エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第六章 西日本への旅愁
【北九州歴史旅】(平成12年庚辰)  @
三月八日(水)晴れ。 松山→門司→博多→唐津    
 道後温泉駅を朝六時五十分出発、七時三三分には松山観光港に着く。乗船手続きを了え石崎汽船のシーマックスに乗り込む。定員一五〇人超の大型快速艇で松山観光港と北九州門司港を二時間半で結ぶ。 波は穏やかで快適な船旅と思っていたが、乗船早々に女性の乗船員から沖に出ると揺れるので船酔いの薬を配ってくれる。妙な話だが船酔いの薬を飲んでから朝食のパンを食べる。三〇分も経たない内に大揺れの状態になる。前方の波浪を眺めていると気分が悪くなるとのことで、右方に点在する島々をただ何となく眺める。それにしても瀬戸内海の島々は切れることがない。一体何百の島があるのだろうか。一方左方の視界からは島々が消え失せた。伊予灘の広大な海域に入ったのだろうか。あまりに揺れるので目を閉じて体を楽にしていると、船内放送で上の関に入ると云う。一瞬そんな馬鹿なことがと思い目を開ける。左右に島が迫って来ており狭い海道(関)を船が通過しているではないか。強風と大波で瀬戸内海の中心部を横断する航路から大きく逸れて中国地方の瀬戸内海沿いに大型快速艇で走っていたことになる。上ノ関から中ノ関(山口県防府市)下ノ関(山口県下関市 )を経て門司港(福岡県門司市)に向かうのだろう。 
 強風と大波のお蔭で、飛鳥の時代の熟田津から娜大津(福岡県福岡市)に向かった神功皇后や斉明天皇の船団と同じ航路を歩んでいるのだと思うと俄然嬉しくなった。当時の船団の速度は、勿論干満によって大きく左右はされるが、日本書紀の記述から判断して一日五〇粁の目安にした様だ。五〇粁と云えば一二里半、徒歩で「一刻三里」として四刻(八時間)だから古代人から江戸時代までの時間感覚にも合致している。「熟田津」(道後温泉周辺)への行幸は「伊予風土記」逸文によれば五回であると記されている。即ち1)景行天皇、同妃 2)仲哀天皇、神功皇后 3)聖徳太子 4)舒明天皇 5)斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子である。「日本書紀」には斉明天皇一行の記述が次の様に記述されている。 
「七年(六六一)の春正月、丁酉の朔の壬寅の日(六日)、御船、西に征きて始めて海路に就す。甲辰の日(八日)、御船、大伯海に到る。時に大田姫皇女、女を産む焉。仍て是の女を名けて大伯皇女と曰す。庚戌の日(一四日)、御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊ぬ。三月、丙申の朔の庚申の日(二五日)、御船、還りて娜大津に至り・・・・(略)・・・・」 
 大伯皇女や娜大津で生まれた大津皇子の悲劇は万葉集の世界に今も生き続けているが、六日に難波津を出航して八日に大伯海(岡山県邑久郡錦浦)に着いたとすると約一〇〇粁を二日間で航行したことになる。一日概ね五〇粁の船旅である。二ヵ月近く熟田津の石湯行宮(道後温泉)に滞在して娜大津(福岡市)に向かうことになる。娜大津には三月二五日着と明示されているが、熟田津出帆は不明である。これを解く鍵は「還りて娜大津に至り・・・」の「還りて(中国沿岸)」と万葉集である。   
熟田津に船乗りせんと月待てば                          
     潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな          額田王 
 多くの学者の研究もあり、「月待てば」は大潮の夜であり干満の時刻は一三〇〇年前に遡って確かめることが可能である。文学者や歴史家は潮が東から西に流れる干潮の刻としているが自然科学者は逆に潮が西から東に流れる満潮の刻としている。一日の誤差が生じると思うが、三月の一五日頃と推察される。素人にはこの議論に入る余地はなさそうだ。夜間の航行は危険が伴うが、これを可能にしたのは伊予の古代の水軍が水先案内をしたであろうが、万が一、月が雲に隠れても対応可能な島々を位置確認の目標にしたに違いあるまい。とすれば、熟田津の北西の方角に位置する上ノ関(広島県室津)が最初の寄港地となろう。娜大津(福岡・博多)二五日着から五〇粁を目安に港(津)を絞っていくと、二四日福間、二三日芦屋、二二日洞海、二一日下ノ関、二〇日宇部、一九日中ノ関、一八日下松、一七日上ノ関(室津)となり、「日本書紀」の記述と大筋では一致することになる。いろいろと古代に思いを馳せていると、この度の北九州への夫婦旅は、熟田津から娜大津への旅かと思うと俄然楽しくなってきた。門司港へは一〇分ほど延着し一〇時三〇分過ぎに下船する。               
  唐津即ち唐ノ津であり、福岡市(娜大津)からは玄界灘の広々とした海洋と島々を車窓から眺めながらの一時間半の旅であった。海の向こうは朝鮮半島であり、古代から大陸を意識し、緊張感をもって対応してきたこの地域独特の風土・文化に短時間であっても触れてみたい気持ちが湧いて来だした。
 JR唐津駅南口を出ると、場違いの感じもするが瀟洒な近代図書館が右手にどんと鎮座している。市内を流れる町田川に沿い二つ目の橋を右折するとお茶碗窯通りに出る。幾つもの窯元が点在しているのだが、江戸時代の藩御用だった中里太郎右衛門陶房に入る。さほど庭は広くはないが凛とした雰囲気がある梅の香と池と砂利道と通る。入り口手前に第一一代天裕制作の達磨像が、これぞ唐津焼と言いたげにどんと座っている。厳しい目つきをしているが、これが却って滑稽にも見え心を和ませてくれる。案内を乞い、古唐津の作品と「叩き」技法を再興させた第一二代無庵、第一三代当主、第一四代忠寛の作品が陳列されている展示室に入る。華麗ではない渋みのある茶系統の陶器である。産業として定着するのは、九州ではもとより日本全体がそうであるように、秀吉の時代の文禄・慶長の役(一五九二・一五九七)により朝鮮からの陶工たちによりもたらされた技法によると思われる。茶道の世界に「一井戸 二楽 三唐津」と云うことばがあるが、唐津の本流は「叩き」であり「ろくろ」技法とは本質的に異なるものらしい。素人目には「叩き」の方が原初的と思えるが、大胆な推 理をすれば朝鮮との抗争以前に「海賊」集団である松浦党や山田長政に代表される先取的な貿易集団の活動により東アジア(アユタイなど)の陶器や技術が輸入されていたのではあるまいか。この様な素人発言を聞いたら「高麗陶器」の元祖を自認する唐津の陶工から袋「叩き」にあうのは必定だろう。只ひとりの例外である一三代人間国宝・中里太郎右衛門氏を除いては。同氏の「叩き」の源流を求めるアジアの旅のビデオを見て感動する
 市内の西ノ門館には出土文化財管理センターの展示場があり五世紀以降の土師器からの系譜が示されているが、一七世紀以降が主流である。駅北口の曳山像を眺めて唐津神社、曳山展示場、西ノ門館、時の太鼓から舞鶴公園・唐津城を見て回る。         
 唐津の全国版は「唐津焼」と「唐津くんち」だろう。曳山を展示場でみても祭りの興奮は伝わってこないのだが、岸和田の「だんじり」を連想しながら一四台の曳山を眺める。獅子、鯛、兜、船方などの形があり、魚屋町の鯛のデフォルメされた愛くるしい目や口元に町方の鯛に寄せる親しみの強さを感じる。「唐津くんち」は唐津の土産神である唐津明神社の秋祭り行事であり、神社は天平勝宝七年(七五五)の創建で住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と当地の豪族神田宗次を祭る。海洋の神である。ところで、陸奥では青森の「ねぶた」と弘前の「ねぷた」が紛らわしいが、「唐津くんち」と「長崎くんち(おくんち)」も紛らわしい。「くんち」は「くにち(九日)」だから九月九日(重陽の日)との意味合いが深いと思うのだが、唐津くんちは一一月二日(宵山)、三日(神幸祭)、四日(翌日祭)であり、長崎くんちは一ヵ月遅れの一〇月七日から九日がメインとなる。今日では祭りを意味する観光語に堕しているのかもしれない。  唐津城は平山城で昭和四一年(一九六六)の再建だが、松浦川、唐津湾、虹ノ松原、鏡山の眺望は海の出城としては見事である。瓦に 三階菱が刻まれており我が家の家紋と同じで一瞬驚いたが、唐津の最後の藩主は小笠原家であり納得した。 
 伊予三好氏は阿波三好氏の流れであり、阿波三好氏の中で最も著名な武将は三好長慶利長である。細川家の地頭として小笠原氏が阿波国三好郷に定住するが、小笠原義長が三好を名乗り、長之−−之長−−長秀−−元長と続き長慶に至る。今まで三階菱は三好の三に関連するかと理解していたが、小笠原氏の家紋と知り疑問が氷解した。唐津藩は寺沢(五二年)・大久保(二九年)・松平(一三年)・土井(七一年)・水野(五五年)・小笠原(五二年)と譜代大名の交代が多かったが、外様大名の多い九州の戦略拠点としての布石であったのではないか。 宿泊は日本三大松原(美保の松原・天の橋立)の一つである虹の松原近くの唐津ロイヤルホテル。建物はリゾートホテルとしては水準以上で窓からの景色も申し分なかった。特に料理の味が薄口で、舌に味の余韻も残り、アンケートでは満点の評価をしておいた。妻と機会があれば再度訪れたい保養地と云えよう。                                            
三月九日(木)晴れ。 唐津→佐賀→柳川  
 翌朝は舞鶴橋、城内橋、三の丸辰己櫓、肥後橋を通りJR唐津駅に出る。八時五八分発唐津線にて佐賀駅に一〇時〇九分着く。佐賀は父が旧制佐賀高等学校の学生として青春を送った町である。一度訪ねたことはあるが御城下(旧市内)は広くないのでサイクリングで一巡する。旧長崎街道沿いに移築、復元、修理された佐賀市歴史民俗館(旧古賀銀行・旧古賀家・旧牛島家)から大隈重信旧宅、鯱の門(佐賀城跡)、佐嘉神社・松原神社を一巡する。明治の佐賀の雰囲気は司馬遼太郎の「歳月」に譲ろう。明治七年(一八七四)二月佐賀の乱が起こるべくして起こり江藤新平、島義勇が断罪となるが、時の佐賀県令は内務卿大久保利通の武断派側近岩村高俊でありその後初代愛媛県令に任ぜられる。岩村高俊は愛媛県では自由民権の理解者として極めて評価が高いのは歴史の皮肉か、或いは政治という魔物の二面性かもしれない。     
 一二時三〇分発西鉄柳川行きの昭和バスに駅前バスセンターから飛び乗り、小一時間で立花藩の御城下町・柳川に着く。  西鉄柳川駅から徒歩五分の距離に広大な神域を持つ三柱神社がある。三柱とは、立花鑑連、宗茂、宗茂室で、そのほか鑑通、鑑寿、鑑賢らの歴代藩主を祭っている。神池も広く公園になっており地元も敬愛も厚いのであろう。入り口の中華レストラン「桃園」で昼食。 明治末期に料亭懐月楼として建てられ、その後料亭松月となった「松月文人館」で北原白秋や柳川を愛した文人達(吉井勇、与謝野鉄幹、木下杢太郎、平野万里、野田宇太郎、劉寒吉ら)の色紙や写真の展示を眺める。劉寒吉は当地では著名な作家の様だが残念ながら始めて聞く名前である。「松月文人館」から乗船し、一時間一〇分の川下りでゆったりとした時間の経過を楽しむ。車の騒音が全く聞こえないのは現代の奇跡かもしれない。三月は「さげもん雛祭り」行事で柳川の観光客が多い。 
 下船後、北原白秋生家に立ち寄り、藩主の遊息の地であった「御花」に向かう。瀟洒な洋館と和風の建物は旧華族の象徴か。国指定名勝である庭園松涛園で寛ぐ。大広間に飾ってある雛人形と「さげもん」は絢爛豪華である。「さげもん」は柳川独特かどうかは分からないが、女の子の誕生を祝い手作りの人形や小間物を贈る風習の様だ。川辺にもお飾りが出されており、説明によると三月一杯お飾りをして四月になって川流しをするとか。  御花から遊歩道や川沿いを歩いて、柳川城址、田中吉政公銅、柳川古文書館を眺め、新町通りの「ニュー白柳荘」に向かう。庭園は広く閑静な宿屋である。隣地の一〇〇〇坪程の敷地にはトラックターが入っており、仲居の話だとマンションが建設されるとか。六〇代の夫婦が土地を処分して熟年クラス中心の住宅地に転居とか。子供はいるのだが帰郷しないとのことで、なんだか境遇も似ており身につまされる話であった。夕食には名物の鰻のせいろ蒸しも出ており、まずまずの料理といえよう。宿泊客は少なく三度入浴したが、まさに借り切りであった。
三月十日(金)晴れ。 柳川→太宰府→博多      
 西鉄柳川駅を九時出発し西鉄二日市駅で乗換え西鉄太宰府には十時過ぎに到着する。観光案内所で太宰府の地図を手に入れ、梅が満開の太宰府天満宮を参拝する。本殿裏手最奥のお石茶屋を覗き、不老栄屋の床几に腰を下ろし、名物梅ケ枝餅と野点風コーヒーで道真を偲ぶ。幼稚園児の遠足多し。 
 南に下って光明禅寺を訪れる。石を配した「光」の字を描く石庭を見て玄関を入る。禅寺らしく飾りひとつない空間が広がる。京都の名刹で感じる宗教的雰囲気である。本堂の奥庭には苔と白砂で陸と大海を表現し秋には見事な彩る楓の樹林が広がる。廊下に座って暫く瞑想する。奥に渡ると茶室がある。いかにも禅寺に相応しい数百年は経過している茶室である。壁には「生死事大無常迅速光陰可惜時不人待」なる書が掛かっている。方丈の妻女らしき婦人に茶室の感慨を伝えると、実は金閣寺が放火により焼失した時の廃材を活用して造りましたと淡々と答えて頂く。寺内の古い土器もここで発掘されたとのこと。  金閣寺との御因縁はと聞こうとしたがなんとなく聞きそびれた。寺を出るときに改めて掲示を確認すると「神護山光明禅寺」とあり、「菅家出生鉄牛円心創建臨済宗天満宮結縁寺」とあった。天神様と禅宗の教えが結びついた渡宋(唐)天神の伝承により鎌倉時代に創建された名刹であることを始めて知った。因みに金閣寺(鹿苑寺)は夢窓の創設で臨済宗相国寺派であり、九州の地で金閣寺の残姿を見ようとは幸運な出会いであった。寺から駅に下る途中で「不老」な る表札を見かける。先程の茶店は「不老栄屋」、なんとなく因縁を感じた。 御笠川を渡って五条を通過し、観世音寺、戒壇院、大宰府学院跡、都府楼跡なる平安時代の大宰府政庁跡を巡る。昼食休憩後、筑前国分寺跡、水城跡まで足を延ばし、四時過ぎ西鉄都府楼跡から博多に向かう。JR博多駅近くのホテル日航福岡でチェックインし、小休憩を取って博多の繁華街に出掛ける。   
 今回の旅行で妻の希望の一つは博多の夜の散策であった。博多は始めてで、これまでの旅行では雲仙、阿蘇、湯布院、別府、国東半島、宇佐、耶馬渓といった観光地中心であり博多が神戸・大阪に匹敵する街とは想像もしていなかったらしい。 幸い天気は良く暖かくもあったので十七時過ぎにホテルを出た。博多の町の鎮守府でもある櫛田神社前に最近出来た「博多町家・ふるさと館」に入って十八時閉館迄ダイジェスト的に博多の理解に努める。特に博多祇園山笠のドキュメンタリー映像が迫力があった。中洲新橋手前から左折して「キャナルシティ博多」に向かう。ホテル、劇場、映画館、ショップ、飲食店が集積し、若者の熱気に圧倒される。二十一世紀の町なのだろうが、この場所が鐘紡の博多工場の跡であることを知る人は殆どいないのではないだろうか。博多工場の閉鎖は昭和三十五年(一九六〇)当時だと記憶しているが、その後ボーリング場やゴルフ練習場として鐘紡不動産が活用し、やがて・・・・である。昭和四〇年(一九六五)頃博多サービス店閉鎖、中津工場閉鎖、鐘紡不動産福岡事業場閉鎖と相次ぐ合理化の中で労働組合と一緒に配転者の事情聴取が続いたのだ が、人事部の担当者として人員整理を強行しただけにあまり良い印象はない。「キャナルシティ博多」は未来からの幻想なのか、単なる消費の為のハードなのか、戸惑いながら館内を見て回った。再び地上の人となって上川端商店街を昭和通りに向かって歩き、福博であい橋を渡って旧県公会堂貴賓館、天神中央公園、市赤煉瓦文化会館を経て昭和通りの屋台群を見て歩く。ガイドブックから「小金ちゃん」を第一候補にしていたのだが探せども見つからずで途方に暮れる。一体どの屋台がよいのか見当がつかない。ホテルアセント福岡の対面にある「雲仙」に飛び込む。夫婦と息子とでやっている屋台で、取り敢えず熱燗二杯とおでんを注文する。妻は屋台が始めてであり、いささか緊張気味である。餃子が当店自慢らしく他の客同様に注文し最後にラーメンを食べる。五〇〇〇円でお釣りがきたので妻としては驚きであったらしい。両隣ともにサラリーマンで職場や家庭の愚痴話が多い。博多城山ホテル前の「スベンスカ」でケーキを求め二階の喫茶室でコーヒーを飲む。帰途も上川端商店街を通りホテル迄歩く。気分の良い夜のデイトであり、昨年晩秋のスペインはバルセロナでの夜の散策を思い出した。ホ テルはテーブル&椅子と併せ事務用デスクも備えつけられており、ワンランク上の居室を用意してくれたらしい。二晩とも和室であり、今宵はホテルの雰囲気を満喫する。   
三月十一日(土)雨。 博多→小倉→門司→松山  
 天気予報通りに雨となる。八時五〇分発の西鉄市内観光バス「博多の街コースA」に乗車する。福岡市博物館、櫛田神社、元寇史料館、筥崎宮を巡る三時間三五分の観光である。博物館の目玉は勿論「漢委奴国王印」、櫛田神社は博多節分(二月)・博多どんたく(五月)・博多祇園山笠(七月)・博多おくんち(一〇月)の紹介、元寇史料館は時代錯誤的な展示、筥崎宮は那ノ津を連想することが絶対不可能であることを明快にする歴史的破壊?と云ったところであろうか。駅弁を求め、JR博多駅発一二時一三分発快速で小倉に向かう。小倉も雨が降り続く。小倉城庭園、小倉城、松本清張記念館を見学する。小倉は一度しか来ていない街である。唐津街道、長崎街道、中津街道と交通の要所であり群雄割拠の時代を経て関が原合戦以降細川忠興が小倉城を築城、熊本転封後は譜代大名の小笠原忠真が入国し九州諸大名監視の役割を担うことになる。幕末まで小笠原の治世が一〇代にわたり続く。雨の休日ではあったが、アーケード街は買い物客が多く松山に比べて遙かに活気を感じた。印象に残るのは松本清張記念館内の書斎再現展示で、書籍量に圧倒される。覗き趣味で云うと、司馬 遼太郎の書庫も見てみたいものである。個人的には小倉祇園祭りと「無法松の一生」だが既に過去のものとなっていることを実感した。ちょっと寂しい気持ちではある。    
 一七時二六分に小倉駅を発ち一七時四〇分にJR門司港に着く。定刻一八時に出航したが、往路と違い波静かな瀬戸内海の航海となる。夕食は小倉のそごうで求めた寿司とビールで満腹となる。松山観光港からは伊予鉄バスが待機しており、九時半に帰宅する。娜大津(福岡・博多)の歴史的な興奮を求めたが、博物館でしか歴史に触れることができない現実に直面した。造られた或いは創られた歴史は虚構であり幻想である。我がロマンである熟田津もまた同様なのであろうか。 
妻との三泊四日の「ちょっといい旅」であったが、今回も歩きとサイクリング中心で、ゴージャスな旅とは無縁であった。   
【長崎は今日も雪だった 過去・現在・未来の交錯】(平成16年甲申)  A    
一月二十二日(木)曇り、雪
 【JASエンジントラブルで欠航】    
 「松山空港から一飛びで福岡空港へ・・・」と記述する予定であったが、そう簡単には事は運ばなかった。今回の九州小旅行は二ヵ月前にJASの超割(松山・福岡間料金七千五百円)を購入していたが、二十日過ぎから寒波の大襲来で日本全土が冷蔵庫に入った様な今年一番の寒さとなり、特に日本海側と九州北部一帯は大雪に見舞われた。更に一月十九日にはJASが採用しているMD81型機と87型機のエンジンに不具合が発生し緊急に全機に対し整備点検を実施することになった。ほぼ全機のエンジンの同一箇所に亀裂が生じていることが判明し、当分の間相当数の旅客機の就航が不能になり欠航が続く恐れが出てきた。テロによる旅客機事故は人為的で予知も可能だが、エンジン事故は完璧に修理が完了しない限り、突発的にエンジンが停止し飛行機もろとも一巻の終わりとなるのは必定である。二十一日夜八時、JAS松山支店から出発予定日の八七〇便欠航の連絡が入る。危惧していたのだが、万事休すである。  
 急遽松山観光港から小倉港行き「シーマックス」に切替えることにして石崎汽船に予約をいれると一月中は船体定期ドッグ入りでこれまた欠航である。いささか慌てる。次ぎなる手段で広島行き「スーパージェット」を予約したが、天気予報で明朝の大雪警報を流しているので、広島からのJRの運行が心配であるが運を天に任す外はない.。
 早朝六時三〇分道後温泉駅から松山市駅経由で松山観光港に向かい、八時発の石崎汽船の「スーパージェット」で呉港に着く。広島電鉄でJR広島駅に直行し、一〇時十六分発「ひかり三三三号」に乗車し十一時四十五分過ぎに雪の博多駅に到着する。JR九州線は積雪の為、各列車とも一時間から二時間の延着である。十二時〇二分発の「かもめ十七号」で長崎に向かう予定であるが、十一時〇二分発の「かもめ十三号」すら入線していない。南国に雪は禁物である。プラットフォームで待つこと一時間で、「かもめ十三号」が二時間遅れの十二時五十分に発車し、午後十五時に小雪ぱらつく長崎駅に到着する。JAS利用の場合は十四時到着の予定だったので、ともかく危機管理でトラブルを乗り切ったことになる。「窮すれば通ず」ということわざがあるが、「時刻表」という情報システムを熟知しておれば対応は可能だ。  
【和蘭商館跡】   
 ところで、一難去って又一難である。雪避けにフードつけたので視野が狭くなったのかチェックイン予定のサンルート長崎を通り過ぎ、大波止ターミナルと出島ワープに出てしまった。中島川沿いの和蘭商館跡と出島史料館を探してあぐねて、女子学生に訊ねてもはっきりしない。 今回の長崎訪問の目玉にしており、江戸時代の和蘭商館への個人的な思い込みが強く期待していたのだが、実物はいかにもつくりものの感じで大いに失望する。翌日観光したハウステンボスの出島のセットの方が作り物としては遙かに良く出来ている。古き歴史を持つヨーロッパの観光客が長崎を訪ね、此処の和蘭商館跡に立ち寄ったらどのような感慨をもつだろうか。一昨年ハンザ同盟に興味があるのでフィンランドのベルゲンを訪ねたが、もしベルゲンのハンザ跡が和蘭商館跡の施設であったら馬鹿にするなと唾を吐いたかもしれない。非常に寂しい気持ちになって電車で大浦天主堂下停留所に向かった。   
【市内電車】 
 長崎電気軌道鰍フ市内電車は今回が初めての乗車である。四系統(@赤迫・正覚寺下 A赤迫・蛍茶屋 B正覚寺下・蛍茶屋 C石橋・蛍茶屋)で丸一日居れば概ね頭に入るし市内の観光スポットはこれで網羅している。何より有難いのは運賃が一〇〇円であり、繁華街入り口の築町では乗り継ぎが出来るので感激する。一日乗車券五〇〇円を求めるつもであったが、当日は大浦天主堂、グラバー園、新地中華街、翌朝は平和公園と原爆落下中心地を観光して合計四〇〇円であった。乗車賃一〇〇円の設定は、長崎市内の意外に狭い坂道では車は却って不便だという地理的要因も強いと思うが、市内電車の椅子席は常時満 席の繁盛ぶりには驚いた。 
 松山市の伊予鉄道の電車は一回一五〇円で一日乗車券は三〇〇円であるが、長崎流の運賃システムの方が売上増に結びつくのではあるまいか。JR松山駅から市内電車、ロープウエイ、松山城見学で合計一三〇〇円は観光客には高すぎる。「坂の上の雲」散策一日観光を二〇〇〇円迄で抑え込むプランを考えたいものである。 
【グラバー園】   
 数回訪問しているのだが、動く歩道が完備し、車椅子での園内散策コースは充実している。老人、障害者に優しい施設であるというのが第一印象である。旧三菱第二ドックハウス、旧長崎高商表門詰所、旧ウォーカー住宅、旧長崎地方裁判所長官舎、旧リンガー住宅、旧オルト住宅、旧スチイル記念学校、旧リンガー住宅、旧自由亭、旧グラバー住宅から長崎伝統芸術館を二時間ほどかけて回る。全国には明治村をはじめ数多くの建物陳列施設はあるが、明治維新から明治初期に長崎居留地に住んだ人々の生活の匂いを感じることが出来る素晴らしいトポスである。以前はグラバー邸と呼んでいたのをグラバー住宅に変更したのは理由があるのだろうか。「住宅」よりは「邸宅」の方が相応しい建物群である。 
高台から長崎湾を展望しつつ、江戸時代を通じての出島やオペラ「蝶々夫人」や坂本竜馬の「海援隊」や明治・大正・昭和初期の三菱造船の威容を想像する。まさに「坂の下の海」こそ文明開化の象徴に他ならない。キリンビールのモチーフはグラバー旧住宅の温室の傍に座っている狛犬で、髭はグラバー自身の髭がモデルであると紹介している。キリンビールの前身「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」の創立者の一人がグラバーだけに逸話としては面白い。
【長崎燈會】  
夕暮れにグラバー園を去り、大浦天主堂を入口から礼拝する。商売熱心で入園料を取るのは如何なものか。これではキリスト教の信者は日本では増えまい。日本キリスト教の最大の悪弊というか悲劇は、明治以降の布教に当たり知識人、富裕層を対象にしたことだろう。戦国末期のポルトガルのザビエル以下の伝教師たちも戦国大名に取り入り勢力を伸長させ、大名と共に滅んだ。隠れキリシタンとして生き延びたのは貧困層であったが、その教訓を明治に入って生かせなかったのは何故か。(注)浦上天主堂は入場無料である。 
 正田美智子さんの天皇家へのお輿入れは、ローマ法王による洗礼取消によって実現したのは知る人ぞ知る秘密であるが、天照大神の末裔である天皇家から受礼者が出ないという保証はあるのだろうか。昭和天皇がアメリカの占領下時代にキリスト教への改宗を真剣に考えたことも公然の秘密であるが、庶民のキリスト教への漠然とした嫌悪感は一神教への直観的な嫌悪感なのだろうか。 
 長崎は「日本の中の異国」でありキリスト教特にカトリック教会が多いが、一月二十二日の今宵は旧正月であり中国色一色に染まる長崎燈會の初日である。大浦天主堂から活水女子大脇のオランダ坂を下ると新地中華街に出る。夕六時から湊公園でランタン(提灯)が一斉に点灯された。湊公園会場のほかに中央公園、唐人屋敷、鍛冶市、鉄橋、興福寺会場でも同様のイベントが開かれるとガイドに記載されている。竜踊りや中国獅子舞は日本の伝統踊りよりもショウ的で、銀世界の会場は一気に異国ムードが高まった。唐人屋敷通りをぶらつき、中華街では町行く人に味自慢の店を訊ね「京華園」で長崎タンメンと皿うどんを注文する。「サンルート長崎」で宿泊する。
(注)「福」の飾りを逆さまに飾っている。「福」の逆さま(倒)と同音の(到)は来るの意味であり「招福」を表現している。漢字の国だけのことはある。
一月二十三日(金)曇り   
 【長崎・原爆投下】  
 長崎の平和公園は三度目である。松山町の電停のすぐ近くにある。雪の舞う厳しい寒さの中で巨大な平和記念像に額ずく。記念像は北村西望の作である。この場所は元は刑務所であり受刑者は職員共々一瞬にその生命を失った。昭和二十年八月六日、ポツダム宣言を受諾し戦争が終結した八月十五日を遡ること九日前のことである。観光客があまり訪れない平和公園のすぐ近くにある原爆公園の方が印象深い。  その一つは浦上天主堂で僅かに残った塔の一部である。天主堂は昭和三十四年に再建されており貴重な記念塔ではあるまいか。もう一つはバーチャルな空間であるが、原爆投下の真下から数百米上空を仰ぎ見て爆発の閃光を心眼を開いて見ることである。アメリカは原爆投下を勝利者の正義の名に於いて正当化した。 
 戦争を知らない子よ、決してこれを正義だと信じてはならない。戦争には正義はないのだ。ベトナム戦争はケネディ大統領の決断であるが、ケネディは現代の神話として生き続けている。イランへの正義の侵略も同様に生き続け、アメリカが覇権国である限り肯定されよう。正義とは所詮バーチャルな概念でしかないのだろうか。今日テロは否定されるがフランス大革命もソヴィエト革命も中国の抗日戦線もレジスタンスというテロ(ゲリラ)活動により成就されたことを忘れてはなるまい。  
【ハウステンボス】 
 ポルセレインミュージアムやシーボルト出島蘭館、カロヨンシンフォニカ、ホライゾンアドベンチャー、ミステリアスエッシャーは十年一日の如く何も変わっていない。マリーンターミナルは無人の港である。高度成長からバブルが崩壊し活力を失った日本そのものを象徴している様だ。裸になった日本・・・そうだ。「ハウスノンボス」の視点で此処を眺めるとなかなか面白い。つまらないと言いながらも十九時四十分から始まった葉加瀬太郎プロデュースの「フォーシーズンズ イン ザ スカイ」ファイナルショーを楽しんで、園外に在る一泊朝食付き一万円の「チューリップホテル」に宿泊する。年金生活者には手頃なホテルではある。                 
一月二十四日(土)曇り、雪       
【オペラ座の怪人】    
 翌朝JRハウステンボスから早岐(はいき)に出て、みどり八号で博多駅に定刻十一時に着く。福岡は雪で時折強い風が吹いている。福岡空港から松山空港行きのJASは危惧していた様に欠航である。キャナルシティ博多(北極エリア)のシアタービルの福岡シティ劇場に急ぐ。此処はかつての鐘紡の博多工場の跡地である。本社の人事課長当時、博多工場跡地は鐘紡不動産と鐘紡ホリデイの管理下にあり、年一度は事情聴取で労働組合の幹部と一緒に出掛けていた。日本最大の企業であったカネボウの跡地を活用したのは日本最大の流通産業のダイエー、そしてダイエーの解体、野村証券グループの野村プリンシパル・ファイナンスによる再生・・・「平家物語」ではないが「盛者必衰の理」のサイクルは永遠の真理である。現在福岡シティ劇場は浅利慶太氏が主催する劇団四季の常設劇場である。今回上演中の「オペラ座の怪人」は超ロングランのミュージカルであるが、私ども夫婦には特別の思いがある。大阪上本町の近鉄劇場で上演していたのは丁度九年前で、一月十七日の神戸淡路大震災で神戸の自宅が全壊し鶴橋に疎開していた時期であった。「オペラ座の怪人」は罹災者にと っては地震そのものが「地球の怪人」であった。   
 一九一一年パリオペラ座で劇場に縁のある品々がオークションに掛けられている。ラウル子爵がペルシャ風の服を着た猿のオルゴールを落札する。三〇年前の「歌劇ハンニバル」や「ドン・ファンの勝利」のリハーサルと上演時のあの事件を思い出すラルウの「ア・コレクターズ・ピース」の歌から始まる。              コ−ラスガ−ルのクリスティ−ヌとオペラ座の新しいスポンサーで幼なじみのラウル子爵と正体不明の「オペラ座の怪人」ファントムを軸にドラマが進展する。怪人ファントムはクリスティ−ヌを愛するが、彼女はラウルの元に走る。やがて・・・ 
 男の純愛は「ノートルダムの傴僂男」や「美女と野獣」の世界だし「シラノ ド ベルジュラック」の世界であるかもしれない。リアルの世界を忘れた三時間のミュージカルの世界が終わった。劇場を後にする頃には天候も回復し、博多駅発十六時三十五分発「ひかり三七二号」で広島駅に向かう。呉港駅には出航一分前に到着し、必死に桟橋を走って「スーパージェット」に跳び乗る。松山観光港に十九時四〇分に着く。二十一時には帰宅したので博多・松山四時間半の旅である。   
 長崎・博多への小旅行では、過去と現在と未来が交錯し、オランダ、中国、アメリカ文化(ミュージカル)が微妙に入り交じった「場」と「時」を過ごすこととなった。「般若波羅密多心経」が説く「空不異色 色不異空 色即是空 空即是色 受想行識 復如是」の世界に外ならなかった。                            
(注)経文の現代語訳を示す。(岩波文庫版「般若心経 金剛般若経」より)   
この世においては、物質的現象には実態がないのであり、実態がないからこそ、物質的現象であり得るのである。  
実体がないといっても、それは物質的現象を離れていない。また物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象があるのではない。 
このようにして、およそ物質的現象というものは、すべて実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識もすべて実体がないのである。