エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第拾四章 北の旅人〜二十四のシニアな瞳〜 (平成14年壬午)
平成十四(2002)年八月一日(木)晴れ。 
 十一時十三分道後温泉発空港行きに乗車、空港で近畿日本ツーリストのチェックを済ませ空港ビジネスルームで休憩する。今回はツーリストのチャーター便であるが、北欧三ヵ国コースは添乗員を加えて十二名の小グループでしかもほぼ同年輩でもあり安心する。  元愛媛新聞の高井夫妻、元住友化学の藤田夫妻、小椋桂に似た元公務員の青木夫妻、短パンの二宮さん、藤村俊二に似た田代さん、自称高倉健の弟分なる堀元さんと添乗員は義安寺近くのマンションに住むツーリストの高田課長と我々夫婦である。
 十四時四十分定刻にフィンランド航空チャーター便は離陸、途中北京空港に注油の為立ち寄り二十時五十五分にヘルシンキ空港に着く。時差が六時間あるから凡そ十二時間の空の旅である。松山から直行であるので成田、関西空港経由とは疲れ度合いが全く違う。もっとも機内は三人掛けが二人で、しかも前方が乗務員の席だったから足が自由に伸ばせたのも幸運であった。機内食(昼食、夕食)はメイドインチャイナである。ホテルでの夜食におにぎりのサ−ビスがあった。機中から中央アジアの高原やバイカル湖を眺めたが、規模の雄大さに圧倒される。壮観である。 
 スカンディックHコンチネンタル(ヒルトン系)はヘルシンキ中央駅から北東六〇〇米のトーロン湾(微塩)沿いの高級ホテルである。二十三時にチェックイン。軽くおにぎりを食べ、地図を便りに深夜、しかし日本とは違って明るさが残っている中心街の通りを中央駅まで歩く。中世の教会を思わせる国立博物館、テンペリアウキオ教会、十七米の円柱十四本が並ぶ国会議事堂、中央郵便局を経て中央駅構内に入る。コインロッカーは日本の三倍はあり、プラットホームへはドアを開けて入る。洋画では見慣れた駅の光景であるがここは外国であることを実感する。帰途は近代美術館、フィンランディア・ホールの前を通り過ぎる。小一時間の散策で足の緊張をほぐす。フィンランドの面積は日本の九割だが人口五〇〇万人(日本の四%)、首都ヘルシンキは五〇万の都市である。バスにつかり午前一時頃に就寝する。
八月二日(金)晴れ。    
 三時過ぎに目覚める。日本時間で九時だから身体は完全に目覚めているのだろう。中々眠れず。五時半に妻と朝散歩。昨晩とは逆コースでトーロン湾沿いにリチンマキ遊園地の方向に北進し、バラ園で休憩して湾を通して市内を眺める。オリンピック競技場から岩の露出した丘に上がり、国立オペラ劇場を通り一旦ホテルに戻る。ホテル裏にある三大朝市の一つを見物し、シベリウス公園に出る。近くにカネボウショップがあり驚く。ホテルで朝食をとり、九時過ぎ一行十二名だが大型バスでゆったりとして市内観光に出掛ける。車内ではシベリウスの「フィンランデア」が流れる。   
 エテラ港のマーケット広場を散策し、ウスベンスキー寺院(十二使徒のテンペラ画)から元老院広場に出て、階段を上りヘルシンキ大聖堂に入館する。朝散歩したオリンピックスタジアムではフィンランド陸上競技界の英雄バーボ・ヌルミの像と対面する。ヘルシンキでオリンピックが開催されたのは一九五二年であり、ザトベックやレスリングの石井選手の活躍が印象に残る。「日本の飛び魚」古橋選手の引退の舞台でもあった。シベリウス公園内のステンレス製パイプのモニュメント(女流彫刻家ヒュトウネン一九六七年制作)前で記念スナップ。昼食は煉瓦作りの貯蔵所跡の地下の食堂で雰囲気良し。郊外に出て約一時間、ヘルシンキ北東ののどかな田園地帯にある古都ポルヴォに着く。ポルヴォ川沿いの赤色の倉庫群を眺め、フィンランド国歌を作詩したJ・L・ランベルグ〔ルーネベリ〕の旧居を見学する。一八七七年死去しているが、保存が行き届いており生前の佇まいを想像できる程だ。彼の病床の部屋は印象的である。ポルヴォ大聖堂は一八世紀様式で復元された由だがフレスコ画が内部には残っている。旧市街の石畳道を歩き、市庁舎前広場で寛ぐ。    
 ヘルシンキに戻り、午後四時に豪華客船「シリヤライン」に乗り込む。バルト海をクルーズして明朝スウェーデンのストックホルムに着くことになる。六万トンもある巨大客船である。乗船し海側のキャビンに落ち着く。ドアを開くとシングルベッドが用意されていたが対面の壁にもう一つのベッドが備えつけてある。ちょっと狭いがホテルのルームの感じでありシャワーも付いている。早速に二度三度と船内を歩き回る。船尾のデッキに出てフィンランドの町々、山々を飽くこともなしに眺める。十九時からのバイキングの後、ショウやカジノを楽しむ。二十一時半頃、バルト海に沈む太陽を眺める。暗くはならず明るるさが残る。疲れているのか自然に眠りにつく。
八月三日(土)晴れ。    
 晴天が続く。旅行には最大の贈り物である。朝四時、船室の窓から差し込む朝の光に起こされる。眠るのが勿体なくてデッキに上がる。夜通し飲み且つ語り明かしたのだろうか若者たちのパーティがやっと終わったところらしい。島々が迫って見えるというか、島と島の狭い間を巨大な船が器用にくぐり抜けているような感じである。一カ所停泊したのはオーランド諸島の一つか−−−−警備艇か巡洋艦が停泊している。付近の島々にはそれぞれに桟橋を設けている別荘が目に入ってくる。六時半オープンと同時に朝食バイキング。食後はデッキで日向ぼっこをしながら海洋気分を味わう。高倉健の弟分こと堀本さんと船の話をする。元船長だけに操舵には詳しく正に名人芸の操舵と絶賛している。九時半定時にスウェーデンのストックホルム港に着く。  
 ストックホルムの案内は今時貴重な耳当たりの良い日本語を話す女性ガイドである。この地は鐘紡の人事課長当時の初外遊の地であり、バス内でストックホルムの紹介を聞いていると二十九年前の記憶がハッキリと甦ってきた。                  日経連の視察団の一員としてこの地を訪れたが、訪問初日スゥエーデン経営者協会との打合せが国葬の日と重なり、重々しい雰囲気の中での会議となった。ガイドにその事を話すと「ここが経団連です」と建物を指さしてくれた。
 経団連の並びの瀟洒な建物がオペラ座で、次いで市庁舎に向かう。スウェーデンを代表する建造物であり「黄金の間」があり、ノーベル賞受賞祝賀パーティーの開催される大ホールがある。ノール橋を渡って国会議事堂を眺めながら中心部のガラム・スタンに入る。王宮、大聖堂、旧市街散策の後、王宮儀仗兵の交代の光景を見る。英国バッキンガム宮殿の儀仗兵の交代式を見聞しているだけにまるで玩具の兵隊である。
 オフィス街の日本料理店「清香園」での昼食後、ソーデルマルムの展望台から「北欧のベニス」の全景を眺める。箱庭の如き美しい景色である。バスで空港へ向かう途中郊外のスーパーで日本女性に出会う。現地で結婚したのだろうが、妻と久しぶりの日本語を楽しんでいる様子だった。空路ベルゲンには十八時に着く。ベルゲンは十三、四世紀にはノルウェの首都でありハンザ都市でもあった。噴水のある美しい公園の近くにある高級ホテルラディソンSASノゲルで二泊することになる。ホテルでの夕食後二十四時まで町中をぶらつく。 
 公園から港湾・魚市場、世界遺産のハンザの拠点ブリッケン地区、歩行者専用大通り〔トリガルメンニンゲン〕を散策したが、その大通りに銀色の衣装を付けた銅像が立っており帽子にコインを投げ入れるとお辞儀する、実に良くできている。妻は人間が中に入っていると云い、私はリモコンではと疑問を投げかける。妻は好奇心からその帽子に触ると、椅子に座っていた老人が恐ろしい顔つきで睨むといったシーンがあった。就寝したのは午前一時−−−旅は好奇心を刺激し何でも見てやろうという気分になるらしい。
 昭和四十八年(一九七三)日経連「欧米ワーク・オーガニゼーション研究チーム」の一員として九月二十二から十月十四日まで欧米の代表的な企業を訪問したが、ストックホルム経団連を訪問した時のメモの一部を掲載する。その日は国王逝去の国葬に当たり、個人的には歴史的な一日を送ったことになる。
九月二十四日(月)小雨後曇り コペンハーゲン→ストックホルム   
○ストックホルム空港に着いて驚いた。同じ飛行機にデンマーク王女が同乗されていた。タラップを降りると警官と報道陣が待機している。何事かと思ったらファーストクラスから王女が降りて来られる。日本に比べて親しみのある君主国の今日的姿をみせられる。
○同じ空港でチリーより脱出してきた十九名のスウェーデン人に出会う。男も女も涙々々である。見すぼらしい身なりで、手荷物を慌てて取りまとめて脱出したという感じである。 
九月二十五日(火)晴れ。 摂氏一〇度〜一二度 
○スウェーデン前国王の葬儀があった。日本との比較で興味深い。騎馬隊のあと軍楽隊、新国王(皇太子)、柩、外国君主、外交団、騎馬隊・・・と続く。王宮を一巡した後大聖堂に安置されミサが執り行われる。 新国王(皇太子)が柩の前をしずしずと歩む。新国王は前国王の孫に当たる。父君は飛行機事故で以前に亡くなられた由。
日本と違って混雑した群衆ではなく静かな市民群である。我々東洋からの「客人」もスウェーデン経団連の幹部と共に舗道に整列して柩をお見送りする。教会の鐘が中世そのまゝに鳴り渡る。イギリス艦隊の弔砲が四〇〜五〇発程打ち上げられる。のどかな、それでいて厳粛な国葬であった。  
九月二十六日(水)晴れ。 摂氏七度〜一〇度  
○王宮の中を見て回る。昨日の葬儀の後だが、静まり返った中庭に佇むとさすがに薄ら寒い。五〇〇近くの部屋があるのだろうが、市民は中庭には自由に入ることが出来る。極めて自由かつ民主的である。前国王の柩が安置されており一般市民同様に並んで敬虔なお祈りを捧げ、お別れした。  
八月四日(日)晴れ。     
 七時起床、八時朝食、九時バスにて観光に出発する。ベルゲン出身の作曲家グリーグ (一八四三−一九〇七)の旧宅を訪れる。自らがトロルハウス(妖精の家)と名付けた家は今日でも妖精(トロル)が住んでいそうな森林の中にある。組曲「ベール・ギュント」の「美しい朝の情景」や抒情組曲作品五十四番の「牧童」などは正にベルゲンの雰囲気だなあと思う。資料館、二〇〇人程度収容のホール、便所、湖に面した崖に設けられた墓地を見学する。ホールの音響の良さは流石である。トロルはいたずらぽい妖精であり特に愛くるしくもないのだが、やはり気になる人形である。陸奥の「こけし」に比すべき庶民のペットであろうか。高台に住宅地がある展望台に立ち寄る。
 町に戻りハンザ記念館、朝市場、世界文化遺産に登録されているブリッケン地区の三角屋根の旧ハンザ時代の建物を見て回る。その一角にあるシーフードレストランで昼食をとり、バスで山手を一巡(マリア教会、ホーコン王の館など)してホテルに戻る。特にハンザ記念館については慶応でのゼミの指導教官である高村象平教授がハンザに関する日本では有数の研究者であり教授の著作を読んできただけに身近に接することができて感激した。この建物は一七〇二年に建設された木造建築で当時の商人の事務所や住居が再現されている。 
 ここ数日は北欧では珍しい猛暑とやらで、シャワーを浴びて二時間ほど横になる。三時過ぎに公園を横切ってベルゲン美術館のラスムス・マイエル・コレクションを鑑賞する。マイエル氏についての知識は皆無だが一八世紀以降のノルウェーの代表的画家の作品を展示しており、特にムンクの部屋では初期の作品が二十点程陳列されており足が釘付けになった。閉館が五時なので本館へは残念ながら足を運べなかった。近くにあるグリーグホールに立ち寄り、高台にある一八七〇年再建のベルゲン大聖堂を訪れる。この周辺は高級住宅が密集している。静寂そのものだが、以前は電車が通っていたらしく軌道が残っている。フロイエン山や港や市街の眺望はよい。階段や坂道をぶらぶらと散策し、小公園に出て芝生で裸になって憩う市民の表情を眺めたり、点在する商店の窓々を覗いたりしながら魚市場に出る。昨日以来疑問になっていた大通りの銀色の銅像だが、なんと親子連れの男が扮装中で手際よく「仕事着」に着替えて銅像に様変わりした時には思わず噴き出したくなった。それにしても数時間銅像らしく台上に突っ立っているのは商売とはいえ重労働だろうと思う。
夕食は海岸通りのホテルのレストランで済ませ、観光の目玉でもあるフロイエン山へケーブルカー(フニクラ)で上り、三二〇米の頂上から夜景を眺める。夜十一時頃まで運転しているのだから驚く。それだけ北欧の人は短い夏を貴重なものとしてエンジョイしているのだろう。お蔭様で観光客は丸々二十四時間を楽しむことが出来る。隅から隅までとはいかないが、再訪した時には気儘に一人歩き出来るだけの土地勘を得た様に思う。  
八月五日(月)晴れ。   
 ガイドが開口一番北欧の奇跡という晴天が続く。有難い話である。三十度を超す猛暑はいただけないが晴天に免じて我慢すべきであろう。ホテルで朝食。ところで石塚健なるガイドは若い頃世界を歩き回りフィンランドに落ち着き、春から秋まではガイドで稼ぎ、冬は能面を打っているという変わり種の芸術家である。スタンルハイムホテルには彼の能面が額入りで飾ってあった。  
 ベルゲンを八時三十分に出発し今回の旅行の目玉でもあるフィヨルド乗船地グドバンゲンに向かう。暫くするとフィヨルドの一つに出会う。河川の感じだが海抜ゼロ米、両側の山が数百米でそそり立つ。湖水の様な水面の静けさで流れを感じさせない。これが塩水とは考えられない。氷河期の贈り物なのだろうが、日本で考えていたフィヨルドとは全く違うイメージに戸惑う。 フィヨルドはあるが川がない。山からは無数の(と云えが大袈裟だが)滝が氷河期の氷を溶かした水をフィヨルドに流し込んでいる。何拾万年単位での全地球的な循環とは思うが、それにしてもなんと大自然の美しいことかと思う。 
 ヴォスまでに二回カメラストップし、ヴォスでは三十分程休憩しショッピングや散策に充てる。スタルハイムで皇太子や橋本竜太郎元首相も訪れたスタルハイムホテルで昼食を取る。此のホテルはスカンディナビアの歴史的ホテルのひとつである。庭園や庭園から眺めるフィヨルドと名前を思い出せないが著名な山とが見事に調和している。グドバンゲンからラルダールまでの三時間のフィヨルド観光の船旅。期待が大きかっただけに最初の一時間は感動するも、あとは大河に身を任せるといった感じになる。陽光が照りつけるので日陰を求めて右舷から左舷へ、また右舷へと移動する。 
 ラルダールは山中の静かな静養地でありフィヨルド発着の拠点でもある。港から徒歩で十五分位のところにロッジ風ホテル「リンドストロムH」があり、旧館に宿泊する。一九九五年に一五〇周年を迎えたというから日本で云えば江戸時代の末期であり、老舗のひとつであろう。家族的雰囲気があり、美人の奥さんと可愛い子供がホテルの雰囲気を和らげ名古屋から来たと云うメイドが二人働いていた。食前食後に広大な保養地内を散策する。裸足の子供達が目につく。また北欧の数日で見慣れた家族が芝生で寛ぎ、食事や談笑している光景を目にする。 
八月六日(火)晴れ。  
 ホテルで朝食、羊のチーズを初めて口にする。臭みがなく食べやすい。ラルダールからノルウエーの首都オスロまでは三四〇キロ。バスで標高一〇〇〇米級の山岳地帯を越える。植物生育限界線の山々が続き、東西に別れる水脈の分岐点を越える。途中に二四・五キロのトンネルがある。大小数えきれないほどの湖を車窓から眺めカメラスポットでは記念撮影する。バングスミューサ湖は周囲三〇キロという。鏡の様に静まった水面に写る丘陵や山々の美しさはなんと表現したらよいのか。途中、ドングンドの一二世紀の北欧独特のスターヴ教会に立ち寄る。スターヴ教会としてはウルネスの教会が既に世界遺産であるが、ガイドの説明では地元としては「うちの方が」ということらしい。いずこも同じ郷土自慢である。
 午後、オスロに着き昼食後市内観光。ヴァイキング船博物館とヴィーゲラン彫刻のフログネル公園の二ヵ所の見学である。ヴァイキング船は一〇〇年程前に発掘されたものだが、オーセルベ船、ゴックスタ船、トゥーネ船の三隻が展示されており、特にオーセルベ船の数々の遺品はヴァイキング時代の宗教、文化、技術を語る貴重なものらしい。オスロ大学考古博物館刊行のアーネ エミール クリステンセン著の案内書を求める。彫刻家ヴィーゲランについての知識は皆無である。この公園全体が彼の作品と呼ぶに相応しく、人間の生誕から死までを数々の彫刻で表現している。ヨーロッパの他の彫刻と違い宗教的背景が薄くて正直ほっとして眺めることが出来た。オスロ中心部のラディソンSASプラザH宿泊。夕食前に往復一時間掛けて東京なら銀座通りに匹敵するメイン通りを抜けて王宮公園まで散策する。ここでベルゲンで見かけた例の「銅像」に再会する。ここでは女性のマリアと炭鉱夫だが、一見して人間と分かるので失望する。翌朝は六時半出発であり、帰国準備もあり夜間外出は取り止めた。   
八月七日(水)晴れ。    
 オスロ発八時四五分で空路ヘルシンキに向かう。朝食は車中で済ます。他のヨーロッパ観光組と合流し市中のレストランで昼食後一時間程ショッピングタイムがあったが、当方はウインドウショッピングのみ。ヘルシンキから予定通り十六時過ぎ離陸、北京経由で帰国の途に着く。時差の関係で八日九時二〇分松山空港に安着。「ヨーロッパ夏物語・Bコース スカンジナビア三ヶ国 フィヨルドクルーズの旅八日間」は終わった。
 さて次回は・・・・・・