エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第九章 西班牙紀行 (平成11年己卯)
平成十年十一月十五日(月)晴れ。関西空港→フランクフルト→バルセロナ   
 朝五時起床。六時十分道後温泉駅から松山市駅行きに乗車したが、近所の神野さんに道後南町停留所で出会う。読売旅行で昇仙峡に紅葉狩りに行かれる由。当方は隣近所に海外旅行のことを知られたくないので「秘密、秘密」でお茶を濁す。松山空港には七時十分過ぎに着く。荷物はバルセロナ空港まで直送とのこと、期待していなかっただけに大助かりである。全日空のサービスに有難く感謝する。関西空港には九時前に着き、小一時間空港内を散策する。十時半ツアーの手続きを終了する。総勢で二十四名である。熟年夫婦二組、新婚組六組、残り四組は女性ペアだが、老(?)・中・青のバランスや男女構成もまずまずで一安心する。添乗員は井手さんと云う美人で小柄で声が良く通りパンツルックの似合うキャリアー女性で、バッグに付けたドナルドダックのマスコットが愛くるしい。 
 十二時十五分定刻に関西空港を飛び立ち、フランクフルトには予定より三十分早く十六時十五分(日本時間では八時間の時差があるから二十四時十五分)に着く。十二時間の空の旅であった。食事は昼食と軽食の二回だが、ワイン(赤、白)、ビール、コーラー、ジュースを何杯となく飲んだので満腹となる。乗客はあまり多くはなく、二人分、三人分の座席シートを占領してそれぞれ思い思いの気楽なスタイルで自分の時間を送った。    機内映画は日本では未公開のアクション映画「マトリックス」とドラマ「ディープ・エンド・オブ・オーシャン」を楽しむ。後者は三人の子供を連れて同窓会に出掛けた母親が兄に弟の見張りを頼むが、受付から戻ると三歳の弟の姿はない。苦悩する母と兄。九年後に成長した弟が他人の子供として家族の前に出現する。誘拐した犯人は母の友人で同窓会の出席者であった。子供は取り返したものの家族の連帯は思うようにはいかない。必死に努力する親と子供。結果はハッピーエンドだが、日本でも起こり得る家庭ドラマであり、恐らく日本でも評判になるのではなかろうか。   
 三十年前のことになるが、フランクフルト空港に日経連ニューワークオーガニゼイション調査団の一員として降り立った時の記憶が甦えってくる。今日では、ヨーロッパのメガ空港として、又ドイツの中核都市として一段と活気が出ており、巨大化している様に見受けられた。昭和四十五年(一九七〇)三〇歳代の日記から、その印象を抜粋しておこう。    
十月二日(火)晴れ。フランクフルト→ミラノ 
フランクフルト−−−今回の旅立ちまでは特に印象にも留めなかったが、ここがヴォルフガング・フォン・ゲーテの生れ育った町であり、ゲーテ館が復元されている。
永遠の女性ロッテを愛した風土がここにはあり、若きゲーテが深夜父の目を盗んで遊ぶ為にくぐり抜けた窓、ゲーテと妹の居室などが、今この目の前にある。古き良き時代を偲ぶ佇まいがここにある。夢ではないか。ゲーテ館を訪ねる前に「若きヴェルテルの悩み」を読み、内容を確認して見学できたらどんなに良かったか思う。高校から大学そして独身時代に愛読した古典である。 
フランクフルトはゲーテ館だけで充分だ。他の観光で、恋に恋した時代の感傷を邪魔されたくない。街々は遠望だけに止めた。ドイツでの道路工事、ビルディング建設は日本ほどではないが、建設自体は活発である。奇抜なデザインは少なく、環境にマッチした建造物が多い。
日本とヨーロッパの都市構成の決定的な相違は広場である。教会を中心に「市民の広場」があり、都市空間が予想以上に広く、ゆったりした気分にさせてくれる。都心ではアメリカ型の超高層建造物がなく均衡がとれていることも、都市の落ち着きを与える要因だろう。丸の内、日比谷、大阪御堂筋はヨーロッパ型の発想である。ニューヨークとは本質的に違う都市美である。
フランクフルト十二時四十分発ミラノ行きは二時間遅れで夕五時に空港到着する。
 今回のフランクフルトはバルセロナ行きの待ち合わせだけである。しかも六時間の待機である。ドイツ語はよく分からないから、ペーパーラジオ(FM)で音楽を楽しむ。カフェにたむろしている客の殆どは男性であり、若者と女性中心の日本の喫茶店とは大違いである。ガラス戸の外は木枯らしが吹いているのだろう。空港の整備員はコートの襟をたてて黙々と作業している。待ちくたびれて、やっと二二時にバルセロナ行きの中型機がテイクオフする。二三時半にデュケス・ディ・ベルガーラ(四ツ星ホテル)に着くが周囲は暗くてなにも分からない。ホテル内のインテリアは重厚であり、千鳥が淵のフェアモントホテルクラスに相当するのだろうか。カネボウの洗浴剤を浴槽に入れて汗を流し午前一時に就寝する。日本時間で翌朝の九時だから、二五時間は起きていたことになる。極度の緊張と疲労と睡眠不足でなかなか寝つかれない。 
十一月十六日(火)晴れ一時小雨。バルセロナ 
 六時半起床。頭がぼーっとしている。無意識に起き上がり靴下に右足を通していたら突然痛みが身体中を走る。ぎっくり腰か? 痛くて立っておられず、ベッドに横たわり痛みに堪える。足の裏の感覚は残っており、ひとまずは安心。五分位はそのままの姿勢で辛抱して徐々に足腰に気を配りながらゆるりと起きる。立つ、座るの基本動作を数回繰り返して筋肉をほぐす。手すりに寄り添って一歩一歩地階の食堂に降りる。食卓に腰を掛けると和歌山出身の新婚組が「どうしたんですか」と関西弁のやや間延びした口調で声を掛けてきて、手短に事情を説明すると鎮痛貼付剤を手渡して呉れる。朝食はバイキング料理。パン、肉は一般的だが、フルーツ類は新鮮で豊富である。食後恐る恐る大通りに出る。爽やかな初冬の感じである。付近の公園を一回りする。大型デパートや大銀行、プラザが公園を取り囲んでおり、ホテルへの目印はプラザビル屋上の回転時計である。どうやら痛みも治まり、ぎっくり腰は大丈夫な様だ。   
 九時からバスでの市内観光が始まる。現地ガイドは中年の女性、風邪気味である。主要観光地は@サグラダファミリア(聖家族教会) Aグエル公園 Bモンジュイックの丘 Cゴシック地区 Dグラシア通り Eミラ邸である。人口六〇〇万人、スペイン第二の大都会を一日で見物すること自体が無謀な試みである。大阪を一日で観光してコメントしようとしても所詮不可能であろう。せめてもガウディの作品とピカソの作品だけはこの目で確かめることにしたい。 
ガウディを生み育てたこの都市には、ガウディの才能を支え、その実験的な建築に理解を示したスポンサーがいたからだろう。フローレンスに於けるメディチ家には及びもつかぬが、十九世紀カタルーニャ繊維業界の大立者であるビオ・グエルの支援なくして壮大な実験は不可能であったに違いない。
○旧市内のランプラス通りにあるグエル邸(一八九〇年)は今日美術館になっているが外観だけをみてもユニークな建築である。大小一九本の煙突と換気塔が屋上に突出しており「竜の門」の鉄細工と曲線の展開部分に吸い寄せられる。
○グラシア通りにあるカサ・ミラ(一九一〇年)とカサ・バトリョ(一九〇六年)は都市マンションであろうが、石灰石の外壁と色ガラスの破片が朝の光に反射しており、今日の日本で見かける無味乾燥なマンションとは異次元の美しさを感じた。
○グエル公園(一九一四年)は世界文化遺産の一つだが、グエルが宅地造成用に開発した分譲地で公園内のガウディ邸は交通事故で死亡するまで住んだ屋敷でもある。曲線の美と云うのか幻想的な美と云うのか、中央広場、正面大階段と列柱、波形のベンチ、傾斜柱といった彼独自の世界が展開する。 
○サグラダファミリア(聖家族教会)には驚く。一八三二年着工で現在も建設中であり二〇〇年は優に越すのだろう。建築のプロセスそのものが完成なのか、竣工とともに破壊が始まるのか−−−−日本人には到底考えられない建造物である。説明によると、彼の生前に完成したのは、キリストの誕生を描いた「誕生の正面」と高さ一〇七米の鐘楼のみと云うが素人にはよくは分からない。外観を眺め、内部の博物館で建設の過程をおぼろげながら知ることができた。人類が神に挑戦したバベルの塔を思い出した。この「バベルの塔」が完成した暁に、何千年に一回かの大地震が起こるのではあるまいか。そしてその時第二のガウディが出現して瓦礫を拾い集めて再び建築を開始するに違いあるまい。「スペイン人である前にカタルーニャ人だ」と云う言葉があるそうだが、この教会はスペインの教会ではなくカタルーニャの教会だという気持ちになってきた。親友の一人である建築設計事務所ゲンブランの代表である設計家の満野久君に機会があれば是非彼が描くガウディ像を聞いてみたいものだ。
 昼食(イカスミのリゾットと麺のバエリア)はランブラス通りの入り組んだ路地を入った一昔前の雰囲気のレストランだが、祖父母・父母の「家族の肖像」が掲げてある部屋に案内された。食後、活気のあるサン・ジョセップ市場を通ったが京都錦市場と同様に売手は威勢よく声を掛け、買い手は商品の新鮮さを厳しく評価して回る。世界共通の庶民の広場である。 ブランド品買い物指向の一行と別れてピカソ美術館に向かう。頼りはランブラス通り沿いのマクドナルド店を左折して一キロ程直進すればなんとか行けるという現地ガイドの説明だけで心もとない。試行錯誤したが、マクドナルド店からの道は落ち着きのある商店が立ち並んでおり、左手にカテドラルが見えてくる。ビア・ライエタナ通りを横断するとゴシック地区特有のプリンセザ通りとなる。浅草の路地的雰囲気で商品は安いが品質はどうだか分からない。 
○ピカソ美術館の傍まで来てから入り口が分からず、通行人に二度三度と「ピカーソ、ピカーソ」と案内を乞う。日本ならば上野の西洋近代美術館の規模だろうが、スペインではピカソと云えども下町の美術館である。バルセロナには大小五〇以上の博物館・美術館が点在している。案内書にもピカソ・ミロ・カタルーニャ・フレデリクマレス・バルセロナ現代・アントニタビエス・近代美術館などなどずらりと紹介されている。
 ピカソは一八八一年マラガ生まれだが、一四歳からバルセロナに移住している。九歳当時の早熟さを示すスケッチから「青の時代」の作品と最晩年の天衣無縫の裸体画が並ぶ。 特に、一五歳の「初聖体拝礼」やベラスケスの名作「ラス・メニナス」に触発された連作や鳩シリーズなど、次々と変化する天才の画風の軌跡に驚く。一九七三年に九三歳で死去するまでのピカソの生涯の描写は専門家に任せるとして、展示された絵画を眺めながらピカソの代表的な作品はどれかと自問してみた。大作「ゲルニカ」や「戦争と平和」などのイデオロギー的絵画は当然除外するして、「老いたるギターひき」「アルルカン」「アルルの女」「アヴィニョンの娘たち」がランクされよう。十九世紀が写実のリアリズムとすれば二十世紀はキュビスムの誕生でありアフリカ黒人芸術からの影響もあろう。ゴーガンもタヒチ島から発信した。音楽も同様に古典主義から脱皮しジャズが熱狂的に受入れ始まる。「世紀末」は芸術、哲学、社会科学、自然科学の全分野で天才を誕生させた。
 スペインの知識人は殆ど知らないのだが、オルテガの「大衆の反乱」を学生時代に読んだ感銘が微かに残っている。ヨーロッパの優越性が崩壊する過程が十九世紀末であり、ピカソの球体や円錐体は優れて二十世紀を象徴していることに気付いた。確かに絵画は分かりにくくなったが、波長の合致する作品への共感度は増してきた。美術館でグループの新婚組に出会ったが、ピカソの赤裸々な裸体画に目を背けていたので「凝視してご覧なさい。嫌らしさでなく若々しい生命を感じませんか。」とメッセージを送ったが反応はなかった。 
 美術史的には無視されているのだろうが、ピカソの戯画と云うか権威への挑戦と云うかとても興味のある作品に出会い暫く足を止めた。ベラスケスの「ラス・メニナス(侍女たち)」−−−画家とモデルが同一画面に同居し、尚も子細に見ると奥の鏡に王と王妃が写っている。キャンバスに描かれているのは実は王と王妃であり、王女と侍女と侍従と犬が退屈をもてあましながら眺めていると云う奇妙な構図である。これをピカソが見逃す筈はない。戯画として創造した絵はピカソ的にデフォルメさせ、特に犬と右端の侍従の顔が面白い。思わず笑ってしまった。    
 三時間近くピカソに浸って、夕暮れ時に再びランプラス通りを四十分ほど歩きカタルーニャ広場に戻った。夕食はグラシア通りのカウンターレストラン「タパ・タパ」でワインを飲みながら妻とスペイン初日の印象を語り合う。ガラスを通してガウディのカサ・バトリョが夜間照明でくっきり浮かび上がって見える。 腰の痛みも徐々に薄れてきたが、右手は妻の肩に載せての散策であった。    
十一月十七日(水)晴れ。バルセロナ→セビリア  
 六時半起床。朝食後カタルーニャ広場周辺を一周する。腰痛は少しは治まってきた。九時にバスに乗り込みバルセロナ空港に向かう。二時間近く待機したが、女性グループや新婚組は空港内のショッピングに熱中。十一時半過ぎ離陸しアンダルシアのセビリアには十三時を過ぎて到着する。メネデス・ベラヨ通りからムリーリョ公園を横切りサンタ・クルス街で一五〇年の伝統を誇るオステリア・デル・ラウレルで昼食(アンダルシア料理)。アナウンサー張りの美声の現地男性ガイドの話ではドン・ファンも利用したと云うが、スペインの伝説上のこの人物が文学作品として始めて取り上げられるのはティルソ・デ・モリーナの「セビーリの色事師と石の客」(一六三〇年)だから、いくら老舗でも時代が違い過ぎる。旅人は快く騙されてモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の舞台を想像するほうがいいようだ。もっともサンタ・クルス街で女を口説くのは朝飯前のことかもしれない。入り口の天井から吊るした豚の生ハムには驚く。早速スナップを撮る。
 主要観光地は@アルカサル Aカテドカル Bヒラルダの塔 Cマリアルイサ公園 Dサンタクルス地区である。アンダルシアの中心都市で人口は約七〇万人。ビゼーの「カルメン」の舞台であり、フラメンコの本場でもある。コルドバ、グラナダもアンダルシアにあり、イスラム文化の入口でもあり最後の牙城でもあった。イスラムとローマカトリックの入り交じったスペイン特有の文化に異教徒はどのように取り組めば許してもらえるのだろうか。  
○セビリアのカテドラル(大聖堂)はヴァチカンのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次いで世界第三番の大きさで奥行一七〇米、左右七六米、高さ四〇米とか。一五世紀の建設でキリスト教化が随分遅れた地域と云える。教会には無縁なので他との比較は出来ないが、ステンドグラスや多くの祭壇画、主礼拝堂の巨大祭壇を眺めていると、叡山や高野の密教の雰囲気が醸しだす神秘性に類似するように思える。宗教とは1)創始者2)教典3)儀式の三要素が必須条件と宗教学者は解説するが、この虚飾は必須条件とは思えない。
○興味が湧いたのはコロンブスの墓である。ハバナ大聖堂からサンティアゴを経てセビリアに移されたが、その棺を四国王(レオン、カスティーリャ、ナバラ、アラゴン)の木像が担っている。コロンブスはイタリア出身だがスペインにとっては手放せない英雄であろう。一四九二年は「コロンブスのアメリカ大陸發見の年」であるが、同年一月キリスト教軍のグラナダ征服によりイスラム・スペインが滅ぶと云う歴史的事実が先行している。この歓喜の中でイザベラ女王はイタリアのペテン師コロンブスのスポンサーになることを承諾し、一六世紀のイスパニア時代が開花することになる。
○カテドラルに隣接するヒラルダの塔に昇り、グアダルキビル川に沿って広がる町並みを眺める。ムデハルと云うスペインで生まれた華麗なアラブ様式のアルカサル(王宮)を回り、広大なマリアルイサ公園の中にあるスペイン広場でくつろぐ。この広場には一九二九年に開催されたイベロ・アメリカ博覧会時のスペイン館が現存している。
 ところで頭が混乱してくるので、超簡単なスペイン年表を作ってみた。                                                        
年代 主要事項
新石器時代 イベリア人(地中海系、アフリカ系)
前十一世紀 フェニキア人の植民開始
前七世紀 ギリシャ人、カルタゴ人の植民
前五〜四世紀 ケルト人の侵入
    四一五 西ゴート帝国(七一二)成立
    七一一 ムーア人の侵入、イスラム化 
    九二九 カスチリャ王国誕生。アラゴンの独立
   一四六九 イザベラ王女フェルディナンド王子結婚
   一四七九 スペイン統一国家の成立   
     九二 グラナダの征服。イスラム勢力駆逐
. コロンブスのアメリカ發見 
   一五一九 マゼランの世界一周  
      三二 ピサロ、インカ帝国を滅ぼす 
      七一 レバントの海戦  
      八〇 フェリベ二世ポルトガル王兼ねる
      八八 無敵艦隊の敗北 
   一七〇一 スペイン継承戦争(→一四) 
      〇四 イギリス、ジブラルタル占領 
   一八〇五 トラファルガー沖海戦  
      一二 コルテスの改革立法  
      二〇 リエゴの革命宣言   
      三四 カルロス戦争(→四〇) 
      七二 ドン・カルロスの革命運動(→八〇) 
     七三  第一共和制の成立(→七四)
      九八 アメリカ・スペイン戦争 
   一九二三 プリモ・デ・リベラの軍事独裁政権確立
      三一 第二共和制始まる 
      三六 内乱はじまる  
      三七 フランコ総統となる
      七五 フランコ、元首の権限をフアン・カルロス一世に委譲 
      九二 バルセロナ・オリンピックとセビリア万博開催
 夜八時からフラメンコショーを楽しむ。フラメンコ(flamenco)はアンダルシア地方のジプシーの歌と踊りが原型であり、「フラミンゴ」と同様に「フランドルの」の意である。インドに起源をもつ非定住民族と云われるこの集団は、今日でも基本的には非定住の彷徨える集団であり、被差別の民でもある。大阪にある国立民族学博物館でジプシーの生活資料や情報を度々目にし耳にしてきたが、選民思想と賤民思想の狭間の中で勝者と敗者の歴史的選別が「神の手」によって実施された事実を忘れてはなるまい。 
十一月十八日(木)晴れ。セビリア→グラナダ  
 六時半起床。セビリアからグラナダへは終日バス観光であり、八時半に出発する。   地図を眺めるとセビリアから地中海へ向かって南下し、最初にロンダの町に立ち寄り、コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)で地中海の風光を愛でながらのランチ、白壁のミハスに立ち寄ってから宿泊地グラナダに向かうことになる。アンダルシアの山岳と高原と海原・・・大いに自然を楽しめそうである。 
 グアダレビン川が切り刻んだ深い渓谷に沿ってバスは走る。岩山と云うか木一本生えていない冷たい鼠色の山肌、オリーブ畑、オレンジ畑、収穫を終えたひまわり畑、松の林、ポプラの林と云った具合に数キロ走ることに窓外の情景は変わり、全く退屈しない。 ロンダの町は新市街と旧市街が完全にグアダレビン川で分離されている。旧市街はマルケス・デ・サバティエラ宮殿、モスクの跡に建設されたサンタ・マリア・ラ・マヨール教会やアラブ浴場が散在するが見て回る余裕時間がない。ヌエボ橋を渡り一〇〇米下のタホ谷に降りる途中の展望所から新市街を望み、上流にあるアラブ橋を渡り対岸の展望所からはヌエボ橋が間近くに見える。新市街にはスペイン最古の闘牛場があり、小規模だがホテルも一〇軒近くあり鉄道も通っている。日本流に云うと小諸をコンパクトにした爽やかな健康的な町とでも表現しようか。人口は三万である。
 南下を続けると、明るい世界が開ける。地中海であり、曇っていて良くは見えないがジブラルラル海峡やアフリカのモロッコの辺りが眼前に広がって来る。イスラムの軍隊と文化が怒濤の如くこの地に押し寄せた情景を思い浮かべてみる。今は世界でも有数の避寒地であり一大リゾート地であり、熟年夫婦の長期滞在型のオアシスでもあるらしい。コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)は何十キロ続くのか想像がつかない。青い海と紺碧の空、白いホテルや別荘地が続く。その一つにトレモリノスがあり、海浜のレストランJUANでシーフードタパスとシーフードパスタを食べる。地ビールも美味い。背広姿、ワイシャツ姿、水着、上半身裸・・・と異次元のファッションの組み合わせである。但し多くの男女ともに肌が綺麗で白く、また赤く焼けている。陰鬱な北方の冬を避けての避寒の客が多いのだろうか。少女ならばこの上もなく魅力的なのだろうか、手を組んだり、肩に手をやった熟年夫婦が圧倒的に多い。近くにスーパーがあるのだろうか、午後の憩いかそれとも夕食用の買い物を入れた袋を下げている人達だ。退職後の夫婦の生活を大切にしている欧米のライフスタイルを垣間見 た様な気がする。
 海岸から高台に入り白壁の家が数多く残されているミハスの町で降りる。広場からの坂道を登り詰めると断崖の上に張り出した展望台があり、更に坂を上がると小公園に出る。高台だけに展望がよく、コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)が眼前にパノラマの様に広がる。みやげ物屋や洒落た店やレストランがあまり多くはないが並んでいる。ロバのタクシーが客待ちしているが、あまり乗る人はいないらしい。暇を持て余した男達がぶらぶらしている。珍しく寿司屋があり、日本女性が現地男性と結婚しているらしい。寄って下さいと誘われはしたが・・・・。ミハスにはホテルがあるから、日本人の宿泊客は恐らくこの店に立ち寄ってミハス寿司なる地中海の魚を味わうことになるのだろうか。白壁は観光用ではなく生活の知恵から生み出されたものだろう。住まい(家屋)はその土地の風土と文化に影響されることが多く、狭い日本でも北海道から沖縄までの住まいは千差万別であろう。飛騨の合掌造りでも、村人総出で年一乃至二棟程度葺き替えとすれば三十年毎の葺き替えとして五十軒程の村落形成は不可能ではあるまい。瓦葺き、萱葺き、木片(柿)葺き、板葺きなど貧富の差は村 落毎に決まることが多く、村の住まいは村の掟(共同体規制)に左右されることが多いのであろう。 
 ミハスの高原町は見たところ裕福とは思えない。観光資源と云っても大したことはないし、コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)のレジャー客と物好きな日本の観光客位であろうか。現在はどの様になっているのか知らないが、中世以来この付近の山地から取れる赤土で煉瓦を焼き、付近の石灰と獣骨からの膠を混ぜ合わせた漆喰で堅固な白壁の住まい(家屋)を建設したのだろう。朝夕の冷え込みと日中の猛暑−−−案外フェニキア人がイスラム文化を持ち込んだものかもしれない。スペインに住むジプシーは今日でも山腹の岩穴に住んでいると案内書に書いている。テントや安宿よりは風土に合っているのだろう。日本のコンクリート住宅は高温多湿の自然風土から三十年が快適性の限度らしい。木と土と紙の日本住居が温暖多湿地ではもっとも住みやすい筈なのだが。固くなに伝統家屋を守っているミハスの住民に乾杯! 
夕暮れにグラナダに着く。アルハンブラ宮殿が見えてくる。グラナダの町の車の渋滞で現代の車社会に戻る。両側に車の駐車、その内片側は二列である。車は一方交通のように大型バスでは一台しか通れない。駐車中の車の中には埃具合から数日間置きっぱなしの車も多い。その中をすいすいと運転していく。まるで自分の足であるように。食後町内を散策したがパブ&バー以外の店は閉まっておりウインドウーショッピングで終わる。日中の暖かさに比べて夜の冷え込みは厳しい。五度前後だろうか。歩行者最優先は徹底しているらしく横断する時は必ず停車して呉れる。お行儀の良さは日本と比較にならない。不法駐車?は勘弁してやるか。宿泊はホテル・サン・アントン。残念ながらアルハンブラ宮殿の夜景は見えない。四ツ星ではある。   
十一月十九日(金)晴れ。肌寒い。グラナダ→コルドバ  
 朝から興奮している。何十年来夢にまでみていた恋人に今日は会える。恋人は間近に待っていて呉れる−−−−−アルハンブラ宮殿である。    
 アルハンブラ宮殿はイスラム王朝最後の宮殿であり、一四九二年にローマカトリック軍の手に落ちた。イザベラ王女と夫であるフエリベ皇帝がこの宮殿を訪れ、外国の賓客を接待し、多くの臣下を謁見したのであろう。まさに二人にとって絶頂期であったろう。   四回に及ぶコロンブスの新大陸の法螺話を楽しく聞き、黄金に飾られた土産物に囲まれれ、未だ見ぬ黄金の国ジパングのことを夢想したに違いあるまい。まさに「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば」の心境ではなかったのだろうか。   宮殿内の天人花のパティオの池の回りで四人の夫人を囲ったハレムの部屋を見た時、夫である美男の誉れ高いフエリペ皇帝のことが一瞬頭を過ぎ、軽い嫉妬を覚えるとともに、洋の東西を問わず女として老いゆく不安から「花の色は移りにけりないたずらに・・・」と天下の美女小野小町と同様の気持ちを抱いたかもしれない。 
王室礼拝堂では、次女とフエナ女王、夫フエリぺ皇帝に囲まれて女王は安らかに眠っている。目が覚めてちょっと起き上がれば、間近に女王が心から愛したアルハンブラ宮殿は見える筈である。女王が生前見た宮殿は色が少しは褪めたとは云え、地上の楽園して後世に残っていることを知って、また安心して深い眠りにつくことだろう。それとも黄金の国ジパングからの大勢の観光客の姿を見て驚愕してしまうのだろうか。現地ガイドは長い髪のすごく行動的な女性だが、見てきたような自信を持って説明してくれる。一方現地案内人は髭面の中年男で自称ドン・キ・ホーテでイスラム教徒?で植物学者である。眼は優しく澄んでいる。
イベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝が残したこの城がアルハンブラ(赤い城)である。城砦の建設はナスル朝を興したムハンマド一世によって始まったとのことだが、王宮は第七代ユスフ一世(在位一三三三〜一三五四)とその子ムハンマド五世の時代に完成した。王宮(メスアルの間、獅子のパティオ、二姉妹の間、浴室)、カルロス五世宮殿、ムハンマド一世によって九世紀初頭に建てられた最初の王宮の跡であるアルカサバを回って中庭に出る。バルタル庭園を散策して夏の離宮(ヘネラリフェ)に向かう。噴水と手入れのよく行き届いた草木と生け垣がありバルコニーからはアルハンブラ宮殿とダロ渓谷の眺めが素晴らしい。植物の名を自称ドン・キ・ホーテの現地案内人がカタカナ語で説明して呉れる。アルハンブラ宮殿の説明は「筆舌に尽くし難い」と云うほかはないし、旅行案内書を眺めてもらうしかないが、頼山陽であれば如何に見事な漢文で表現するのだろうと思ってみる。松尾芭蕉は「アランブラあゝアランブラアランブラ」と詠むのだろうかと夢想してみる。 
帰国してアルハンブラ宮殿のひとつひとつの光景が心の何処かに静かに落ち着いたら、アフタヌーンティーを啜りながら、F.タルレガの名演奏「アルハンブラの想い出」を聞きながら一冊の本を本箱から取り出してみたい。ワシントン・アービングの「アルハンブラ物語」である。彼の「スケッチ・ブック」の一章を中学三年か高校一年の時リーダーとして読んだ記憶がある。「リップ・ヴァン・ウインクル」だったのだろうか。今回は絶版で長らく手に入らなかった岩波文庫の馬場久吉訳「アランブラ物語」に代わって平沼孝之訳「アルハンブラ物語」を容易に手にすることができる。それは私にとっての至福のひとときとなってくれることだろう。一八三〇年代のこの旅行記によってアルハンブラ宮殿の存在を欧米人は始めて知り、この類なき宮殿を人類が持てた幸せに酔ったのだ。J・F・ケネディがホワイトハウスにこの本を持ち込んだ事実は知る人ぞ知る公然の秘密だが、恐らく苛立った神経を暫し休息させてくれたに違いあるまい。もしも本当にもしもだが、宣教師の話に触発された信長が建築した安土天守(天主)閣なる黄金の城郭(宮殿)が現存していたら、アルハンブラ宮 殿に匹敵する美の城郭(宮殿)であったのではあるまいか。 
三時間半の王宮は一瞬にして過ぎた様だ。現実に帰ると腹が減ってきた。とある通りのレストランPUERTA・ELVIRAでランチ。ビヤ銘柄はもちろんアルハンブラである。グラナダからコルドバへ。丁度京都から奈良へと云ったところだろうか。一面ひまわりの畑が広がっている。夏は素晴らしい光景だろう。イタリア映画の「ひまわり」の撮影現場はスペインのひまわり畑であるらしい。 
 紀元前一六九年ローマ帝国の植民地として発展し古くから栄え、その後七一一年から一三世紀末まではイスラムの下でこれまた繁栄を続けた町で、一〇世紀には一〇〇万人もの人口を抱えたと旅行案内書には書いてあるが、俄には信じがたい。セビリアとコルドバは車で四五分位だから古代ではアンダルシアの同一支配圏だったのかもしれない。現地ガイドは真面目そうだが、表情が能面の様で喜怒哀楽が顔に出ない。なんだかガイドブックを空暗記して語っているようで面白くもない。現地案内人の女性の方がユダヤ系だが表情が豊かで傍にいても楽しい。 
大聖堂(メスキータ)は大モスクの跡に建てられており、元は後ウマイヤ朝アブド・アサッラフマーン一世によって七八五年に着工し、その後四回の拡張で二万五〇〇〇人収容の巨大モスクになった。一三世紀にローマカトリックの大聖堂に転用されたそうだ。   免罪の門を入り、アルマンスールの泉で「沐浴」してシュロの門から堂内に入る。シュロの門と東の壁龕を結ぶ線の遙かにメッカの地があるらしい。無数のと云っていいほど数えるのが面倒な馬蹄形の形をした柱が林立している。イスラムを象徴する形である。   中央部にはカテドラル、聖歌隊席、礼拝堂がでんと構えて、異教徒を厳然と排除している。美しいモスクを壊してカテドラルを取り込んだのだが、スペイン以外ではまず考えられないことだろう。 
 ガイドの話ではイスラムの建物とイスラムの統治や宗教とは別個であり、ローマカトリックの寛容性を示していると説明するが、そんなことは断じてあるまい。叡山延暦寺の不滅の一灯の傍に神社を建てて神官が祝詞をあげると云う滑稽さを考えてみるといい。このことが数百年続いているとは。ローマカトリックとしては新設したかったろうが、当時はイスラームの建築技術の方が遙かに水準が高かったであろうし、建築家の過半はイスラームであったろう。或いは当時は新設するだけの資金はローマカトリックには無かったかもしれない。それよりも十字軍の異教徒狩りが事実であるように、ローマカトリックの残忍な発想は征服者の象徴としてモスクを利用したに過ぎないのではないかと思う。 
 ガイドに聞くと、イスラムのオイルダラーからカテドラルの買収の話が多く出てきているらしい。教会サイドも算盤を弾いて売却をあり得るとしているが政府が反対しているという。スペイン経済が万一極端に疲弊して、国民がキリスト教から離れ献金が少なくなって、カテドラルが再びモスクに変わったらキリスト教徒はなんと云うのだろうか。「結構なことではないか。五〇〇年間お預かりしたから又七〇〇年お返しします」とにっこり笑って無血開場したとすれば、ローマカトリックの寛容性を信じようが・・・・・ 
 ガイドの話では、三〇万人のコルドバ人口の内イスラームは三〇〇人で〇・一%に迄減少し来年にはイスラム系学院も閉鎖だとか。差別以上の民族絶滅ではないか。一方ユダヤ人街はまだ残っている。迷路のような道には車は入らない。路地である。江戸の昔では町家には町人が通る路地があり、住民が憩う露地があった。ユダヤ人街も住まいがあっての路地、露地なのであろう。花の小路を歩いたが季節外れでもあり花は冬眠中であった。
 市内から少し離れたホテル・デ・アデルファスに泊まる。四ツ星ランクではあるが、アメリカンスタイルの鉄筋の会議場付きホテルである。食堂の隣室では賑やかに結婚披露パーティーが開かれている。今回の旅行で夫婦連れの吉本さんと始めて同席となる。苫小牧からの参加で市の監査委員や大学講師を委嘱されているとか。スペインの物産から二〇世紀初頭の内乱まで幅広い話題で数時間が経っていった。 
十一月二十日(土)晴れ。寒し。コルドバ→トレド→マドリッド  
 朝八時四五分バスにて出発。中部高原地帯を横断することになるのだろう。かなり高度もある様だ。肌寒い感じだったが、遠望する山岳は白く朝日に輝いている。オリーブ畑が中心だが、あまり変化がない光景が続いていく。旅の疲れもでたのであろうか、乗客の大半が朝から目をつむってバスに身を任せているようだ。 
 コンスエグラと云われても全く見当がつかないが風車の町と云うからラ・マンチャの大高原に相当するのだろう。手持ちの案内書ではカンポ・デ・クリプターナの町を風車の町として紹介している。コンスエグラとカンポ・デ・クリプターナが同一の町か或いはそうではないかもしれないが、どちらでも良いのだ。荒っぽく聞こえるかもしれないが、ラ・マンチャ(乾いた土地)にはオリーブ畑とブドウ、小麦の畑しか見えないのだから。   矛盾する言葉ではあるが「草砂漠」と云ったイメージである。やがて小高い丘が見えてきた。「山の様な巨人が三〇匹、いや、もっとだろうな」とドン・キ・ホーテがつぶやくが、現実が見えるサンチョ・パンザは「いやいや、昔はそうだったが今は一〇基位だ」と答えることになろう。 
 バスから下車した途端強風に驚く。全四方遮るものは何一つ見えない。その時まで単なる風車という言葉のイメージだけであったが、セルバンテス(一五四七〜一六一六)の時代にはオリーブやブドウの抽出や小麦の脱穀用に使用したのだろうか。この風力があれば風力発電は可能だなと直観するのは二〇世紀人の体感だろうか。「いざいざこの風力発電で原子力発電など吹っ飛ばせ」と理想主義者のドン・キ・ホーテが大声で叫んでも「なにをゆうとるん。もう四割もアトムの世話になっとるんを知らんのけ。風は気儘なものよ。電気不足で夜は子宝づくりに励んで日本の少子化を防止でけても、高齢化でそんな馬力もない男衆も多いけん、絶望よ。」と現実主義者のサンチョ・パンザはつぶやくに違いあるまい。あまりに強風でもあり、一〇分程でバスの中に全員帰還する。 
 忽然と町が現れて、ワイン製造所に来て、地下一一米のワイン貯蔵所に下りて、グラス二杯白ワインを飲んで、ワイン会社が経営するレストランに入って赤ワイン&ランチで懇談し、同じテーブルの二組のペア分のワイン代をプレゼントし・・・・・気分の良いひとときであった。お蔭で固有名詞を忘れてしまった。一つだけCORCOVOを記憶している。地名なのか、レストランの名前なのか、それとも恐らく正解と思うのだがワインの銘柄なのか。一三時半にバスに乗ってから酔いがまわり、目が覚めたらトレドの町に来ていた。トレドはマドリッドから車で一時間の距離である。タホ川にぐるりと三方を囲まれた天然の要害の地である。ローマの時代から戦時のそして平時の拠点であった。いつの時代にも人が集まった。そこに当然宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)が、芸術が、文化が、革命が生まれる。現地ガイドはスペインに留学し長年スペインに在住している感じの日本語の美しい響きを大切にしている四十歳前後の男性であった。 トレドは中世の町である。日本で云えば、具体的な都市が浮かんでこない。強いて云えば天理市であろうか。町々の片隅に、町を行 く人に宗教的雰囲気のある町である。民族大移動で北ゴート族が南下してきたが、五六〇年にはトレドは西ゴート王国の宮廷が置かれ政治の拠点となり、それに相応しい大カテドラルが建設されたのであろうか。イスラムの支配の中で破壊とイスラム化が進むが、再びキリスト教が復権する。今日のトレドのカテドラルは街の中心にあり、キリスト教スペインの総本山(大司教座)である。大モスク跡に建てられているのだが、その建設は早く一二二七年着工で一四九三年に完成している。
 カテドラルの内部は豪華にして荘重である。内陣の衝立に描かれた新約聖書の物語、合唱壇に彫刻されたグラナダ征服戦争の情景、協会参事会会議室天井のフレスコ画と歴代大司教の肖像画、聖具室の美術品(グレコ「聖衣剥奪」、ゴヤ「裏切られたキリスト」はじめの最高級の宗教美術画)、宝物館などを巡回する。サント・トメ教会ではグレコの最高傑作と云われている「オルガス伯の埋葬」を観る。エル・グレコの家も再建されている。 私ひとりの感慨だろうし、一行には気付かれないようにアルカサル(市民戦争博物館)に立ち寄った。元は一三世紀に建てられたトレドの要塞だが、一九三六年に始まった内乱で反乱軍が立てこもり共和軍と激戦になり、建物は瓦礫化した。そして反乱軍は・・・・現地ガイドの説明では、サント・トメ教会の壁に立たされて銃殺されたとか。それにしてもスペインの内乱は随分分かりにくい内乱であった。大学時代に興味を持ったが、その歴史的意義なり歴史的評価は分からずじまいだった。
 スペインには独自の優れた輝やける中世はあるが、独自の古代と近世を持たないヨーロッパの後進国ではないかと思う。近代化、資本主義化に乗り遅れて二〇世紀を迎えた。  一九二九年世界大恐慌が勃発した。資本主義の未来に翳り出てきた。アメリカ、イギリスへの絶対的信頼は薄れた。マルクスの予言は蘇って来る危機を感じた。一九三四年二月フランスを一色に染めた人民戦線は終息に向かった。資本主義にも共産主義にも絶望したドイツとイタリアは第三の道ファシズムを選んだ。ヨーロッパの後進国であるスペインはどの道を選ぶのか−−−− 
 一九三六年二月スペインで総選挙があり、人民戦線派は勝利した。ソヴィエトを中心に各国の共産党(コミンテルン)は人民戦線派を全面的に支援する態勢を組んだ。七月には軍部を中心に右翼の反乱がスペイン領モロッコでフランコ将軍主導で旗揚げし、殆どすべての将校が参加した。右翼とソヴィエトの全面対決である。所謂「民主主義国」はどちらを選択するか。ファシズムか共産主義か。ドイツかソヴィエトロシヤか。所謂「民主主義国」はこの汚点を自らの歴史から消し去り目をつぶっている。一九四五年の所謂「民主主義国」とスターリンとの密約も闇に葬り去り、極東軍事裁判の名で自己防衛をした事実に対し日本人は冷静に歴史の眼を持っておくべきだろう。
 所謂「民主主義国」の不干渉とドイツ、イタリアの軍事援助で一九三九年三月人民戦線を壊滅させ、独裁政権を確立させた。三四年後の一九七五年フアン・カルロス一世に委譲し立憲君主制に戻った。興味があるのは1)他の欧州の革命とは違い君主を温存し結果として王政復古に至らしめたこと、2)第二次世界大戦では盟友ドイツ・イタリアに与せず中立を守ったこと、3)米ソ対立という国際情勢の中でアメリカに接近し欧州連合の一員として行動したことである。現地ガイドの話では人民戦線派(共和国政府派)とフランコの国民戦線派との相剋は次世代に移りもはや話題にもならないとのことであった。ラテン系の割り切りがあるのかもしれない。尚最後まで人民戦線派(共和国政府派)が支配したのはマドリッドであり、農民が国民戦線派の最大の支援部隊であったのはソヴィエトロシヤとの決定的な違いであり、最大の誤算であったとも云えよう。夕暮れ、最終地マドリッドの五ツ星ホテルのミンダナオに入る。 
十一月二十一日(日)雨模様。曇り後雪。マドリッド   
 朝一番は九時開場のプラド美術館である。正面入口は九時前に長い列を作っている。ベテランの現地ガイドの判断で裏口から入場する。館内では団体の説明が出来ないとかで観覧のポイントの事前説明を受ける。現地ガイドの彼の頭髪は薄く、薬品にいた吉沢紹君の弟ではないかと思うほどよく似ている。気楽な気持ちで話しかけるので、彼も気を許してか専ら私の顔を見ながら話すことが多かった。マドリッドの治安は良くはないらしい。人を見たら泥棒と思えということらしい。旧植民地からの出稼ぎも多く、スリも専門化、共同化しているとの由。せめて世界に誇るプラド美術館では安心して絵画を鑑賞させてもらいたいものだ。プラド美術館はロンドンのナショナル・ギャラリー、パリのルーブル美術館と並んで世界三大美術館と称せられているらしい。カトリック両王からイサベル二世に至るスペイン王室の収集品であり、宗教画や宮廷色が強いのは当然であろう。絵画の解説は専門書に任せるにして、強烈な印象があるものだけを一覧しておこう。  
 ゴヤの作品群例えば「カルロス四世の家族」「マドリードの一八〇八年五月三日」「着衣のマヤ」「裸のマヤ」と、晩年聾の家に閉じこもって描いた「黒い絵」一四枚シリーズ(わが子を喰うサトゥルノなど)、ラフェエロ「羊を連れた聖家族」、アンジェリコ「受胎告知」、グレコ「胸に手を置く騎士の肖像」やベラスケス、ルーベンス、バンダイクの作品である。日本で見るよりも画家の生まれた或いは育った風土の中で見る方が分かりやすいなと云う気がする。仏像はお寺で見て始めて作者の祈りが伝わるので博物館では形をみて祈りを見ないことだなと納得した。
 スペイン広場ではドン・キ・ホーテ&サンチョ・パンサとその姿を見下ろすセルバンテスと淑女と働き娘の像を確認する。スペインでの買い物を殆どしていなかったので、最後に王宮近くのJCB指定店「レパント」でバッグ(リアドロ)を求める。昼食は市内のレストランでスペイン名物バエリャ・ア・ラ・マリネラを食べる。  
 午後のオプションはマドリードから西北一時間半にあるセゴビア観光。全くの偶然が重なった。午後から雪模様となったが、エルバルダの森を通るとやがて左手に無名戦死の墓が見える。一五〇米の丘に五〇米の十字架が建っている。こゝにフランコ将軍も眠っており、昨一一月二〇日が命日に当たるとか。雪がしきりと振っており、付近の山々も雪のなかで眠っている。思いつくままに拙い俳句を献じた。 「 フランコの眠れる丘や雪催い   やすはる 」        
 ローマ水道橋に出会う。一世紀後半、トラヤヌス・ローマ皇帝(五三?〜一一七)治世下で建造されたと云われスペイン最大のローマ遺跡であり今日でも利用されている。二〇〇〇年にも及ぶ水道である。日本で云えば弥生時代だろうが、石の文化の永続性には驚いた。高さは二八・五米、花崗岩のブロックを積み上げただけで、接着剤も金具も一切使用されていない。石壁に触り水道を仰ぎ見る。まさに歴史的ライフラインである。
 セゴビアは昔は三方を川に囲まれたカスティーリャ王国の城砦都市であったが、今もクラモレス川とエレスンマ川に囲まれて往時の面影が濃厚に残っている。カテドラルは一六世紀の建設で、中世の騎士の武具や彫刻類が並ぶ。アルカサスは一二世紀に建てられ、ウオルト・デズニーは、白雪姫の居城のイメージづくりでヨーロッパの城を訪ねこの城に白羽の矢を立てたとか。それほどに優美で岸壁の上にそそり立つロケイションは映像的にも最高であろう。一六〇段以上もある螺旋階段を上り展望する。新市街を除いて総て雪原が広がっている。ここにも中世が残っていることを実感した。この宮殿に王女のベッドや王女の祈念堂が残っている。王女とはイサベラ女王であると現地ガイドは説明したが、旅行ガイドには一切触れていない。
 スペイン観光中ローマカトリックの寺院を見続けたので、スペインには中世が長く近世がなかったのではないかと思っている。宗教革命と文芸復興により中世から近世に移行する。「生(ギリシャ)・死(ローマカトリック)・再生(プロテスタント)」の思考形式が確立し、やがてプロテスタンティズムの禁欲主義が資本主義精神を生み出し、神から開放されて市民社会や国民国家が誕生していく。その意味ではスペインは今日でも欧州では経済的には貧しい国である。それはイスラムの支配の為か、ローマカトリックの逆襲によるものか、残念ながら一週間の異教徒の旅では何もわからない。イギリスのエリザベス女王の伝説が未だに伝えられる様に、スペインでももっともっとイサベラ女王の伝説を発掘し伝播させてほしいと思う。この「白雪姫」の城でイサベラ王女が自ら我は女王にならんと宣言し、これを実現させたと云う話は、再びスペインに訪れるまで大切に胸に温めておきたいと思っている。 現地ガイドの勧めもあり、広場のパン屋でパイ菓子(メルリトン)を求めたが、夜八時頃ホテルに戻り、ワインとビアとパイ菓子で中世的晩餐の時を送った。   
十一月二十二日(月)晴れ。マドリッド  
十一月二十三日(火)晴れ。 →関西空港・伊丹空港・松山空港  
 いよいよ西面牙からの出国である。朝の外気は七度位か。一〇時出発前にホテル付近を散策するが日本の真冬の感じである。早々に切り上げる。マドリッド一二時四〇分発フランクフルト行ルフトハンザ機は一四時一〇分発と大幅に遅れ、それを受けてかフランクフルト一八時二五分発関西空港行ANAも二一時に離陸する。フランクフルトは雪の為、飛行機の除雪作業に手間取ったらしい。機内食は夕食と朝食。日本的味付けで食欲は旺盛である。機中映画は日本では未公開のロマンティック・アクション映画「トーマス・クラウン・アフェアー」とロマンティック・コメディ「ノッチングヒルの恋人」。後者は美しいハリウッドの女優(ジュリア・ロバーツ)とロンドンの小さな街ノッティングヒルに住む旅行専門書を取り扱う本屋ウィリアム(ヒュー・グラント)との小さな大人の恋の物語が展開する。男の一途な恋心に虚飾に疲れた大女優がひとりの女としての心を開かせる。ハッピーエンド迄には紆余曲折があるが、ウィリアムを取り巻くファミリーと友人たちの温かい交流によって・・・・   
予定より早く日本時間一五時四〇分に関西空港に着く。一一時間弱の空の旅である。  二回の食事と前後四時間の機中映画を見ていたので、仮眠は二時間程であった。伊丹空港経由で松山空港へは二〇時頃に着く。九日間の西面牙の旅は終わった。        さあ来年は・・・・・である。