より偉大な鐘紡を建設し、従業員の幸福に資する」ことを目的に、第一次クレーターカネボウ建設計画(GK計画)か発足した。天然繊維から合成繊維へ、そして労働集約的産業から資本集約的産業へと転換を計らんとするものてあった。綿紡績業から出発した当社にとっては画期的な転換てあった。具体的こは、昭和37年にナイロン部門・化粧品部門に進出し、翌38年には食品部門に進出した。
 天然繊維を中心にしていた鐘紡が、多角化の道を歩みはじめるのてあるが、これは単に利益の追求のみならず衣食住という人間の基本的生活を豊かこし、総合の美を追求することを企業の発展目標としたものてある。昭和39年には第一次GK計画達成に引き続き、第二次GK計画が発足、「従業員繁栄協定」が労使間で締結され、「会社の繁栄は従業員の繁栄である」という労使共通の理念が具体化されたのてある。
現状と展望
 昭和43年6月、武藤絲治は会長に退き、社長に伊藤淳二が45才の若きで登場し、経営陣の若返りが実施された。
 直ちに、〈1〉ナイロンを中心とする合繊部門の拡大
      〈2)天然繊維部門の自動化による安定
      〈3)化粧品部門の充実
などを骨子とする長期計画が立案発表された。
 そして今、カネボウは世界に比類なさ紡織技術をもった総合化学会社へと飛糾しようとしている。一方、未来産業としてのファッションビジネスに取り組むことを栄光の1970年の年頭に発表し、大きな注目を集めた。三年間の実績によって名実共にファッション産業界のリーダーとなったカネボウは、更に1972年6月、ペンタゴン経営を基盤として、人類の生命、生活の成長と向上に貢献しようとする「ヒューマンライフインダストリー」への展開を打ち出したのてある。
 かけがえのない地球に生を受けた我々は、一日一日を大切にしたい。生さ甲斐に満ちたヒューマンな日々てありたいと希求している。、カネボウは今、この世にバラタイスを創る一助になりたいと願っているのてある.
結語・・・歴史の継承者たれ!
 以上80余年の鐘淵の歴史を辿つて、我々はそこに流れる二つの伝統を汲み取ることがてきる。一つはヒューマニズムてあり、他の一つは開拓者精神と科学的合理主義に基く時代の先駆者としての勇気てある。我々は先人のヒューマニズムに学び、日々の生活の場において実践すると共に、常に時代の推移を見極め次代へのヴィジョンを持って生きることを学ぶのてある。社史の表面に表われる人名は決して多くない。我々はその人々の陰の力となった無名の人々の血と涙を常に思うへきてあろう。
 「ローマは一日にして成らず」されど大ローマは瓦解した歴史的現実を思う時、鐘紡を決して瓦解させてはならない。歴史の継承とは。先人から手渡された遺産を更に量質ともに高めて、次代にバトンタッチすることである。最後に、歴史の継承者として崇高な責務を果たすことを共に誓い合おう。
第2話 鐘紡とは何か~昭和52年(1977年) 第3回読書感想文コンクール表彰式記念講話
一、コンクールを終えて
 読書感想文コンクールは今回で第三回となったが、コンクールは今後も続けて行きたいものだと思う.読書には著者と読者とのr心の対話」があり、さらにそれをつきつめて行けば『魂と魂との対決』がそこにあるのではないか。
 私は審査の最終の段階でお一人お一人の感想文を読んだが、同じ時期に同じ内容の本を読んだものでありながら、それぞれの表現の違いや内容の違いに気付き繋いた。それは読者各人の人生観がそこに込められているからではないだろうか。感想文の中にはまだ一度もお互いに声をかけたことのない鐘紡の仲間がほとんどであるが、一篇一篇のその文牽を通してジーソとくるものを感じたのである.結局それは文章の中にその人のすべてが、人生が語られているからだと思う。
 人間の場合にも鐘紡という企業の場合にも、今日の姿を形造ってきた歴史なり、その人その企業の持つドラマというものがそこにある。それが誠実であればあるだけ、その歴史なりドラマなりが他の人に訴え、ストレートに導いてくるのではないか。
 NHKの番組で大河ドラマがある.三十八年の「赤穂浪士」から始まり、以後毎年続けられ回を重ねること十三回、そして今は「風と雲と虹と」が放映されている.その中に出てくるドラマの主人公、あるいはドラマを取巻く環境、またそこに出てくる人物についてはそれぞれ歴史の評価が違うように思う。しかしともかく、この主人公達は確実に時代と共に生きたということ、前向きか後向きかは別として時代を変えて行ったということ、そのような意味で男のドラマがいずれの中にも等しくあるように思う。だから今日の私達の心に、ジーンとくるものがあるのだ。言うならば、それぞれの人の心の中に士心(さむらい・こころ)、燃える心、ともかく俺なりに何かやるんだという自己を鮮明に現わした生き方があったのだと思う。そのような目で見るとき、私は鐘紡についてその歴史を通して考えるのは、鐘紡は自己の哲学を持ち自己を鮮明に現わした企業であるということである。
ニ、鐘紡とは何か
 鐘紡とは? 過去・現在・未来、この流れの中にあって鐘紡という名の下に集まってきた人材の総称であり、その時々の鐘紡という名の中で、それを支えてきた企業集団が鐘紡だと思ぅ。その中で過去から受継いだものを未来にバトンクッチして行くことが、私達一人一人の社員にとって最も重要な使命であり、そして崇高なものである。これが「歴史の継承」ということになる。
 経営の次元で言えば三つの経営の根本精神をバトンタッチして行くことであり、歴史の継承の最も基本的なものとなるべきだ。技術の分野で言えば、工場において明治以降築き上げられてきた基本的な技術というものを受継いで、さらに発展させて次の代にバトンタッチさせて行くことであろう。高邁な理論だけの観念的思想的なバトンタッチでなしに、もっと具体的なものを受継ぎ、継承して行くというのが鐘紡であろうし、それが鐘妨の技術というものであろう。
三、鐘紡における歴史の継承
 歴史の継承という立場から鐘紡を見る場合、今ここで二つの歴史を通して考えてみたい。
(1)歴史を先取りする企業
 鐘紡の歴史、ひいては日本の資本主義の歴史に通じるのであるが、大きく四区分することにより具体的に考えてみよう。
 鐘紡では戦前における成立期に、一人の優れたリーダーを得た。当時の日本のリーダーの中でも有数の人、武藤山冶氏である。キリスト教的思想を背景にした強敬な思想の持主であった。この時期に綿と絹を中心にした基本的な繊維業が誕生し、武藤氏が明治において代表するきわめて良心的な経営施策を次々と展開してきた。「愛と正義の人道主義」「科学的合理主義」というのは、この時期に武藤氏の経営思想の中で生まれた基本的なものだと思う。
 戦中の成長期に入る。戦時中の日本の国家施策-大陸への進出(これについてはいろいろ批判はあるが)に伴って、鐘紡も日本の命運と共に大陸に進出して行った時代である。この時代に鐘紡は、一人の優れたリーダー、津田信吾氏を中心に大きく大陸に伸びて行く。当時の産業の基本的なものはすべて手掛けて行く時代になる。鐘紡は当時の日本で一、二を争う巨大な会社になった。繊維の他に化学、電気、ディーゼル、ゴムなどの部門を擁する非常に大きなコンツェルンであった。実は、国家社会へ命運を共にするという鐘紡の基調が内外ともに認められたのが、津田社長が戦時中通して強調してきた思想であり、これが鐘紡の第三の柱「国家社会への奉仕」の強いバックボーソとなっているように思う。それは、一企業の為でなしに一国家、一民族のために企業は運命を共にすべきであるということだ。
 戦後は、武藤絲治社長というリーダーによって天然繊維を中核に、鐘紡は大きく変わる。合繊への転換を中心にして、基本的には繊維の総合メーカーへの脱皮が鐘紡の成熟期の時代を支えた大きなものであったと思う。そして今日の変革の時期に、また一人の優れたリーダー現社長(伊藤淳二)を得た。今手がけているヒューマンライフインダストリⅠという企業の特色を出し、事業展開がなされている.
 ここで考えねはならないのは、日本でも世界でもそうだが、繊維業と石炭を中心とする鉱山業は産業として最も早く成立したということ。特に繊維産業より前を進んでいる近代的産業はない。その意味で繊維を中心とする鐘紡が今後進む道については、歴史が示してくれる手本はないのである。私共は歴史の創造者として位置づけられていることを認諭しなければならない。
したがって私共はともかく前に進んでいかねばならない。そのようなことを考えると、鐘紡の歴史を最も特徴づけるものは、歴史を先取りして行く企業、歴史を創造して行く企業だということである。併せてそこにいる人達はその歴史を継承して行くという崇高な義務を持った存在であるということだ。
(2)生命と人格を尊重する企業
 構造不況あるいは循環不況の中で、いろいろのことが為されるわけだが、企業の好不況にかかわらず私共の企業の中での多くの施策の根底を為しているのは「生命と人格を尊重する」という時代を超えた本当の意味の思想である。私共はこれを運命共同体と呼ぷ。 今日、組合とも話をして新しい給与体系を作った。これについては非常に大きな反響を呼んだが、ほとんどの批評家は鐘紡だからできたことと評している。ではなぜ鐘紡ができたのか。きわめて当たり前のことだが、労使がお互い同志うそを言わず信じ合えるということ。そしてそれが諸施策を通して歴史の積み重ねの上にでき上がったということである。例えば、注意書箱や共済制度の問題、無料診療所の設置、新しくは従業員繁栄対策、高校の設置など多くの施策によるものである。そのような施策の積み重ねの中で、私共は生命と人格を尊重する企業としての実績を固めてきたのである。
(3)技術における歴史の継承
 技術において、歴史の継承に相当するものは何であるか。例えば鐘紡が日本に誇り得る技術とか、技稀者あるいは技術者魂として継承されるものは何であったか。私が接してきた技術者の中で、心に残った技術者で何人かを鐘紡の中で知ることができたので述べてみよう。
 技術学校で創成期から教鞭をとっておられた菅原先生.紡績での名人と呼ばれた方である。工場の槻械の故障は耳で聞き心で問うた。工場に入ったとたん、どこの調子が悪いか、何の械台が悪いかを直感的にわからなければ、鐘紡では一人前の技術者ではないとよく先生は言われた。また菅原先生を通して感じた技術者としてのすはらしさであるが、それは己れの技術者としての自信と誇りに賭けて、頑固で自説を曲げないということ。どんな人が言ってもわかるまでは妥協はしなかった。当時の若い本科生が学校で学んだ新しい理論でぷつかってきても、「腕でこい。とにかく音でわかるんだから、悔しかったら真似てみろ.」という已れの技術者としての物の見方を確立され、そしてそれを通して行こうとした。それでいて技校を退かれ鐘紡を辞められた後、鐘紡にもよく来られたが決して工場には入られなかった。なぜかと問うと、「私の技術者の時代は終わった。若い人にいろいろ言うわけにはいかぬ」と言っておられた.また経営批判をする若い技術者には、技術を確立し一人前の技術者になってから批判せよと泣いて叱られる一徹な方でもあった。このように自分の技術を確立し 、それを頑なまでに通そうとし、最後若い世代に譲ったときにほ自らきれいに去ったすばらしい先達であった。
 次に私が入社後配属された工場の当時の技師長。「工場の機械の故障は徽夜で直すべきもの、時間が来たら帰るという考えはおかしい。機械ほ戦場で言えば戦車であり、それが故障して翌日の戦いの時までに直らないというのはどうしたことだ。」と、よく言われた。いろいろな見方があるだろうが、これは技術者の考え方として崇高なものではないかと思う。また一月を二十四時間しかないという考えでは徒の技術者であり、二十四時間もあるという考えで三倍も働くならば六十年間の技術、つlまり三世代にわたる技術が二十年の会社生活で蓄積されるとよく言われた。
 あるとき指示が出て映画を見たことがある。帰ってその映画の感想を聞かれたので、その内容について粗筋を述べたところひどく叱られた。毛織の工場にいる者は、映画を見るときまず俳優の服装に注目するのが務めであるというのである。この技師長の下で鐘紡の毛織物を代表する「カレジフラノ」や「絹入りシャークスキン」が生まれた。
 これまでお二人の技術者について述べてきたが、今日全社的な技術者の認識が、「鐘紡には優れた技能者はいるが、技術者ほいない」と言われることのないよう、継承されるべきものをひとつひとつ積み重ねて行くことが大切なのではないか。その意味でも現場における改善の積み上げを、もっと大事にする必要がある.
 抽象的な言い方だが、品質の鐘紡が少しあぐらをかいてきたことはないか。また歴史の上に甘えてきたことはないか。かって史上最も大きな動物であったマソモスが、自ら滅んで行ったのは、マンモス自体が持っているキバがあまりに発育しすぎたため、餌をとることができなくなったからである。それは已れに対する過信であり、また自らを変革できなかったことによる要因ではないかと思う。
四、将来に向って技術の結集を
鐘紡の現状と将来を考えてみると、今は大きな転換の時期であり変革の時期だと思う。企業を四つの類型に分ける。
○興産興業
○興産滅業
○減産興業 
○減産滅業
 事業として最も望ましいのは「興産興業」であり、最もまずいのは「滅産滅業」である。日本の繊維業は最も歴史が良く技術の蓄積の最も大きな産業であるが、技術者として考えねはならないのは後進国が大きく伸びてくることから、日本も英米も産業としては規模の縮小の方向に向うものだということ、その中にあって鐘紡の繊維業を低調な業界の中で一企業として伸ばし得る体質にするのか、またはギブアップしてしまうかということである。
 つまり繊維を事業として興すのか「滅業」させてしまうのかというのは、ここ数年私共に課せられた大きな問題である.この中で私共がしなければならない最も重要なものは、品質、コスト、商品開発であり、それを踏まえて今日まで積み重ねてきた技術をどう結集して行くかである。同じく明治以降商社の歴史よりも古い繊維の販売力、営業の力を結集し、これらを中心に鐘紡の事業を大きく「興業」に持っていかなければならない。
 基本的な問題は、繊維の建直しは他から与えられるものではないということ。自らのカで伸びない限り上向くことはないということである。つまり過去のものをどう結集するかに尽きる。繊維の回復の中で他の会社とは別次元で立ち直るとすれば、それは鐘紡の技術者の中で一千名以上の方が技術学校で学んできたという事実であり、一千名を結集すれば立ち直りは不可能でないと言うことであります。それしかまた方法もないし、力もない。そのような意味で技校修了生を含め、どう技術者として結集するかが現下、最も大きな問題である。
五、 おわりに
 一旦戦場に出た時には、二通りの生きざましかないそうだ。歯を食い縛って前進し、這ってでもなお生きること。二つめは立ち上がってにっこり笑って死ぬ、それによって自らを生かすということだそうである。今日鐘紡の技術についていろいろ言われているが、とにかく修了生の皆さんが歴史の継承の中で、一人一人自己を鮮明にして技術者として生きることが最も重要なことである。
 最後にゲーテの「ファクスト」の中から言葉を贈る。世のすべてを知り尽したファクスト博士が最後に知った真理は「稔り豊かなもののみが真実である」と言うことだ。
 いろいろもっともらしく言われるが、ただ単に理論として与えられたものでなしに、結局自分の腕、頭、全身で体得し自分の血となり肉となった技術のみが、技術者にとっての真実であり、豊かな稔りをもたらすものである。【技校通信 第96号 52.2.1発行】   
参考資料  第1回読書感想文コンクールを実施して
 昭和四十八年初頭、全社中目標「高い教養を持った人になろう」の実行具体策の一環として、技術学校修了生諸兄を対象に読書感想文コンクールを実施することを立案致しました。此の計画を技術学校創設以来の歴代主事に御相談した所、絶大な賛意を寄せられ、課題図書の推考、並びに選考を快くお引受けいただきました。
(注)参考までに推薦図書を列挙すれば次の通りです。
「日本人の忘れもの」 合田雄次著
「タテマエとホンネ」 仁戸田六三郎著
「人を動かす」 D・カーネギー著
「日暮硯」 恩田杢著、西尾実、柿博校註
「氷川清話」 勝海舟著
 推薦図書五冊に先ずもって目を通しましたが、それぞれに内容は異ってはいても、著者の思想、学識が行間に港み出ており、読書感想文コンクール課題図書としては最適の作品と考えられ非常に期待をもって昨秋技校修了生諸兄に参加を呼びかけました。
 海外工場事業揚勤務者を含め、十一目松には五百三篇という予想を遥かに上廻る応募を得、歴代主事には正月休みを返上していただき、応募作品の第一次審査を一目末に終了しました。この結果に基づき、技術学校とは創立以来御呪懇にしていただいている京都大学名誉教授下程勇舌先生に第二次審査を御依頼致しました。
 併行して、岡本進人事室長、川本寛技術学校長並びに小職が応募作品につき最終審査を致しましたが下程勇吉先生の御採点、御講評と殆んど一致した見解となりましたので(昭和四十九年)三月上旬本科第二回生中春雄氏以下七名の入賞作品を決定致しました。優秀作並びに佳作の方々に心から祝辞を申し上げます。
 一冊の本を丹念に読み、自分の言葉で感想文として取纏めることは、大変なエネルギーを要する作業だと思います。イギリスの哲学者フランシス・ベーコンの言葉として「読書は完全な人間をつくり、談話は機転のきく人間をつくり、そして書くことは正確な人間をつくる」と云われております。この観点から、嘗て技術学校にて学んだ読書姿勢を現実の激しい労働の中でも失なうことなく、今回五百名以上の修了生諸兄が応募されたことに心からの敬意を捧げる次第です。
 人生に於ける最も美しい生き方が、自己を鮮明に現わした生き方であるとすれば、書物を通して著者と静かなる「対話」をし、又、書物に凝縮している「精神との交流」をおこなうことは、将に人間的生き方と云えるでありましょう。
 今後も、読書感想文コンクールを引続き開催致しますので、更に多くの方々が参加され、当社に於ける「高貴なる閑暇」を生かすという大きな運動にまで高めていただきたいと思います。各地の鐘星会に於いて、諸々の活動の中にこのテーマを採り入れていただき新しい技校修了生集団に脱皮するよう益々御活躍されるよう心より念じております。
 終りに、第一回の表彰を受ける方々の氏名を記し、その栄誉を讃えたいと思います。
最優秀宮 中 春雄 (北陸合繊工場 本2) 日本人の忘れもの
優秀賞 克子武一 (浜松工場 本3) 氷川清話
小森武雄 (長浜工場 本5) 人を動かす
小田善寛 (長野工場 研14) 日本人の忘れもの
佳  作 山田鎮臣 (大垣工場 研10) 日暮硯
見附芳嗣 (京都工場 本2) 日暮硯
川北清太郎 (松阪工場 研4) 氷川清話
以上
(注)読書感想文コンクールは、昭和四十九年から昭和六十年まで12回実施した。人事・教育の施策の中では稀有の長期間持続できた催事であった。残念ながら、人事部長を去った後に自然消滅した。この間推薦図書を精読し、書評を書き、応募作品を選考したが、100冊近い推薦図書は書架の片隅に現在も残っている。我が人生にとっても「魂のオアシス」となった読書コンクールであった。