エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第八章 歩苦(あるく)から歩喜(あるき)へ (平成10年戊寅〜平成13年辛巳)
通勤散歩(平成9年記述)
 別に人から求められた訳ではないのだが、平成九年の五月、通勤の帰途、頭に浮かんだ印象を一気に文章に纏めたのが、この一文である。 
江東区の北砂のマンションに住むようになってから、休日の散策には川と海に出会うことが多くなった。東に出掛けると隅田川へ、西には荒川、荒川を越えて南に下ると葛西臨海公園となる。 マンションから真っ直ぐ明治通りを南下すると夢の島公園で、更に東にサイクリングすれば臨海副都心まで足を伸ばすこともできる。北へは、亀戸、錦糸町から本所を抜ければ浅草は近くだし、また南の深川界隈まで自転車で一漕ぎ二漕ぎということも、ここに住まなければ想像すらできないことであった。 
         歩苦(あるく)から歩喜(あるき)へ        
 車社会での落伍者かもしれないが、二十分程度であればタクシー不要で自然と足が動きだす。排気ガスと騒音にはへきへきするものの、数分後に身体が温まり、歩きのエンジンがかかってくると快調になる。五月の雨上がりの退勤時、都営地下鉄新宿線の住吉駅で下車、猿江恩賜公園の南園に立ち寄る。周囲から忘れられたような存在だが、ベンチにはホームレスの男たちがそれぞれの指定席があるらしく、自分の周囲には人を寄せつけず、酒を飲んだり、拾い物の食べ物を口にしている。一昔前には乞食がよく屯ろし、哀れみを乞う光景がみられたものだが,今日の「ものあまり社会」では会話の必要が全くないコンビニエンスストアよろしく、無言の残飯回収人だし、古着着用者だし、駅の忘れ物利用者でもある。危害を加える心配もない気の弱そうな男たちではあろうが、異様な異形な異臭な集団ではある。    
 猿江恩賜公園北園は、夕暮れに合わせるかのように、つつじが渋い赤色で沿道を彩っている。前方に三十何階建てかのツインタワーのマンションが見える。公園に隣接して、ティアラこうとう(江東区文化会館)が見えてきた。先週の休日に、妻とFAF交響楽団の定期演奏会に出掛けた。曲目はシベリウス「交響曲第五番」とベートーベン「交響曲第三番(英雄)」で、指揮者は若手の栗田博文氏。所謂市民オーケストラである。家から十五分、運河に沿っての往復はヨーロッパ的雰囲気であり、往路の期待の高まりと帰路の興奮の持続には、この距離は最適の道のりであり、最高の贅沢のようにのように思える。  
 東端の階段を降りると、横十間川に沿った木の道になる。コンクリートやアスファルト舗装と違って、なんと優しく靴底に感触と足音が響いてくる。そうだ、この感触は、尾瀬の木道でも、上高地のバスターミナルから帝国ホテルへの近道でも感じた柔らかい感触である。尾瀬湿原や穂高連峰での思い出が自然に湧いてくる。泊まりを探す鴨が、親子連れか、三羽が波紋を静かに広げながら泳いでいる。ジョギングの人が何人か追い越していく。夕暮れの散歩で犬を連れた老人や女性とすれちがう。決まった場所で話し合う仲間もいるが、犬は恨めしそうに主人に散歩の催促をしている。
 江東区体育館の手前の小名木川と横十間川が交差するところには、江東区自慢のクローバ橋が架かっている。運河の水量調整か、いつものことだが渦が巻いている。小名木川沿いに進開橋までの川岸公園の入り口には、伊豆大島の大噴火時の東京都の救援の思い出と感謝の為に伊豆大島から寄贈された椿が植えられている。大島ツツジが満開になる春には、三原山の噴火による全島疎開という危機管理の想起し、安全の誓いを新たにしているようだ。今年の早春に伊豆高原で一泊し、伊東から船で大島を一周しただけに、来春の椿が楽しみである。
 明治通りまで来ると、住まいしているマンションが見えてくる。住吉駅から約二十分の道のりである。万歩計が一万歩を記録する。通勤の帰路は、会社のある日本橋本町から人形町、甘酒横町を通り、明治座のある浜町から都営地下鉄新宿線に乗車しているが、江戸の風情のある町並みと、水辺の木道の往復一時間の歩きは、私にとって最高の贅沢であり、この通勤散歩を密かに誇りに思っている   
江戸下町寓居あたり(平成10年記述))
 「銭形平次」は神田お玉が池、「剣客商売」の秋山小兵衛老人の住まいは鐘ケ淵界隈といったところだが、平成十年の秋迄住んでいた江東区の砂町といえば、平岩弓枝の「御宿かわせみ」の東吾に寄せるるいさんの淡い思慕の風情の余韻を感じさせる川筋が残るところである。「文芸春秋 オール読物」の平成十年九月号の「御宿かわせみ 江戸の湯舟」は次の文章から始まる。 
 本所深川は水路の町であった。大川と中川を結ぶ小名木川を中心にして永代橋側には仙台堀川、両国橋側には竪川が通っている。その三本の川筋と交叉して南北に横川、横十間川があり、更に小名木川と竪川を六間堀がつなぎ、六間堀から東に向かってじぐざぐに五間堀が穿たれている
 朝夕の散歩コースは、仙台堀川東コース(約五粁)、仙台堀川西コース(約五粁)、横十間川・竪川コース(約四粁)、横川・横十間川コース(約四粁)を小一時間で歩いている。一粁・一〇分・一二〇歩が基準であり、歩幅は八十三糎である。深川黒江町から浅草蔵前の幕府天文方・高橋至時に弟子入りした江戸時代の伊能忠敬にあやかった次第である。                                                    
 井上ひさし氏の「四千万歩の男」を挑戦目標とすると、一日約七千五百歩のペースとすると五千三百三十三日、約十五年半で到達することになる。今から百八十年前、五十五歳の伊能忠敬が十七年かけて日本全国の測量をしたのだが、七十二歳の時点で歩いた距離だけは同じになる勘定である。彼は日本全体図という画期的な大事業を四千万歩で達成するのであるが、せめて歩数だけでも近づこうと「歩喜」の空しい努力を重ねることにしよう。 
 江戸の夏といえば、両国の花火と「東海道四谷怪談」。双方ともに、全国版の話題となるが、最近は、怪談話の方は古典的な怪談話から、ホラーの世界に移りつつあるのは至極残念である。ところで、鶴屋南北(四世)は宝暦五年(一七五五)に深川の紺屋の型付職人の子として生まれ、文政十二年(一八二九)黒船稲荷(現牡丹一丁目)境内の自宅で死亡。代表作「東海道四谷怪談」は、文政八年(一八二五)七月、江戸中村屋で初演される。序幕、大詰を入れての五幕物だが、その第三幕は現在の江東区北砂、即ち朝夕の散歩コースが舞台である。深川から一里の道程だから、当時は人通りとてない横十間川と小名木川の出合いの場所を南北(四世)は歩き、「東海道四谷怪談」の殺人の陰惨な場に仕立てたのであろうか。
 第三幕の粗筋を書いておこう。
場所は砂村隠亡堀(現岩井橋付近)。 
民谷伊右衛門(お岩の夫)を探しにやって来た伊藤家の娘お弓と乳母お槇。父親の伊藤喜兵衛と孫娘お梅は、民谷伊右衛門との祝言の夜に、夫伊右衛門の謀を知って憤死したお岩の亡霊に惑わされた伊右衛門に殺害された。乳母のお槇は、鼠(お岩の身代わり)によって、川に引きずりこまれる。
高家への出仕の機会を伺う伊右衛門と、お岩の妹お袖に横恋慕して夫佐藤与茂七を殺害した(実は主人奥田将監の子息庄三郎を誤って殺害した)直助権兵衛(お袖の実の兄だが互いにその事実は知らず)が出会う。二人はお弓を川に落とし殺害する。 
しばらくして、伊右衛門が殺害し戸板に打ち付け川に投げ込んだお岩と伊右衛門に奉公していた小仏小平の死骸が流れ着き、伊右衛門を脅かす。そこに、お袖の夫佐藤与茂七が現れ、三人の立ち回りとなる。廻文状が直助の手に落ちた後、三人は散り散りに別れる。
                                               
 立身出世に欲が絡んだ浪人(潜在失業者だが)が高家(大企業)への就職を条件に妻を離婚し、紹介者の孫娘との再婚を決意するというストーリーを、誰が笑うことが出来ようか。朝夕の散歩の度に、子供よりも大切に育てているらしいお犬様のお供をして「東海道四谷怪談」の殺人の場所を往来している人にとって、夏の夜の怪談は全く無用の存在なのだろうか。現代の伊右衛門予備軍は、もっとスマートに男女問題を解決しているとは思えないのだが−−−−−−−。   
 はっきり断言できることは、ともに自害したお岩、お袖の姉妹のように、己の命に代えても夫婦の操を大切にしたいという倫理感は、完全に現代人の脳裏から消え去ったということである。
 深川といえば、松尾芭蕉の過ごした芭蕉庵の辺りが、それらしく修復され、俳句に興味のある人が休日には訪れているようだ。私も、妻と数回訪ねたことがある。大川(隅田川)から小名木川を東に行けば中川に出る。明治に入ってからの荒川の大改修で中川の面影は殆どないのだが、旧中川として東砂から平井を通り東墨田で荒川に合流する。
確かめてはないのだが、松尾芭蕉の「奥の細道」は千住からの旅立ちであるが、深川から千住までは、深川芭蕉庵から井上河内守遠江浜松藩中屋敷、戸田能登守美濃大垣藩下屋敷に沿って小名木川を通り、中川を北上、北十間川から隅田川ということも考えられないこともない。とは申せ、いかに酔狂な暇を持て余した俳人であったとしても、小名木川沿いの高橋で名物「どぜう」を食べて、六間堀から竪川を抜けて、大川(隅田川)を北上するだろうなあと思う。
 閑話休題、小名木川沿いの散歩コースに大島稲荷神社があり、境内の女木塚碑には、芭蕉五十歳の元禄五年(一六九二)、小名木川で船遊びした時の句を、後年俳人らが芭蕉を偲んで建立している。芭蕉が大阪で死去したのは、元禄七年(一六九四)である。 
「秋に添て 行はや末は 小松川」  
小林一茶も享和三年(一八〇三)に、小名木川で珍しく和歌を詠んでいる。                                             
 「かぢの音は 耳を離れず 星今宵 七夕の相伴に出る 川辺哉 」 
 明治四十四年の逓信協会(人文社)の地図を見ると、神社の周囲は富士瓦斯紡績会社となっている。近くには、日清紡績会社、松井モスリン製造所、東京瓦斯会社、東洋モスリン紡績会社が名を連ね、玉の井から洲崎の三業地を連想すると、明治から戦前までの悲しい女性の歴史が思い出されてならない。
またその近くに、宝塔寺があり、珍しい「塩なめ地蔵」がある。江戸時代、小名木川を往来する船が、航海安全・商売繁盛を願って塩を供えたという。付近は水質が悪く、戦前には水売りの舟が行き帰りしていたともいう。僅か一〇〇年近く前の実話である。   
 横川、横十間川に並行にJRの貨物線が走っており、木場が繁盛し、沿岸に工場が林立していた当時は盛況だったろうと思う。更にもう一本南北に走っていた都電は撤去され、亀戸緑道公園と大島緑道公園になっている。その境界は、竪川である。月に何回かは、散歩でこの道を通っている。小林達二先生に聞いた話だが、昭和の初頭には「貧乏人が乗っても城東(上等)電車とはこれ如何に。乞食が乗っても王子電車というが如し。」という山の手族の下町の住民を軽蔑する言葉があったそうだ。城東電車は市電に編入されるまでは私鉄で、亀戸と砂町を通っており、王子電車は現在も都営電車として、千住の三ノ輪から王子を経て早稲田まで走っている。 
先生には、「待たずに乗れる阪神電車。いつでも座われる阪急電車。」という関西の例を紹介し、この点だけは関西の方がスマートですよと申し上げた次第である。もっとも昨今の関西には、これほどのウイットとユーモアの精神は希薄になったと思うが−−−−−
(追記) 平成23年5月のこと、川本三郎編『荷風語録』を手にした。荷風は「歩く作家」であったであったことと併せて、このエッセイの周辺を歩いた文章に出会った。
ひとつは『日和下駄』、もうひとつは『断腸亭日乗』の昭和7年(1932)1月29日のくだりである。
二人遍路(平成11年記述)
 四国は遍路の国である。
 その四国松山道後温泉に平成十年九月末に「安住の地」として妻と共に帰郷した。私は中(伊)予、妻は南(伊)予出身であり、結婚当時は地理的時間的にも遠かったが、今日では地理的には変わらないまでも、松山と宇和町とは時間的には車で二時間弱の距離である。数年後高速道路が宇和島まで開通すれば一時間半に短縮される見込みである。    
 親しい友人には、李白の「山中問答」を借用(盗用)して次の漢詩を送り東京からの離別の挨拶に代えた。
 問  余  何  意  住  松  山     
 笑  而  不  答  心  自  閑  
 黄  葉  流  水  粛  然  去 
 別  有  天  地  非  人  問
 道後温泉には旅の聖である一遍上人誕生の地(宝厳寺)があり、御幸寺山の麓には山口県防府市(三田尻)生まれの種田山頭火終焉の地(一草庵)が残っている。彼も旅に明け暮れした俳人であり、「おちついて死ねそうな草萌ゆる」の句の通りにこの地で世を去った。防府近くに生まれ東大寺復興に尽力した重源聖もまた旅人であった。          
夫婦で「歩き遍路」に出ることには抵抗はないのだが、昨年(平成十年)九月末に転居した私共夫婦には家財の片付けや、十年近く空き家にした三百年以上前に建てられた古家の改築や補修に連日追われており長期に家を空けることなど考えられない。十一月三日が結婚三十八周年でもあり、結婚記念日には例年二人で出掛けることにしているので、帰郷後の初回は四国霊場の一つ二つを回ってみようということになった。 四国霊場は八十八寺、丁度真ん中の四十四番札所は菅生山大宝寺であり、早速伊予鉄道でバスの便を調べた。御多分の漏れず過疎地域のバスの便は一日三便(朝・昼・夕)三時間間隔であり、短時間で計画は出来上がった。というより朝出発して一泊し、翌日の夕方の便で帰途につくしか選択の幅はないのだから・・・・・    
 十一月四日快晴である。松山市駅を八時に出発し、祖母の故郷である砥部から三坂峠を抜けて、四国山脈の裾野に当たる久万盆地に約一時間で到着する。久万盆地は海抜四九〇米の高地にあり江戸時代から松山藩の木材や薪炭の供給地であったが、古くから菅生山大大宝寺の門前町として栄え江戸時代には土佐街道の宿場町にもなって賑わった。     バス停から二キロの山道を歩き、久万公園、久万美術館から右折してやがて樹齢千年を越す巨木が繁る寺域に出る。菅生山大宝寺である。山門の掲げられた大草鞋が参詣者を圧倒する。百年に一度取り替えるとのことである。 
 この寺は大宝元年(七〇一)百済の聖僧が十一面観世音を奉持して来日し、この地に草庵を結んで安置したことから始まった。それから百十余年後弘法大師が霊場に定め、開創の年号をとって寺号を大宝寺としたと伝えられている。保元年間(一一五六〜)に後白河法皇が病気平癒を祈願して成就した為、伽藍を再建し勅使をたてて妹宮を住職に任じた。 遺体は寺中に埋葬し、堂宇と五輪塔を建てて陵権現として祭られた。(現在も境内の一角に勅使橋陵権現がある) 更に天明七年(一七八七)には土佐藩の農民一揆の農民が大宝寺に逃げ込み、土佐藩は住持と折衝しなければならぬ程寺格は高かった。寺伝というか寺に纏わる因縁は伝承であり、事実でない部分が過半であろう。一方それなりの「物語」を持っているということは、大宝寺は山岳寺院として中世以来の権威のある存在であったに違いあるまい。恐らく西日本最高峰である石鎚信仰が山岳信仰として定着し山伏の活動と相まって一生一度の石鎚まいりとなり基地として久万高原が開発されていったのではないか。弘法大師伝承というより真言密教が山伏信仰と結び付き弘法大師が八十八ケ寺を回られることになるのだろう。四国の寺院 の過半は真言密教か天台密教であり、山国四国を象徴している様だ。
 本堂、大師堂への階段脇に銀杏が色づき始めており、種田山頭火の「朝まいりはわたし一人の銀杏ちりしく」の句碑がある。十月二十六日から回っているという中年の遍路と出会う。「土佐では雨で泣かされました。昨日に伊予に入り、一昨日は長珍屋、昨日は国民宿舎古岩屋荘に泊まりそして今日は内子に出ます。」と歩き遍路で丁度半分を達成した喜びに溢れていた。詮索することはないのだが、三十九番赤亀山延光寺か四十番平城山観自在寺から一旦松山にバスで出て、逆回りで繋いでいくのだろうか。           
 四十六番医王山浄瑠璃寺から岩屋寺まで三十五キロで約十時間半、岩屋寺から大宝寺までは十三キロで三時間半、ここから四十三番源光山明石寺には九十キロ二十二時間は必要だから、勿論一日歩き通す訳にはいかない。中間地点の内子泊まりとなるのだろう。それにしても歩き遍路は決して無理をしてはなるまい。お互いに手を合わせ遍路旅の無事を祈って別れる。
 久万町を散策して、再びバスに乗り四十五番札所海岸山岩屋寺に向い、正午前に着く。長い坂道、二百六十八段の階段と老杉の並木、石仏の数は数え切れない。 海岸山岩屋寺は菅生山大宝寺の別寺であり、一遍の修行地として名高くその修行の有り様を「一遍聖絵(巻二)」の三分の二を占めるほどに描いていることからもその重要さが察せられよう。一遍については、平成十一年正月に一遍会の会員になってから勉強し始めたので今のところは無知に近い。大橋俊雄「一遍」(吉川弘文館人物叢書)、栗田勇「一遍上人〜旅の思索者〜」(新潮社)ほか数冊に目を通したに過ぎない。 
 智真(一遍)が文永八年(一二七一)窪寺(松山市窪野町北谷字窪)で「十一不二」の信念を確立し、文永十年(一二七三)さらに浮穴郡(愛媛県上浮穴郡美川村七鳥)の菅生の岩屋で参籠する。やがて文永十一年(一二七四)二月八日妻の超一と娘の超二と下女の念仏房を連れて旅立つことになる。一遍の死出の旅で、正応元年(一二八八)安芸の宮島から伊予に渡り菅生の岩屋を再び巡礼する。由緒ある海岸山岩屋寺であり、寺格を感じさせる荘厳さが残っている。一遍の修業した岩屋が三十三もの奇巌の高峰のいずれかは知らぬが、岩屋に籠もって半年も過ごすのは現代人にとっては想像に絶する光景といえる。 
 簡単に寺の縁起を記しておこう。
 怪岩奇峰の深山に土佐より移りすんだという不思議な神通力をもった女がいた。弘仁六年(八一五)弘法大師がこの地を訪れた時、この女は大師に帰依し一山を献じて大往生を遂げた。法華仙人とはこの女のことである。そこで大師は不動明王の木像と石像の二体を刻み木像は本堂に石像は山に封じ込め、山そのものを本尊不動明王として護摩修法を律したという。そして「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を波にたとえむ」と詠じ、寺号を海岸山岩屋寺と名付けた。見事な物語である。密教&山伏の世界である。空海が高野山に真言密教の砦を造るに当たっての縁起にも、高野山に住む丹生都比売神(にふつひめ)を金剛峯寺の守護神と位置づけた経緯がある。
 丹とは水銀であり朱の原料であり、これを取り扱う集団は錬金術師であり、当代の最大のケミストは空海でもあった。その知識と技術により山伏も錬金術師となり、四国の山川で鉱山業が誕生したことになる。東(伊)予の丹生川の上流は恐らくは丹の採掘場所であったろうしその残滓から住友の「誕生石」が発掘されたのかもしれない。四国八十八ケ所物語の幾つかは丹採掘の山師物語であろうし、成功者は師匠である空海の偉業として自己の行為を正当化しその安定した販路を真言宗に求めたのではないだろうか。仏教経済学なり仏教経営学があれば随分面白い興味のあるテーマと思うのだが・・・・ 法華仙人なる怪岩奇峰の深山の神を岩屋寺の協力神にした弘法大師の融和策は、どこか高野山物語のコピーの様に感じられる。 
 五十余りの石灰岩の異様な山容は奇怪であり宗教的雰囲気を醸しだしている。事実寺の右は胎蔵界峰、左は金剛界峰と呼ばれており、金剛界峰には法華仙人の行場の跡と仙人像もある。弘法大師の修行の場〔切割禅定〕もある。まさに伝承の世界である。久万高原一帯は石鎚山系に属するのだが、石鎚山系は「古石鎚海」であった説と四五〇〇万年前の石鎚山頂湖説(高知大学甲藤次郎)が併存している。四国を分断する石鎚山系は隆起したものではないかと思うが、弘法大師が名付けられたという海岸山岩屋寺の名前が象徴する海岸山とは現代科学を超克する素晴らしい天の啓示ではないかと思う次第である。     二人遍路の開始に当たって、四十四番大宝寺、第四十五番岩屋寺を選んだことは正解だったし、引き続き四十六番浄瑠璃寺から機会を得て歩いてみようと夫婦で語り合った。 
桜 随 想 (平成11年記述)
 平成十(一九九八)年に四十数年振りで道後に帰郷したが、郷里の春を楽しむのも学生時代以来ないことでもあり、桜見物も確実に四十数年振りということになる。我が家には桜は三本、桃は三本、梅は一本植えられている。三、四十年は経っているので結構大木になっており、道を通る人の中には楽しんで見上げていく人もいる。桜は三本ともソメイヨシノであるが、子供の頃には里サクラが幾本か咲いていた記憶がある。 
 九十何才かの近在では最高齢の岩崎雄吉翁と話をした時、私自身もうっすらと記憶に残っているのだが、昭和の初頭までは周辺部は田が広がっており、座敷や二階から松山城の桜や道後公園の桜を眺めながら花見をしたことを懐かしがっておられた。「春や昔十五万石の城下かな(子規)」の世界である。今日は残念ながら県民文化会館やマンションの高層建築が視界を塞いでおり春の余情を楽しむ環境にはない。   
 帰郷初年でもあり、ひとりで或いは妻を連れ立って近郊を散策してみた。主だった桜は、松山神社(松山藩の守護神社)、常信寺(城主久松家の菩提寺)、奥道後温泉遊園地、松山城公園&堀の内公園、道後公園、卯之町周辺&四国霊場大四十三番札所明石寺、伊台の西法寺などである。その殆どが御多分にもれずソメイヨシノだが、明石寺はエドヒガン、奥道後の山腹はヒガンサクラ、西法寺はこの寺でなければ見ることが出来ない里桜である。西法寺の桜といっても松山でもわざわざ出掛ける人は少なくなったらしい。松山近郊で歴史に残っているのは西法寺の桜(薄墨桜)と竜穏寺の桜(十六日桜)である。  
 西法寺の桜(薄墨桜)はイヨウスズミサクラ(松山市天然記念物)というヤマサクラ系の一品種が著名である。寺伝では、病気にかかった天武天皇(六七二〜六八五)の皇后が一山を挙げて祈祷したので平癒し、勅使が派遣され薄墨の倫旨を桜に添えて下されたことによるという。また桜花の色が薄墨色に見えるので名付けたともいう。 創建は延暦年間(七八二〜八〇六)と古い。約三十年前にイヨウスズミサクラとソメイヨシノが自然交配して世界で一本しかないサイホウジサクラが誕生した。今年になって県林業試験場でクローン繁殖した数本の苗木が同寺に移植された。桜フアンとしては二十一世紀桜として温かく見守っていきたい。下流の石手川の堤防にソメイヨシノと取り変わってサイホウジサクラ並木ができるのも夢ではあるまい。そういえば、ソメイヨシノにしてもエドヒガンサクラとオオシマサクラの交配によるのだろうから−−−−−−−。      
 竜穏寺の桜(十六日桜)は、私の記憶の中で生きている桜である。現在でも観光案内では十六日桜は生きているのだが物語性は失われている。竜穏寺は我が家の旦那寺であり河野家の菩提寺であるが、今や廃寺である。寺小僧の中で一番若かった中野泰道師の西禅寺がその後の寺事務を継承している。ここ数年、御住職は身体が不調で御子息の弘道師が檀家回りをしている。               
 「古事因縁集」によれば、花を愛する八十歳の老翁が、今年は桜花の咲く時節まで生き延びることができない独言しながら桜樹のもとに立ったところ不思議にも花を咲かせ、その後は毎年正月十六日には花が咲いたという説話を載せている。この日宮中の踏歌が行われる日にあたる為この木は「節会桜」と呼ばれた。江戸時代に入って、冷泉為村が松山藩主松平定静に送った「初春のはつ花桜めづらしく都の梅の盛りにぞ見る」なる和歌が「古今紀聞」に残っている。その後さらに種々の話が付け加えられ、ラフカディオ・ハーンの「怪談」では孝子桜の伝承として紹介されている。 
 奥道後の桜は、今年は開園三十五周年記念ということで無料開放され一時間に一本の割合で道後温泉駅から専用バスが走っていた。地元の人気は今一つであるが「四国の大将」として一時期マスコミにも持て囃された来島ドックの元社長坪内寿夫さんの作られたホテル&遊園地である。俗説では子供に恵まれなかった同氏にとってオモテが強力な事業展開とすると、ウラは食べることとこよなく花を愛したことらしい。私の子供時代は映画館の多角経営を展開中でキップの「もぎり」をしていたそうだから何度も入り口で出会っている筈だが記憶はまったくない。個人的・独断的な評価だが、坪内寿夫さんが松山に残してくれた最大最高の遺産はこの奥道後開発ではなかったかと思う。バブル前に手掛けて貰ったお蔭で豊かな渓谷が保存されたし、三キロに及ぶ藤棚の遊歩道など亀戸天神に毎年押しかける東京の善男善女が見たら気絶するのではないか。                   
 ソメイヨシノも多いが山腹から山頂にかけての山桜の見事さ−−−ヨシノサクラだと思うのだが−−−、川沿いにはユキヤナギの乱舞などなど。三好家に纏わる伝承がある湧ケ淵の蛇骨も御堂を建てて祀って貰っている。今夏奥道後温泉ホテルに挨拶にでかけたら毎年八月に実施している蛇骨供養に出席してほしい旨、坪内寿夫さんの甥に当たる綿崎武夫同社業務部長から招待を受けた。勿論快諾したのだが、それにしても五〇〇年前の伝承が活き活きと蘇り、新しい交流が復活するとは素晴らしいことではないか。   
      湧ケ淵三好秀保大蛇を斬るところ 
                     蛇を斬った岩と聞けば淵寒し      漱石     
 将来のことだが、奥道後一帯を県か市で買収し坪内記念県民(市民)公園として公開してもらうと県(市)民が誇りにできる公園になるだろうと思う。           
 昨年暮れから自宅を改装中であるが、現在七十数歳の棟梁の木下さんが油の乗り切った壮年時代に奥道後ホテルの別邸(日本家屋)を各地から移設したので見てほしいということだったので庭園を中心に見て回る。ホテルは別として別邸(日本家屋)で京料理を注文し古都の雰囲気を思い出したいものだ。桜の見事な散っぷりに「四国の大将」坪内寿夫さんを思い出したい。それにしても現在坪内寿夫さんは健康に優れないとのことだが、ご自分のロマンの結晶である奥道後の桜を眺めながら手当たり次第に大食される同氏の姿をもう一度拝見できればなあと思う。 
 明石寺の桜は妻の育った宇和町にあるが、四国霊場第四十三番札所の古刹であり、四十四番札所大宝寺までは九十キロ、県内ではもっとも次寺までの距離が長い苦難の遍路道である。県歴史文化博物館を訪れ、旧道を通って明石寺に出掛ける。旧道の他に古道というか、もう一本遍路道があり最初はその道を歩き始めたがやがてけもの道の様な崖沿いの細道になり正直いって心細くなり引き返し旧道に戻った。 
 「宇和古記」に拠れば弘仁十三年(八二二)、弘法大師一夜建立の寺で四天王は運慶・湛慶作。尚当寺の熊野十二所権現は承和三年(八三六)熊野から勧進したという。    境内の桜は多くはないが寺務所前に一本立っている桜が気に入った。住職にこの山桜は何でしょうかと妻が尋ねると「エドヒガンザクラと聞いておりますが−−−−−−」という返事であった。「同行二人」ならぬ同行した妻とは遍路道を歩きながら、「○○と聞いておりますが」のフレイズを借用して大いに話が弾んだ。御夫婦で遍路の途中に立ち寄ってくれた山浦直次郎夫妻の印象では明石寺の印象が非常に良かった様だ。人の手が加えられていない飛鳥の寺の雰囲気があるからだろうか。    
今年は折角久万まで行きながら見る機会がなかった上浮穴郡久万町霧峰の法蓮寺の町天然記念物のシダレザクラ(エドヒガンザクラ)は来年まで取っておくことにした。
歩きごっこ (平成11年記述)
 平成十二年(二〇〇〇)の年賀状には次の様な文面を記すことにした。
謹んで 新年を お慶び申し上げます    
旧年中はお世話様になりました。     
故郷二年目の春、お蔭様にて新しい仲間も増え夫婦共々健康に過ごしております。
皆々様のご多幸とご健勝をお祈り申し上げます。
温泉へお越しの節はお待ち申し上げております。    
                                                        
 お蔭様にて新しい仲間も増え・・・と淡々と記すのだが、会社生活では名刺や紹介者を通しての付き合いが多く、また人事という仕事柄名刺は切っても切れないコミュニケーションツールであった。今でも準公的な付き合いでは名刺を交換している。特に官公庁や大学、各種団体での付き合いでは相手から名刺を渡されたら交換するのが筋なのだろう。元鐘紡云々とも記載できないから「松山大学市民講師」と肩書をつけているのだが、もうひつの名刺は肩書なしである。これはどうも名刺の納まりがよくない。もっとも第一等の名刺は名前のみ、第二等は名前と住所付記で、最下等が肩書付きというから昇格したのかもしれないが、そんな屁理屈は通らないのが今日の情報化社会であろう。        
 「お蔭様にて新しい仲間も増え」の仲間は名刺交換のない仲間であり、顔と顔を突き合わせながら親しくなった仲間である。そんな仲間の中に何人かの山仲間がいる。 
 日野勇さんは同世代で、松山の帝人で定年を迎え引き続き傍系会社で勤務中である。杉原早波さんと相原清子さんは四十代と三十台前半の目がくりっとした中々美人の女性である。二人の勤務先は一緒らしく仲が大変良さそうに見える。日野さんと私にとっては娘に当たり、彼女らにとっては我々は父親像に当たるのかもしれない。愛媛県山岳連盟の指導で開催される「楽しい山歩きの会」ではいつも同じパーティーになり、弁当も一緒だし写真も一緒に撮っているので、その他大勢の会員からみれば仲の良い親子連れ?に見えるかもしれないし顔が全く違うタイプだからどういう関係だろうということかもしれない。 
 平成十一年春愛媛新聞の広告で「楽しい山歩きの会」を知り、最終回に石鎚山登頂とあったので早速申し込んだ。妻にも誘ったが家のことが忙しいので翌年からということになった。家の改築最中でもあったので私自身も一寸気が引けたが、山の空気を吸ってみたいという欲求には勝てなかった。 
 初回集合は奥道後であり、誰が誰だか分からないがお互いに嗅覚で仲間を識別して行くようだ。なんとなく同世代か、それとも上か下か、サラリーマンか公務員か、地元の人か転勤者か、グループ参加か単独かなどなど無数の組み合わせの中で取り敢えずつきあっていけそうな仲間を探していく。山歩きしながら、花の名前の詳しい人、バードウオッチングのベテランで鳥の声を識別し素早く鳥の姿を発見する人、過去の山歩きの思い出を語る人、黙々と歩く人などなどが分かってくる。山のことも花のことも鳥のことも全く無知なので、もっぱら聞き役でかつ質問役であった。職業意識?が働くのか、仲間から離れている人には声を掛けて話の中に加わるように誘う。
 日野勇さんとの話始めは第二回目の伊吹山登山で、バスの座席が隣同士になりしばらく無言が続いたがどちらともなく声を掛け、それからは到着まで延々と話が途切れることがなかった。我らの座席の左席に杉原早波さんと相原清子さんが座っており、なんとなく話題が移動したりしてバスを下りた時には仲間意識が芽生えていた。団地の子供を持つ親には「公園デビュー」という通過儀礼があり、子供よりも母親の方が公園で一緒に過ごすのは大変なことらしい。公園デビューでは先住者が既に存在しており、如何に先住者の文化に溶け込むかが必要で新入者が頑に自分の文化を持ち込もうとすれば当然に衝突が起こるのだろうが、全く未知の集団での新しい小集団の編成は案外偶然的な要素が強い。一方その偶然がプラスに作用しないと、再び結びつく可能性の確率は随分少ないことになろう。こんな経緯で第二回目から四人の文化圏が成立した。日野勇さんの人の良い、話好きのおじさん要素が素晴らしい潤滑油になったに違いない。
 杉原早波さんがカメラ持参なので毎回記念写真を撮り、次回の集まりには手渡してくれる。ついついそれに甘えて日野・三好コンビを写して貰うことになる。五回のハイキングは四人とも皆勤であり、春から夏、秋の石鎚登山で終了したが、冬山は遠慮して来年にはどこかの山で会いましょうということでお別れになった。
 平成十一年度の山歩きを簡単にスケッチしておこう。
第一回  五月二二日
 杉立山(六一五米) 
奥道後・湯山変電所前(講習)→大師寺→榎ケ峠→杉立山(食事)→観音山(五一八米)→横谷→食場 
第二回  七月十日 
 伊吹山(一五〇二米) 
愛媛新聞社前→(バス)→土小屋(一四九二米)→名野川越→よさこい峠→伊吹山(食事)→土小屋→(バス)→松山市駅
第三回  八月二八日
 伊予富士(一七五六米)
愛媛新聞社前→(バス)→旧寒風山トンネル前→桑瀬峠→(食事)→伊予富士→桑瀬峠→旧寒風山トンネル前→(バス)→松山市駅
第四回 九月一一日
 北山(七〇七米) 
愛媛新聞社前→(バス)→歯長峠→歯長山(六二〇米)→北山(食事)→湯の里温泉→河西トンネル口→(バス)→松山市駅 
第五回  十月二十三日
 石鎚山(一九八二米)
愛媛新聞社前→(バス)→土小屋(一四九二米)→三の鎖・二の鎖→(食事)→石鎚山→土小屋→(バス)→松山市駅 
奥道後・杉立山を歩く(平成12年記述))
 五月のゴールデンウイークの中日に当たる五月四日(木)に妻と山歩きに出掛けることにした。連日晴天で気温も十七度前後で絶好のハイキング日和である。行き先は奥道後の杉立山(五六〇米)である。高い山ではないが上り二時間下り一時間半位の道程である。丁度一年前の四月の下旬に愛媛新聞社のカルチュアセンター「楽しい山歩き」の初回コースでもあった。 
 道後温泉駅九時四二分発湧ケ淵行きバスに乗車、一〇数分後に食場に着く。食場のバスストップは、食場では「隠居呼三好」で通る三好隆三氏の邸宅の前である。この土地は元々わが家の宗家である食場三好家の敷地であり二〇〇〇坪はあったが、現在は敷地の中を現在県道が走っており、一〇〇〇坪余になっているが、それでも広々とした邸宅である。近くに室町時代の三好長門守の居城址である菊ケ森と墓地が残っている。血縁者が居なく なったので、年一乃至二回墓参りに訪れるだけであるが・・・・ 
 元の敷地内に建てられた菊水公民館を右折して山道に入る。一〇分程でぼけ封じ観音三寺の一つである大師堂が杉立川に沿って立っている。特にどうと云った特徴はないが、境内には棚に翁、媼像と水子像が並ぶ。奇妙な組み合わせだが、現代日本の特徴を象徴している光景かもしれない。ここから約三粁の山道が続く。右方が杉立川の谷川と杉の樹林であれば左方は竹林であり、道端近くの山肌には筍が頭を出したり背丈程に成長している。  所々で家族総出で筍掘りしている姿を目にする。見晴らしは良くないが、新緑と木漏れ日が目に優しく、谷川の音とホトトギスの声が心を慰めて呉れる。途中でベストをリュックサックに仕舞い、手拭いを首に掛けて汗を拭きながらひたすら登る。二時間程で榎ケ峠に出る。峠脇の倉庫では取り立ての筍の集荷中であった。峠道は登って来た道を含めて六本の道が走っており、掲示板を暫く眺めて道を確認する。集荷を終えた年配と壮年の二人と挨拶を交わす。
 「どちらへ」「奥道後の頂上へ」「それならちょっと下がったあの道を行きなさい」 「どうもありがとうございました」「折角だから部落の神社にある杉の木を見たらええがな」「貴布祢神社ですか」「あれは県社並の立派な神社ですわ」「この人が神社にこれから行くから付いていったらいいがな。五分ぐらいじゃから」・・・と云った会話の後、箒を手にした年配者の後に付いていくことにした。「田舎のちょっと」は「都会のだいぶ」であり、五分では到底無理であった。途中数軒の家までは車が入る道があったが、そこからは畦道となる。次の部落には数軒の家があったが住む人はなく崩れかかった家やまだ十分住めそうな家が散在する。「昔は四十五軒程の部落があったが、今は年寄りばっかりよ」「十五軒位ですか」「なんのなんの数軒よ。もっとも住所を移してない人もおるけどな」「車は入りますけど若い人には無理ですか」「無理じゃのう」「それだったら神社のお世話が大変ですなあ」「そうよ昔はもっと上にあったのを、この場所に移したじゃがのお」 
 貴布祢神社は想像していたよりも遙かに立派な神社であった。鳥居から一〇〇米位の参道は苔が生えており参拝するのも部落の人だけに踏み固められた跡は見えない。まさに苔の絨毯を踏んで神社に近づく。拝殿は広く百人一首の公家や僧侶を描いた額や曰くのある寄り合いの献額が掲げられている。中央の額には貴布祢神社に並んで住吉大明神と諏訪大明神が併記されている。神社の左手にお堂があり、江戸時代の神仏混淆の名残であることが分かる。神社の正面に杉の大樹は一本立っている。「ザ杉」と云うか杉立の主らしい貫祿がある。幾星霜にわたり村人の誇りであり支えであったに違いあるまい。件の年配の人は落ち葉の掃除に取り掛かる。二時間はかかるとのことであった。貴布祢神社の祭神は雷神、高靄神、健御名刀命、底筒男命、中筒男命、表筒男命で例祭日は秋一〇月二二日である。由緒として建徳年中(一三七〇〜一三七二年)河野鬼王丸の創起と云う。一説には神亀五年(七二九年)越智玉澄が山城国愛宕郡より伊予国内へ十四社の貴布祢神社を勧進創立したとも云う。以前は東の山上に鎮座していたのを桑田氏が今の地に移し社殿を造営した。現在の本殿は神明造で明治一四年( 一八八一年)拝殿は元文五年(一七四一年)の建造である。山城国愛宕郡の貴布祢神社は現在の貴船神社を指すのだろうが、越智氏は河野の遠祖であり瀬戸内の海上権を握っていた豪族であり「船、山を上る」を実感した。
 手元の松山市の住宅地図を開くと西村姓が四軒、渡部姓が三軒、松本姓・中上姓が各一軒記載されている。若い人は殆ど住んでいないとのことなので多くて二〇人位の集落だろうか。訊ね損ねたが主な収入は筍と松茸と林業とすると若い世代には魅力が少ないのもよく分かる。戦前までの副業としては炭焼きと薪が貴重だったと思うのだが・・・・貴布祢神社参拝後再び榎ケ峠に戻り、奥道後ロープウエイ山頂駅に向かう。平坦な山道が長く続き、飼い犬が後に付いてくる。立ち止まると犬も立ち止まりなんとなく親しみを感じる。四〇年前のユースホテルの残骸は緑の木々に遮られて山道からは見えない。右手上にロープウエイ駅舎が見える。一三時過ぎに到着した。一〇時出発で、途中で脇道に入り四〇分程ロスをしたのと貴布祢神社参拝で三〇分余分であったのを相殺すると約二時間の山歩きである。家族ハイキング向きだが道中車には出会ったが、人間には出会わなかった。車の時代は山歩きと云う楽しみを自らが捨ててしまったのだろうか。
 山頂からの眺望は期待以上に素晴らしい。前面に瀬戸内海が広がる。右手に忽那七島、北条・鹿島、二神島、由利島と並び、北条・堀江・和気・三津・松前・双海と松山平野に広がる港が位置する。御幸(寺)丘陵・太山寺丘陵と松山平野の中に松山総合公園・松山城・道後公園(道後山)が点々で結ばれる。地勢学的に判断すると、熟田津から伊佐爾波之岡(道後)への伊佐爾波古道をイメージする。左手の山裾に目を移すと古代久米族の居住した平野から重信川に沿って一〇〇〇米級の山並みが続く。この山並みの向こうに久万があり、土佐に通じる。歴史と重ね合わせるとこの眺望は飽きない。奥道後公園からのロープウエイ往復は一〇〇〇円である。結構高いなと思う。昼食を取り、約一時間休憩して一四時に下山する。食場から湯之元まで歩き「田舎屋」の箱そばを注文、奥道後温泉では満開の藤を眺め一五時二七分発のバスで道後に戻る。  
二人遍路(平成12年記述))
 四国の秘湯と云う程ではないのだが、随分評判の良い鄙びた温泉宿が喜多郡の肱川の上流にあると云うことなので機会があれば一度は訪れてみたいと考えていた。新緑から深緑に移った六月十三日、夫婦での「ちょっといい旅」を思い立った。車には無縁な二人だけに宇和島自動車のフル活用になるのだが、バスの便が極端に悪くなっているので正直な所バスの接続が心配である。いざとなればタクシーを使えば何とかなるだろうと考えて、あなた任せの二泊三日の旅に出た。 
 松山市駅から伊予鉄バスで大洲まで出る(八・一五〜九・四〇)。大洲駅で五分の待ち合わせで野村行きの宇和島自動車に乗車する。松ケ花から右折して南下するのだが、徳の森で義兄の勤めている伊予木材本社を確認する。約四〇分で鹿野川に着く。バス切符売り場や小スーパーで宝泉坊温泉経由宇和島行きのバス便を確認すると、今年二月に廃線になり全便野村乗換で又便数も極端に少ないので時間がかかるとのこと。明日の行動は大幅に変更せざるを得ないこととなった。商店街を通り抜けると肱川が見える。肱川中学校の女生徒が教室から手を振っている。こちらからも手を振って応える。鹿野川ダム発電所を通過しダム管理事務所を左折して鹿野川湖を囲む山鳥坂の丘陵を登る。バス停から約二キロで鹿野川園地に出て更に一キロで「かんぽの宿伊予肱川」に着き、ここで小休憩する。 
 途中に歴史民俗資料館があり、昨年秋歌麿の未発見の浮世絵の版木が発見された話題の資料館である。その近くに和気家一族の墓苑がある。墓銘碑を読んでみると数百年は遡れる家系らしい。たまたま「かんぽの宿」に和気さんが勤めておられるのでお話をする。この地は江戸時代山鳥坂村と呼ばれた。庄屋は植松にある松久保城主の子孫である和気氏の子孫が代々勤めたが、元禄初年河上にある厳石城主の子孫城戸氏が庄屋家督を買い受けて勤め、更に文化年間から岡部氏と交代した経緯がある。
 「かんぽの宿」は当日が年二回の休日に当たっており、防火訓練中であった。近くに鹿鳴園や風の博物館や丸山公園もあり次回立ち寄ることにした。鹿野川園地で弁当を食べ、急坂の句碑の道を下ってダムに出る。句碑は毎年一碑づつ建造され、「石楠花は蝶の揺り籠夢の籠」(平成元年)から「世に出でし歌麿版木花の里」(平成十一年)まであるが、「文楽を守りて山の子卒業す」(平成五年)は肱川の伝統芸能人形芝居継承へのメッセージだろう。ダムの建物の上にある道を渡り肱川町交流センター鹿野川荘でコーヒーブレイク。ここまでで二キロ。川沿いに一キロ下り鹿野川大橋から鳥居をくぐり今岡商店の左道を進むと小藪渓谷に出る。徒歩二〇分位の渓谷だが八大竜王社があり、滝が三つ(美妙・竜王・鮎返)で淵も多く遊歩橋七つで結ばれている。近くに新四国番外札所・竜雲山遍照院と鍾乳洞があるが立ち寄っていない。鹿野川荘から二キロで目的地小藪温泉に着く。
 小藪温泉本館は大正の始めの建造物だが今春重要文化財の指定を受けた由緒ある湯治場である。昼間は入浴と食事だけの客はあるが、休日前後を除けば空いているらしい。客室は四室で、当日の宿泊は我夫婦のみ。文久元年(一八六一年)に福山喜三米が創業し以後福山家三代が継承し、昭和四一(一九六一年)に三井広市に移り現在は二代目。三時半に訪れたので女将は素顔の出迎えである。は二代目。泉質はアルカリ性単純泉で、すべすべとした湯は肌が若返った様に錯覚する。松山市内の鷹の子、権現温泉と同質である。帳場の壁に掛けてある写真で発見したのだが、日本テレビ制作の松本清張原作「張り込み」のロケ地であり、大竹しのぶと田原敏彦らがこの旅館に泊まって撮影された由。旅館でビデオを見せてもらえば最高なのだが、それ程の商売気はないようだ。都会の雑念を払ってのんびりしなさいと云うことかもしれない。そう云えば此処ではTVを見ていないし見たい気分にもならなかったのも事実だ。
 夕暮れ時に田植えを了えた田圃を散策する。石に刻んだ供養碑が道々に数多く散在している。夕食は本館の囲炉裏の間でヤマゴを賞味する。女将から螢の話を聞き七時半から九時頃まで螢狩りのひとときを過ごす。螢狩りなど何十年振りだろうか。五十数年は確実に過ぎている。妻もまた同様でお互いに童心に戻って川沿いの螢を眺め手元にきた螢を両手で捕らえる。葉っぱに螢を乗せ胸に挿すと御木本の最高級の真珠も及ばない輝きが点滅する。 
 螢の句と云えば飯田蛇骨の「魂のたとえば秋の螢かな」と云う芥川竜之介を追悼した句は印象に残っているが、珍しく俳人になり即興で数句浮かんできた。
妻と二人きりの宿なり飛ぶ蛍
掌に螢生命線のくっきりと 
螢狩りひいふうみいと棚田かな  
九時すぎ忽然として螢は消え失せた。再度温泉に入り川の音を聞きながら眠りにつく。
 翌朝(六月一四日)八時に宿を発ち、小藪渓谷を散策し、鹿野川大橋から大洲に出る。大洲始発の宇和島自動車で宇和島に出る。JR宇和島駅からは予土線窪川行きのトロッコ客車連結車にて松丸に向かう。松丸(松野町松丸)は江戸時代は伊予伊達領であるが、戦国時代は土佐一条家の支配下にありその居城が川後森城であり吉野川の中流域である。伊予と土佐を結ぶ主要通路であり土佐藩領との境界の要衡に当たり楽市楽座が開かれた。酒造家三軒、製蝋業者など豪商が存在し明治にかけて商工業が発展したが、その後衰微することになる。今日でも往時の面影をしのぶことができるが、その一軒は旧松丸街道沿いにある「野武士」を醸造している正木家であり、妻の母の妹(憲愛)が嫁いでおり健在である。虹の森公園(青空市場、ガラス工房)で休憩し、正木家を訪ね叔母と従姉妹の玲子さんに会う。
 森の国ホテルの送迎車で国立公園滑床にある同ホテルに向かう。一〇年前に開場した半官半民のホテルで上高地帝国ホテルを範として設計されただけに山のホテルとしては本物であり、上高地帝国ホテルを利用したことのある旅行者には快い安らぎを与えて呉れる。 滑床渓谷を万年橋から四〇分程歩く。三筋ノ滝・鳥居岩・河鹿ノ滝・出合滑・岳見岩・富士滑・遊仙橋・百岩・雪輪ノ滝・・・・と続く。約二時間で 淵に着くとのこと。今回は雪輪ノ滝(名滝日本一〇〇選)で引き返す。夕食後散策す。温泉設備があり、設備、サービス、食事ともに都会人にも満足できる雰囲気である。妻の言を借りると上高地に泊まって新緑の奥入瀬を歩く感じと表現したが、宇和島迄来れば必ず立ち寄りたいリゾートホテルである。
 十五日の朝八時半ホテルの車で松丸の芝不器男記念館まで送ってもらう。芝家は松丸の庄屋。不器男は父来三郎・母キチの五男として生まれ、宇和島中学から松山高等学校を経て東京大学農学部に学ぶ。関東大震災の為帰郷、退学し改めて東北大学機械工学科に転じる。ここで「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」と高浜虚子が激賞した伝説の一句が誕生する。東北大学を中退し山口誓子らと「天の川」の課題選者として活躍し隣村の庄屋太宰家の養子となるが発病し二六歳一〇カ月で生涯を閉じる。生家が改築の上記念館として開場した。松丸の風土の中での青春句は清々しい。
汽車見えてやがて失せたる田打かな  
泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ  
永き日のにはとり柵を越えにけり   
同館で休憩中、従姉妹の玲子さんが顔を出してくれる。暫く女同志の話が続く。虹の森公園内四万十川学習センター・おさかな館に立ち寄り四万十川の生態系を一覧した後、松丸から宇和島に戻る。
 津島町・岩松経由で南レクゾーン・南楽園の菖蒲見物に出掛けるが、見頃は終りであった。一五万平方米の日本庭園であり、上池・下池の二つの池を中心に構成されており、つつじ・菖蒲が目玉であるらしい。気温は三〇度近くの夏日でもあり日陰もないので疲労を感じる。次回は宇和島市内見物(宇和島城、伊達博物館、天赦園、和霊神社など)と併せて獅子文六の「てんやわんやの里」岩松の主、宇和島藩筆頭の庄屋である小西家の屋敷跡の見学を加えたい。小西家は塩田の経営や蝋座頭取役で庄屋でもあり、所有田畑はは四〇〇町歩を超えたと云うから想像も出来ない規模である。近くに鐘紡でご一緒した赤松泰則氏の実家もある由。夕刻、宇和島から宇和島自動車道後営業所まで二時間半のバスの車中でビールを飲み、妻と印象を語りながら旅の最後を飾る。                    
(注)
□松久保城:松ノ窪城。植松村にあり、和気越前守は山鳥坂・植松両村を領す。当城前は番城なりしが、天正十三年越前守奚に移住せり。当村に源氏が尾といふ所あり、越前守此処にも居たりといふ。天正十三年下城の後、越前守の子植松・山鳥坂両村の庄屋となる。(伊予温古録)
□厳石城:不明。石城か? 横山村に在り、南尾源三郎居る、橘城の番城なり。(伊予温古録) 
□川後森城:松丸にあり、渡辺式部少輔教忠居る。(伊予温古録)  
四国カルストを歩く(平成12年記述))
 八月上旬、久万の古岩屋荘で血圧不安定で四国カルスト散策を中断したが、改めて残暑の厳しいこの時期に避暑を兼ねて二泊三日の旅程度を計画した。 
八月二十四日(木)松山市駅を八時に発ち久万で石鎚土小屋行きの季節バスに乗換て九時四〇分御三戸に着く。美川タクシーの予約車で約一時間、地芳峠(一一六三)に着く。料金七千三〇円。峠には林業研修セーンターと地芳荘の建物があるだけが、南の高知、北の愛媛を結ぶ四国カルストの西の中心でもある。四国カルストは鳥形山から大野ケ原までの東西二五キロ、高度は地芳峠が一三〇〇米、天狗の森が一四八五米で三大カルストと称せられる山口・秋吉台と福岡・平尾台に比較して長くそして高い。ただ残念ながら大規模の鍾乳洞が発見されていない。
 一〇時四〇分歩き始める。だらだらした上りの道が続く。地芳園地でトイレ休憩、唐岩番所跡(宝永元・一七〇四年設置)を通り、一一時過ぎ姫鶴荘に着く。三キロ程か。ここにも林業研修セーンターが付設されている。徐々に汗ばんだが、風は乾いて爽やかであり小休止すると汗はすーっと引いてしまう。カレーライス(八〇〇円)腹ごしらえし一三時過ぎ今夜の宿泊所である天狗荘に向けて歩き出す。途中檮原町風力発電二基(六〇〇KW×二)の鉄柱と三本の羽が銀色に輝く。この辺りを姫鶴平と呼ぶらしいが、放牧地になっており羊に紛う石灰の岩が点在し、黒、白黒、茶色の牛の群れが牧草を食んでいる。五段高原の牧場道は帰途にまわすことにした。道路工事中の青年に石鎚山を確認するが雲間に隠れており見えないとのこと。姫鶴荘から四キロと地図には載っているのだが、初めての山道だけに結構な長く感じる。天狗トンネルを抜けると赤屋根の建物が見えてきた。本館、旧館、バンガローと四国カルストの拠点らしく宿泊施設は充実している。道沿いにバーベQの掲示が出ている。放牧の牛を見るので「バーベ牛」と間違うのだろうか。 
 十五時チェックイン。フロントの女性はしっかりと受け答えをしてくれ好感を持つ。早めに入浴する。ここまでは快調だったが、秋の山は変わりやすいのか急速にガスが立ち込め、やがて雷鳴が響き豪雨となる。通り雨と宿の人は云うので安心はしていたが、十七時半からの広場でのバーベキュウは車で送って貰う。テントに雨が叩きつける。散々な夕食ではあったが十八時頃には雨も上がる。草原を少し散策し周辺の山々を眺める。ゲームセンターに卓球台が用意されており、十年ぶりに妻と卓球を楽しむ。再度入浴し汗を流し、前回の失敗を反省し大量の水を飲み水分補給をする。敷布団を二枚と上布団を一枚、それも結構厚手の布団を肩迄掛けても暑くは感じない。松山では三五度位の熱帯夜だろうから、一〇度位低いのだろうか。まさに別天地である。疲れているのか二二時には就寝する。明朝の日の出が楽しみだ。
 翌八月二十五日(金)は朝五時目覚める。晴天である。カーテンを開けると高知県側の山岳は広がる。五時四五分日の出である。徐々に墨色の山々が明るくなってくる。山間の部落はまだ暗い。朝風呂に入り天狗の森を展望する。八時朝食。九時半から活動開始。瀬戸見峠から天狗の森(一四八五米)まで四〇分程の山歩きである。天狗荘が一三五五米だから、標高差は一四〇米程だ。急坂もあるが森林道であるので暑くはないが展望は今一つである。途中で地元の親子パーティーに出会う。四万十川の源流である不入山の所在が確認できた。天狗の森から天然記念物の大引割・小引割まで歩くと云う。往復三時間の行程であり、我ら夫婦組は次回に挑戦することにした。一一時半カルスト学習館に入りカルストの歴史や動植物の学習する。館長にお願いして「四国カルストの四季」なるビデオを三〇分鑑賞する。館内に大江幸弘氏(四国カルスト姫鶴牧場牧場長)のカルストの神秘の写真展示あり。昼食は天狗荘食堂で親子丼&焼き飯&名物アイスクリーン。 
 午後、天狗高原を散策する。草花の名前が分からないのが残念だが、勝手に命名した紫釣鐘草やイエローフラワー、ススキ、熊笹が広がる。吹く風が心地よいこともあるのだが秋の雰囲気を感じる。晩夏と云うよりは初秋の感じである。一五時から昨日同様に天候が急変しガスが出てきて天狗の森も数分でガスの中に消えてしまった。夕方のなって宿泊客が車でやってくるが、失望の色は隠せない。食事前に卓球を一時間程楽しむ。夕食は焼きあまごと四国カルスト牛。生ビールで喉の渇きを癒す。二日目は国民宿舎の方に移ったので風呂場まで一寸遠くなった。雨は降っていないが風の音が騒々しい。台風の時など吹っ飛ばされそうな気分になるのではないだろうか。気温は二三度位か。布団が話せない。枕が高いのが気になる。
 三日目は更に一時間早く四時過ぎに目覚める。昨日と違いガスが建物をすっかり包んでおり外界の見通しは全くきかない。日の出見物は完全に駄目だ。再度眠ることにした。六時半起床する。朝食。九時半チェックアウト。予算を一泊二食四万円で組んでいたが三万三千円であがる。路上でカルスト学習館の館長に出会う。天狗高原にあるイエローフラワーはハンカイソウで希少植物化していること、紫釣鐘草はシコクブシであることを教わる。そのほかにアキノキリンソウも多い。もと高校の理科の教師だったのであろうか。昨日と違った溌剌として専門分野の説明していただく。天狗高原をゆっくり横断しカルスト横断道路に出る。放牧中の牛の朝食時間らしくドラム缶を二分した容器に藁などが入っており多くの牛が首を突っ込んでいる。五段高原では往来の車が駐車し写真を撮っている。風車の見える地点から旧道に入る。詳しくは分からないのだが、五段城の周囲を回っているのかもしれない。思ったより大回りで三十分程度余分に歩いたことになるが、一方で放牧の黒牛には堪能できたし、一昨日から見たい見たいと言っていた石鎚連山(石鎚山、瓶ケ森、二ノ森など)が眼前に広がっており 、妻は大満足であった。今秋には二人で石鎚を登ることにしているのだが是非実現させたい。
 姫鶴平の見晴台でバスの団体の食事時間を調整しつつ休息する。十三時半姫鶴荘食堂できつねうどんの昼食。十七時半のタクシーの予約時間まで周辺の散策や旅日記や俳句の整理で時を過ごす。予定時間に美川タクシーの出迎えがあり御三戸でバスに乗り換える。 蝉の声も聞こえ、気温も高くなった。十五分遅れの十九時半大街道に着く。暑さから開放された、さささやかな避暑の三日間は終わった。  
三尾三山紅葉紀行(平成12年記述))
十一月十九日(日)晴れ。 
 昨夜(十一月十八日)東予港からフェリーに乗船、今朝妻とは阪急梅田で別れ大垣での鐘紡大垣会に出席し大いに旧交を温めたのだが、午後四時すぎ一年先輩の松井研三さんと一緒に京都行きの車中の客となった。松井さんは京都出身で京都在住であり、車中でいろいろと京の秋についての情報を教えてもらった。現在のお住まいは永観堂のすぐ下で、是非立ち寄る様にと勧められた。京都駅で松井さんとは別れて嵯峨野線に乗り換えた。嵯峨嵐山駅に着いたのは夕方の六時前だがすっかり暗くなっており、一日の観光を楽しんだ若者や熟年の女性たちでラッシュの様な混雑であった。トロッコ嵐山駅を抜けて新丸太町通りに出た所からドラマが始まった。 
 嵯峨瀬戸川町バス停から京都市バスJに乗り込むとなんと眼前に妻が居るではないか。一瞬息を詰めた。妻は箕面の紅葉を見て嵐山で「美空ひばり館」に立ち寄りホテルに向かう途中であった。大垣から列車を乗り継いで来た自分と、京都の一点で同時刻に出会う確率はゴルフのホーリインワン否アルバトロスよりも難しい確率であろう。お互いの驚き、これが夫婦の運命的な出会いなのだろうかと思った。広沢御所ノ内町で下車し、サンメンバーズ京都嵯峨に入る。当日の到着時間は元々未定だったので夕食は近くの和食レストラン「さと」で丼ものとサラダとビールで済ます。ボーリング場とゲームセンターに立ち寄るが、休日でもあり若者ばかりで騒々しいだけなのでホテルに戻る。フロントで京都駅までのアクセスを質問したところ詳細なバス時刻表を手渡され、早速明日以降の計画を練ることになった。天気であれば、栂ノ尾・槙ノ尾・高雄の三尾三山の紅葉狩りを楽しむことにして早めに就寝した。 
十一月二十日(月)曇り。  
 朝食抜きでと云うかホテルの朝食時間よりも随分早い広沢御所ノ内町バス停七時発京都バスで京都駅に直行し、七時五十五分発栂尾行きJRバスに乗り込む。この時間帯でほぼ超満員である。立命館大学前で半数の乗客が下車し、残りは全員観光客である。既に何台かの観光バスが到着している。栂ノ尾で小雨になったが裏参道から上る。程なくして雨は止んだ。                                     
 栂尾山高山寺は宝亀五年(七七四)光仁天皇の勅願によって開創と云うから当然平安朝以前となる。因みに桓武天皇即位は天応元年(七八一)であり、平安遷都は延暦十三年(七九四)である。当初は神願寺都賀尾坊と呼ばれ、嵯峨天皇の弘仁五年(八一四)に栂尾十無尽院と改称された。中興の祖と云われる明恵上人が御鳥羽上皇の院宣により南都東大寺の華厳を根本とし戒・密・禅を兼ねた寺とし、建永元年(一二〇六)勅額「日出先照高山之寺」を得て寺号を「高山寺」と改称した。その後寺としての栄枯盛衰はあったが、平成六年(一九九四)には世界文化遺産に登録され永久に保存されることとなった。    国宝石水院に座っての眺望、院内の御鳥羽上皇勅額「日出先照高山之寺」、富岡鉄斎額「石水院」、成忍作「国宝明恵上人樹上座禅像」や金堂(仁和寺の金堂移設)、明恵上人廟、茶園(宇治茶の本木)、金堂道敷石が印象に残る。「国宝鳥獣人物戯画」は何処にありますかと尋ねられ、残念ながら一般公開されていませんと答えたが、これを楽しみに訪ねる人も多いだろうから充分な説明は必要ではないだろうか。世界文化遺産指定は建物だけなのだろうか。「国宝鳥獣人物戯画」 あっての高山寺だと思うのだが・・・・表参道を下り清滝川に沿って槙ノ尾に向かう。 
 槙尾山西明寺は高山寺と神護寺と云う名刹に囲まれて一般には印象が薄い寺院である。三人兄弟の真ん中で上に付かず下に付かずと云ったところか。寺伝では弘法大師の甥で高弟でもある智泉大徳が天長年間(八二四〜八三四)に神護寺の別院として創建されたと云うから結構古い寺院ではある。清滝川に架かる朱色の橋を渡り参道を少し歩くと表門に出る。本堂始め建物は江戸時代の建造であるが、本堂の釈迦如来像は仏師運慶作の重要文化財である。狭い境内は紅葉を愛でる観光客で一杯である。人を避けて崩れた土塀を跨いで右手の谷川沿いの狭い道に出ると東屋があり小休憩をする。山肌から清水が溢れ出ており祠がある。山手への道を上ると鎮守がある。廃仏毀釈の時代に辛くも破壊を免れた神仏混淆の神社であろう。地元の人しか知らない場所かと思うと嬉しくなった。西明寺の本堂の屋根と紅葉の組み合わせを楽しむ。中興の祖は和泉国槙尾山寺の我宝自性上人と云われ、この時に本堂、経蔵、宝塔、鎮守が建てられた。更に正慶三年(一二九〇)後多天皇から平等心王院の号の命名があり、神護寺から独立したのた。 
 いよいよ高雄の紅葉と云うことになるが、六万坪以上の山内全域は広大過ぎて、一方人間があまりに小さ過ぎて調和が取れそうもない。都人を過去一千年以上も受け入れてきた自信といったものを感じる。麓の清滝川に架かる高尾橋から急坂と長い石段を上り一汗も二汗もかいてやっと楼門にたどり着く。途中にお茶屋があるので休憩してからの参拝客も多くいよう。高雄の紅葉はその中に浸るというより眺望するといった風情である。カメラでは到底収めきることは不可能だ。しっかり眼に焼き付けるべきだろう。
 和気清麻呂の霊廟は以前にお参りしているので今回は真っ直ぐ金堂に参拝し久々に本尊の薬師如来と日光菩薩・月光菩薩に対面する。この薬師如来からは柔和さを感じない。むしろ何者も寄せつけない異様な迫力すら感じる。悪魔か悪霊をも屈伏さすこの霊気は高雄山神護寺の存立との関わりがあるのだろうか。負けじと睨み返したのだが・・・・    神護景雲三年(七六九)称徳天皇が寵愛した弓削道鏡を巡っての事件に巻き込まれ清麻呂は大隅に流される。宝亀元年(七七〇)称徳天皇の逝去と道鏡の失脚により元に復し、宝亀十一年(七八〇)神願寺建立を願い出て、翌宝亀十二年(七八一)桓武天皇の許しを得て河内(一説には山城)に建立する。
 元々の高雄寺は和気氏の寺で和気清麻呂(七三三〜七九九)によって創設されたと云われるが正確には分からない。清麻呂の没後その墓所に寺が開設されたと考える方が自然かもしれない。歴史的には延暦二三年(八〇四)最澄がここで伝法灌頂の儀式を行い、次いで空海がこの寺に住持し金剛界・胎蔵界の両部灌頂を行ったし、最澄との出会いもこの寺であった。何らかの理由で天長元年(八二四)に神願寺が高雄寺と合体し、朝廷の許しを得て神護国祚真言寺(神護寺)となった。本尊の薬師如来は国を護り和気氏を護り道鏡一派の呪詛を押さえ込むだけの法力を持つ薬師如来でなければならなかった謎があるのではなかろうか。多宝塔、大師堂、毘沙門堂、五大堂などをゆっくりと見て回る。もっとも立ち止まっては紅葉を眺めていたので、その他のことはあまり記憶にない。お茶屋で昼食を取る。 
 三尾三山の寺院は古義真言宗に分類されるが、この地こそ真言宗の事実上の発祥の地と考えてよいのだろう。一二〇〇年前の空海の姿を想像するには人が多過ぎ、また自然が美し過ぎた様に思う。全山紅葉から落葉となりやがて冬を迎える頃、弘法大師空海の作と伝えられる「いろは歌」が甦ってくることになろう。  
                 色は匂へど 散りぬるを  我が世誰ぞ 常ならむ 
                             有為の奥山 今日越えて  浅き夢見し 酔ひもせず 
 清滝川に沿って山道を約一時間歩き清滝に出る。昭和の始めまで敷設されていた愛宕山電車線のトンネルを越えて愛宕念仏寺、化野念仏寺や鳥居本町並み保存地区、(瀬戸内)寂庵から嵯峨野に入り落柿舎から新丸太町通りに出て、一〇数キロに及ぶ紅葉狩りの一日は無事終わった。
十一月二十一日(火)晴れ。 
 ホテルで朝食を済ませ、京都バスにて京都駅に出て奈良線にて東福寺駅に着く。朝十時過ぎなれば人手結構多し。臥雲橋、通天橋からの紅葉の眺めに観客は一様に感嘆の声を上げる。黄葉、紅葉で全山彩られているが谷川の日陰地の楓はまだ色づいてはいない。一幅の絵と云うか、自然の中に人間が総て吸い込まれた様な感じである。もし深夜人が寝静まった頃此処に佇むと禅の境地に近づくのではないかと思う。こんな邪念を持っていると、「喝」と一喝されるのが必定であろう。
 東福寺については説明するまでもないが、臨済宗大本山であり建長七年(一二五五)に一九年の歳月をかけて完成した大寺院である。当初は天台宗・真言宗・禅の各宗兼学であったが一四世紀には京都五山として完全な禅宗寺院となっている。因みに京都五山とは、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の総称で、南禅寺を首格、大徳寺を次格として五山がそれに続いている。                             今回始めて方丈内の八相庭を鑑賞した。昭和の古山水式禅院庭園(重森三玲作庭)である。前庭には長石を極として蓬莱、方丈、瀛洲、壺梁の四仙島を配し右方に五山の築山があり八海は全面に広がる。西庭には井田市松の敷石、東庭には東司の柱石を利用した北斗七星の抽象世界が広がる。八つの相(蓬莱、方丈、瀛洲、壺梁、八海、井田市松、北斗七星)を八相成道に因んで八相庭とした由だが、今ひとつ禅的世界は分からない。華やかな紅葉の装いから少し離れてこんな静寂な世界が広がっていることに驚いた次第である。尚八相とは釈迦八相のことで降兜率・入胎・住胎(降魔)・出胎・出家・成道・転法輪・入寂を指すと「広辞苑」で説明しているが 、これまた皆目分からない。半時程方丈の広縁に座って庭園を眺めていると、不思議と気持ちが落ち着いたのは事実である。方丈脇で昼食弁当と食べ月輪殿下御墓、浴室、三門、本堂、六波羅門、東司、禅堂を一巡する。 
 京阪電鉄で三条に出て地下鉄で蹴上下車、金地院、南禅寺を通って永観堂禅林寺を訪れる。京都第一等の紅葉だけに特別拝観料一千円也である。永観堂の紅葉は日本の箱庭的紅葉の極致とでも云うべき美しさである。放生池の周囲を歩き池越しに本堂始め回廊に結ばれた御堂を眺めていると浄土の夕暮れも斯くあらんという気分になる。千年以上も此処に参詣する善男善女に同様の思いを抱かせたことだろう。 此の寺は清和天皇勅建の道場で弘法大師の弟子真紹僧都(七八七〜八七三)の創建で密教の名刹であった。後永観律師(一〇三三〜一一一一)が入山し専修念仏の端緒となる。有名な本尊の見返り阿弥陀如来が誕生するのも永観律師の時であり、聖衆来迎山禅林寺と云うより永観堂の名前の方が一般的である。 その後高倉天皇の勅により真言宗の学匠静遍僧都(〜一二二四)が住持となるが、法然上人(一一七七〜一二一二)を当山の第一世に推し上人の像を高弟西山証空上人(一一七七〜一二四七)に託する。ここに浄土宗西山禅林寺派総本山として同派の根本道場としての法灯が受け継がれていくことになる。寺宝でもある恵心僧都作「国宝絹本著色山越阿弥陀図」と「本尊阿弥陀如来」 を間近で拝観できたことは幸運であった。現在松山にて一遍会のお世話をしているが、時宗の創始者一遍は浄土宗西山禅林寺派の薫陶の中で育ってきただけに本堂、御影堂、釈迦堂、瑞紫殿、講堂、祖廟堂を拝観しながら他の名刹では感じられない何かあるもの(エトバス)を感受したいと願って長い回廊を歩いていった。 
 夕刻古都京都の最も現代的な建造物である京都駅ビルの「探検」をして、夜十時半大阪南港からフェリーで松山に向かう。京都での濃密な紅葉狩りは結婚四十周年を今年十一月に迎えた夫婦にとって印象的な旅となった。
山 策 記 (平成13年記述)
 山登りというよりは山歩きに近いのだが、今年も健康に恵まれたこともあって月一回のペースで楽しむことができた。夏場を除けば殆ど妻と一緒である。リストアップしておこう。 
山    名
標高
参 加 団 体
 2  18 高見山&千光寺山(広島)  283米 県民ハイキング
 3  14 杉立山  669米 ..
 4   2 谷上山&大谷山  456米 .
 5  20 高縄山  986米 松山市環境保全課主催探鳥会
 5  27 石鎚山(弥山) 1955米 愛媛の山を守る会
 6  10 面木山  988米 県民ハイキング
 6  24 松山・小富士  282米 市民ハイキング
 7  22 気多山 1218米 県民ハイキング
 8  19 伊予富士 1756米 県民ハイキング
10  21 久万・桂ケ森 . 県民ハイキング
高見山&千光寺山(広島)(二八三米)  
 かれこれ一年振りの県民ハイキングである。コースはまったくの初心者コースでしまなみ海道を渡り、向島の高見山展望台から瀬戸内海を眺望する。伊予水軍も獲物を狙って海賊活動をしたのであろうか。徳島大学武田元学長とは松山中学の旧友でもある宮内英幸大先輩から「三好さんですか」と一年前のスナップ写真を手渡される。日野勇、杉原早波、相原浩子さんの山仲間とは久し振りだが、今年の県民ハイキングは打率六割を狙うと約束した次第。向島洋らんセンター、尾道では千光寺に参詣し千光寺公園を散策する。近くに時宗の寺院もあるのだが時間の都合で立ち寄れず。 
谷上山&大谷池)(四五六米)  
 桜見物を兼ねての山歩きである。JR松山駅から三つめのJR横田駅で下車、国道二百十九号線を四キロ南下し上三谷の大谷池に着く。祖母松鶴の実家日野家は上三谷の出身と聞いたことがあるが、今は確かめ様もない。大谷池周辺には約二千本の桜があり、堤の北側斜面には百五十本程の桜が纏まって植えられている。大谷番所跡、大谷茶屋から竜王社を経て森林学習展示館で休憩を兼ねて腰を下ろす。池には白鳥、鴨も多く、餌を求めて集まってくる。「らくらくコース」を選択し十分ほど湖辺を歩くと、周遊道から分かれて山道となる。緩やかな坂道を上がると桜並木のある高台に着く。ツツジの中を進むと芝生の第二広場、続いて第一広場に着く。シーズンであるのに静まりかっている。小休止の後「木もれびコース」の松林を抜けると、宝球寺の山門に出る。
 真言宗・谷上山宝珠寺は聖徳太子の開基で、大洲・加藤藩の祈願所である。本尊は千手観音であるが、現在本堂は改築中とかで戸が閉まっている。寺院まで車で往来できるので住職にとっては何の不都合もなかろうが、その昔は静寂そのものの山寺ではなかったかと思う。庫裏にプラスティック製品が積んであるのは経冷め、いや興ざめである。山門には子規の句で「夏川を二つ渡りて田上山」なる句碑が建っている。第一展望台で食事を考えたが展望がきかないので、さらに半時ほど歩き第二展望台で桜を愛でながらの遅い昼食となる。帰途は大谷池で休憩し元の道を帰る。車社会であり、歩く人を見かけない。後日の愛媛新聞によれば、大谷池の改修工事で堰堤の桜百五十本は今秋伐採され、改修後は堤防の安全保持のため植林しないとのこと。まったく偶然に最初で最後の大谷池堰堤の桜見物をしたことになる。桜には何の罪もないのに、かくも無惨な咎を受けるとは。 
石鎚山(一九五五米) 
 山登りサークルにも色々あるのだろうが、今回は「愛媛の山を守る会」と愛媛県勤労者山岳連盟共催の第二十八回石鎚清掃登山に初参加した。参加者は一九〇名弱の大世帯である。清掃登山は石鎚山系の土小屋・成就コースと鬼ケ城コースがあり、土小屋コースは更に石鎚山、手箱山&岩黒山と瓶ケ森コースに分かれている。
 石鎚は新緑の中でオオガメ、ミツバツツジ、アケボノツツジ、シャクナゲ、珍しいイシシヅキサクラと目を楽しませて呉れる。鳥の声もカッコウを久しぶりに聞く。七月一日の山開きまでは二の鎖三の鎖は使用中止だが、楽な筈の巻き道では妻のほうが軽々と歩く。老いては妻に従えかと些かさびしくもなる。肝心のごみ拾いだが、マナーの向上もあり道端には殆ど空き缶は落ちていない。山頂では天狗岳と向き合って昼食をとる。 
 愛媛の山を守る会は、今回の参加で始めて知った。昭和四十九(一九七四)年に会員三十名で一泊二日で石鎚山の清掃を実施、ゴミ袋が一〇〇個以上になったと云う。昭和五十一年には「登山者は緑の番人になろう」のアピールを採択し、年々拡大しており、一九九〇年には「日本とヒマラヤの自然を愛する会」(HIT−J)も発足した。来年以降も是非趣旨に賛同して参加したいと思う。尚、今年は参加者に携帯トイレの手渡され、今後の登山に当たってのマナーを考えさせられた。ゴミは当然として、自らの身体から排出される不要物もゴミとして山には捨てないと云う時代の到来を痛感させられた。       会長の古川一郎さんは、車椅子で参加された。「愛媛年鑑」に拠れば、大正八年生まれで八十二歳。松山中学・師範学校卒業後、県公立小・中学校教諭歴任の由。重障害度の身障者の様だが、山の美化について熱っぽく挨拶された。 
面木山(九八八米) 
 第153回県民ハイキングは面木山。二月の高見山&千光寺山(広島)以来である。  伊予鉄本社ビル前七時十五分発で比較的ゆっくりした出発である。日野勇、相原浩子さんと同じグループ。今回から旧友の梅木賢正君が参加しており心強い。丹原町ヌタ藪から鞍瀬川沿いに入山する、急な坂を登ること一時間半で送電線鉄塔二十八号に着き小休止。 送電線に沿って二十七号、二十六号鉄塔と進み、二十四号鉄塔で昼食休憩。見通しは残念ながらよくない。ここから、東峰の面木山(九八八・三米)迄標高差二五〇米の急坂を一気に攀じ登る。一時間を要す。地元では此処を砲台ケ森と呼んでいる。その昔砲台が据え付けられれていたのか、砲台に山容が似ているのか−−いささか疲れ過ぎて、ゆっくり考えてみる気力も失せていた。尾根伝いに西峰に行くが三ヵ所の石を積んだ神社がある。
 滑川、鍛冶屋、千原の三部落の神々であり、面ノ木神社と呼ばれている。地元では此処を面木山(郷山)と呼んでいる。思うに村人にとっては西峰が信仰の対象であったのであろうが、東峰の方が高いので三角点を設置して面木山として登録したのではなかろうか。神社のある西峰は展望も開け北に燧灘、東に三ケ森、南に石黒山や青滝山、堂ケ森から石鎚山にかけての美しい稜線が見通せる。                       頂上から一気に上弥助成部落まで下る。靴紐はしっかり締めたつもりだったが、親指を詰めたのか痛みが走り、こらえようとて踏ん張ると筋肉が硬直する。苦痛の四十分であった。麓から海上(カイショ)迄はバス。滑川渓谷を一時間半、涼風を身体に受けて散策する。その内に、疲れも足の筋肉痛も消え失せた。
小富士(二八二米)   
 「○○富士」とか「○○小富士」という呼称は、旅をすると土地々々の名前を付けた優雅な姿をした山が「おらが富士」と誇りと親しみを以て語られる。「○○銀座」も同じ類かもしれない。こちらは軽蔑的意味合いもあるのだが・・・ 松山観光港の真正面に興居島が浮かんでいるが、その島の象徴がその名ずばりの小富士である。平凡社版「世界地図帳」では、静岡・山梨県境の小富士(一九〇六米)は記載されているが、標高二八二米の「おらが小富士」は当然の様に黙殺されている。松山市民にとって興居島なり小富士は親しみはあり知名度は高いが、その島を訪れ、その山に登った人は極端に少ないのではあるまいか。新聞で市民ハイキングの紹介があり、思い立って一人で参加することにした。興居島に渡る途中に松の木が数本生えている岩がある。地元ではターナー島と呼んでいる。御存知の漱石の「坊っちゃん」の記述からである。「高柏寺の五重の塔が森の上に抜け出して針の様に尖がってる。向側を見ると青嶋が浮いてゐる。是は人の住まない島ださうだ。よく見ると石と松ばかりだ。・・・ 『あの松を見給へ、幹が真直で、上が傘の様に開いてターナーの絵にありさうだね』と赤 シャツが野だに云ふと「全くターナーだ。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。・・・すると野だがどうです教頭、是からあの島をターナー島と名づけ様ではありませんかと余計な発議をした。」ことに拠るらしい。私の小学校時代はアメリカと交戦中だったからそんなハイカラな名前ではなかった。何と云う名前だったか思い出せなかったが、子規の俳句「初汐や松に浪こす四十島」を知って四十島と云っていたのを思い出す。何で四十島なのかは分からない。今回の山登りの小富士山は、案内書に子規の「鶏なくや小富士のふもと桃の花」が紹介されているが、所詮は挨拶句の一種に過ぎないのではないかと思う。
 六月二十二、二十三日と豪雨が続き、二十四日(日)当日が雨であれば不参加にしたいと思っていたが、やっと青空も見えはじめた。九時三十分に高浜港(松山観光港に非ず)に集合し、十時過ぎのフェリーに乗船する。百九十円で航海時間はたったの十分である。「坊っちゃん」流に書くと「乗り込んで見るとマッチ箱の様なフェリーだ。ごとごとと十分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった百九十円である。」の一節となる。泊港から百米程西に歩き、私立泊保育園脇から右折して路地を進む。島特有の石畳と石段の狭い小道が続く。蜜柑畑、枇杷畑の間の道であり、手を伸ばせば、蜜柑でも枇杷でもすぐに取れはするが・・・・ 手入れが極端に悪いのは、働き手が少なく、老人が多く山での作業が困難になっているのではないのだろうか。作業用の小屋からモノラックが延びており、その横の急勾配の石段を登る。次いで笹や茅のぬかるんだ山道を滑らない様に気を配りながら一気に駈け登る。樹林と竹林に塞がれて、頂上からの展望は殆どきかない。 頂上の社には「石鎚山吹揚山大権現勧請所」なる額が架かっている。三角点は航空標識灯の 真下にあり、探さないと分からないくらい雑草が生えている。戦前には正月に山頂の社に島民が集まって新春を言寿いだと云うが、今は荒れ放題である。三百米足らずの低い山ではあるが、登りのみの急坂なので結構きつい山歩きとなった。 
 愛媛県山岳連盟の松本道正会長と話しながらの山登りであったし、休憩中には「さわやか山道会」の主催者である峰元典寛氏とも情報を交換出来たので結構収穫の多い一日ではあった。松本道正さんは七十七歳で立花三丁目にお住まいである。元林野庁勤務の由。著名な鳥獣研究者と一緒に山歩きした時に「山が好きになれば、見方が変わる」と言われ、木や鳥、動物を学び観察し山に魅せられていったと云う。また著名な山岳登山家と同行した時、食料は殆ど持たず山野で水や草や木の幹を調達して数日間過ごした体験談を聞く。四国の山岳地帯は日本でも有数の山伏が活動した地域だが、山伏も山川草木悉皆仏性を祈りつつ自然の生き物との共存共生を図ってきたのだろう。民俗学者柳田国男の指摘に武士は「伏し」であり、山武士=山伏し、野武士=野伏しも同様との解説があったが、山伏の生活も参考にすべきかもしれない。同氏は最近特に救難活動に力を入れており、今回も県警の山岳救助隊のチーフ(名前を失念)から緊急時の心覚えにつき貴重なる説明があった。記憶に残っている事項を記す。 
1)人は水のみで最低三日間、条件さえ良ければ一週間は生存可能であるから、必ず助かると信じて救助を待つこと。
 迷った時は動かず、又は元来た道に引き返すこと。 見通しのよい尾根に出れば必ず救助される。
2)登山に当たっては緊急時を想定して、必ず行き先と日程を家人に伝えておくこと。 
 「何時・何処・誰(単独かパーティか)」が救助隊の最低限必要な情報である。
3)緊急時用に携行するもの                           
 @手鏡・・・・・ヘリコプターへの信号としては極めて有効である。       
 A白布・・・・・布を振っての信号と併せ、燃やして煙で信号する。又、怪我等の際の応急手当用としても役立つ。               
 B笛・・・・・・捜索中の救助隊への信号としては極めて有効である。      
 Cマッチ・・・・夜間は火が頼りである。山火事には注意のこと。        
 D携帯電話・・・石鎚山系ではかなり広範囲で通話可能である。
4)山のエチケット  救助中のヘリコプターへ手を振ったり、布を振ったりしないこと。ノーアンサーが 無事のサインであること。  
5)山は危険であることを認識して、決して無理をしないこと。
気多山(一二一八米) 
 面河村「気多山」といっても地元以外の人は十人中十人は知らないのではなかろうか。一度訪れた「旅人」は恐らく機会をつくって再度訪ねてみたいと思うに違いあるまい。特に歴史の興味ある「旅人」にとっては・・・・ 
 松山から国道三十三号線、御三戸から面河村に入り、通仙橋を渡って村役場のある渋草で下車する。暫く車道を歩き、最初の右への大曲を過ぎてから手入れの行き届いた杉林の道を一時間淡々と登っていく。坂瀬川が左下に見える。川に朱塗りの橋が架かっているのが川下から見えてくる。県・天然記念物「初瀬の大桂」で株回り三〇米、高さ五〇米、樹齢は一五〇〇年を超えている。初瀬とは明治期に素封家中川梅右衛門清仲(通称初次郎)の初と坂瀬川の瀬を選んで大成小学校の福田宗八教諭が命名したという。周辺に碑も多く特に翠巒閣からの眺めは良い。紅葉の季節が最高だろう。
 ここが大成記念園の入口にあたり、道を少し上がると黒木の大鳥居が立ち遙か先の山が本日の登山の目的地である気多山となる。気多山が御神体の様にも思える。この地点が海抜一〇〇〇米であり、鄙には稀の形容がピッタリと当てはまる拝殿(鮮雲殿)が建立され御神体の天柱石が鎮座している。地名は大成(おおなる)であるが、大成(たいせい)神宮と呼ばれている。名誉総裁が伏見博明氏(元皇族)とくると胡散臭くなるのだが、清和源氏の流れを汲む中川主膳正直清公の十三世長岡悟氏(天真会会長・南高井病院長)がスポンサーの様だ。平家の落武者ならぬ源氏の落武者の伝承である。
 町村合併ブームで歴史を全く無視した市町村が新たに誕生しているが、面河(おもご)村も明治二十二(一八八九)年に杣野村と大味川村が合併し杣川村になり、昭和九(一九三四)年に名勝面河渓に因んで面河村に改名した経緯がある。ここから車で一時間にて石鎚登山基地である土小屋(一四九二米)に達する。この一帯は江戸時代北番村と呼ばれたが、天正一三(一五八五)年の秀吉の四国征服による大除城開城後、大野山城守直昌配下の牢人中松室美濃・名本左近・黒川久太郎が大成に居住した〔能大代家城主大野家由来〕が、主膳正直清公の居住については不詳である。また大成城についても「伊予の古城跡(長山源雄編集・伊予史談会発行)」にも記載がない。歴史のロマンとして、大成学舎跡、九曜堂、淡路神社、露口堂などなどの記念碑や建物が残されている。見晴らしも良く、坂瀬川渓谷、堂ケ森、五代ケ森が眺望できる。 
 ここから二〇〇段の急な階段を登り、岩間を通り雑木林を通り抜けると尾根筋に出て気多山の肩で昼食。風通しが良く食事も進む。二ノ森、石鎚山、瓶ケ森、岩黒山、筒上山といった馴染みの山々が連なって見える。気多山頂上からは下り坂を急ぐ。一部道がぬかるんで滑りやすい。やがて風穴に出てくる。冷風穴と温風穴があるが、冷風穴は真夏でも零度で缶ジュースの接待を受ける。ここでは明治三十三(一九〇〇)年から昭和七(一九三二)年迄蚕種貯蔵に利用された由。今はこの周辺がヒメホタル群生地として面河村野文化財指定を受けている。さらに下って、大成記念園「いたや」にて天真会から冷し素麺の接待を受ける。体力を回復して、午前中登った杉林の道を渋草まで一時間余り歩く。一二キロの山歩きだが、気持ちの良い一日となった。 
伊予富士(一七五六米)  
 伊予富士は平成十一年に一度登っており個人的には「懐かしい山」であり、伊予の山の中でも何回も登ってみたい初心者には恰好の山である。寒風山と向かい合った位置関係にあり、風は四季を通して強い。平成十一年八月二十八日に一度登っているので再訪と云うことになる。石鎚山同様、四国山脈の中では登山道がハッキリしており、ひとりでも安心して登れる山である。寒風山トンネル南口で下車して、桑瀬峠までの一時間と頂上下の鞍部から頂上までの往復一時間の急登では一気に汗が噴き出るが、笹原が多く気分は爽快である。鞍部での休憩時間(昼食)は、対面に見える山を寒風山と称する様に八月だが肌寒い風がひっきりなしに吹いており、雨天用のガウンを着用する。個人的にはもっとも気に入っている山である。
 帰途、西条市内から三〇分弱の加茂川上流にある「チロルの森」で休憩する。地ビール店、庭園、石窯パン、散策の森などが点在し、加茂川で水浴する子供たちも多い。                              
久万・桂ケ森(一七五六米)
 年二乃至三回程度は訪れている「四国の軽井沢」なる久万町の久万美術館の側を通過して仰西部落で下車して、雨の中を林道三キロ程歩く、と云うよりか登る。結構な急坂で一気に汗をかく。更に取り付き点から直登して稜線に出て、低い笹をかきわけかきわけして尾根伝いに頂上を目指す。登りの二時間は正直な所きつく、最後尾の遅れが目立った。苦労した割りには桂ケ森の山頂は狭く見通しも悪い。救いは雨が止んでおり、頂上から少し離れた灌木の間で昼食をとる。今回はカップラーメンを持参したが、暖をとるのには最高のインスタント食品である。同行の日野勇さんも次回からは自分も持ってくると断言したが余程私の仕種が強烈で美味しくみえたのだろうか。熱湯を魔法瓶に入れておけば、山では最高の食事だし、食後はコーヒーで仕上げをすれば疲れもふっとぶと云ったところである。ここからは「カクヘイ道」を二名小学校へと下ることになる。行程は約七・七キロ、標高差は七〇〇米である。それほどの道のりではないが、道らしい道ではないので、ひとり歩きでは道を見失う危険が大いにある。
 この桂ケ森(一二二四米)は四国八十八ケ所四四番札所菅生山大宝寺の縁起と関わりを持っている。「予陽郡郷俚諺集」や「菅生山縁起」によれば、文武天皇の大宝元年(七〇一)に豊後国の漁師明神右京(一説には左京)・隼人の兄弟が久万山中で十一面観音像を發見し。弓矢を折り柱として菅蓑をかけて草庵として安置した。これが菅生山の名のおこりであり大宝年中のこと故大宝寺とした。出来すぎの筋立てであるが、豊後・漁師・明神・隼人などの「記号」の解析が難しい。観音像を発見した所が見付嶽と云い、桂ケ森を指すらしい。山岳信仰と山伏、また瀬戸内の人的交流を象徴する話としては甚だ興味があるスト−リである。