エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第拾八章  奥道後物語・鐘紡同期燦燦会(平成15年発未)
 昭和三十三年(一九五八)に鐘紡に入社した大学卒業者は四十四名であり、現在消息がかっている仲間は三十六名である。昭和三十三年入社に因んで「燦燦会」と命名している。名幹事長の武内利夫君の尽力で毎年一回総会、懇親会とゴルフコンペを行っている。   昨年(平成十四年)十一月十一日カネボウ宝塚保養所で開催時に次年度は奥道後で開催しようという話になり、当然のことながら松山在住の私が事務局を引き受けることとなった。再度引き受けることはあり得ないだけに、この一年間の奥道後ホテルとお付き合いについての記録を残しておきたい。 
 奥道後ホテルは昭和三十九年十二月二十五日「四国の大将」こと坪内寿夫氏の手によって建設された。冬、夏の帰省の都度子供たちを連れて奥道後遊園地に出掛けており、山口百恵の映画は殆ど付設の映画館で見ているほどである。平成一〇年に帰郷してからも年数回はホテルを訪れ、食事やジャングル風呂に入浴して英気を養っているし、背後にある松山近郊ではもっとも高い杉立山(六六八・九米)には年二回程度登っている。鐘紡同期の過半は年金生活であり、また東京、大阪からの交通費も馬鹿にならないので「最小の費用で最大の楽しみを」と考え、冬季割引開始初日の十二月一〜二日の両日をセットすることにした。四国は暖国であり紅葉は残っており晩秋の雰囲気をエンジョイできるだろうと考えた。
 総支配人の處幸治さんは国学院大学出身で民俗学の興味があり度々お会いしているし、個人的には毎年八月末の湧ケ淵の龍(大蛇)姫の供養には大蛇を射殺した三好蔵人之助秀の第十六代の末裔に当たることからその大祭に列席しており、同氏を通して藤田哲也営業部長を紹介していただいた。四月二十三日奥道後ホテルに出向き藤田部長と打合せ、宴会込み一泊でオール込み一万二千円、二次会でカラオケル−ム使用の場合はオール込み一万五千円、ゴルフは一万五千円の破格のサ−ビス料金で了解をもらった。五月二日に燦々会のメールリンクで「燦々会奥道後の集い」を流す。十五日には出席申込みが十五名となり、五月二十三日「参加者十五名、ゴルフ二組」で正式申込みをする。 
 八月二十三日の龍姫宮大祭に出席したが、学習研究社からの取材を受けた。ホテルが発行している「おくどうごめーる」に詳細が記載されているので転用する。
「大祭終了後、地元郷土史研究家三好恭治さんにお越し頂き、学習研究社から依頼を受けた早大非常勤講師の東雅夫記者により取材が行われました。 
三好さんは竜姫宮に納められているという蛇骨の元々の所有家の末裔で四年前にリタイアした後郷土史(主に一遍上人)を研究されていますが、幼少の頃より寝物語で「湧ケ淵の大蛇伝説」の話を聞かされていたため、自然にそちらにも興味をお持ちになって、関連する数多くの古文書や資料を調べておられます。
今回、膨大な資料から、湧ケ淵、奥道後周辺に関わる資料を選り抜いてお持ち頂き、さまざまな伝承、お話を伺うことができました。この取材は学研発行の月刊誌「ムー」平成十六年四月号に掲載される予定。   
九月二十二日に奥道後ホテルと奥道後ゴルフCCのパンフレットを付けて最終案内状を発送する。十月、十一月の二ケ月は「燦々会メール」(インタネット)とFAXで観光コースや到着の時間などの詳細な連絡を繰り返す。四月二十三日にホテルに「キックオフ」してから七ヵ月を経ていよいよ燦々会総会の当日を迎えることになった。 
 長距離バスで神戸から来る蟹江君を正午に松山市駅に迎え、午後二時過ぎに「しおかぜ九号」でJR松山駅に着く京都・奈良・大阪の谷本、伊沢、山本君と東京から空路利用の松石君と合流する。四国遍路第四十七番札所熊野山石手寺を参詣し午後四時半にはホテルに入る。夕陽に映えて山々の紅葉は鮮やかであり、観光組の客室は庭園に向いておりホストとして内心ほっとする。日没までに写真を撮り温泉で一汗流して欲しい旨伝える。ロビーで後続の仲間を出迎える。大阪からのマイカー組は武内、阿部、小宮、難波、池西、村上、佐藤君、福井からはJRと空路を利用して杉田君、防府からはJRと船便で速水君、千葉からは深夜バスを利用して羽路君が五時過ぎに集結する。参加者十六名である。
 午後六時からの宴会はホテルの配慮で坪内俊夫翁の全盛期に赤坂の高級料亭「金田中」を移築した「坪田中」で開催する。福井県大野市の遠来から初参加の杉田君の乾杯の音頭で懇親会はスタートした。全員が現況を報告し、八時半にお開きにして全員ロビーで十時頃まで語り合った。カラオケ組(難波、松石、杉田君ほか)と入浴組、ベッドイン組に別れたが、例年の大阪とは異なり、旅情を感じての懇談となった。  
 料亭「坪田中」についてはまったく偶然の出会いからよく承知していた。拙宅は築後二〇〇年以上経過している古建築の範疇に入る陋屋であり、父の死後不在となるので老棟梁に家屋の管理を一任していた。通俗的な表現通りに頑固一徹で費用を度外視して完璧な補修をやってもらった。それだけに毎年数百万円以上の負担になったが、堅固な建物として現存している。この棟梁が坪内翁(当時は世間で持て囃された「今太閤」の実業家であったが)に依頼されて赤坂の高級料亭「金田中」を解体して奥道後の地で組み立てたのであった。詳しくは覚えていないが銘木揃いであった由だが、「幾ら金を掛けても昭和の木は百年以上は無理だ。お宅の家は雨漏りさえしなければあと数百年は持つ。地震でも潰れんから大事にしなさいよ。」と言われたのは良く覚えている。帰省後、土間と炊事場の一部をリビングルームに改築したが、黒光りした昔の梁と柱はリビングから見える様に残してくれた。夕食後のゆったりとした気分での数時間を過ごすリビングでは、この黒光りが何よりの精神安定材(剤)になっているし、客人も喜んでくれている。
 翌朝はバイキングの朝食の後、奥道後ゴルフCC組八名を見送り、観光組は八時半のバスでホテルを出発する。ホストはゴルフは辞退して観光組をアテンドすることにした。  第四十七番札所熊野山【石手寺】は昨日参詣を済ましたので【義安寺】に詣でる。この 寺は河野家ゆかりの寺であり、河野義安隠棲の地であり「源氏蛍」の生息地でもあった。 か次いで国史跡【湯築城址(道後公園)】【子規記念博物館】を散策する。ボランティア が張り切りすぎて時計とにらめっこになった。以下、見物コースを列挙するが、ガイドブックには掲載されていない内容を紹介しておこう。    
【伊佐爾波神社】 
 道後村の守り神でもあった国重要文化財指定の伊佐爾波神社が鎮座する小高い山は、中世の河野氏の居城であった湯築城(現道後公園)に繋がっており、南端が岩崎(町)の地名で残っている。本丸を築城する際に現在地に移設した。伊佐爾波とは「神居ます座」の意である。ところで、豊後の宇佐八幡宮、山城の男山八幡宮と伊予の伊佐爾波八幡宮が日本を代表する八幡づくりである。
 神殿が前後の二つあり、更に奥の神殿が二室あり、前室が椅子、後室が寝台であり昼夜に別れている。何人も後室 後室には入ることが許されていない。私見であるが、この場が寺院建築の夢殿に当たり、ここで神託(夢託)を受けるのではあるまいか。和気清麿が宇佐八幡宮で弓削道鏡の野望 を砕いた神託を受けたのもこの後室ではあるまいか。或いは神託を受ける巫女がこの室で 「神」と夜を共に過ごすことにより神託を受けたのかもしれない。卑弥呼なる「女帝」もまた巫女的性格を保有しており、八幡造りの建造物はもっと注目 してもよい「神なる人」と「巫女」との合い睦みし「場」ではなかったかとも思う。
【宝厳寺】 
 伊佐爾波の岡から坂道を下ったところに一遍生誕寺である宝厳寺がある。一遍聖の末弟 仙阿(伊豆坊)が開祖である。この寺では重要文化財「一遍立像」がもっとも著名であり 長岡祥隆住職の案内で拝観する。一遍像としては日本で最古の立像であるが一般開放して いない。 
 アララギ派の歌人斎藤茂吉はこの寺を愛人長居ふさ子と訪れている。不倫そのものであるが、名目は有名な「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の場所の確認が名目である。長居ふさ子は松山出身であるから彼女が案内したのであろう。二人の縁を取り持ったのは、向島の百花園で開催された正岡子規の三十三回忌の歌会であり妻輝子のスキャンダルで別居中であった時期に、つい・・・ということだろうか。養子は辛いものである。茂吉の生家も養家もともに時宗門徒である。  
【道後温泉本館】   
道後町長伊佐庭如矢なる人物が今日の道後温泉のシンボルである重要文化財の本館を建築した。天皇・皇族専用の館と浴槽を持つ建築物は此処しかないと言われている。汲み湯である。明治以降百余年で入浴されたのは数回というから、飛鳥・奈良朝に聖徳太子や 明、景行、仲哀天皇方や額田王らが入浴された当時の「伊予の湯桁」を再現したほうが明治、大正、昭和天皇方は喜ばれたのでないだろうか。 
 本館は一〇数年かけてこの度改築することになった。時代の流れで女湯の拡張、洗髪設備の設置やらどうやら「銭湯化」するらしい。日本最古の温泉が近代化したらどの様なことになるのか。昔は道後の住民は本館には行かず西湯なる地元の温泉場に出掛けたものだ 今は本館に多くの人が入浴するので観光客に迷惑を掛けている。当方は幼時体験があるから、来客と一緒でないと本館で入浴することはないのだが・・・  
【にぎたつ庵】
 昼食は「にぎたつ庵」で坊っちゃんビールやマドンナビールを飲んだが、この場所が明 治十年代当時の温泉本館建設時の普請場であったことを知る人はあまりいない。その側を 往時三津浜・道後湯之町間の坊っちゃん列車が走っていた。
道後温泉駅から現代の【坊っちゃん列車】に乗り込み、松山で一番の繁華街である大街道一番町で下車する。漱石と子規が共に過ごした【愚陀仏庵】【秋山兄弟生誕地】【子規庵】を見学する。【松山城】は割愛する。この辺りは「坂の上の雲」のコースになるが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の愛読者の殆どがご存じない話のネタを披露しておきたい。 
【坂の上の雲】異聞  
 司馬遼太郎の名著『坂の上の雲』冒頭の「春や昔」は秋山好古の陸軍士官学校入学に至 る経緯が述べられている。好古が伊予松山から大阪に出て大阪府師範学校を卒業して明治 九年名古屋師範学校附属小学校に赴任する。附属小学校の主事(校長)は伊予松山藩出身の和久正辰である。   
 司馬は次のように和久正辰を描いている。「正辰は、年のころ四十五、六だろう。きれいな江戸弁をつかうのは、旧藩時代、江戸の定府だからであった。若いころ幕府の官学である昌平黌に学んだというから、よほどの秀才だったにちがいない。それほどの男が、たかが師範学校の附属小学校主事をしているというのは、戊辰のとき賊方にまわった松山藩出身だからにちがいない。・・・」これが真っ赤な嘘である。司馬遼太郎の小説を歴史書と錯覚して史実の吟味なしに引用しているのは困りものである。
 和久正辰は嘉永五年(一八五二)に生まれ、明治元年松山藩洋学所に入り、明治二年藩命により慶応義塾に入社し明治五年七月に卒業、明治九年(一八七六)愛知県師範学校教頭に任命されている。四十五才どころか二十四才の青年である。この和久正辰の勧めにより秋山好古は翌年陸軍士官学校を受験し、後年の陸軍大将が誕生することになるのだが詳細は割愛する。 司馬さんは偉いのは初版の記述をすんなりと訂正していることである。尚秋山好古の息子は二人とも慶応義塾に学んでいるが、青春時代の和久正辰の実像が子息の進学に当たって去来したのではなかろうか。                          
参考までに鐘紡三十三年入社四十四名の名前を列挙しておきたい。  (注)○印は出席者 ●印は逝去者  
○阿部 好佑  粟野 政美   荒井 要 ○池西 広幸 ○伊沢 信雄
 石坂 多嘉生   石川 浩  伊地知 壮介 ●江口 和夫  大浜 祐三 
 小川 康弘  奥村 力  小倉 俊一郎 ●加藤 健三 ○蟹江 正昭
 岸本 義夫  木村 一成 ●香野 和美  ○小宮 邦彦  児島 寛治 
○佐藤 昭夫   杉谷 恵美子   鈴木 義彦 ○杉田 龍雄    ○谷本 健夫
○武内 利夫   竹原 暢夫    壺坂 竜也  冨岡 昭   西島 靖
○難波 進  ●中津川 章二 ○羽路 正治 ○速水 恒夫   平井 利良
 福岡 信義   ○松石 恒雄 ○三好 恭治 ○村上 巌   向井 裕彦
 武藤 一治   山岸 博  山下 善臣 ,○山本 隆二  ,(44名)