エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第拾参章 高校同期会年度幹事始末記 (平成13年辛巳)
 松山東高校二十九年卒同期会の平成十三年度幹事として、本年度は同期会関連の多くの諸行事に参画してきた。正確には平成十四年三月末迄が任期だが会計報告を除いて総てが終了したことでもあり、同期生との「ひと・出会い・旅」の記録を取り纏めておきたい。 平成十年十月郷里に戻ったが、翌年春の町内会の世話役に推挙されお引受し、松山三田会(慶応OB会)も代表幹事に指名されこれもお引受することにした。また文化研究団体である松山子規会、坊っちゃん会、一遍会、伊予史談会の会員になったが一遍会代表の浦屋薫氏の強い要望があって一遍会幹事として四十年の歴史がある同会の運営を担当することとなった。定年後は「毎日が日曜日」とよく云われるのだが、これらの会の開催は土・日曜日が多いので、その意味では「毎日が日曜日」の様な結構多忙な日々が続いていた。 平成十二年の春、高校二十九年卒同期会の石川千代志会長と西林保幸副会長が来宅、平成十三年の年度幹事を引き受けて呉れる様に強い依頼があり、帰郷後間もないが引き受けることとなった。
(注)平成十四年から二期四年間同期会の会長と同窓会の年度幹事をお引き受けすることになった。
 平成十三年九月二十一日道後館で待望の同期会を開催した。恩師二名、同期生七十三名の出席は昭和五十、五十一年(第一、二回)以降ではひさかたの七十名の大台となる。ちなみに今回は第二十七回に当たる。併せて東京(十三名)、大阪(十七名)でも開催されたので参加人員は総計で一〇三名となった。年度幹事としては正直なところほっとして年度末を迎えることになった。以下は同期会をめぐる「ひと・出会い・旅」の記録である。 
 未だ会えぬ友の消息   
 平成十三年七月二十一日付で同期会案内状を送付した。幹事として開催の思いを次の様に伝えた。
          平成13年度同期会開催ご案内    
 盛夏の候、皆様にはご清祥にてお過ごしのこととお慶び申し上げます。さて恒例の同期会を今年も九月二十一日に開催することになりました。併せて、恒例の「二十九期会ゴルフコンペ」も開催致しますので、女性の方を含めて多くの方にお気軽にご参加頂きたいと思います。つきましては、21世紀初回の同期会となりますので、万障お繰り合わせの上お友達をお誘いの上ご出席下さいます様にご案内申し上げます。 
 尚年度幹事からのお願いですが、例年出欠席の回答のない方(住所不明者以外)が数十名に達するとのことですが、同期会は私たち一人一人の会でもありますから必ずご返信下さる様にお願いします。ご事情があれば連絡先は未記入で結構ですから「元気だよ」と一言付け加えてご返戻下さい。併せて住所不詳で連絡がつかない方を別紙に記載しましたので御存知の方は幹事までご連絡下さるようお願い致します。 
 同期の一割以上が連絡先不明となっています。いろいろと御事情がおありでしょう。せめて「元気だ。心配するな。」とだけ毎年知らせてほしいんだ。そして「友の憂いに我は泣き 我が喜びに友は舞う」という同期のつながりを いつまでも保とうではないか・・・・       
         お知り合いの方は是非連絡を取って欲しい。 
 八月に入って続々と出・欠席の連絡が届き月末には一段落したが、八月下旬に村上正信君から一冊の著書が送られてきた。最初の一行を読んで「おお、村上は生きてたんだな。松山に居たのか。」と驚きの声をあげた。高校一年の二学期に別れてから、今日まで気にかかっていた旧友からの近況報告であった。
 十八年の海外生活を経て昭和四十五年帰国し、昭和五十六年地元松山で就職し平成十二年退職、現在再就職中と簡単に自己紹介のあと、極めて鮮明に昭和二十六年高校一年の思い出と同窓会出席へのためらいの心の軌跡を記し、今後も「思い出の友、心の片隅に残る友」としてそっとしておいて欲しい、そして「あ奴はその後一体何をしよったんぞ」の問いに答えるために一冊の自伝本を送るで結んであった。彼の自伝は涙なくしては読めない青春の苦闘の物語であった。 
 謹啓 虫のすだく声が庭一杯に広がっています。すっかり秋の風情となりました。 突然にお手紙と著書「北を通る太陽の国で ブラジル移住体験記」を送っていただき一読しました頃は八月初旬の暑い時期でした。早速にご返事をと考えましたが、じっくり発酵させてからと存じ一ヵ月余り経ってしまいました。お手紙が遅れて申し訳ありませんでした。 (中略)    
 贈っていただいた御本をじっくりと読ませていただきました。本当に御苦労様でした。ブラジル移住を、御両親にとっては再移住を決断された経緯、現地での劇的な出来事の数々(正直なところ想像も出来ないほどでした)、村上君の苦闘と誠実な生き方、救いは事業の整理と素晴らしい奥様とお子様を得られたこと・・・・・・・ずしーんと胸を打ちました。  
 内地は高校時代の朝鮮動乱の特需による復興と昭和三十年後半からのオリンピック景気、池田内閣の所得倍増と続き経済大国に突っ走ることになったのですが、日本の夢と自分達の夢を重ね合わせて貧しくはあっても夢を追いつづけてきたように思います。その皺寄せがバブルの崩壊とは皮肉な巡り合わせではありますが・・・・ 
村上君の赤裸々な体験記はブラジルでの移住者の多くの方に共通する一面をもっているのかもしれませんが、それにしても村上君自身の歴史そのものでしょうし、これ以上所感を書くには日本語の不足を痛感します。ご苦労さまでした。  
 勤務しておりました鐘紡では人事畑を歩んできました。ブラジルにはカネボウブラジル(サンパウロ/綿紡績)、カネボウシルク・ド・ブラジル(製糸)、南拓貿易 珈琲、胡椒)などがあり多くの社員を派遣しました。初期の開拓と極端なインフレで経営的には苦労しました。平凡な会社勤務の中での特異事態としては、平成七年の阪神淡路大震災の罹災でした。神戸市東灘区森南町と云う最激震地に居住しており、それこそ一瞬に家屋が崩壊しましたが、二階で寝ており夫婦共無事でした。同じ町に住む会社関係四世帯中、死者が出なかったのは私方だけでした。昼間は周辺の数多くのご遺体のお守りをして、夜半六甲トンネルを抜けて丹波笹山に脱出しました。この脱出コースを敢行した神戸市民は数少なかったと後で知りました。それから一ヵ月は小学校時代の松山の戦災を思い出して地域や取引先の支援に全力を尽くしました。疎開先(懐かしい言葉ですが)は在日韓国人が多数住む天王寺区の鶴橋でしたが、下町の暖かさを痛感しました。その後東京勤務では江東区に移り江戸情緒の残る浅草、深川の人情に触れることができました。平成十一年に帰郷致しました。「ようお帰り たわい。」と近所の長老に言われてほっとしましたが、部落の九十%以上は知らない人で驚きました。まさに今浦島の心境でした。幸い小・中・高校の友人から声を掛けてもらってやっと落ち着いた次第です。  
 長々と書いてしまいました。村上君からの手紙と著書を贈ってもらって本当に嬉しかった。感激しました。同期会でのメッセージに「君の憂いに我は泣き 我が喜びに君は舞う」と記しましたが、家族の次に大切な裸の付き合いは青春時代の仲間かなと思うようになりました。最終版ではないのですが、同期会配布資料を同封します。松山東高校校歌と「高校三年生」は村上君にとっては切な過ぎる歌かもしれませんが、肩を組んで一緒に歌いませんか。松山で今上映されている中国映画「山の郵便配達」を鑑賞していて、昭和初年までの自然が豊かであったが生活は貧しく家族全員で助け合い励まし合った時代のことを思い出しました。もう日本では消えてしまった自然と和した家族の紐帯です。改めて著書の中で描かれた御家族のドラマを思い出した次第です。御家族皆々様の御多幸と御健康をお祈りしています。 
 最後にお願い!今年でも来年でも再来年でも、いつでも気が向いたら同期会に出ろよな。どうしても駄目でも、毎年連絡だけは送って欲しいんだ。連絡先不明じゃたまらんよ。元気で、な。みんなには宜しく言っておくから。じゃあ、な。    敬具  
平成十三年九月九日  
 九月十七日付で再度村上君から来信があった。予想はしていたが欠席通知である。今度は折り返し返信を書き同期会で村上君のことを披露することの了解を得た。 同期会当日、「懐かしい友の懐かしい便り」と題して返信葉書に記載された内容を抜粋したが、村上君のことも当然記載した。
懐かしい友の懐かしい便り  
 同期会出欠通知に一言書き加えて欲しいとお願いしたら数多くの友からのメッセージが寄せられました。順不同です。出席から欠席に、またその逆もありますが、そのままにしました。人生ってそんなものだし、ポストに入れる直前の気持ちを大切にさせてもらいました。名前や語句の間違いもありましょうが、六十の手習いに免じて許して下さい。  
 肉親を亡くされた方、ご病気の方、介護で御苦労をなさっておられる方、現役でバリバリの方、毎日が日曜の方、ゴルフ三昧の方・・・このメッセージがきっかけになってお互い励まし合い慰めあって、少しでも心の負担が少なくなったらなあと思っています。             (中略)     
村上正信                                                             
 同期会の案内状を頂き半ば驚き半ば複雑な気持ちに浸っています。一年の二学期で夢も希望もなく全く対蹠の世界に移住していった変わり者であった訳です。その後十八年の海外生活(ブラジル)を経て昭和四十五年帰国、昭和五十八年松山に帰り就職し現在も再度小規模な会社で働いています。・・・・在学の期間があまりに短いのでこうした会合には出席を控えさせてほしいというのが本心です。今後も「思い出の友心の片隅に残る友」としてそっとしておいて下さい。同期の諸氏のご健康と益々のご発展をお祈り申し上げております。
〔連絡有難ウ。嬉シカッタヨ。平田学級ノ仲間ハ君ノコトヲ覚エテイルヨ。御苦労モ多カッタコトダロウ。君ガ昔ノ仲間に会イタクナッタライツデモ声ヲ掛ケテクレヨ。元気デガンバレヨ。〕      (略)  
 村上正信君は同じ松山市内にいるのだが、その後も会ってはいない。お互い縁があれば会うことも叶うだろう。それまでは高校一年当時の姿の儘で青春のほろ苦さを噛みしめておきたい。同じ「未だ会えぬ友」の中に消息は分かっているのだが、永久に会うことが叶わない数多くの友人がいる。亡くなった友人だ。同期生四百二十五名(男子二百二十三名・女子二百二名)中物故者五十二名(男子三十四名・女子十八名)である。男子は十五%強、六人に一人がこの世を去っている。企業戦士として猛烈に働いた世代ではあるが、それにしても異常な数字である。   
東京同期会始末記     
 平成十三年松山東二十九年度同期会の本年最後の行事は東京同期会であり松山から十二名参加する。場所は軽井沢−−−飛行機組が中心だが夜行組もある。私はいつものことだが道中は単独行動させてもらうことにした。十月二十六日(金)松山空港七時四十五分発ANA582便で羽田空港に向かう。長野新幹線で軽井沢駅に着き、しなの鉄道で御代田で下車。車中から眺める山々の紅葉、浅間山の白煙、ひやっとした空気の感触−−−−爽やかな感動が続く。 
御代田駅前にて九州から来たと云う老夫婦から声を掛けられ、一緒にメルシャン軽井沢美術館に向かう。絵画がお好きらしく何度もこの美術館を訪ねている由。だらだらした坂道を十分程上るとツタの絡まる美術館につく。早速カフェテリアでサンドウイッチとマルコポーロ紅茶で腹ごしらえして館内に入る。 
 お目当てはジャン・フランソワ・ミレーの作品だ。ミレーの故郷、フランス・ノルマンディー地方シェルブールにあるトマ・アンリ美術館の収蔵品を中心にした「ノルマンディからバビルゾンまで ミレー 心の旅」でミレーを中心に百十点余りが展示されている。ミレーと云えば「落ち穂拾い」「種まく人」のイメージが強いが、モデルから妻となったポリーヌ・オノを描いた二作品、長らく所蔵先不明で日本が初公開の油彩画「慈愛」「落ち穂拾い」の習作が印象に残る。メルシャンウイスキーの蒸留所の樽倉庫を改修して造った美術館だが、信州の大自然に溶け込んだ環境はミレーの作品展に相応しい。      蒸留所を見学して別館でウイスキーとワインの試飲をする。駅で出会った夫婦から試飲券を手渡されていたので三人分を試飲し結構アルコールが体に回り、庭園のベンチに座っ て浅間を眺めながら酔いをさます。  
 帰途は別の道を通って御代田駅から中軽井沢駅に向かう。駅で松山からの同期生に出会う。宮内英聿君の車で宿泊先の明治生命軽井沢保養所に着く。塩沢湖(軽井沢タリアセン)の近くにある野村別荘地内の瀟洒な建物だ。佐伯保則君の司会で午後6時から2時間は会食懇談、次いでカラオケ、最後は居室に集まって午前零時まで雑談が続くお決まりのパターンとなる。   
宇田勇之助君とは久し振り。小学校一年梅組からの同級生だが和田和子と三学期の級長・副級長だったことは始めて知った。矢野宏君とは実妹俟子さんの話題。高校時代のほろ苦い思い出はあるのだが、彼は気づいていないのが有難い。塩崎雅敏、漆原康行、井上一繁〔翌日参加〕、村上満穂、吉川雅晴とは一般的な話題が続く。東京の女性の参加は乗松節子、吉田〔田中〕節子さんと宮内、佐伯夫人の四名である。同室は石川千代志、森永康正、竹本秀雄君。一人は鼾をかき中々眠れなかったが彼の名誉の為に名を伏せておこう。 翌二十七日(土)は早朝に目覚める。ぼんやりと曇っている様に思えたが、朝湯から出ると浅間の雄姿が眼前に姿を現す。保養所の周りを散策する。
 借切バスにて一日観光する。コースは白糸ハイランドウエイの紅葉のトンネルを通り浅間火山博物館と鬼押し出し園を見物し草津に着く。湯畑から西の河原公園通りの途中にある高崎万年屋文店で名代うどんの昼食。西の河原公園入り口の片岡鶴太郎美術館あり。何度来ても草津の湯量には圧倒される。天狗山通りを抜けて草津白根山へのコースは始めてである。ほぼ円形の直径三〇〇米、水深二十五米、PH一・二の世界一の酸性湖である湯釜を展望台から見物する。エメラルドグリーンのきれいな火山湖である。注ぎ込む川はないから雪解け水が溜まっていくのだろう。トイレの手洗い水は氷水の様に冷たい。白根山(二千百六十米)は名の示す通り山全体が白っぽい。岩石に含まれている有色の鉄分等が強い酸性の影響を受けて抜け出てしまったためとガイドでは説明してある最近の噴火活動は昭和五十八(1983)年である。 
 車中では明神正君と相席で、歴史話や梅木賢正君のことを話題に話が大いにはずむ。夕食、入浴、カラオケと昨夜と同じひとときを送った。居室での懇談は隣室の堀内良喜、西林保幸、栗原彬君の部屋に移動し、友人の消息を語り合う。  
 翌二十八日(日)は朝食後散会となる。出発の一番手は中軽井沢駅行きの武智定夫君と私。武智は蓼科にスケッチ旅行の由。一駅先の信濃追分駅で別れる。追分宿までは白樺道を二十分ほどの距離。車にも人にも会わず、木々を通して避暑地特有の木造家屋が見えるが季節外れで人気を感じない。 
 信濃追分宿は数年前妻と散策した場所である。一里塚、浅間神社、追分宿郷土館、堀辰雄文学記念館、御宿油屋、旧本陣、高札場、諏訪神社、泉洞寺、桝形の茶屋、分去れの一つ一つを丁寧に見て回る。途中で小雨になり午後には雪が降りそうな気配になる。雪催いは俳句の季語である。泉洞寺は曹洞宗の古刹で昭和初期には堀辰雄や立原道造がよく散策し、堀辰雄がこよなく愛した古都奈良にも見かけぬ素朴な地蔵が静かに迎えて呉れた。昼食は御宿油屋前の「ごんざ」の熱いとろろ蕎麦。暖を取りながら俳句をひねる。     宿泊先の「エキシブ軽井沢」へは国道十八号線で約一キロほどの小雨の中を歩く。グリーンパクレストランでコーヒー休憩し午後三時チェックイン。エキシブの山林地主は庭作りの造詣が深く落ち着きのある庭園は心を癒してくれる。レストラン特に和食「花木鳥」の料理はセンスと味がよく、グルメの評価も結構高い懐石料理と辛口の酒で至福のひとときを送る。連日遅かったのでNHK「北条時宗」を見て早めにベッドインする。
 二十九日(月)は快晴であるが気温は却って下がっており肌寒い。朝九時発の送迎バスで御代田に出て、軽井沢からは新幹線で上野に着く。人形町の「鳥近」の玉子焼きを土産に求め、玉ひでの例の親子丼を三十分程並んで賞味する。玉ひでは今年になって改造しており女将の手書き領収書もレジ打ちの味気ないものになった。当然と云えば当然ではあるが江戸の情緒はまた一つ消えた感じだ。早めに羽田に出掛け午後八時に帰宅する。