エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第拾弐章 革命的中国残像 (平成13年辛巳)
 中国はこれまでに二度訪れている。初回は上海から青島、そして北京には夜行列車で赴き中国薬剤公司との現地工場生産に関する交渉である。二度目はカネボウの漢方薬を取り扱う有力薬局・薬店を招待して、青島・上海を視察した。勿論それなりの観光コ−スは設定されていたが、ビジネスと接待が中心であり、中国旅行を楽しむ心境にはなかった。今回は全くの観光であり、仏教寺院と風光に接することを主眼に旅行したのだが、中国三千年の歴史の重みをひしひしと感じたのも事実である。    
二月二十六日(月)曇り、夜小雨。 
 松山〜上海国際プログラムチャーター便・中国西北航空就航記念キャンペーン「松山発上海@江南旅情コース〔上海・杭州・蘇州・無錫四泊五日〕」なるものものしい肩書の中国観光旅行にで参加する。その他にA水郷悠遊コースもある。タビックスに居る小学校・中学校の同級生である神尾修君の推薦もあったが、二月中は四泊五日で五万九千八百円という低価格料金に誘われたのも事実である。                  
 十時二十分に松山空港に集合したが、チャーター便は総勢百五十名で略満席である。中高年の夫婦連れが圧倒的に多い。四班に分かれ当方は第一班で三十一名である。添乗員は山本君という好感の持てる青年である。松山発十二時十分で上海には定刻十分遅れの十三時十分に着く。時差は一時間だから二時間の空の旅であり、松山を起点にすれば仙台空港であり、札幌空港よりは遙かに近い距離であり又時間でもある。昼食は機内食(勿論中華料理)。麦酒は「燕京□酒」。上海から杭州まで何百キロあるのか、四十何人乗りの豪華なバスで高速道路を約四時間ぶっ飛ばす。ということは、松山から神戸・大阪いや京都・大津までの距離だろうか。その殆どは農村、まさに日本の戦前というか子供の頃の目に焼きついている農村風景が再現されていく。実に懐かしい。 
 初日のコースは華東の江南地区即ち中国の東部で長江(揚子江)の南部に当たり、中国史上では越国に該当する。上海は千四百万人で第二位(@重慶三千万人B北京千二百万人C天津千万人)、中国四代名所に蘇州・杭州(西安〔洛陽〕、北京)、四代湖水に西湖、太湖といった具合に、現地案内人の解説は郷土自慢であり、「呉越同舟」「臥薪嘗胆」 「越南(ベトナム)」「呉服」に発展し、最後には日本の越前・越後まで越の住民の移動の歴史的事実だと説明があり唖然とする。まさに現代に蘇った中華思想かもしれない。  夕暮れになってやっと杭州に着き、六和塔に上る。観光ガイド誌の解説によると以下の通り。銭塘江の高潮を鎮め、また灯台の役目をさせるため北宋の時代(九七〇年)に建てられた国宝指定の塔。外からは十三層あるように見えるが、実際は七層に造られている。螺旋階段で最上階(十三区)まで上ることができ、そこから眼下に銭塘江の雄大な流れを一望できるとある。生憎の曇り空の夕暮れで最上階まで上ったが一望は利かない。    地勢がよく分からないが「北馬南船」に象徴される河を支配することが国と人民を支配することに通じたのであろ うし、この地(月和山)に立つ六十米の塔も戦略的な意味もあり呉越王・銭俶(センシュク)の偉業の一つででもあろうか。今は銭塘江に中国人が自力で建設した鉄橋が架かっており、通過する列車をカメラにおさめた。
 夕食は百合花飯店〔リリーホテル〕で杭州料理。烏龍茶でなく龍井茶「ろんじんちゃ」がお勧めで、麦酒は「西湖□酒」である。日本では烏龍茶が有名だが、ガイドは「ワン・ツウ・スリー・フォ・ウーロン茶」で中国のランクでは十九位で、龍井茶が一位の由。龍井茶は日本の玉露に当たるらしい。上海から王さん、杭州は蒋さんが同乗する。御両人とも日本語は達者である。ホテルは杭州黄龍飯店〔ドラゴンホテル〕で四っ星のランク。あくまで中国の相対評価の上でだろうが、日本のシテイホテル並である。正面に「悠然見南山」の石碑が立つ。恐らく眼前の山が南山なのだろうか。初日でもあり食事時の話が今ひとつ発展しない。雨でもありホテルからの外出は止め早めに就寝する。    
二月二十七日(火)雨。  
 気分はハイになっているのだろうか。朝四時半に目覚め、五時半過ぎに再度目覚める。六時前に起床する。一階の大ホール〔水晶宮〕で朝食バイキング。お粥が有難い。もっとも本式の中華バイキングは五、六回しか食べていないので、どの品に手を付けるのが良いのかよくは分からない。胡麻入り餅が美味かった。朝の観光の目玉は西湖遊覧であるが、眺望できず期待も楽しみも半減どころか消滅である。中国的に大げさな表現をすれば、これでは西湖なのか琵琶湖なのか区別もつかない程である。これまたガイド誌の記述を鵜呑みにして想像するしかあるまい。マルコ・ポーロが「世界で最も美しく華やかな土地」と讃えた由だが、当然に西湖の美しい湖があって始めて記述できたに違いあるまい。西湖十景に「蘇堤春暁」が数えられているが、南北約二・八キロの堤防であり、再遊時には是非歩いてみたい湖を二つに分かつ湖の回廊である。蘇東坡が役人として二十万人を動員して造らせた堤と云う。 
 浙江友誼商店で龍井茶の試飲とショッピングの後、プラタナスとメタセコイアの並木道を通り、一路と云ってもコースがよくわからないのだが、大きく左折して暫くすると広大な敷地を持つ寺域に入り、霊隠寺(雲林禅寺)に着く。この寺の歴史は古く、東晉の時代(三二六年)に印度の僧慧理が建立したと言う。日本への仏教伝来が五三八年だからそれよりも二〇〇年も古い。現存の建物は十九世紀の由。東西の山門に挟まれて天王殿(韋駄天像)と大雄宝殿(釈迦如来像)がある。色鮮やかな金箔の如来像は何だか新興宗教的で有難みが感じられない。最も繁栄した十世紀頃には九楼十八閣七十二殿に三千人の僧侶が居たとか。中国最大の禅宗十刹の一つで臨済宗の本山である。臨済宗開祖義玄は唐時代の僧黄檗希運に師事している。誤解が生じやいのだが、日本の黄檗宗は一六五四年明の黄檗山万福寺の隠元が来日して京都宇治に黄檗山万福寺を建立して広めた宗派であり、臨済宗の一派である。日本の禅宗の興隆は鎌倉時代(十二世紀〜)からであるが、日本の臨済宗の開祖栄西は此の寺院で学んだのであろうか。    ガイドの話では三百三十八体の摩崖仏が境内に祭られている と云う。寺伝では印度から仏が飛んできたので今後は移動させない願いから摩崖仏を所々安置しているのだそうだ。大雄宝殿(釈迦如来像)には十二神将が脇を固め、付属して五百羅漢の展示場がある。一仏一名の羅漢の表情は柔和な顔だちになっている。「来て見れば故郷乃秋や飛来峰」なる日本の有名な書家日下某の岩に刻んだ句を見つける。昼食は霊隠寺出口近くの「天外天飯店」、麦酒は「太湖水□酒」である。
 雨の中三時間近く走り、夕方四時半頃蘇州の寒山寺に着く。寒山寺と云えば掛け軸の寒山・拾得を連想し、森鴎外の「寒山拾得」を多くの人が思い出すに違いあるまい。私も同類なのだが、それほど有名であってもそれも以上の事は知らない。蘇州の寒山寺には唐の時代に寒山と拾得が住んでいたから寒山寺と呼ばれると案内書に書いてある。鴎外の「寒山拾得」では、唐の貞観の頃(七世紀初頭)に台州の主簿である閭丘胤が天台県の国清寺に豊干を訪ねるのだが、豊干は不在であったが拾得(普賢の化身)と寒山 (文殊の化身)に出会い・・・と云う展開になるのだが、拾得と寒山は天台山の近くに住んでいたことになっている。とすると、この寺は南北朝梁の時代(五〇二〜五一九年)の創建であり二〇〇年位は経過しているから、元々は何と云う寺であったのか。寒山寺を有名にしたのは、張継の「楓橋夜泊」の名作であろう。                                                        千五百年を経て寺域は狭まり昔日の面影は何ら残っていないが、「寒山鐘声」にあやかっかって鐘突きができるのは有難い。過去 ・現在・未来を念じて三度鐘を鳴らした。別館で先代と現在の御住職の揮毫掛け軸の販売をしていたが、先代は天竜寺の橋本元管長の顔によく似ているので驚いた。禅僧顔とでも云うのだろうか。
月落ち烏鳴いて霜天に満つ 江楓漁火愁眠に対す 
姑蘇城外寒山寺  夜半の鐘声客船に到る
 宗教的余韻も消えぬ内に絲綢研究所で生糸の製造とファッションショウと即売会のレールに乗せられる。夕食は国際旅遊定点餐館。中国から二十年前に帰化(帰国?)した魯迅美術大学卒の画家の中川さんと西条さん(西条市役所)、八幡浜さん(某企業、兄は某一流企業社長。夫人は大洲出身)、千舟町さん(酒好きで夫人は妻と同名)、伊台さん(煙草好きで夫人がスポークスマン)の十二名一卓である。中川さんの話では日本人向けに味付けしているので、三食中華料理でも飽きがこないとのこと。夜七時半四っ星クラスの蘇州飯店チェックイン。他に今治さんとは時々食卓を共にした。 
二月二十八日(水)曇り。   
 出発前に蘇州飯店の裏庭沿いの道路に出て、通勤の自転車の大河に圧倒される。殆ど車もバイクも見ない。自転車、自転車、自転車、自転車の流れである。朝八時蘇州観光に出発す。東洋のベニスと称せられ「天に極楽あれば地に蘇州・杭州あり」と詩的表現も残されている。今日でも比較的古い建物や仏像が残されているのは、文化大革命当時の嵐の中で「周恩来首相の庇護」があったからだと現地案内の蒋さんが呟いてくれた。蒋さんの肉親も犠牲者のひとりであったのかもしれない。
 蘇州四大名園のひとつである留園見学。個人の庭園で所有者は劉蓉峰なる人物の由。回廊には留園法帖なる石刻の書が飾られているが、目を通す余裕もない。池と岩(太湖石)と築山は中国風箱庭庭園なのであろう。所々に池亭が建てられ美女を従えて景観を愛でたのであろうか。蓮の咲く頃は一面蓮池となり林泉は一変するとの説明があったが、中国風阿弥陀世界をデザインされているのだろうか、それとも今生の栄華を賛美する目的だったのだろうか。 
 次いで今日でも活用されている古運河を舟で通って虎丘まで周遊する。水郷柳川や潮来で旅情を楽しんだこともあるが、水は汚くお世辞にも綺麗とは云えないが洗濯したりおまる(便器)を洗う庶民の姿には興味が湧いた。ここで野菜も洗うのだろうか。昭和三十年代後半の東京オリンピックを控えてインフラ整備でお江戸の町々から河川が消えていったが、世紀単位で見ればこの河川や運河や水路も無味乾燥な道路に置き換えられていくのだろうか。虎丘前の艀で下船する。門前町も賑やかである。狛犬は日本の威嚇するタイプでなく愛くるしい。沖縄の狛犬に似ている、と云うより華南の影響で沖縄文化が生まれたのであろう。山門の入口から雲厳寺塔が遠望できる。白皮松の並木を通り橋を渡ると境内である。呉王夫差の父闔閭〔こうりょ〕を埋葬した場所で猛虎が現れて墓を守ったとか剣池には埋葬時に愛剣三千本を副葬したとかの寺伝があるが、宋代(九六一年)に建設された高さ四八米弱の雲厳寺塔が「中国版ピサの斜塔」として名高いらしい。肝腎のピサの斜塔を見ていないので何とも言えないが、前面の樹木を通して見ると十五度程は傾いている。解説によれば塔頂部は中心 の垂直線よりも二・三米傾斜しており、イタリアのピサの斜塔は四・四米傾いているそうである。
 バスで中国の四大名園(他の三っは?)の一つで世界文化遺産の拙政園に移動する。此処も個人の庭園で、明の時代に御史を勤めた王献臣が失脚後に十六年の歳月をかけて造園した庭園で一五〇九年の完成である。拙政園の謂われは「拙き者之為政なり」(藩岳「閑居賦」)で「紅楼夢」に登場する大観園のモデルと言われる。蓮池が著名であるらしい。留園以上に庭園やガラス張りの池亭も見事だが、隣に所在する私邸の付属庭園である。日本で言えば明治の元勲山県有朋の私邸である現在の椿山荘の如きものであったのだろう。その隣家なる建物が記念館になっているのだが、入口の掲示板を見て驚いた。清王朝打破の先駆けである太平天国の乱の立役者の一人李秀成(一八二三〜一八六四)の持ち物でもあったらしい。太平天国とは清代の一八五一年に秘密結社上帝社の洪秀全が建てた国であり、李は同年九月に参加している。南京を天京と改め、キリスト教信仰に基づき清朝打倒を宣言したが、一八六四年滅ぼされた。彼は同年八月「処刑前、臨刑前、鎮定自若、作「絶命詩」十句」を残している。軟禁中に「自述」を執筆したのだが、時間の余裕がなく一覧出来ず残念であった。現 地通訳の蒋さんと太平天国の乱について語る。「珍しい日本人ですね」と答えながら、それでも楽しげに革命的歴史運動について語ってくれた。別館に刺繍研究所があり此処でもショッピングの喧騒が渦巻いた。
 「南林飯店」で昼食を済ませバスで無錫へ向かう。天候は依然として回復しない。無錫とは錫の大産地で当時は有錫と呼ばれていたが掘り尽くされたので無錫になったと云う。日本でもこの流儀で町を改名してはどうだろうか。自然破壊の警告になるのではと思う。たとえば、新居浜は無銅に、佐渡は無銀に、そして無水や無自然などが町名が続出するのはなかろうか。 
 錫恵公園、太湖遊覧、蠡園公園&鹿頂山を傘を持ち襟を立てながらの散策となる。「無錫旅情」で日本人には脚光を浴びているのだが、仕掛けは旅行会社かなとも思う。西湖に比較して歴史的な観光場所は皆無に近い。所詮は廃坑の跡ではあるまいか。中水珍珠研究所(真珠博物館)に立ち寄る。淡水湖の「真珠」は中国では「珍珠」である。又「呉越同舟」が当地の表現では「包孕呉越」となっている。                  夕食は美霊都大酒店で盛り上がり、四つ星の錦江大酒店で泊まる。食後の散策は八佰伴と大通りの専門店でショッピング。  
三月一日(木)晴れ。  
 久しぶりの晴れ間である。無錫名産の泥人形の制作展示場を見学する。人間国宝に当たる職人の器用な手さばきには感心する。数千円から万円台の物も多いが、泥人形は素朴な民芸品であってほしいと願う。日本人が価格を釣り上げているのだろうか。恵山山麓からの粘土をこねて、窯で焼かず陰干しするのが特徴である。土偶と同じ制作過程なのだろう。途中、明澄湖で休憩する。上海での最初の観光は玉仏寺参詣。浅草寺境内の庭園を散策している風情である。本堂は仏三体は並び脇は十八羅漢が固める。裏面の観音菩薩を中心にパノラマが展開する。曼陀羅の変形の様に思えてならない。別館にミャンマーから贈られた白玉石の釈迦仏が祭ってある。あまり有難い仏様の感じはしない。庭園の石は太湖石である。中華街と言うのも変な話だが、神戸・横浜の大親分格の食堂街にある「新緑波廊酒店」で昼食をとる。麦酒は「青島□酒」。食後は街内のショッピングをしたが、今までの公司での買い物より随分安価である。風油精を求める。上海観光の原点である外灘にある黄浦公園、南京路で遊ぶ。上海市第一百貨店から歩行者天国通りをウインドウショッピング。中国でも若者に人気 のあるMACは「麦当蒡」で十元以下の低料金である。
 最後の観光は黄浦江のほとりにある豫園である。寺院や庭園が混乱してきたので印象は薄いが、龍足五本は皇帝以外使えないので塀の上に這っている二匹の龍の足は三本と四本であったことと「会心不遠」なる石碑である。お別れ晩餐会は昼食と同じ食堂街の「紫禁城飯店」である。麦酒は「青島□酒」。
 夜は雑技団鑑賞組とホテル組に分かれたが、王さんが同伴してくれて和平飯店に出掛ける。個人的には今回の旅行の目玉である和平飯店一階のバーでオールドジャズを楽しむことになった。懐かしいジャズの数々はシニアにとっては心のオアシスに憩う感じである。スナップ写真を撮る。隣席には埼玉の女子大生四名の卒業旅行組がおり、教師と生徒の様な感じでおしゃべりをする。子規と漱石の落第から「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」の隠語や子規の初恋やら女子大生には始めて聞く話を披露する。八時から十時までジャズを楽しんだのだが、ここから予想もしない事態が発生する。予算としてはタクシー込みの三百元(入場料百元、飲物百五十元、タクシー三十元)と考えいたのだが、請求は三百元。帰りのタクシー代がなくなった。和平飯店のフロントで円元交換を依頼したが午後十時でクローズ。万事休すである。幸いフロントの女性とチーフが温かく接遇してくれてチーフが自前で交換に応じて呉れる。交換レイトも千円が七十元の好条件に感謝あるのみである。「地獄に仏」とはこのことを云うのだろうか。深謝深謝である。  
 黄浦公園で対岸の東方明珠テレビ塔や旧租界地の建物を背景に写真を撮る。寒くもなく快適な中国最後の夜となった。往路は十四元であったが復路は深夜料金なのか二十二元で財布には五十八元残った。新錦江大飯店は五つ星ホテルで部屋の造りも豪華であり、荷物の整理をしながら部屋のムードを楽しむ。
三月二日(金)晴れ。 
 朝五時半朝食を取り七時半にホテルを出発し、上海国際空港に向かう。定刻八時四十分に離陸し十一時十分松山空港に着く。機内食は軽食のみ。麦酒は「燕京□酒」。僅か数日の中国の旅であったが、国と人民の熱気を肌にすると「二十一世紀は中国の世紀だ」とする発言は無視出来まい。優れた指導者は時代と国民が生み出すものではあろうが、「国づくり」と云う大いなる理想が今日の日本国に欠けているのは日本人として情けない。かつて「殖産興業」「富国強兵」なるスローガンは軍国主義の破滅へと導いたが、富国は戦後実現できた。今中国は富国の道を歩みさらに強国の道を目指しつつある。軍事力を持たない(或いは持てない)日本にとって「富国富民」への挑戦は続けていくべきだろう。
 一週間振りに日経新聞に目を通すと、一日の東京株式市場で日経平均株価は一万二七〇〇円割りとなり、二日には一万二三〇〇円割れで一九八五年七月以来一五年振りの低水準となったと報じている。松山の大通りをバスで通っても人通りが少なく、落ち着いて清潔な街である。全く対照的な街で一気に革命的中国紀行の執筆を開始した。  
(注)□酒の□は〔口偏に卑〕である。