エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第拾六章 ロシア旅愁 (平成15年発未)
 ステンカ・ラ−ジン     
 昭和一桁から昭和一〇年代に誕生した世代にとっては『青年歌集』を口ずさみ愛唱した歌も多いのではなかろうか。新宿や渋谷の歌声喫茶で昼間は学生、そして夜にはサラリ−マンや勤労者が押し寄せアコーデオンの調べで大声で歌に酔ったものだった。四国から上京し慶応義塾に入学し、教養学部の二年間は神奈川県の日吉キャンパスで過ごした。級友の菊地章君以外は誰に誘われたかハッキリしないが、昼食の時間帯には木陰を求めて『青年歌集』を仲間と歌い、アコーデオンをマスターすることになった。週二日銀座のヤマハ楽器に出掛けレッスンを受けた。資料を繙くと日本アコーデオン協会の創設時のメンバーに登録れている。この歌声運動もそれから数年経って日本共産党の下部組織である民青として正体を表すことになるのだが、当時は関鑑子さんは活き活きしたおばさんだっし、ぬやまひろしは日本共産党書記長の徳田球一の弟とは知っていたがあまり警戒はしていなかった。現在でも『青年歌集』は第五篇まで大切に保存している。 
 『青年歌集』第一巻の巻頭の三っの歌は日吉のキャンパスで肩を組み合って合唱した歌だし、文学部のお嬢さんとフォークダンスを興じた旋律でもあるので印象が強烈である。その中の一人は鐘紡同期入社の西島靖君の令夫人であることが後年になって分かった。 
 「美しい祖国の為に」 井上順一作詩 関忠亮作曲   
 広々とした海 海に立つ島 美しい国の国の わかものぼくら
 広々とした野と 野のはての山 働く人の人の 娘わたしたち 
 破られた村と町 けれど見よ強くぼくらの胸に燃える火
 汚された兄妹  けれど今若きわたしたち平和を守る   
 美しい祖国のために 鎖を絶つは今 固く手を結び 結び 闘う我等 闘う我等  
 「若者よ」 ひろしぬやま作詩 関忠亮作曲 
 若者よ 体をきたえておけ  
 美しい心が たくましい体に      
 からくも 支えられる日がいつかは来る    
 その日のために 体をきたえておけ  若者よ 
 「我等の仲間」 ダンツキェラー ドレエバ作詩 ブランテル作曲   
 仲間にはいゝ娘が沢山働いてる
 パリッとした若者も 胸をときめかす
 月を見ては星を見ては 溜息と笑い   
 みんな若い明るい青年 働く仲間  
 その意気で素晴らしい国きずく我等の仲間
今回のロシアへの旅で忘れかけていた歌の数々を思い出した。 
 「ステンカ・ラージン」 久遠に轟くヴォルガの流れ 目にこそ映えゆく・・・ 
 「仕事の歌 悲しい歌 嬉しい歌 たくさん聞いた中で 忘れられぬ一つの歌・・・ 
 「トロイカ」 雪の白樺並木 夕日が映える 走れトロイカ朗らかに・・・ 
 「赤いサラファン」 赤いサラファン縫うてみても 楽しいあの日は・・・ 
 「ぐみの木」 何故か揺れる細きぐみよ 頭うなだれ思い込めて・・・  
 「カチューシャ」 リンゴの花ほころび 川面に霞立ち 君なき里にも・・・
 「泉のほとり」 泉に水汲みに来て娘らが話していた 若者がここに来たら・・・ 
 「灯」 夜霧の彼方に別れを告げ 雄々しき益荒男出でて行く 窓辺に・・・ 
 「黒い瞳の」 黒い瞳の若者が 私の心を虜にした 諸手を差しのべ若者を・・・ 
 「ヴォルガの舟唄」 えーこら えーこら もひとつ えーこら ・・・ 
などなどである。一番の歌詞だけは正確に覚えているのは奇跡に近い。   
 ところで、「ステンカ・ラージン」の歌詞からヴォルガ川のイメ−ジは湧いてくるのだが、それにしてもこの歌詞は難しい。歴史的な背景が分からないと、何でペルシャの姫がこの歌に登場するのか皆目見当がつかない。  
 (一)久遠に轟く ヴォルガの流れ 目にこそ映えゆく ステンカ・ラージンの船 
 太古から滔々と流れるヴォルガ川はカスピ海に流れ込み、西方のドン川はアゾフ海・黒海に注ぎ込む。ドン川、ヴォルガ川を舞台に一六六〇年代に誇り高いカザーク(コサック)の指導者ステンカ・ラージン(ステバン・チモ−フェーヴィッチ・ラ−ジン)の下でコサック船隊がロシア国王、教会、商人、トルコの船隊を襲い略奪を繰り返し、ロ シアの領主の圧政に虐げられた農奴や貧困コサックに分捕り品を分け与えていた。 
 (二)ペルシャの姫なり 燃えたる唇と うつつに華やぐ 宴か流る     
 一六六九年ラ−ジンとカザ−クはメネイド汗の指揮するペルシャ艦隊を打ち破り、メネイド汗を取り逃がしたがゼイナブ姫を捕虜とした。カザ−ク側も大損害を受け食料も弾薬も尽きてしまう。飢餓状況の中でもペルシャの姫は戦利品としてラージンは可愛がった。    
 (三)ドン・コサックの群れに 今沸く誹り 奢れる姫なり 飢ゆるは我等 
ペルシャから脱走したカザ−クから捕虜となったラージンの部下が全員惨殺されたこ とを知り、ペルシャの捕虜全員をヴォルガに投げ捨てろの命じたが、部下から「お前の 好きな女を投げ込め」と反発され姫を頭上高く差し上げて川に投げ込んだ。続いて両手を縛られたペルシャ兵が次々と投げ込まれた。     
 (四)そのかみ帰らず ヴォルガの流れ 醒めしやステンカ・ラージン 眉ねぞ哀し
 一六七〇年春、ラージンは七〇〇〇人の部隊共に「ドン川からヴォルガ川に出て、北上してロシアに向かい、皇帝の敵や裏切り者の大貴族、知事、役人を打ち倒し、貧しい人間に自由を与える」と宣言してモスクワへ進撃する。農奴や貧困コサックが加わりロシアを大きく揺り動かす農民戦争となる。反乱者は占領地域の知事、役人、領主、大商 人を皆殺しにし、又政府陣営も反乱者に報復と恐怖の政策をとった。一六七一年ラージンは捕虜となり処刑されるが、農奴や貧困コサックはラージンの蘇 りを信じ、農民の間に伝説を生んだ。二五〇年を経た一九一七年のロシア・ソヴエット 革命の担い手であった農民の脳裏をかすめた人物はステンカ・ラージンであったろう。 残念ながらプロレタリアート革命は共産党一国独裁の形式をとり、農民は「支配者」でなく「被支配者」の地位に甘んじなければならなかった。 
(注)昭和三五年当時に求めた『世界ノンフィクション全集七巻』収録の金子幸彦『ステンカ・ラ−ジン』を再読し、内容を簡潔にスケッチした。 
 上京の節、新宿の歌声喫茶「カチューシャ」に立ち寄ったことがあるが、松山で歌声喫茶を週末だけ開催したら、「東京の青春」を思い出した老年者や歌声運動で「歌って踊って恋をし」た熟年の男女が集まってくれないだろうか。 
 ロシア皇帝たち        ◎は観光した場所・建物など     
 ヨーロッパの幾つかの国を観光して歩いたが、歴史のある国の多くは二、三〇〇年いや、一〇〇年前までは君主国であった。 北から挙げると、フィンランド、スエーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、スペインなどがあるし、未だ訪れていない国にポルトガル、オーストリア、トルコと限りなく多い。今夏(二〇〇三年)ペテルスブルグとモスクワで各三連泊したに過ぎないが、ロシアでは皇帝たちの亡霊が今日でも生きている様に思えてならない。
 一〇一七年史上初めてのプロレタリア独裁という名の共産党の一党独裁を成就したソヴィエト連邦が皇帝たちを抹殺したが、一九八六ペレストロイカ(改革)が始まり、大統領制の導入、史上経済への移行のプロセスを経て一九九一年ソ連共産党が解散し、エリツィンを大統領とするロシア連邦を中心に一一の独立国家共同体が結成されたことは記憶に鮮やかに残っている。ペテルブルグもレニンブルグ、レニングラードと歴史の進展と共に名を変えてきたがやっと元のサンクトペテルブルグに戻った。皇帝たちもロシアの市民も二〇世紀中の急激な変革に戸惑いの色を隠せないのであろう。
  ロシアの起源をどの時代に求めるかだが、教科書風に言えば、四世紀後半アジア系のフン族の移動を契機に東ゴート族、西ゴート族の南下が起こり所謂「ゲルマン民族大移動」となる。このゲルマン民族の移動跡に定住したのがスラブ民族であり東スラブ系(ロシア人・ウクライナ人・白ロシア人など)、西スラブ系(ポ−ランド人・チェコ人・スロバ−ク人。ソルプ人など)、南スラブ系(スロベニア人・セルビア人・クロアチア人・ブルガリア人など)に分かれる。西スラブ系はカトリックに改宗し、東スラブ系と南スラブ系はギリシャ正教に改宗し独自の文化を持つことになった。   
〔リューリク王朝〕   
 五世紀後半にスラブ人バリャーネ族のキー兄弟がドニエブル河畔に町を建設しキエフ(キー兄弟の町)と呼んだという。一方北方のラドカ湖近くにノブコロド(新しい町)が建設された。やがてノブコロイドでノルマン人ワリャーグ族のリューリクにより「ルーシの国」が建国される。   
 九五六年キエフ公イーゴリの妻オリガがコンスタンチノーブルでキリスト教の洗礼を受け、次のウラジーミル大公は東ローマ皇帝の妹アンナを妻に迎え、ギリシャ正教を国教としてビザンチン文化を享受することになる。一二三七年モンゴル軍の侵攻でキエフは崩壊しキャピチャック汗国を建国し、ロシアは「タタ−ルの軛」下に置かれる。更にギリシャ正教の大主教府はキエフからモスクワに移り、イワン一世によりクレムリン内にウスベンスキー寺院が建立される。
◎クレムリン・ウスペンスキー大聖堂(&十二使徒聖堂) 
 ロシア建国の父と称せられるイワン三世〔大帝〕(在位一四六二〜一五〇五)はビザンチン帝国最後の皇帝パレオロゴスの姪ソフィアと再婚し、ギリシャ正教のロシア正教として引き継ぎ、旧帝国の国章である双頭の鷲をロシアの国章に定め、中央集権国家と専制ツァーリズムを確立する。初めて「全ロシアの大公」と自称した。  
◎赤の広場(元来は交易広場)   
◎クレムリン・サボナールナヤ広場の聖堂群(アルハンゲリスキー聖堂 イヴァン大帝  の鐘楼ほか) 
 イワン四世・雷帝(在位一五三三〜一五八二)はウスベンスキー寺院で皇帝(ツァーリの戴冠式挙行し東方のタタール勢力を一掃し権勢を誇るが親衛隊に依る統治は破局を迎える。実子イワンの撲殺によりリューリク王朝は崩壊し、一六一三年ロマノフ王朝の成立まで「空位の時代」が続く。     
◎聖ヴァシーリー聖堂
◎セルギエフ・ポサードのトロイツキー聖堂、ウスペンスキー聖堂 
◎コローメンスコエのヴォズネセーニエ聖堂    
 〔ロマノフ王朝〕 
 この王朝はイワン雷帝の娘(ロマノフ家フェオドルに嫁す)の子であるミハイル・ロマノフ(在位一六一三〜一六四五)が即位するが、一九一八年ニコライ二世(在位一八九四〜一八五五)ロシア革命で処刑される迄の三〇〇年続くことになる。ニコライ二世の皇太子時代に日本を訪問されたが、所謂「大津事件」が発生し大政治問題となった。ロシア近代化の父と称せられるピョートル大帝(在位一六八二〜一七二五)アレクセイ皇帝の一四番目の子として生まれ一〇歳で即位するが、異母姉ソフィア(摂政)との骨肉の争いの後独裁者として君臨し、バルト海の出口に首都を建設し自らの名を付けたサンクト・ペテルブルグが誕生する。
◎デカプリスト広場(元老院広場)の「青銅の騎士像」(ピョートル大帝像)  
◎ピョートル夏宮殿〔ペテルホフ〕    
◎「冬の宮殿」(エルミタージュ美術館)   
◎ピュートル小屋博物館    
◎ペトロパヴァロフスク要塞   
◎アレクサンドル・ネフスキー大修道院 
◎夏の宮殿・夏のテイエン   
 ピョートル大帝の死後皇后エカテリーナ一世(在位一七二五〜一七二七)が誕生する。女王の死後宮廷内の陰謀の渦と近衛連隊の動きで女帝乱立時代が続く。エリザベータ女帝(在位一七四一〜一七六二)後、姉の息子ピョートルが王位を継承するが僅か六ヵ月で廃位幽閉の後謎の死を遂げ、皇后エカテリーナがエカテリーナ二世となる。
 エカテリーナ二世(在位一七六二〜一七九六)の治世はサンクト・ペテルブルグの黄金期で、ピョートル大帝の近代化事業を文化、学術、教育の面で引き継ぎ、フランス文化のの移入がこの地で華を開くことになった。私生活での異性関係の話題も多い。江戸末期ロシアに漂流した大黒屋光太夫をエカテリーナ宮殿の拝謁している。実子パーウェル一世(在位一七九六〜一八〇一)とは終生不仲であったが、パーヴェル一世はミハロフスキー宮殿で絞殺され、エカテリーナ二世が手元で育てた愛孫のアレクサンドル皇太子が継承しアレサンドル一世(在位一八〇一〜二五)となる。皇太子は父帝の暗殺計画をしっていたというから話はややこしくなる。 
◎エカテリーナ宮殿(一七五六年完成) 〔ツアールスコエ・セロ〕  
◎「冬の宮殿」(エルミタージュ美術館)   
 アレクサンドル一世の後弟のニコライ一世(在位一八二五〜五五)が継ぎ、アレクサンドル二世(在位一八五五〜八一)は「人民の意思」を名乗るテロリストに爆弾を投げられペテルブルグの運河通りで息絶えた。この場所に父を偲んでアレクサンドル三世は「血の上の聖堂」を建てた。アレクサンドル三世(在位一八八一〜九四)、ニコライ二世(一八 九四〜一九一七)と続き、ロシア革命で終幕を迎える。 ピュートル大帝からニコライ二世までの歴代ツアーリはペトロパヴァロフスク要塞内の同名の聖堂に安置されている。ペトロパヴァロフスク要塞の建設が始まった一七〇三年五一六日がサンクト・ペテルブルグの誕生の日でもある。  
 ところで最後の皇帝ニコライ二世であるが、ロシア革命後エカテリンブルグ郊外の邸に妻子共に幽閉され全員射殺されエカテリンブルグの森の中に埋葬された。ソ連崩壊後発掘された九遺体の内ニコライ二世の遺骨を特定する必要に迫られた。明治二四年(一八九一)来日中の皇太子ニコライが大津から京都に人力車で向かう途中巡査津田三蔵に襲われ傷を負う。例の「大津事件」であるが、応急措置の際の血染めのハンカチが大津市歴史博物館に残っており、この血をロシア調査団がDNA判定した。結果「一致せず」であった。とするとペトロパヴァロフスク要塞内のペトロパヴァロフスク聖 堂に眠るニコライ二世は皇太子ニコライとは違う男ということになる。一体どういうことなのか。ロシアでは公表されていない事実である。(文芸春秋第八一巻一二号吉村昭)  
◎新エルミタージュ美術館 
◎イサーク聖堂      
◎ニコライ一世馬上像(イサク広場) 
◎スパース・ナ・クラヴィー聖堂(血の上の聖堂・キリスト復活聖堂) 
 尚、現在のロマノフ家の当主はアレクサンドル三世の弟ウラジミールの玄孫に当たるゲオルギー(〜一九八一生まれ)が現存している。 皇帝たちの多くは専制君主として武力を背景に内外の権力を振るい、結果としては中世から近代に向かって巨大なロシア帝国を築き上げた。ソヴィエト連邦も国力を保持し、今日でも世界第二の巨大国家の地位を保持している。  
ネフスキー大通り       
 二十歳前後のマルクス青年であった頃、もしかしたら革命が起きるのではないかと真剣に考えた。あの当時、マルクス、エンゲルス、トロッキー、レーニンからスターリン論文は、私にとってはバイブルでもあった。プーシキン、ゴーリキー、ツゲーネフ、ドストエスキー、トルストイ、チェーホフの名作も一応は目を通した。今回のロシア旅行に際して本箱の片隅にあったジョン・リード「世界をゆるがした十日間」、N・N・スハノフ『ペテルブルグ一九一七年』と金子幸彦『ステンカ・ラージン』を再読したのだが、全然頭に入らない。帰国してから思い出そうとしても、レニーングラードやペテルグラードの印象は皆無に近く、帝政ロシア(ピョートル大帝・エカテリーナ二世)から一足飛びに現代に飛び、ソヴィエト時代が浮かび上がってこないことに驚き、また我ながら呆れ果てた次第である。 
 エルミタージュ美術館を出てからアレクサンドル・ネフスキー修道院前までの半日のぶらぶら歩きを見たままに記述してみたい。散策のお付き合いを頂ければ幸せである。サンクト・ペテルブルグのネフスキー大通りは平安時代の京都の都大路であり、東京の銀座通りである。大ネヴァ川沿いの旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー修道院までの四・五キロメートルの目抜き通りである。  
 旧海軍省前の青銅の騎士(ピョートル大帝)像のあるデカプリト広場からはネフスキー大通りの他にコロホーバヤ通りとヴァッスネセンスキー通りの二本が放射線状に延びている。ヴァッスネセンスキー通りにはイサク聖堂、アストリアホテル、マリア宮殿(市庁舎)、ニコライ一世の馬上像、モイカ運河などが纏まって観光できる。真ん中のコロホーバヤ通りは歩いていない。ネフスキー大通りはゴーリキーが「ネフスキー通り」なる作品を書いているし、トルストイやドストエフスキーの小説にも登場する大通りである。ピョートル大帝以下歴代の皇帝や貴族たちが乗馬で、馬車で往来したであろうし、一九一七年のロシア革命では大群衆が自由とパンを求めてデモ行進し、プロレタリア革命を成就させたメイン道路でもある。
 モイカ運河近くにプーシキンたちが好んで集まった文学カフェがあり、右手にストロガノス宮殿とカザン聖堂が迫る。一八一〇年に完成した聖堂の半円形回廊は九四本のコリント様式の柱がネフスキー大通りに向けて広がっている。聖堂の前には、ナポレオン戦争に勝利したクトゥーゾフ総司令官とバルクライ・ド・トーリーの像が立っている。聖堂の中にフランス軍から奪った軍旗が数本飾ってあるとのことだが、礼拝中でもあり厳粛な雰囲気だったので確認できなかった。日本で云えば、日露戦争で勝利した時に奪ったロシアの軍旗を未だに掲げて「ロシア何するものぞ」と現代人に確認させているようなものだからその執念深さには「恐れ入谷の鬼子母神」様である。この調子でいけば、中国や朝鮮半島の抗日・反日記念館は数世紀は厳然と残って歴史教育の徹底を図ることになるのだろう。博多に「元寇の役記念館」があったが、若者たちはあまり立ち寄っていなかった。日本人の忘れっぽさを暗示しているのかもしれない。 
グリバエードフ運河を越すと左手に芸術広場があり劇場やロシア美術館、ロシア民族学博物館などが集まっている。「グランドホテルヨーロッパ」近くの「ミュージカルコメディー劇場」で昨夜バレー「白鳥の湖」を観劇した。八月と云えばバレーのシーズンオフであるが、小劇場の前列三列目でバレーナの激しい息づかいを身近かに感じながら三時間至福のひとときを送ることができた。更に右手にはガスティーヌイ・ドヴォ−ル(デパート)があり、一日三〇万人以上出入りするとガイドブックに書いているが、百貨店と云うより専門店の集合体である。広過ぎるので館内を通り抜けした。近くのエカテリーナ二世の銅像があるオストロフスキー広場で休憩し、広場の奥の一八三二年建設のアレクサンドリンスキー劇場(旧プーシキンドラマ劇場)を眺める。大通りのカフェでアイスクリームを食べながら、町行く人を飽かずに眺める   
 三番目のフォンタンカ運河を越え、三丁程過ぎると蜂起広場に出る。モスクワ行きのモスクワ駅とメトロ(地下鉄)の「マヤコフスカヤ駅」があり、モスクワ駅の構内に佇んでモスクワに旅立つ人を見送り、モスクワからペテルブルグに到着した旅人を迎える。停車場の雰囲気は万国共通であろう。人間は旅人であり、人生は旅であることを実感する。 宿舎のホテルモスクワもアレクサンドル・ネフスキー大修道院ももう直ぐだ。あと一息だ。頑張ろう。
ロシア紀行 (日記より)
平成15年(2003)七月二十八日(月)
 毎年夏に向かうと北への憧れが増幅してくる。カナダ、バルト三国(フィンランド、スエーデン、ノルウエイ)旅行が期待以上であったので、今年はロシアに向けて旅立つことにした。旅行社の案内パンフレット数種類に目を通して阪急交通社トラピックス企画の「エルミタージュ美術館とロシア二都物語八日間」を選んだ。予算は一人当たり二十万円+αの割安料金であり、サンクトペテルブルグ(以下ペテルブルグ)とモスクワが共に三連泊であるのが気に入った。関西空港発着であり、当地松山からは前日出発となる。松山観光港二〇時三〇分発のグリーン寝台に乗り込む。今治に立ち寄るが夏休みにしては乗客は少ない方だ。     
七月二十九日(火)
 早朝五時三十分神戸六甲アイランド港に定刻に着船。バスにてJR住吉駅経由で関西空港駅に直行。午前八時過ぎ空港受付に顔を出す。ウズベキスタン航空にてタシケントで乗り換えてサンクトベルグに向かうが、一〇時五分離陸して二一時五十分(日本時間二六時五〇分)定刻に到着する。約一六時間(タシケント待機三時間半)の長旅である。ウズベキスタン国なり首都タシケントと云っても全く未知の国であり街であるのだが、砂漠の中に忽然と現れた緑の街である。気温は三〇度を超しているが空港の施設には冷房は設置されていない。湿度が低いのでどうにか辛抱は出来た。高度三〇〇〇米から砂漠地帯を眺めると車は一台一台蟻粒位に肉眼で識別出来る。望遠鏡であれば人間も識別出来るかと思うと、アフガニスタンやイラクの砂漠のなかの戦闘を想起してぞーっとした。空中戦であれば何一つ隔てるもののない空間での戦闘であるだけに勝者か敗者の二者択一しかないのであろうか。砂漠の持つ非情さを痛感する。  
 深夜一一時でも白夜であり日本の夏の七時頃の日没前の明るさである。機中であまり眠っていないのだがあまり眠くもない。緊張しているのだろうか。午前零時を回ってからホテルモスクワに着く。バスに浸かりベッドに入ったのは一時半、三つ星のホテルだが冷房はなく扇風機のみであり暑くて眠れない夜を送ることになる。ビ−ルも清涼飲料水も常温で飲むのが御当地流であるらしい。これから先が思いやられる第一日目であった。 
七月三十日(水)晴れ   
 ホテルの窓からアレクサンドルネフスキー修道院と林立する墓標が見える。修道院はロシア正教の三大修道院の一つで墓地にはドストエフスキーやチャイコフスキーの彫像付きの墓があり訪れる観光客も多いらしい。頭巾を被った敬虔な信者が三々五々に朝の礼拝に訪れている。左手にはネヴァ川が流れており、交通の要所でもあり車も流れているが日本に較べると随分少ない様だ。車も人も信号を守っている様には見えず大阪並である。ホテルの朝食はバイキングだが良質共に豊富で野菜、魚類、果物を中心に食欲を満たした。 
終日サンクトベルグ市内の観光である。旧海軍省と修道院を結ぶネフスキー大通り(以 ネフ大通り)が市内を縦貫しており、貸切りバスも日に何度もこの大路を通過する。  最初に夏の宮殿・夏に庭園周辺(ミハイロフ公園、マルスの広場、旧貴族の邸宅街)を一巡して「血の上の教会(キリスト復活聖堂)」に立ち寄る。ローマカトリックとは異質な東方的(ビザンチン的)な雰囲気のある教会で堂内はモザイク画で著名である。ネフ大通り沿いにある独特の回廊が二方向に突き出ているカザン寺院では通路に乞食の母子がたむろしている。寺院内は暗く密教的雰囲気である。高さ一〇一・五米の金色のドームをもつ世界で三番目と云われる大聖堂である聖イサーク寺院は現在博物館になっておりたまたま休館日なので館内に入れなかったが帝政と結びついた権力の象徴としての威厳さを保持している。近くにアストリアホテルがありイサク広場にはニコライ一世の馬上像がある。
 大ネヴァ川沿いのデカプリスト(元老院)広場で「青銅の騎士像」(ピョートル大帝)の勇姿をバックに写真を撮る。週日だが結婚衣装の若者達の姿を目にする。ガイドの説明では結婚年齢は早いが離婚率は八十%を遙かに越えている由。離婚では妻への慰謝料はなく第一子の養育料は所得の二五%で第二子以上は総計で最高五〇%迄の負担らしい。それにしても子供さえ作らなければ結婚も離婚も簡単な様だ。大ネヴァ川を越えてヴァシリエフスキー島に渡り、メニシコフ宮殿、人類学博物館、から岬に出て対岸の旧海軍省、冬の宮殿(エルミタージュ美術館など)を遠望する。プラザレストランでシャシリクの昼食。アプテカルスキー島に在るペテロパヴロフスク要塞(兎島)、砲兵博物館、巡洋艦オーロラ号をバス観光してネヴァ川を再び渡りネフ大通りを通りホテルに戻る。  
 ホテルで夕食後、夜八時からオプションのバレー「白鳥の湖」鑑賞。グランドホテル近くのサンクトペテルブルグ・バレー・シアター(収容人員一五〇〇人の中規模劇場か)での二時間半、実は本物のバレーを鑑賞するのは初めてあり、舞台から三列目の座席なので息づかいまで伝わってくる。主役のイリナ コレスニコワは二三歳の将来を嘱望されているバレリーナであるが、憂いに満ちた顔の表情は恍惚感に浸っているようにも見え、また踊りも軽快ですっかり舞台に溶け込んでしまった。ホテルの夜は暑かったが、舞台の余韻の中で短夜を微睡んだ。     
八月一日(金)晴れ   
 ロシア旅行のメインのひとつでもある「エルミタージュ美術館」の見学日である。十時半開館であるので九時四五分にホテルを出発する。大ネヴァ川沿いの主玄関からの入場となる。ソヴィエト政権時代文化観光省に勤めインツーリストに勤務したベテランガイドのマルガリータさんの案内で館内を回ることになる。出発前にNHK出版協会刊行の「エルミタージュ美術館」(全五巻)に目を通し館内案内図を持参したので迷子になる心配はなかったが、壮大な夏の宮殿と膨大な展示品を前にして圧倒されてしまった。細部の説明は省略して見学コースのみ記す。
 主玄関(天井オリンポス像)→大使の階段→〔二階〕→陸軍元帥の間→ピョートル一世の間→大臣の廊下→パヴィリオンの間→シモーネ・アンジェリコ→レオナルドの間→ラファエロのロッジア→第一天窓の間→大天窓の間→第二天窓の間→レンブラントの間→テントホール→ルーベンスの間→大教会→クラーナハ・プッサン→アレクサンドル一世の間→紋章の間→聖ゲオルギーの間→〔三階〕→モネ・ゴーギャン・ピカソ三七点・マチス三七点→日本(根付コレクション)→〔二階〕白の間→黄金の間→暗い廊下→ロトンダ→黒人の間→孔雀石の間→コンサートの間→大広間→〔一階〕→インターネットレストラン(昼食)→エジプトの間→二〇列柱の間→アウグストゥスの間→ヘラクレスの間→アテナの間→ユビテルの間→宮殿広場前出口。                         
 ワープロを打ちながらうんざりしたが、室内は雑然かつ無造作に陳列されており観客側で取捨選択しないと却って何が何だか分からなくなる。ゆっくりと美術全集を広げてながら思い出していくことにしようか。 「猫に小判」ではないが、ルーブル美術館、大英博物館、プラド美術館(スペイン)、フィッツイ美術館(イタリア)始めピカソ博物館などの個人美術館を見学したが、クラシック鑑賞同様に神髄に触れたという感覚はない。その場、その瞬間の芸術的感動は自覚しているのだが畢竟それだけである。エルミタージュ美術館ではレオナルドの「ベヌアの聖母」「リッタの聖母」、ラファエロの「コネスタービレの聖母」には感動した。 
三時過ぎに宮殿広場で散策しネフスキー大通りをホテルに向かって歩く、四・五キロの道のりである。カザン寺院、エスチタイ・ドウォール百貨店、プーシキン劇場前広場に立ち寄る。路上のカフェの椅子に座りアイスクリームで涼をとる。ぶらぶら歩きなので午後六時前にホテルに戻り夕食をとる。入浴で汗を流しほっとしてホテルのバーでビールを飲み、ペテルブルグ最後の夜はお蔭様で熟睡できた。  
八月二日(土)晴れ      
 午前九時ホテルを出発しペテルブルグから二六キロ離れたエカテリーナ宮殿に向かう。女帝エカテリーナ二世の夏の宮殿として建築されたバロック様式の建物で、外装に白い円柱、窓には細かな彫刻が施されている。とは云え第二次世界大戦で完全に破壊されたとのことであり、ソヴィエト解体後の人道的支援で復旧中ではなかろうか。王宮にあった装飾品や備品の内疎開したものが公開されており、それらしい雰囲気が再現されている。伊勢国若松村出身の船頭である大黒屋光太夫が天明二年(一七八二)ロシアに漂流し、寛政四年(一七九二)帰国するが、当時の首都であるペテルブルグのこの宮殿でエカテリーナ二世の謁見を受け帰国の許可を得た。この歴史的事実の大広間は黄金の間であるが、NKHの特別番組作成の為に日本の資金で改装された由、今は少し昔のバブル時代の恩恵である。 宮殿を囲む広大な庭園が素晴らしい。フランス式の庭園が正面であるが、イギリス式の自然庭園、湖に囲んで広がる林・・・いかにも王族や貴族の避暑地に相応しい雰囲気である。この一帯は日本で云う風致保存地区らしく新しいけばけばした建物は目につかない。この庭園の一角にかつて ゴーリキー(一八六八〜三六)の学んだ学舎が残っていた。道路沿いにみやげ物の出店が並んでおりマトリョーシカ(人形)や小間物を買い求める観光客が群がっている。  
 ペテルグルグ市南部のモスクワ道路沿いの英雄都市公園の一角にある勝利広場(第二次世界大戦時のドイツ軍との激突の戦場か)近くのレストランで昼食、スーパーでショッピング、オベリスクを写真に撮り、バス内で夕食の弁当の支給があり、一路モスクワ駅に向かう。午後四時発のモスクワ行き特急列車でペテルブルグを離れるモスクワ駅内の一時間程の休憩時間中に事件が起こった。一行三六名がプラットホームに集合したが、突然大阪から夫婦で参加された吹田さんの主人が腹痛で座り込んでしまった。顔をしかめ苦痛の様相である。列車に乗り込んだが座席に座ることも出来ず床に横たわる。発車時間は迫る。下車してペテルブルグの病院に入院するか、このままモスクワに行くか、最後の決断は患者と夫人の意思を尊重してモスクワ行きとなった。六時間の汽車の旅であるが容体は更に悪化し二時間経過した最初の停車駅で現地医師が乗車し緊急入院となった。それ以後吹田さん夫妻には会っていないが、緊急手術を受け、モスクワにヘリ搬送し、モスクワ大使館の領事部長もモスクワの病院に立ち寄ったと云うことだから生死に係わる事態かもしれない。帰国費用を加えると費 用は想像以上の金額になるだろうが、それよりも英語が通じない国や医術レベルの極端に低い国への旅行に当たっては、細心の健康管理が必要であることを痛感し、得難い教訓を実体験できた。  
 午後一〇時にモスクワ駅の到着する。サンクトベルグでの白夜とは違い真っ暗であり気温も肌に心地よい。生き返った様な気分である。バスにて市内の北方にある全ロシア展覧会センター公園傍のホテルコスモスに向かう、収容人員三〇〇〇人のホテルである。なにはともあれ冷房設備があるのでほっとする。   
八月二日(土)晴れ 
 ヨーロッパ最大の都市モスクワの一日観光となればクレムリン周辺に限られるのだろう。ロシア公国当時の遺物はソヴィエト時代に消滅したのかもしれないが・・・土地感覚ゼロで地下鉄を三駅程見物する。モザイク、大理石、ステンドガラス、壁画など駅ごとに独特の装飾がなされている。この巨大かつ深層の地下鉄は市民のためと云うより戦略的には防空壕であり、戦闘時の攻撃路、避難路、脱走路(迷路)の役割を担っているのだろうか。 
 赤の広場、レーニン廟はテロ事件の影響で立ち入り禁止、レストランでつぼ焼きの昼食後、再度クレムリンに入り大統領官邸、大砲の皇帝、鐘の皇帝、聖母受胎告知教会(聖ワシリ−寺院)、兵器庫(宝物館)を見学する。聖ワシリ−寺院はロシア帝国の国教寺院として皇帝の戴冠式や結婚式、国の伝統的行事が執行された崇高な場所であり、都度ペテルグルグから皇帝らは訪れた。壁や天井のイコンガの画に圧倒されるが、異教徒である私個人は美を感じない。イコンとはギリシャ語のイメージを意味するエイコンが語源であり、キリスト、聖母、聖徒、殉教者などの画像を指すが、この画像を通して神をイメージし救済されることを祈ったのであろうか。次いでモスクワ大学を経て展望台でモスクワ市内を展望し「白鳥の湖」に模されているノヴィデヴィッチ修道院周辺を一巡して一日観光は終わる。夜はボリショイサーカスを最前列で楽しむ。 
 クレムリンはTVで画像を熟知しているだけに案外小さいなと云うのが正直な印象であり、西欧的でも東洋的でもないモスクワの印象は個人的には今ひとつである。同時に真夏の太陽が照りつける最も活動的である筈の市街地の雰囲気はあまりに暗い。先入観があるのかもしれないがモスクワには住みたくないなと云うのがモスクワ初日の感想である。 
八月三日(日)晴れ  
 世界遺産コローメンスコエはモスクワ東南部のモスクワ川右岸に広がる三四五ヘクタールの自然保護公園の一角に在る。一六世紀からモスクワ公国の歴代皇帝の別荘があった。今日残る重要建物は一五三二年建築の主昇天教会(高さ六〇米)でヴァシリー三世がイワン雷帝の誕生を祝して建築したもので、ビザンチン様式の円蓋屋根から石造急勾配の天蓋屋根「シャチョーレ式」に変わっている。傷みが甚だしい。早急の修復が必要であろう。 近くにイワン雷帝の小屋があるが玄関、居間、寝室、倉庫、食堂、従者部屋の六室で、屋根は松板張りで別荘と云うより山小屋の感じである。夏の使用らしく便所、炊事場は本屋には無い。小道に日本でよく見かける道祖神の様な彫像が立っていた。ここには世界七不思議に次ぐ八番目としての二七〇の部屋と三〇〇〇の窓がある建物がたっていたと云う。いかにも「世界一」が大好きなロシヤ人の作り話であろう。 一旦ホテルに戻りオプション参加で世界遺産セルギエフ・ポサードのトロイツェ・セルギエフ大修道院らの建築物群の見物に出掛ける。 トロイツェ・セルギエフ大修道院はキエフのペチュールスカヤ修道院、ペテルブルグのアレ クサンドル・ネクスキー修道院と共にロシヤ正教総本山の一つである。ロフトフの貴族の子セルギエフ・ラドネシスキー(一三二一〜一三九一)がラドネーシの森で修業に入り修道院を開き、タタールからの独立に尽力し再び修道生活に入った。イワン雷帝の保護により隆盛となり数々の建造物が建てられた。   
 八七米の鐘楼、ウスベンスキー大聖堂、奇跡の泉、聖セルギエフ教会(食堂)、開祖セルギエフの聖廟であるトロイツェ聖堂を見学する。トロイツェ聖堂では週日ミサが行われており信者達が長い列をつくり、膝まづき、銀の柩に接吻し感激のあまり涙している。ソヴィエト時代は「宗教は阿片」であると教えられたのだろうがこの現実を目の当たりにすると宗教の持つ威光に再認識せざるを得ない。芝生の庭園沿いにマトリューシカ等の出店が多く出ている。観光パンフレットによるとマトリューシカの製造元はこの地方の由。  ウスベンスキー大聖堂内で肩に小鳥の止まった聖女のイコンがあり質問したが要領を得なかった。写真撮影の許可証と一緒に修道院の祈祷の録音テープの寄贈があった。売店で絵はがきを求める。100年近く前のモスクワの写真アルバムは現在と対比して興味深い。肩に小鳥の止まった聖女のイコンを求める。アッシジの聖フランチェスコとセルギエフ・ポサードのセルギエフ・ラドネシスキー と明恵、一遍を対比させて「無所有」の宗教的体験を取り纏めてみたいものだ。
夕刻ホテルに戻り仲間と午後九時まで「最後の晩餐」で話が弾む。白夜の下近くの宇宙征服者モニュメントに上る。この周辺は全ロシア展覧会センター公園で緑が多い。ホテル内で最後の買い物をしてルーブルは使ってしまった。気分的にはゆったりとロシア最後の夜を送る。
八月四日(月)  
 十一時半にホテルを出発し十四時五〇分モスクワからタシケント経由で日本に向かう。  
八月五日(火)   
 関西空港には定刻九時前に無事到着する。帰国すれば先ずは大丈夫と思っていたがJR環状線内での人身事故で列車が大幅に遅れ、関西空港から新大阪駅まで三時間を要した。こだま一二時一七分発で岡山に一三時三九分着、一四時二二分発特急「しおかぜ」で一七時〇六分松山駅に到着、午後六時帰宅したので通常より二時間ほど遅れたことになる。夕食後、温泉に入り汗と疲れを落とす。                                                                またロシアに出掛けるか? 来年の夏はバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)に出掛けていきたいものである。