エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第拾五章 イタリアルネサンス紀行 (平成14年壬午)
十一月二十二日(金)晴れ。
 語呂合わせではないのだが、十一月二十二日は「いい夫婦の日」である。夫婦で阪急交通社の「イタリアルネサンス紀行九日間」というパケッジツアに参加する。 朝五時起床し、松山空港から関西空港に一飛びして八時四十五分に到着。十時に受付を済ませ正午発のJALにて離陸する。ロンドンへは十五時四十五分、ミラノには二十一時に着く。時差が八時間なので十七時間の旅ということだ。十一月も下旬であり辺りは真っ暗で空港だけが浮き立っている。添乗員は田宮さん、ベテランの男性で安定感がある。  空港からミラノ中央駅まで小一時間であるが、宿泊先のリバモンティレジデンスはミラノ市内から随分離れた郊外にぽつんと草原に立っている感じである。四ツ星ホテルでもありロケイションの悪さは辛抱するか。   
十一月二十三日(土)晴れ。
 出国前にミラノは北海道並みと気温と予告されていたのでコートを着用し完全武装したのだが、気温は十度以上で安心する。初日はミラノ市内観光からスタートする。三十年振りのミラノであるが日本の様な急激な町並みの変化は感じない。街の中心部に建つイタリア最大のゴシック建築であるドゥオモ、各時代の支配者が居住した王宮(現在は博物館や現代美術館)、センピオーネ公園内のミラノを代表するルネササンス建築であるスフォルツェスコ城(ヴィスコンティ家の居城で現在は博物館)に立ち寄る。スカラ座は目下改修中である。     
お目当てのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会内のレオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「最後の晩餐」に久々の対面したが、近年の「完全修復」とやらで色彩が随分鮮やかに蘇ったように思える。以前は日本語の分かる牧師と会話ができたのだが、いまや見せ物になっている様だ。この作品は凡そ五〇〇年前の一四九七年完成でコロンブスのアメリカ発見当時のカソリック教会黄金期に当たる。二本の通りが十字に交差するガラス張りの天井に覆われた美しいアーケードであるヴィットリオ・オマヌエーレ二世のガッレリアを散策する。観光客や市民で大賑わいである。一世紀以上も前の完成であるが、全く古風さを感じさせない貫祿がある。昼食はパスタ料理である。同席の北海道から参加の小坂栄夫妻と懇談中、高校同期の景浦強君と北大、勤務先の先輩・後輩であることが判明しその場の雰囲気が大いに盛り上がる。  
 約一六〇キロ離れたヴローナに向かう。この地は古代ローマから中世まで北イタリアの要衝として栄えた街である。街を分断するアディジェ川を半周してサン・ピエトロの丘にあるローマ劇場を車窓から眺め、カステルヴェツキオ古城からドゥオモに直行する。一五世紀にゴシック様式に改装されたが玄関を飾る獅子の彫刻は一二世紀の作品の由。シニョーリ広場(ダンテの像あり)、エルベ広場、シェイクスピアの名作「ロミオとジュリエット」の舞台でもあるジュリエッタの家、古代ローマ最大規模の円形劇場アレーナ周辺を散策する。薄暗くなった街の通りには現代的な雰囲気は感じられず、中世の街を歩いているような錯覚を覚える。一二〇キロ離れた宿泊地ベネチアの「ラマダ」に向かう。赤を基調にしたインテリアはイタリア的である。大きな花柄のカーテンとベッドカバー、ダブルベッドサイズのシングルベッドとなると若者向きか・・・・・今日の一日は古代から現代までを超スピードで通過した様で、時差ぼけと肉体的疲労が重なってなかなか眠つかれない。 
十一月二十四日(日)曇り一時雨。   
 曇天の中で朝を迎えた。ギリシャ・カルタゴ・ベネチア・ローマと繋がる文明の系譜であるが、一〇〇以上の島から成り立ち、ヴェネチア本島には一五〇もの運河が巡り四〇〇を越す橋が街を結ぶと云う。サン・マルコ広場に立つ。ナポレオンもこの場に立ち、「世界でもっとも美しい空間」と呼んだトポス(時と場の記憶)だ。 
 ドゥカーレ宮殿、サン・マルコ寺院、鐘楼、時計台そして行政長官府の新・旧館が一望で眺められる。中世に佇んでいる一人の東洋人をイメージする。支倉常長一行もこの場所で眺めたのであろうか。彼らにとってはディズニーランドのバーチャルな世界に写ったのだろうが毅然とした武士として驚きは顔には出さなかったのかもしれない。半刻に一回、鐘楼から鐘の音が流れるが日本の鐘の音の様な余韻は残らない。単なる情報伝達の音に過ぎないので興ざめた。 
 八二八年聖マルコの遺体をアレクサンドリアから運び、聖人を護る廟として建造されたサン・マルコ寺院はまさに黄金の教会であり、カソリック文化というかローマ教会の東方への睨みをきかせた覇権の象徴の様にも思える。館内を一巡し「嘆きの橋」から運河を覗き数時間を過ごしたが、宗教的雰囲気とは異質のトポスの世界であることを痛感した。観光案内記になってしまいそうなので説明は割愛する。ゴンドラで小一時間運河を巡り、ベネチアンガラス工房を訪ね、カラスミのパスタとシーフードの遅めの昼食を取り、約二六〇キロ離れたフィレンツェに向かう。宿泊はシェラトンホテルで連泊である。中心部からは数キロ離れた四つ星ホテルでトスカーナ地方では最大の会議場を有している。チェックイン前に裏手にある革製品の縫製工場を訪ねる。 
十一月二十五日(月)晴れ。     
 朝八時にフィレンツェから約八十キロのピサに向かう。高架ではない高速道路を突っ走る。道中にはオリーブ畑、ローマの水道橋、土葬が一般的な当地での糸杉の丘(墓地)、地中海松の旧道が散在する。道中のトスカーナには温泉も湧いている由。 ピサはワンポイントの観光地である。城壁に囲まれて斜塔、ドゥオモ、洗礼堂が並び脇にカンポサント(納骨堂)がある。ピサの斜塔でのガリレオの重力実験は日本人の誰もが知っている歴史的事実であろう。ドゥモオ内陣での振り子の等時性の発見は逸話らしい。 十二世紀に建造が開始された塔は地盤沈下で傾斜したが、塔の中心軸を微妙に調整して十四世紀末に完成した由。二十世紀末の改修で現在は人数制限で頂上への入場が許可されている。十一世紀完成のドゥモオとの対比で引き立っている様だ。旧植民地の黒人達の露店が並んでいる。結構商売になるらしい。ピサ駅までの中間にガリレオも学んでピサ大学もあるが立ち寄れなかった。昼食(ミネストローネ&イタリアンポーク)後約一一〇キロ先にある古都シエナに向かう。  
 シエナは中世には教皇派のフィレンツェと相争った皇王派の都市であるが、フィレンツェに敗退後はひっそり生き続けている町の印象である。例によってドゥオモ、プップリコ宮を見てカンポ広場で休憩する。カンポ広場では毎年地区対抗パリオが開催されるが、ガイドの説明では裸馬に跨がった騎手が人馬一体で決勝点に駆け込むことは希有なことらしい。狭い町を散策する。交通の要衝であっただけに結構商店街は充実している様だ。   シエナからフィレンツェ迄は約六五キロ。市内に入る前に丘陵から夜景を眺める。日本の様なネオンの輝きはないが、白熱灯でのぼんやりした明るさは中世に相応しい輝きとも云えよう。心配した雨も小雨に終わり旅情を却って深くしてくれた様だ。 
十一月二十六日(火)晴れ。     
 フィレンツェ観光の目玉ウフィツツイ美術館見学の為九時開館の三十分前から整列待機する。アルノ川に架かったポンテ・ヴェツキオ(二階橋)を眺める。美術館はルネッサンス美術の世界最大の宝庫の名に恥じない作品がこれでもかこれでもかと陳列されており、物量そのものにも圧倒される。第二室のジオット、第三室のシエナ派絵画、第十〜十四室のボッティチェリ、第十五室のレオナルド・ダ・ヴィンチ、第二十五室のミケランジェロ、第二十六室のラファエロのコーナーで美の世界に陶酔する。もし個人旅行で再訪することがあれば一日たっぷりと時間をかけたいなと思う。フィレンツェを代表するドゥオモ(花の聖母教会)、ジオットの鐘楼、サン・ジョバンイ洗礼堂を見学後昼食(ピザ)をとり、アッシジに向かう。約一八〇キロである。 
 アッシジは今日でも聖フランチェスコが「生きて」いるトポスであると云っても良いのではあるまいか。午後三時過ぎにサン・フランチェスコ大聖堂を訪ねる。        聖フランチェスコのバジリカと聖修道院はアッシジの街の北西部の高台にある。中腹の駐車場から山道を歩く。十三世紀に建造されたバジリカは上下二層に分かれ、下層バジリカには聖フランチェスコの墓があり、チマブエの「聖母像(右側に聖フランチェスコ像)コ」や作者不詳の「小鳥に説教する聖フランチェスコ」や「イエスの生涯」がフレスコ画で描かれ、上層バジリカにはジョットーによる「聖フランチェスコの生涯」二十八面の連続フレスコ画が描かれている。 
 一面一面毎に意味があるのだが、詳しくは承知していないので充分に消化できたかどうかは不明だか、フランチェスコ会の従順・完全な無所有・純潔(童貞)の崇高な宗教的倫理性は、キリスト教を離れても、明恵上人や一遍聖の求めた宗教的な信念に近いものがあると信じる次第である。夕暮れの迫る頃アッシジの山々や町並みを眺めていると、自然(神)に抱かれた自分を発見することになるだろう。次回は個人旅行で訪れてこの地で一晩過ごしてみたい気分である。コムーネ広場を通って一路ローマに向かう。約一八〇キロの道程である。宿泊は「グランドティベリオ」でバチカン市国の北に位置している。四つ星クラスである。
十一月二十七日(水)晴れ。
 朝八時にポンペイに向かう。約二四五キロである。西暦七九年ヴェスヴィオ火山の噴火とともに埋没した古代都市だが、今日でも当時の生活を想像することが可能な程リアルに発掘されている。神殿、市場、酒屋、浴場、パン屋、貴族屋敷、商人屋敷、大劇場、淫売屋、巫女の館などなど・・・・日本の弥生文化以前の生活ゾーンであり驚くことばかりだが、この文化を支えた奴隷は何処に住んでいたのであろうか。シーフードパスタとシーフードフライで腹ごしらえしてナポリに立ち寄る。
 ナポリでは市街地はバスからの展望のみで通過し高台からナポリ湾を眺望する。サンタルチア海岸と呼ぶらしい。夕食はローマに戻りイタリア料理のフルコース(ワイン付き)で満足する。二十三時頃ホテルに戻る。    
十一月二十八日(木)晴れ。    
 観光の最終日は先ずヴァチカン市国のヴァチカン美術館から始まる。展示品は歴代法王のコレクションと礼拝堂や居室の装飾から成り立っているが、良質共に超一級品であり宗教的な神秘性が加わって「忝けなさに涙こぼれる」の感である。燈台のギャラリー、地図のギャラリーを通り展示室に入る。中でもラフェエロの間と称せられる四室には「アテネの学堂」「パルナッソス」「聖ペテロの解放」「ヘリオドスの追放」など有名作品が並ぶが上下左右の目の動きで結構首が疲れる。後日ゆっくり画集で楽しむことにしたい。  
 システィーナ礼拝堂はミケランジェロの世界だ。祭壇画は「最後の審判」。四年の歳月をかけたと云う天井画は旧約聖書の世界である。  
 サン・ピエトロ寺院の完成は三二四年、コンスタンティヌス帝の発願で、一六世紀にユリウス二世が再建した。ヴァチカンのシンボルであるクーポラはミケランジェロのデザインの由。堂内には彼の「ピエタ像」や「聖ペテロ像」が安置され、二五年に一度開扉される「聖なる扉」はコンクリートで固められている。秘蹟の礼拝堂の近くに安置された法王(名前不詳)の福々しいミイラとなった遺体は「奇跡の人(法王)」として参拝の列が途絶えない。キリスト教徒にとっては生涯に一度は訪れる聖地であることは異教徒である我々にも分かる気がする。仏教徒である我々の聖地はインドのガンジス河なのだろうか。サン・ピエトロ広場で円形回廊の一四〇人の聖人像を眺め、円形回廊の四本の柱が一本に重なって見える「場」に立ち、ヴァチカン市国を後にする。昼食は中華料理。  
 午後のローマ市内観光はバス中心でガイドの説明は右から左に抜けてあまり記憶していない。コロッセオ(闘技場)で下車して往時を想像し、三一五年建立のコンスタンチヌス帝の凱旋門、フォロ・ローマノを遠望し写真を撮る。ロ−マ三越に立ち寄る。トレヴィの泉では再訪を願ってワンコインを右手で左肩越しに投げ入れる。スペイン広場で自由時間になり繁華街のコンドッティ通り、コルン通りをウインドウショッピングする。アイスクリームで小休憩。スペイン広場に戻り一三七段のスペイン階段を上り、トリニタ・デイ・モンティ教会の椅子に座り、アッシジの聖フランンチェスコの「平和を願う祈り」を口にする。 
「神よ、わたしに  
慰められることよりも、慰めることを    
理解されることよりも、理解することを  
愛されることよりも、愛することを 
望ませてください。   
自分を捨てて初めて    
自分を見出し       
赦してこそ赦され
死ぬことによってのみ      
永遠の生命によみがえることを   
深く悟らせてください。」     
一週間のイタリア・ルネスサンス旅の終りを迎えて、この祈りが自然に口に出来たことが最大の収穫であるのかもしれない。夕食はカンツォーネディナーで大いに盛り上がる。
十一月二十九日(金)曇り一時雨。
 九時過ぎにホテルを出発、一三時二〇分パリに向かい、定刻一六時二〇分に帰国の途につく。 
十一月三十日(土)雨。   
 八時間の時差があり関西空港には一二時三〇分に無事到着する。妻は明日の恒治一家の転勤、転居の手伝いもあり大阪で一泊するので空港で別れる。日航ホテル内の「551」で中華丼とたこやきで大阪の味を実感する。夕五時発ANAで帰宅。夕食はローソンの牛乳とおにぎりを済ます。トランクを開けて衣類を広げ土産を整理する。妻が居ないので結構時間がかかり零時頃就寝する。緊張しているのか疲れは感じないが、さすがに眠い、眠い、眠い。