ステンカ・ラ−ジン |
昭和一桁から昭和一〇年代に誕生した世代にとっては『青年歌集』を口ずさみ愛唱した歌も多いのではなかろうか。新宿や渋谷の歌声喫茶で昼間は学生、そして夜にはサラリ−マンや勤労者が押し寄せアコーデオンの調べで大声で歌に酔ったものだった。四国から上京し慶応義塾に入学し、教養学部の二年間は神奈川県の日吉キャンパスで過ごした。級友の菊地章君以外は誰に誘われたかハッキリしないが、昼食の時間帯には木陰を求めて『青年歌集』を仲間と歌い、アコーデオンをマスターすることになった。週二日銀座のヤマハ楽器に出掛けレッスンを受けた。資料を繙くと日本アコーデオン協会の創設時のメンバーに登録れている。この歌声運動もそれから数年経って日本共産党の下部組織である民青として正体を表すことになるのだが、当時は関鑑子さんは活き活きしたおばさんだっし、ぬやまひろしは日本共産党書記長の徳田球一の弟とは知っていたがあまり警戒はしていなかった。現在でも『青年歌集』は第五篇まで大切に保存している。 |
『青年歌集』第一巻の巻頭の三っの歌は日吉のキャンパスで肩を組み合って合唱した歌だし、文学部のお嬢さんとフォークダンスを興じた旋律でもあるので印象が強烈である。その中の一人は鐘紡同期入社の西島靖君の令夫人であることが後年になって分かった。 |
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「美しい祖国の為に」 井上順一作詩 関忠亮作曲 |
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広々とした海 海に立つ島 美しい国の国の わかものぼくら |
広々とした野と 野のはての山 働く人の人の 娘わたしたち |
破られた村と町 けれど見よ強くぼくらの胸に燃える火 |
汚された兄妹 けれど今若きわたしたち平和を守る |
美しい祖国のために 鎖を絶つは今 固く手を結び 結び 闘う我等 闘う我等 |
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「若者よ」 ひろしぬやま作詩 関忠亮作曲 |
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若者よ 体をきたえておけ |
美しい心が たくましい体に |
からくも 支えられる日がいつかは来る |
その日のために 体をきたえておけ 若者よ |
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「我等の仲間」 ダンツキェラー ドレエバ作詩 ブランテル作曲 |
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仲間にはいゝ娘が沢山働いてる |
パリッとした若者も 胸をときめかす |
月を見ては星を見ては 溜息と笑い |
みんな若い明るい青年 働く仲間 |
その意気で素晴らしい国きずく我等の仲間 |
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今回のロシアへの旅で忘れかけていた歌の数々を思い出した。 |
「ステンカ・ラージン」 |
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久遠に轟くヴォルガの流れ 目にこそ映えゆく・・・ |
「仕事の歌 |
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悲しい歌 嬉しい歌 たくさん聞いた中で 忘れられぬ一つの歌・・・ |
「トロイカ」 |
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雪の白樺並木 夕日が映える 走れトロイカ朗らかに・・・ |
「赤いサラファン」 |
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赤いサラファン縫うてみても 楽しいあの日は・・・ |
「ぐみの木」 |
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何故か揺れる細きぐみよ 頭うなだれ思い込めて・・・ |
「カチューシャ」 |
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リンゴの花ほころび 川面に霞立ち 君なき里にも・・・ |
「泉のほとり」 |
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泉に水汲みに来て娘らが話していた 若者がここに来たら・・・ |
「灯」 |
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夜霧の彼方に別れを告げ 雄々しき益荒男出でて行く 窓辺に・・・ |
「黒い瞳の」 |
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黒い瞳の若者が 私の心を虜にした 諸手を差しのべ若者を・・・ |
「ヴォルガの舟唄」 |
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えーこら えーこら もひとつ えーこら ・・・ |
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などなどである。一番の歌詞だけは正確に覚えているのは奇跡に近い。 |
ところで、「ステンカ・ラージン」の歌詞からヴォルガ川のイメ−ジは湧いてくるのだが、それにしてもこの歌詞は難しい。歴史的な背景が分からないと、何でペルシャの姫がこの歌に登場するのか皆目見当がつかない。 |
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(一)久遠に轟く ヴォルガの流れ 目にこそ映えゆく ステンカ・ラージンの船 |
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太古から滔々と流れるヴォルガ川はカスピ海に流れ込み、西方のドン川はアゾフ海・黒海に注ぎ込む。ドン川、ヴォルガ川を舞台に一六六〇年代に誇り高いカザーク(コサック)の指導者ステンカ・ラージン(ステバン・チモ−フェーヴィッチ・ラ−ジン)の下でコサック船隊がロシア国王、教会、商人、トルコの船隊を襲い略奪を繰り返し、ロ シアの領主の圧政に虐げられた農奴や貧困コサックに分捕り品を分け与えていた。 |
(二)ペルシャの姫なり 燃えたる唇と うつつに華やぐ 宴か流る |
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一六六九年ラ−ジンとカザ−クはメネイド汗の指揮するペルシャ艦隊を打ち破り、メネイド汗を取り逃がしたがゼイナブ姫を捕虜とした。カザ−ク側も大損害を受け食料も弾薬も尽きてしまう。飢餓状況の中でもペルシャの姫は戦利品としてラージンは可愛がった。 |
(三)ドン・コサックの群れに 今沸く誹り 奢れる姫なり 飢ゆるは我等 |
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ペルシャから脱走したカザ−クから捕虜となったラージンの部下が全員惨殺されたこ とを知り、ペルシャの捕虜全員をヴォルガに投げ捨てろの命じたが、部下から「お前の 好きな女を投げ込め」と反発され姫を頭上高く差し上げて川に投げ込んだ。続いて両手を縛られたペルシャ兵が次々と投げ込まれた。 |
(四)そのかみ帰らず ヴォルガの流れ 醒めしやステンカ・ラージン 眉ねぞ哀し |
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一六七〇年春、ラージンは七〇〇〇人の部隊共に「ドン川からヴォルガ川に出て、北上してロシアに向かい、皇帝の敵や裏切り者の大貴族、知事、役人を打ち倒し、貧しい人間に自由を与える」と宣言してモスクワへ進撃する。農奴や貧困コサックが加わりロシアを大きく揺り動かす農民戦争となる。反乱者は占領地域の知事、役人、領主、大商 人を皆殺しにし、又政府陣営も反乱者に報復と恐怖の政策をとった。一六七一年ラージンは捕虜となり処刑されるが、農奴や貧困コサックはラージンの蘇 りを信じ、農民の間に伝説を生んだ。二五〇年を経た一九一七年のロシア・ソヴエット 革命の担い手であった農民の脳裏をかすめた人物はステンカ・ラージンであったろう。 残念ながらプロレタリアート革命は共産党一国独裁の形式をとり、農民は「支配者」でなく「被支配者」の地位に甘んじなければならなかった。 |
(注)昭和三五年当時に求めた『世界ノンフィクション全集七巻』収録の金子幸彦『ステンカ・ラ−ジン』を再読し、内容を簡潔にスケッチした。 |
上京の節、新宿の歌声喫茶「カチューシャ」に立ち寄ったことがあるが、松山で歌声喫茶を週末だけ開催したら、「東京の青春」を思い出した老年者や歌声運動で「歌って踊って恋をし」た熟年の男女が集まってくれないだろうか。 |
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ロシア皇帝たち ◎は観光した場所・建物など |
ヨーロッパの幾つかの国を観光して歩いたが、歴史のある国の多くは二、三〇〇年いや、一〇〇年前までは君主国であった。 北から挙げると、フィンランド、スエーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、スペインなどがあるし、未だ訪れていない国にポルトガル、オーストリア、トルコと限りなく多い。今夏(二〇〇三年)ペテルスブルグとモスクワで各三連泊したに過ぎないが、ロシアでは皇帝たちの亡霊が今日でも生きている様に思えてならない。 |
一〇一七年史上初めてのプロレタリア独裁という名の共産党の一党独裁を成就したソヴィエト連邦が皇帝たちを抹殺したが、一九八六ペレストロイカ(改革)が始まり、大統領制の導入、史上経済への移行のプロセスを経て一九九一年ソ連共産党が解散し、エリツィンを大統領とするロシア連邦を中心に一一の独立国家共同体が結成されたことは記憶に鮮やかに残っている。ペテルブルグもレニンブルグ、レニングラードと歴史の進展と共に名を変えてきたがやっと元のサンクトペテルブルグに戻った。皇帝たちもロシアの市民も二〇世紀中の急激な変革に戸惑いの色を隠せないのであろう。 |
ロシアの起源をどの時代に求めるかだが、教科書風に言えば、四世紀後半アジア系のフン族の移動を契機に東ゴート族、西ゴート族の南下が起こり所謂「ゲルマン民族大移動」となる。このゲルマン民族の移動跡に定住したのがスラブ民族であり東スラブ系(ロシア人・ウクライナ人・白ロシア人など)、西スラブ系(ポ−ランド人・チェコ人・スロバ−ク人。ソルプ人など)、南スラブ系(スロベニア人・セルビア人・クロアチア人・ブルガリア人など)に分かれる。西スラブ系はカトリックに改宗し、東スラブ系と南スラブ系はギリシャ正教に改宗し独自の文化を持つことになった。 |
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〔リューリク王朝〕 |
五世紀後半にスラブ人バリャーネ族のキー兄弟がドニエブル河畔に町を建設しキエフ(キー兄弟の町)と呼んだという。一方北方のラドカ湖近くにノブコロド(新しい町)が建設された。やがてノブコロイドでノルマン人ワリャーグ族のリューリクにより「ルーシの国」が建国される。 |
九五六年キエフ公イーゴリの妻オリガがコンスタンチノーブルでキリスト教の洗礼を受け、次のウラジーミル大公は東ローマ皇帝の妹アンナを妻に迎え、ギリシャ正教を国教としてビザンチン文化を享受することになる。一二三七年モンゴル軍の侵攻でキエフは崩壊しキャピチャック汗国を建国し、ロシアは「タタ−ルの軛」下に置かれる。更にギリシャ正教の大主教府はキエフからモスクワに移り、イワン一世によりクレムリン内にウスベンスキー寺院が建立される。 |
◎クレムリン・ウスペンスキー大聖堂(&十二使徒聖堂) |
ロシア建国の父と称せられるイワン三世〔大帝〕(在位一四六二〜一五〇五)はビザンチン帝国最後の皇帝パレオロゴスの姪ソフィアと再婚し、ギリシャ正教のロシア正教として引き継ぎ、旧帝国の国章である双頭の鷲をロシアの国章に定め、中央集権国家と専制ツァーリズムを確立する。初めて「全ロシアの大公」と自称した。 |
◎赤の広場(元来は交易広場) |
◎クレムリン・サボナールナヤ広場の聖堂群(アルハンゲリスキー聖堂 イヴァン大帝 の鐘楼ほか) |
イワン四世・雷帝(在位一五三三〜一五八二)はウスベンスキー寺院で皇帝(ツァーリの戴冠式挙行し東方のタタール勢力を一掃し権勢を誇るが親衛隊に依る統治は破局を迎える。実子イワンの撲殺によりリューリク王朝は崩壊し、一六一三年ロマノフ王朝の成立まで「空位の時代」が続く。 |
◎聖ヴァシーリー聖堂 |
◎セルギエフ・ポサードのトロイツキー聖堂、ウスペンスキー聖堂 |
◎コローメンスコエのヴォズネセーニエ聖堂 |
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〔ロマノフ王朝〕 |
この王朝はイワン雷帝の娘(ロマノフ家フェオドルに嫁す)の子であるミハイル・ロマノフ(在位一六一三〜一六四五)が即位するが、一九一八年ニコライ二世(在位一八九四〜一八五五)ロシア革命で処刑される迄の三〇〇年続くことになる。ニコライ二世の皇太子時代に日本を訪問されたが、所謂「大津事件」が発生し大政治問題となった。ロシア近代化の父と称せられるピョートル大帝(在位一六八二〜一七二五)アレクセイ皇帝の一四番目の子として生まれ一〇歳で即位するが、異母姉ソフィア(摂政)との骨肉の争いの後独裁者として君臨し、バルト海の出口に首都を建設し自らの名を付けたサンクト・ペテルブルグが誕生する。 |
◎デカプリスト広場(元老院広場)の「青銅の騎士像」(ピョートル大帝像) |
◎ピョートル夏宮殿〔ペテルホフ〕 |
◎「冬の宮殿」(エルミタージュ美術館) |
◎ピュートル小屋博物館 |
◎ペトロパヴァロフスク要塞 |
◎アレクサンドル・ネフスキー大修道院 |
◎夏の宮殿・夏のテイエン |
ピョートル大帝の死後皇后エカテリーナ一世(在位一七二五〜一七二七)が誕生する。女王の死後宮廷内の陰謀の渦と近衛連隊の動きで女帝乱立時代が続く。エリザベータ女帝(在位一七四一〜一七六二)後、姉の息子ピョートルが王位を継承するが僅か六ヵ月で廃位幽閉の後謎の死を遂げ、皇后エカテリーナがエカテリーナ二世となる。 |
エカテリーナ二世(在位一七六二〜一七九六)の治世はサンクト・ペテルブルグの黄金期で、ピョートル大帝の近代化事業を文化、学術、教育の面で引き継ぎ、フランス文化のの移入がこの地で華を開くことになった。私生活での異性関係の話題も多い。江戸末期ロシアに漂流した大黒屋光太夫をエカテリーナ宮殿の拝謁している。実子パーウェル一世(在位一七九六〜一八〇一)とは終生不仲であったが、パーヴェル一世はミハロフスキー宮殿で絞殺され、エカテリーナ二世が手元で育てた愛孫のアレクサンドル皇太子が継承しアレサンドル一世(在位一八〇一〜二五)となる。皇太子は父帝の暗殺計画をしっていたというから話はややこしくなる。 |
◎エカテリーナ宮殿(一七五六年完成) 〔ツアールスコエ・セロ〕 |
◎「冬の宮殿」(エルミタージュ美術館) |
アレクサンドル一世の後弟のニコライ一世(在位一八二五〜五五)が継ぎ、アレクサンドル二世(在位一八五五〜八一)は「人民の意思」を名乗るテロリストに爆弾を投げられペテルブルグの運河通りで息絶えた。この場所に父を偲んでアレクサンドル三世は「血の上の聖堂」を建てた。アレクサンドル三世(在位一八八一〜九四)、ニコライ二世(一八 九四〜一九一七)と続き、ロシア革命で終幕を迎える。 ピュートル大帝からニコライ二世までの歴代ツアーリはペトロパヴァロフスク要塞内の同名の聖堂に安置されている。ペトロパヴァロフスク要塞の建設が始まった一七〇三年五一六日がサンクト・ペテルブルグの誕生の日でもある。 |
ところで最後の皇帝ニコライ二世であるが、ロシア革命後エカテリンブルグ郊外の邸に妻子共に幽閉され全員射殺されエカテリンブルグの森の中に埋葬された。ソ連崩壊後発掘された九遺体の内ニコライ二世の遺骨を特定する必要に迫られた。明治二四年(一八九一)来日中の皇太子ニコライが大津から京都に人力車で向かう途中巡査津田三蔵に襲われ傷を負う。例の「大津事件」であるが、応急措置の際の血染めのハンカチが大津市歴史博物館に残っており、この血をロシア調査団がDNA判定した。結果「一致せず」であった。とするとペトロパヴァロフスク要塞内のペトロパヴァロフスク聖 堂に眠るニコライ二世は皇太子ニコライとは違う男ということになる。一体どういうことなのか。ロシアでは公表されていない事実である。(文芸春秋第八一巻一二号吉村昭) |
◎新エルミタージュ美術館 |
◎イサーク聖堂 |
◎ニコライ一世馬上像(イサク広場) |
◎スパース・ナ・クラヴィー聖堂(血の上の聖堂・キリスト復活聖堂) |
尚、現在のロマノフ家の当主はアレクサンドル三世の弟ウラジミールの玄孫に当たるゲオルギー(〜一九八一生まれ)が現存している。 皇帝たちの多くは専制君主として武力を背景に内外の権力を振るい、結果としては中世から近代に向かって巨大なロシア帝国を築き上げた。ソヴィエト連邦も国力を保持し、今日でも世界第二の巨大国家の地位を保持している。 |
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ネフスキー大通り |
二十歳前後のマルクス青年であった頃、もしかしたら革命が起きるのではないかと真剣に考えた。あの当時、マルクス、エンゲルス、トロッキー、レーニンからスターリン論文は、私にとってはバイブルでもあった。プーシキン、ゴーリキー、ツゲーネフ、ドストエスキー、トルストイ、チェーホフの名作も一応は目を通した。今回のロシア旅行に際して本箱の片隅にあったジョン・リード「世界をゆるがした十日間」、N・N・スハノフ『ペテルブルグ一九一七年』と金子幸彦『ステンカ・ラージン』を再読したのだが、全然頭に入らない。帰国してから思い出そうとしても、レニーングラードやペテルグラードの印象は皆無に近く、帝政ロシア(ピョートル大帝・エカテリーナ二世)から一足飛びに現代に飛び、ソヴィエト時代が浮かび上がってこないことに驚き、また我ながら呆れ果てた次第である。 |
エルミタージュ美術館を出てからアレクサンドル・ネフスキー修道院前までの半日のぶらぶら歩きを見たままに記述してみたい。散策のお付き合いを頂ければ幸せである。サンクト・ペテルブルグのネフスキー大通りは平安時代の京都の都大路であり、東京の銀座通りである。大ネヴァ川沿いの旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー修道院までの四・五キロメートルの目抜き通りである。 |
旧海軍省前の青銅の騎士(ピョートル大帝)像のあるデカプリト広場からはネフスキー大通りの他にコロホーバヤ通りとヴァッスネセンスキー通りの二本が放射線状に延びている。ヴァッスネセンスキー通りにはイサク聖堂、アストリアホテル、マリア宮殿(市庁舎)、ニコライ一世の馬上像、モイカ運河などが纏まって観光できる。真ん中のコロホーバヤ通りは歩いていない。ネフスキー大通りはゴーリキーが「ネフスキー通り」なる作品を書いているし、トルストイやドストエフスキーの小説にも登場する大通りである。ピョートル大帝以下歴代の皇帝や貴族たちが乗馬で、馬車で往来したであろうし、一九一七年のロシア革命では大群衆が自由とパンを求めてデモ行進し、プロレタリア革命を成就させたメイン道路でもある。 |
モイカ運河近くにプーシキンたちが好んで集まった文学カフェがあり、右手にストロガノス宮殿とカザン聖堂が迫る。一八一〇年に完成した聖堂の半円形回廊は九四本のコリント様式の柱がネフスキー大通りに向けて広がっている。聖堂の前には、ナポレオン戦争に勝利したクトゥーゾフ総司令官とバルクライ・ド・トーリーの像が立っている。聖堂の中にフランス軍から奪った軍旗が数本飾ってあるとのことだが、礼拝中でもあり厳粛な雰囲気だったので確認できなかった。日本で云えば、日露戦争で勝利した時に奪ったロシアの軍旗を未だに掲げて「ロシア何するものぞ」と現代人に確認させているようなものだからその執念深さには「恐れ入谷の鬼子母神」様である。この調子でいけば、中国や朝鮮半島の抗日・反日記念館は数世紀は厳然と残って歴史教育の徹底を図ることになるのだろう。博多に「元寇の役記念館」があったが、若者たちはあまり立ち寄っていなかった。日本人の忘れっぽさを暗示しているのかもしれない。 |
グリバエードフ運河を越すと左手に芸術広場があり劇場やロシア美術館、ロシア民族学博物館などが集まっている。「グランドホテルヨーロッパ」近くの「ミュージカルコメディー劇場」で昨夜バレー「白鳥の湖」を観劇した。八月と云えばバレーのシーズンオフであるが、小劇場の前列三列目でバレーナの激しい息づかいを身近かに感じながら三時間至福のひとときを送ることができた。更に右手にはガスティーヌイ・ドヴォ−ル(デパート)があり、一日三〇万人以上出入りするとガイドブックに書いているが、百貨店と云うより専門店の集合体である。広過ぎるので館内を通り抜けした。近くのエカテリーナ二世の銅像があるオストロフスキー広場で休憩し、広場の奥の一八三二年建設のアレクサンドリンスキー劇場(旧プーシキンドラマ劇場)を眺める。大通りのカフェでアイスクリームを食べながら、町行く人を飽かずに眺める |
三番目のフォンタンカ運河を越え、三丁程過ぎると蜂起広場に出る。モスクワ行きのモスクワ駅とメトロ(地下鉄)の「マヤコフスカヤ駅」があり、モスクワ駅の構内に佇んでモスクワに旅立つ人を見送り、モスクワからペテルブルグに到着した旅人を迎える。停車場の雰囲気は万国共通であろう。人間は旅人であり、人生は旅であることを実感する。 宿舎のホテルモスクワもアレクサンドル・ネフスキー大修道院ももう直ぐだ。あと一息だ。頑張ろう。 |
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