エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第拾壱章 四国の大将の贈り物 (平成12年庚辰)
  「四国の大将」とは元来島どっくの社長であり「再建の神様」として七十年代から八十年代前半までマスコミにもてはやされた坪内寿夫氏のことである。暮れも押し詰まった平成十一年十二月二十八日午後四時二十六分肺炎の為松山市の病院で逝去された。享年八十五歳であった。同氏とお話しをしたことはないが、私にとっては気になる郷土の経済人であった。 子供の時代の楽しみは何といっても映画であったが、坪内さんは市内に数多くの映画館を経営するとともに松竹、大映、東宝という大手の系列を越えて一館で三本立て上映を敢行され正に庶民の味方「月光仮面」であった。映画館の切符の「もぎり」をしていたということだから、何回に一回かは坪内のおっちゃんに切符を手渡していたのかもしれない。
 奥道後温泉の開発は道後温泉の盛衰を賭けての「血みどろの騒乱」があった様だが詳しくは知らない。松山から今治に抜ける国道の新設で奥道後のある三好家の広大な地所は道を挟んで二分され戦国武将の館の跡の縁(よすが)は消滅してしまった。血縁のある者としては割り切れぬ気持ちを抱いたのは当然であったが、信心深い坪内さんは三好家伝来の蛇骨をお堂を建てて祭ってくれていると知り不信の気持ちは一切消え失せた。      年二回子供をつれて帰省する度に奥道後温泉に出掛けるのが楽しみで、ジャングル温泉に入り付属の映画館でのんびりと映画見物をした。お蔭でサユリストを自認していた私が山口百恵の殆ど総ての映画を見てしまい、仮面としての女優を演じることが出来た最後の大女優は山口百恵であり、百恵以降の松田聖子から始まるスターはタレントではあっても女優ではないとの妙な確信を今日迄抱き続けている。今日でも封切り映画を年間十数本は見ているがこれも坪内・奥道後映画館の教育のお蔭だと思っている。 
 来島どっく、宇和島造船所、オリエンタルホテル、東邦銀行、関西汽船、函館どっく、佐世保重工、日刊新愛媛・・・と一代で坪内「コンチェルン」を構築したが,造船不況による来島どっくの経営破綻を招き、潔く財産処分をして第一線から身を引いた。坪内さんに関する評価は毀誉褒貶様々であるが、同氏の出処進退の清冽さに感動し又奥道後温泉郷に素晴らしい自然を甦らせた「花咲爺」の姿が絶対に消えない。春夏秋冬、奥道後温泉を訪れる度に今は亡き坪内フアンになっていく様である。 坪内さんをモデルにした柴田鎌太郎の小説「大将」から一時ブームとなった「坪内イズム」の著作など数多くあるが、平成十一年(一九九九)に発行された青山淳平著「人、それぞれの本懐『裸になった再建王坪内寿夫の本懐〜怪物と呼ばれた男の責任の取り方』」は感動的な一篇である。    
 平成十一年十月に帰省し、旬日を置かず奥道後温泉に遊び紅葉を愛でて杉立山の中腹まで散策したが、その直後一通の手紙を差し出したことから「出会い」が始まった。 
                                          
 秋冷の候 貴社益々御隆盛の事とお慶び申し上げます。創設者坪内寿夫様には御健在の由、青山淳平氏の最近の著書で拝見致し心からお慶び申し上げる次第です。    
             蛇骨祈念堂に関する件(御照会)       
 貴ホテル庭園内の蛇骨祈念堂に祭られております蛇骨は、掲示板にも記載の通り、三好蔵人助秀勝が元和中に打取ったとの伝承であります。蛇骨につきましては昭和初頭までは三好宗家にて保管し年一回蛇骨祭りを開催して村人に披露しておりましたがその後は中止しておりました。貴社の観光開発の中で、蛇骨が再び陽の目を見ることになったことは有難いと思っております。実はこの度三好宗家の来歴を取り纏めることとなり御関係者に御確認致したいことは、蛇骨を庭園内でお祭りされた経緯、特に蛇骨は当時食場三好隆三様宅にあったものか或いは神社または寺院にあったものかを確証したい為であります。御繁忙中恐縮ではありますが御回答賜りたくお願い申し上げる次第です。   
   追って 夏目漱石が松山中学在職中湧ケ淵で遊んだ時の句を是非庭園内で御披露いただければ、宿泊客や来訪客にも喜ばれるのではないかと存じ御提案申し上げます。  
湧ケ淵三好秀保大蛇を斬るところ 
        蛇を斬った岩と聞けば淵寒し    漱石   
      平成十一年十一月五日   
 奥道後温泉観光バス株式会社  業務部長  綿 崎 武 夫 様   
 奥道後温泉観光バス株式会社の綿崎業務部長から早速御連絡を頂き、十一月七日にホテルにお邪魔した。主目的は蛇骨堂の来歴であるが、幸運だったのは「奥道後伝説と民話」なる三好湧川氏の草稿があり、担当者の方が箇条書きで要点を纏めて頂いていたことである。さすがホテルのサービスだなと感心した。三好湧川とは三好幾次郎のことであり、湯ノ山三好家の別れでもある。記録では国道新設に伴い三好家の一部の家屋を奥道後温泉内に移築したとの事だが今は消滅している。漠然とした記憶だが、二十年程前に資料館があって湯ノ山に残る伝承の写真などを見た様にも思うのだが、あまり当てにはならない。帰途湯ノ山三好家の墓所に参詣し、戦国時代の砦であった菊ケ森城の在りし日を偲んだ。 
 三好湧川氏の御遺族宛に所感をお送りしたのだが、住所不明で手紙が戻ってきた。年末になって一人娘の方の訃報を聞いた。もう一年早く調査をしていたらとの後悔の念が残った。
 奥道後温泉ホテル宛(第二信)    
 謹 啓  秋冷の候 貴社益々御隆盛のこととお慶び申し上げます。過日は御無理なお願いを申し上げましたが、早速に御面談頂き貴重な資料を拝見させて頂き恐縮しております。御高配の程衷心より御礼申し上げます。又再度お尋ね申上げた件につき早速御連絡いただき有難うございました。
 奥道後伝説は松山地方では伊佐爾波の史実と伝承に次いで豊かな言い伝えが残っておりますし、そこにロマンも感じております。湯之山七湯を今日蘇らせることができれば日本有数の温泉イメージが確立することでありましょう。 御社が新しいストーリーづくりに成功され、二一世紀に更なる飛躍をされますよう心からお祈り申し上げます。自己紹介を兼ねて手元資料で蛇骨との関わりを御説明させていただきます。
@『豫陽郡郷俚諺集』(宝永七年/一七一〇)記載の『三好家記』の原本は不明です が寫真写しは東京大学史料編纂所に所蔵されています。草稿は伊豫史談会所蔵で県 立図書館で閲覧可能です。  
A食場にある庄屋三好家祖霊碑の紹介です。『松山有情』(昭和三三年/一九七八) 記載で「頭骨は湧ケ淵に安置」とありその後現在地に移されたものと存じます。
B『伊豫温故録』は明治期の刊行かと存じますが『伊豫の古城跡』(伊豫史談会双書 四)からの孫引きです。「その子孫は道後村の庄屋となる」が拙宅に当たります。
C「松山有情」(昭和三三年/一九七八)記載です。「松山藩主直属の庄屋」の表現 には誤解がありますが、湯山・道後の三好両家で温泉郡総庄屋を担任 したことに拠るのではと解釈しています。  
 奥道後温泉観光バス株式会社  業務部長  綿 崎 武 夫 様  
 平成十二年八月に入って、綿崎業務部長から八月二十三日に龍姫祭りを挙行するので御案内を頂いた。悦んで出席させて頂いた。毎年この日に坪内社長以下出席してお祭りをしていただいていたことを伺って、ちょっとだけ縁とゆかりのある者としては大感激であった。
 奥道後温泉ホテル宛(第三信)   
 残暑お見舞い申し上げます              
 貴社には益々御隆盛のこととお慶び申し上げます。さて此度は龍姫宮例祭に御案内賜り衷心より御礼申し上げます。 盛大且つ厳粛に執行され、又紅葉橋からの御供物並びに榊の谷川への投入は龍姫への慰霊として興味深く参加させて頂きました。                 
 湧ケ淵で夜毎旅人を悩ました「容貌美麗の女姿」の妖怪がいつの間にか龍姫になる民俗伝承は安珍清姫の怨念とは違った伊予の優しい人情が生んだ物語でしょうか。『松山叢談』(明治廿二年刊)第一巻の松山藩四代に当たる天鏡院殿定長公の記述に『三好家記』として紹介されておりますので為念。自然の豊かな奥道後には年数回訪れておりますし、杉立山へは春秋に登山し英気を養っております。先祖の地にも当たりますので私自身は「こころの古里」として今後とも奥道後フアンとして訪ねたいと考えておりす。                                                                奥道後ホテル総支配人  處 幸治 様  
今回お招き頂き真に有難うございました。御関係各位にお宜しく御鳳声下さい。先ずは御礼まで。  
     平成十二年八月二十三日     
             奥道後ホテル総支配人  處 幸治 様  
 九月に入って處総支配人からお手紙をいただいた。関係者に出された御挨拶状でもあり無断で掲載させていただくことにした。
 奥道後温泉ホテル處幸治総支配人からの書状
拝啓 新涼の候、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。平素は、格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。おかげさまでホテル奥道後は、今年で創業三十六周年を迎えることが出来ました。これもひとえに永年にわたる皆様方のご愛顧、ご支援のたまものと深く感謝申し上げます。   さて、このたび当社の新聞「おくどうごメール」を発行することになりました。この「おくどうごメール」は、より多くのお客様にホテル奥道後をもっと身近に感じて頂きたい、そんな願いを込め若い社員が中心になり一所懸命制作した手作りの新聞です余暇の時間にご笑覧いただければ幸いに存じます。 敬具
【おくどうごメール 発刊号】
          奥道後の祭り『 竜 姫 宮 祀 』      
 奥道後には「桜まつり」「菊花展」などの花まつりの他に、地元に伝わる伝説を祀る「お祭り」があります。その一つを「竜姫宮祀」を紹介します。八月二十三日、奥道後園内湧ケ淵で竜姫宮祀が行われました。  竜姫宮とは、江戸時代前期・地元の豪族「三好家」より伝わる大蛇伝説を祀った祀のことで、毎年この日になりますと付近の方々で霊を慰める儀式をしております。 当日は神主により神事を行った後、紅葉橋から谷川に御供物と榊を投入し、終了しましました。当日は、三好家ゆかりの伊予史談会会員の三好恭治氏にも参加して頂き、盛大にそして厳粛に行われました。 この伝説のお話しは、次回の湧ケ淵特集の中でお伝えします。  
 奥道後温泉ホテル宛(第四信)   
 謹啓 御清祥にてお過ごしのこととお慶び申し上げます。 さて此度は「おくどうごメール」VOLTを御送付頂き有難うございました。御社の若い社員の方々の創意と熱気が感じられ好感を持って読ませて頂きました。社員紹介・社長談話・森の結婚式・奥道後名物紹介・ジャングル温泉紹介・ゆうゆう会報始めニュース・アンケートは社外の者としても興味深く拝見できました。又過日お招き頂きました竜姫宮祀記事には御紹介迄頂き恐縮しております。御配慮の程深謝申し上げます。 「説文解字」に拠れば「春分ニシテ天ニ登リ秋分ニシテ淵ニ潜ム」とのことですので竜姫も暫くは湧ケ淵で冬眠することになるのでしょうか。 
 当方は、マイペースで道後郷を中心に古き記録と記憶を辿って郷土史を再現しております。時折は奥道後温泉で英気を養って健康な日々を送ってまいる所存です
益々の御発展をお祈り申し上げますとともに「おくどうごメール」が長く続きます様希望しております。                             御多忙の中御高配戴き深謝致します。先ずは御礼迄。          敬 具 
     平成十二年九月二十五日 
             奥道後ホテル総支配人  處 幸治 様  
 坪内寿夫という愛媛県が生んだ希有な経営者の大いなる志は中断したが、坪内さんが播いた奥道後温泉郷の大自然を二十一世紀にどの様に花を咲かせるかは奥道後温泉観バス株式会社と奥道後ホテル関係者の努力に待つ所は大きいが、隠れ坪内フアンを結集して坪内さんが夢見たヴィジョンを実現させたいものである。杉立山登山、松山の水瓶である湯山貯水池周遊、石手寺山歩きから高縄山登山まで雄大な自然美が待ち構えている様だ。四国の大将のどでかい贈り物に感謝し、その活用を考えていきたいものである。                                     
追って  文中にも記したが、三好湧川氏御親族宛にお手紙を差し上げたが受取人不明で戻ってきた。もう一年早かったら新たなる出会いがあった筈なのだが・・・・・ 
秋冷の候となりました。突然にお葉書を差し上げましたが、失礼の段お許し下さい。ホテル奥道後にて、三好湧川様の『奥道後伝説と民話』の原稿を拝見致しました。御生誕地湯山への温かい眼差しが感じられ、数時間ホテルのロビーで読み耽っておりました。 
 湧川様の『仏心のあゆ美』(昭和四六年刊)に湯山食場旧庄屋三好家之墓と並んで三好湧川分家之墓(泉薬師寺)と三好鉄雄分家之墓(石手寺)のご紹介が載っており断絶致しました三好家とは御縁続きと存じ一筆認めた次第です。ホテルでは毎年八月二三日に蛇骨堂の法要をしており、ご縁のある方には是非出席していただきたいのですがと申しておられました。
 湧川様と同様に伊豫史談会に所属しており、湯山のロマンを取り纏めて新しいストーリーづくりをして石手川ダム、湧ケ淵公園、奥道後、菊が森、新田神社、弥勒寺、城の山・・・・とハイキングコースをつくりたいと考えております。歴史の再生にお役に立ちたいと存じます。御迷惑をお掛けすることはなかろうと存じますので、旧庄屋三好家と分家御両家の係をお教え賜れば幸甚です。旧庄屋三好家の系譜は一応承知しております。 当家も三〇〇年ほど前に湯山から分家し旧道後村の庄屋として戦後の農地解放まで存続してまいりました。亡父章と湧川(幾次郎)様とは知己だったように聞いてはおりますが・・・・・・ 宜しくお願い致します。まずはお願い迄。
    平成十一年十一月七日  
      三 好 湧 川 様      御 親 族 様                          
【奥道後・杉立山を歩く】
平成十三年五月に奥道後・杉立山に登った時の印象を記すので、奥道後の一端を味わって頂きたいものである。 )
       
  五月のゴールデンウイークの中日に当たる五月四日(木)に妻と山歩きに出掛けることにした。連日晴天で気温も十七度前後で絶好のハイキング日和である。行き先は奥道後の杉立山(五六〇米)である。高い山ではないが上り二時間下り一時間半位の道程である。丁度一年前の四月の下旬に愛媛新聞社のカルチュアセンター「楽しい山歩き」の初回コースでもあった。 
 道後温泉駅九時四二分発湧ケ淵行きバスに乗車、一〇数分後に食場に着く。食場のバスストップは、食場では「隠居呼三好」で通る三好隆三氏の邸宅の前である。この土地は元々わが家の宗家である食場三好家の敷地であり二〇〇〇坪はあったが、現在は敷地の中を現在県道が走っており、一〇〇〇坪余になっているが、それでも広々とした邸宅である。近くに室町時代の三好長門守の居城址である菊ケ森と墓地が残っている。血縁者が居なく なったので、年一乃至二回墓参りに訪れるだけであるが・・・・ 
 元の敷地内に建てられた菊水公民館を右折して山道に入る。一〇分程でぼけ封じ観音三寺の一つである大師堂が杉立川に沿って立っている。特にどうと云った特徴はないが、境内には棚に翁、媼像と水子像が並ぶ。奇妙な組み合わせだが、現代日本の特徴を象徴している光景かもしれない。ここから約三粁の山道が続く。右方が杉立川の谷川と杉の樹林であれば左方は竹林であり、道端近くの山肌には筍が頭を出したり背丈程に成長している。  所々で家族総出で筍掘りしている姿を目にする。見晴らしは良くないが、新緑と木漏れ日が目に優しく、谷川の音とホトトギスの声が心を慰めて呉れる。途中でベストをリュックサックに仕舞い、手拭いを首に掛けて汗を拭きながらひたすら登る。二時間程で榎ケ峠に出る。峠脇の倉庫では取り立ての筍の集荷中であった。峠道は登って来た道を含めて六本の道が走っており、掲示板を暫く眺めて道を確認する。集荷を終えた年配と壮年の二人と挨拶を交わす。  
 「どちらへ」「奥道後の頂上へ」「それならちょっと下がったあの道を行きなさい」 「どうもありがとうございました」「折角だから部落の神社にある杉の木を見たらええがな」「貴布祢神社ですか」「あれは県社並の立派な神社ですわ」「この人が神社にこれから行くから付いていったらいいがな。五分ぐらいじゃから」・・・と云った会話の後、箒を手にした年配者の後に付いていくことにした。 「田舎のちょっと」は「都会のだいぶ」であり、五分では到底無理であった。途中数軒の家までは車が入る道があったが、そこからは畦道となる。次の部落には数軒の家があったが住む人はなく崩れかかった家やまだ十分住めそうな家が散在する。「昔は四十五軒程の部落があったが、今は年寄りばっかりよ」「十五軒位ですか」「なんのなんの数軒よ。もっとも住所を移してない人もおるけどな」「車は入りますけど若い人には無理ですか」「無理じゃのう」「それだったら神社のお世話が大変ですなあ」「そうよ昔はもっと上にあったのを、この場所に移したじゃがのお」   
 貴布祢神社は想像していたよりも遙かに立派な神社であった。鳥居から一〇〇米位の参道は苔が生えており参拝するのも部落の人だけに踏み固められた跡は見えない。まさに苔の絨毯を踏んで神社に近づく。拝殿は広く百人一首の公家や僧侶を描いた額や曰くのある寄り合いの献額が掲げられている。中央の額には貴布祢神社に並んで住吉大明神と諏訪大明神が併記されている。神社の左手にお堂があり、江戸時代の神仏混淆の名残であることが分かる。神社の正面に杉の大樹は一本立っている。「ザ杉」と云うか杉立の主らしい貫祿がある。幾星霜にわたり村人の誇りであり支えであったに違いあるまい。件の年配の人は落ち葉の掃除に取り掛かる。二時間はかかるとのことであった。  
 貴布祢神社の祭神は雷神、高靄神、健御名刀命、底筒男命、中筒男命、表筒男命で例祭日は秋一〇月二二日である。由緒として建徳年中(一三七〇〜一三七二年)河野鬼王丸の創起と云う。一説には神亀五年(七二九年)越智玉澄が山城国愛宕郡より伊予国内へ十四社の貴布祢神社を勧進創立したとも云う。以前は東の山上に鎮座していたのを桑田氏が今の地に移し社殿を造営した。現在の本殿は神明造で明治一四年(一八八一年)拝殿は元文五年(一七四一年)の建造である。山城国愛宕郡の貴布祢神社は現在の貴船神社を指すのだろうが、越智氏は河野の遠祖であり瀬戸内の海上権を握っていた豪族であり「船、山を上る」を実感した。
手元の松山市の住宅地図を開くと西村姓が四軒、渡部姓が三軒、松本姓・中上姓が各一軒記載されている。若い人は殆ど住んでいないとのことなので多くて二〇人位の集落だろうか。訊ね損ねたが主な収入は筍と松茸と林業とすると若い世代には魅力が少ないのもよく分かる。戦前までの副業としては炭焼きと薪が貴重だったと思うのだが・・・・  
貴布祢神社参拝後再び榎ケ峠に戻り、奥道後ロープウエイ山頂駅に向かう。平坦な山道が長く続き、飼い犬が後に付いてくる。立ち止まると犬も立ち止まりなんとなく親しみを感じる。四〇年前のユースホテルの残骸は緑の木々に遮られて山道からは見えない。右手上にロープウエイ駅舎が見える。一三時過ぎに到着した。一〇時出発で、途中で脇道に入り四〇分程ロスをしたのと貴布祢神社参拝で三〇分余分であったのを相殺すると約二時間の山歩きである。家族ハイキング向きだが道中車には出会ったが、人間には出会わなかった。車の時代は山歩きと云う楽しみを自らが捨ててしまったのだろうか。 
 山頂からの眺望は期待以上に素晴らしい。前面に瀬戸内海が広がる。右手に忽那七島、北条・鹿島、二神島、由利島と並び、北条・堀江・和気・三津・松前・双海と松山平野に広がる港が位置する。御幸(寺)丘陵・太山寺丘陵と松山平野の中に松山総合公園・松山城・道後公園(道後山)が点々で結ばれる。地勢学的に判断すると、熟田津から伊佐爾波之岡(道後)への伊佐爾波古道をイメージする。左手の山裾に目を移すと古代久米族の居住した平野から重信川に沿って一〇〇〇米級の山並みが続く。この山並みの向こうに久万があり、土佐に通じる。歴史と重ね合わせるとこの眺望は飽きない。奥道後公園からのロープウエイ往復は一〇〇〇円である。結構高いなと思う。昼食を取り、約一時間休憩して一四時に下山する。食場から湯之元まで歩き「田舎屋」の箱そばを注文、奥道後温泉では満開の藤を眺め一五時二七分発のバスで道後に戻る。