エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第五章 東日本への旅愁
みちのく旅(平成九年丁丑) @
妻との「ちょっといい旅」は、「みちのく」に向かう。
平成九年七月五日のことである。東海道新幹線と違い東北新幹線の混雑を予想できず、早起きして六時に東京駅に到着したが、残念ながら「こまち十一号」は超満員で、一列車遅らして八時発の「こまち一号」に変更する。実はこの一列車遅れが、旅程を大幅に狂わすことになるなど、東京駅では知る由もなかった。  
仙台駅近くで列車の車内放送があり、集中豪雨の為、田沢湖線が不通になり代行バスで田沢湖駅までは運び、そこから秋田駅までは新幹線が動いているとのことである。新幹線仙台駅の待合所には、随分多くの乗客が駅員の指示を待っていたが、「こまち十一号」の乗客の姿が見えないので、一時間前までは列車は動いていたのかもしれない。小一時間待たされたが、代行バスは順調に北上山脈を越えて田沢湖駅に着き、列車に乗り換えて目的地角館には、当初の予定から二時間遅れで到着する。
秋田杉の香りが充満している案内所で、パンフレットとビデオで観光スポットを下調べして、駅前大通りを直進し、郵便局を右折した所でやっと角館らしい町の雰囲気になってきた。小田野家、河原田家を見学中に、自称ブランティアの中島諭さん(元角館小学校校長、田沢湖中学校校長)に出会う。約四時間、詳しい説明を受けながら、角館の歴史的建物群(岩橋家−−角館町伝承館−−石黒家−−旧制角館中学校跡−−平福記念美術館)を次々見て回る。
お別れに名刺を交換したが、「ブランティア」には恐れ入った。 
 
 角館歴史散歩ブランティア  
みちのくの小京都角館へようこそおいでくださいました。  
○伝統的建造物郡保存地区〔昭和五十一年第一回指定〕              (日本一広い武家屋敷群跡)   
○特別天然記念物 枝垂桜  一五二本     
○国指定名勝「そめいよしの」の二q四〇〇本    
○重要伝統産業品 桜皮組工 二〇〇万以上   
○解体新書(一七七四年)の解剖図を描いた小野田直武にはじまる秋田蘭画の伝統  (陰影法と遠近法)  
                             温故知新 百聞は一見に如かず                                               
ブランティアとはブルブラしているボランティアの略称です。 
ご家族、友人などお誘いの上。またどうぞおいでください。 
                                                中島   諭
(注)住所は割愛する。
 
角館の印象は、薬医門、秋田蘭画、樅の木、電話一番、自在鉤、馬つなぎ、桜皮細工、旧制角館中学校校歌と詩人の交流、平田穂庵・百穂、小野田直武(解体新書図)、高松宮お手植え、枝垂れ桜、旧城下町と火除け地、そして角館歴史村と青柳家の現代への迎合など、短時間にしては強烈なインパクトを受けた。         中島諭さんの学識と人柄は、旅人である私ども二人に強烈な印象を与えて頂き、小京都角館の懐かしさとなって心の奥底に沈んでいった。
タクシーで駅まで飛ばし、十七時発の普通車で田沢湖町に引き返し、花心亭しらはま館に宿泊する。花心亭しらはま館の女将は、中島校長の教え子ということもあり、女将に会うのが楽しみだったが、残念ながら全国の女将さんの集まりに出席の為不在ということで残念であった。
翌六日は快晴で、早朝五時から田沢湖畔を散策する。秋田駒ヶ岳頂上は、生憎雲に覆われて見ることはできなかったが、辺りに人の姿もなく、湖はどこまでも神秘的である。 しらはま館の料理は品数も多いし、味もまずまずで太鼓判を押すが、特に器の気配りがあり、目でもう一度料理を味わう感じである。昨夜と今朝の二回、トロン温泉に入浴する。  
田沢湖遊覧は、白浜から出航し、御座石神社を拝み、たつこ像の立つ潟尻に立ち寄る四十分コース。たつこ像には、ストックホルムの人魚像をダブらせて期待していただけに落胆する。最大深度四二三・四米の日本最深の湖だが、玉川の酸性水で魚が生息出来ないのは、クリーンな湖のイメージを損なう。                 盛岡から小岩井農場にはバスを利用し、昼過ぎ「まきば園」に着く。野外バーベギューで腹拵えし、岩手山を展望しながら広大な牧場を散策する。童心に戻り、羊と遊び、馬の水浴びを眺め、羊館でソフトクリームを嘗め、天文館では子供に混じってロケット飛ばしに挑戦し、二回とも八〇米近く飛ばして見事優勝し、「星座早見表」を貰う。
夜九時上野駅に着く。法華の太鼓とやらで天候も徐々に回復し、妻も大満足の「みちの旅」となった。       
 
角館でお世話になった中島諭さんに、早速お便りを認める。 
謹 啓 
角館から田沢湖畔の「花心亭しらはま館」(女将は残念ながら不在)に一泊致し、翌六日は快晴に恵まれ、田尻湖を一周の後、岩手に向かい、小岩井農場では童心に帰り岩手山を眺めながら半日を過ごしました。その節には、角館歴史散歩にお付き合い賜り、まことに有難うございました。夫婦ともども、深く感謝申し上げております。
仙台で田沢湖線の不通を知りましたが、盛岡駅からの代行バスで田沢湖駅まで進み列車で角館にまいりました。初めての土地に足を踏み入れ、はてどの様に歩むもうかといった東西も分からぬ不安感と孤独感は、人生の旅人の感を深くしてくれる旅の醍醐味を味わう一瞬ですが、角館駅に下車した時は、『みちのくの小京都』の印象とは全く違う舗装された大道路に戸惑いを感じました。 
駅傍の元農協の倉庫を改造された案内所に立ち寄り、秋田杉の薫りの充満した室内と、角館美人の受付嬢のにこやかな挨拶に気分もほぐれ、案内図とビデオを拝見して雨の町中に入ってまいりました。 郵便局で突き当たり右折しましたところで、城下町特有の道普請であることを知りました。私は伊予松山で高校まで過ごし、家内は更に南に下がった旧西園寺家の荘園であった宇和町の出であり、すっかり故郷に戻ったような気分になっておりました。
火除地を通り、最初に出合いました武家屋敷で、幸運にも中島先生にお会いでき、わりやすい中にも学識の溢れたお話にすっかり聞きほれ、江戸時代の佐竹藩の話題と武家屋敷群の御説明に夫婦ともども『不思議な国』に迷い込んだ次第です。この上ない贅沢なご案内人の先導で『未知の奥の小京都』を旅させていただきました。目下のところは残念ながら未消化でありますが、心の底に沈んだ感激と感動と感銘を反芻しながら、私どもなりの『みちのく小京都角館』のイメージを創ってまいります。 
華やか枝垂れ桜の浮かれも良いのでしょうが、迫り来る厳冬を前にした紅葉の彩りと、数百年を経た武家屋敷のつかのまの落ち着きを是非見たいものよと思っております。中学の先輩である虚子の句を真似れば、『今日よりは 樅の巨木の 懐かしき』であります。 
ますますの御健勝と御多幸をお祈り申しますとともに、角館を訪れる旅人に、真実の角館の歴史、武家屋敷の素顔、伝統工芸品の復活、秋田蘭画と解体新書のロマン、旧制角館中学校歌をめぐる華麗な友情、そして枝垂れ桜と小野小町−−−−−−−を語り継いで戴くようお願い申し上げる次第です。天の邪鬼発想としては、江戸期の町人層と庄屋・農民層の歴史と生活がどこかに残っているのかなと思いました。
私どものささやかな感謝の気持ちとして粗品を同封させていただきましたので、御笑納下さいませ。併せて、勤務しております会社の昔ながらの漢方薬を使用いたしました「葛根湯」(初期感冒用)と「ワカ末」(下痢止め)をPRさせていただきました。およろしかったら御試用くださいませ。 
まことに、まことに有難うございました。 家内からも、お宜しく申してあげております。 先ずは御礼とご挨拶迄。  敬 具
    平成九年七月七日   
                                              三  好  恭  治 
      中  島  諭  様   
 数日をおいて、中島諭さんから丁重な返事を戴く。                 
広長威彦氏が描いた角館町伝承館の絵葉書で【伝承館通り ■木立から見え隠れする伝承館。その自然との見事な調和】の説明があり
 間もなく暑い盛りを時期に、いくらかでも涼しい感じの、冬の角館の風景を紹介します。                                   
 と一筆書き加えてある。本文には、人の縁を感じさせる文章が綴られている。
梅雨の晴れ間ですが、九州では水害、その前、関東はカンカン照りと、異常な天気が続いています。                                     この度は、身勝手な案内を申し出て、かえってご迷惑だったと思いますが、それにもかかわらず、ご丁寧な礼状と心こもる贈り物をいただき恐縮しております。   ほんとうにありがとうございました。  
それにつけても不思議な縁で、娘が豊中にいた時、神戸で大震災にあわれた由。それに今おすまいの北砂は、家内の親友が南砂におり、娘は習志野と、何かと近い所におられます。それに、松山は退職後一番最初に訪れたところです。 
御奥様にもおよろしくお伝えください。  
      三 好 恭 治 様  
             奥  様    
                                            中 島    諭  
数日経って、花心亭しらはま館の女将からのハガキが届いた。
この度は、当しらはま館をご利用いただきまして誠にありがとうございました。  快適にお過ごしいただけましたでしょうか。
今後とも皆様に心からおくつろぎいただける日本の宿として、よりよいサービスの向上とおもてなしに努力いたす覚悟でございます。またのご清遊を心からお待ち申し上げます。 
貴重な御意見ありがとうございました。是非秋からのキリタンポ鍋を召し上がりにいらして下さいませ。     女将
冬の角館に出掛けることは出来なかったが、来年春には横手・角館・弘前の桜見物の計画を立てて、早々に旅館の手配を完了した。ご縁があったら、お会いできるのであろうか.。
「みちのく旅」に心を駆り立てる衝動は強いものがあるが、今年は特に「みちのく」との出会いが幾つもあった。 
七月十八日に「みちのくトーク・セッション」が有楽町朝日ホールで開催された。テーマは「東北の文化の深層−−−みちのくの魅力とあたらしい旅」で、基調講演は宗教学者の山折哲雄氏の「日本の深層としての東北」で、私にとっての「未知の奥」の知的関心が噴き上がってきた。私自身の、これから挑戦しようとする「みちのく旅」の視座は、まさに山折哲雄氏の世界であり、続いてのト−クセッションでの、石井幹子(照明デザイナー)、大橋力(千葉工業大学)、作家長谷部日出夫ほかの識者の話の「切り口」は、「みちのく旅」の視角を示してもらえた。
征服と抗争、政治と宗教支配を通して神社仏閣をみれば、京都・鎌倉とは異質の文化だし、柳田民族学の原点へのアプローチ、大和・都言葉の伝播の蝸牛論、山の文化・森の文化など、日本人でありながら触れることの少なかった世界が目の前に出てきた。
西日本では強く感じたことのない「山と湖の文化」が「みちのく」には現存している。 空前のヒット作となった「もののけ姫」のテーマは「山と湖の文化」と「平野と鉄の文化」の葛藤でもあった。映画鑑賞での私の視座は、いつの間にか「みちのく視角」になった。
鐘紡記念病院での大腸がん手術後半年が経過し、順調に回復しているように思えるので、多少無理をしても、私にとっての処女地「みちのく」に足を伸ばしたいと願った。まず五月上旬には、四泊五日の越後・佐渡周遊を企画し、足ならしをした。六月の中旬、上高地帝国ホテルで二泊して、大正池、明神池を朝夕散策し、穂高の見える横尾まで足を伸ばした。凅沢への登山は、身体のこともあり逸る心を抑えた。下旬には、尾瀬で二泊して尾瀬が原と尾瀬沼の神秘さと湿原の華やかさを満喫できた。
こうして、やっと実現した「みちのくの旅」の第一段は、角館・田沢湖・小岩井農場周遊であり、この旅が私だけでなく 妻の気持ちにも火を付け、夫婦ふたりして「みちのく旅」への誘いは止まらなくなった。十月中旬、妻を誘って出掛けた二泊三日の出羽三山行(羽黒山、月山、湯殿山)では、雪中で湯殿山の霊湯に足を浸し、大宇宙の霊気に一瞬触れた感覚を得た。十月下旬の中禅寺湖へは、全山紅葉と秋雨のなかで、石ノ戸からゆっくりと数時間かけて奥入瀬の渓流を上り、汚れない大自然の豊かさを身近に感じた。湖の自然美を脳裏に刻もうと、時間をやり繰りして二回も遊覧船に乗り、山々や湖面に映る紅葉を満喫した。  八幡平は標高壱千米を超えると山の様相が急変し、トドマツ、クマザサ、ナナカマドの世界が広がり、初雪が溶けずに残っている。厳しい「みちのく」の冬を暗示しているようであった。
十一月始めに裏磐梯に出掛ける。 白雲荘に一泊して、自らの足を頼りに、五色沼(毘沙門沼、赤沼、深泥沼、竜沼、弁天沼、瑠璃沼、青沼、柳沼)や中瀬沼遊歩道・桧原湖畔遊歩道湖(約五キロ)を散策し、再び五色沼遊歩道(三・七キロ)を歩き、裏磐梯の自然に溶け込んだ。 それにしても磐梯山は表と裏の山容の差異に驚く。野口英世の見た猪苗代湖からの表磐梯は世俗化しててはいるが、人情の素朴さは残っている。東山温泉で二泊目を過ごし、会津若松と会津喜多方を回る。上高地でも、尾瀬でも、角館・田沢湖でも、出羽三山でも、中禅寺湖でも、裏磐梯でも同じなのだが、山のもつ独特の霊気と湖の誘う温かみが、四国で生まれ育ち、成人してからは関西暮らしが長かった私ども夫婦の心の底にあるマグマを振動させ、感動させたのは事実であった。
かつての都人が「道の奥」と感じた辺境の地にも道を通じ、道を通して人が、物が、文化が交流していったが、西の文化を頑に拒絶する壁こそ山と湖ではなかったのだろうか。その頑に拒絶する壁に対面して、文化の虚飾を身に纏った現代人が改めて裸の自分に戻って、自らを見つめることになるのだろうか。               
歴史に埋もれた文化を多いのだろうが、私にとっての「みちのく旅」は、歴史の知識を総動員して「理解する」といった愚かな行為は避けて、山、湖、風、木々、道との「対話」を通した感動の集積で「みちのく旅」を綴っていきたいものだと願っている。歴史に埋もれた文化を多いのだろうが、私にとっての「みちのく旅」は、歴史の知識を総動員して「理解する」といった愚かな行為は避けて、山、湖、風、木々、道との「対話」を通した感動の集積で「みちのく旅」を綴っていきたいものだと願っている。 
来年は、津軽まで足を伸ばし、蝦夷の文化と白神の森の神に会いたいし、夏祭を通して坂上田村麿と蝦夷の怨念を体感したいものだ。 また、銀河鉄道に乗って賢治の世界を彷徨い、「奇妙な料理店」で食事をし、遠野の河童と螢火を眺めてみたいものだ 
みちのく新緑旅(平成10年戊寅) A

 本当は「みちのく桜花爛漫の旅」になる予定であったが、平成十年の春は異常に温かく気象庁始まって以来とか、観測史上二番目とかの桜前線の北上の早さで、黄金週間中に企画した「桜旅」は実現出来なかった。この時期には、桜は津軽海峡を越え、函館五稜郭満開とTVの花便りは放映していた。 

 今年の桜鑑賞は、都心では英国大使館前通−国会前公園&憲政記念会館−千鳥ケ淵公園−靖国神社−皇居北公園を散策し、また墨田川畔に沿って墨田公園−待乳山聖天−滝廉太郎「花の歌碑」などを見て回った。郊外にも繰り出し、高遠城址公園や長瀞渓谷沿いの桜、宝登山神社周辺、清雲寺のしだれ桜などで春の風情を楽しんだ。
そんなこともあって「みちのく桜花爛漫の旅」は大幅に変更し、弘前、角館は急遽割愛して、「蝦夷ほそみち紀行」に切り換えることとなった。とはいえ、前九年の役、後三年の役と安宅の関と平泉を除けば非常に心もとない歴史の知識だが、私ども夫婦にとっては四泊五日の大旅行だけに、夫婦喧嘩をせずに「みちのく旅情」を満喫できたらとの願いを込めて、五月一日に上野から「こまち号」で出立する。
初日(五月一日)は、角館の檜木内河畔の葉桜並木を眺めて、午後横手に入る。汗ばむ陽気である。冬の「かまくら」で有名な町ではあるが、季節外れの「かまくら」は横手市ふれあいセンターの「かまくら室」で辛抱する。それでも氷点下一〇度で、汗も吹っ飛んでしまった。ここからは、後三年の役で清原一族が、藤原一族と源氏の連合軍に破れた歴史的な場所も程近い。
田植えを前にした広大な田圃を眺めていると、子供の頃「講談社の絵本」で見た八幡太郎義家が稲田を前にして、鳥が飛び立つのは伏兵の居る証拠と判断して大勝利を得た画面を、不思議なことだが鮮明に思い出した。展示館でも「雁行の乱れ」として大きく紹介されている。「蝦夷は愚か、源氏は優秀」という差別意識がこんなことからも無意識に植えつけられることになりはすまいか。
十六世紀の小野寺氏の居城跡の横手公園は、麓の高校からはかなり急な坂道を登ることになる。休日というのに、歩いている観光客や地元の人は見当たらずみんな車である。  城址には観光用に天守閣が復元されてはいるが、特に興味は湧かず入館はしなかった。 石垣の上から横手平野を眺める。北方は大曲である。雄物川、横手川周辺の展望は雄大である。夕暮れの中で、牛沼、熊ノ堂沼、明永沼を眺めながら三十分ほどかけて、今宵の宿泊先である「かんぽの宿横手」に向かう。 
ここ横手は「みちのく」であっても、陸奥ではない。出羽の国であり、江戸時代は羽後である。現在興味と関心のある海洋史学から判断すると、七世紀には阿部比羅夫が二百隻の船団を率いて日本海岸を遠征しているし、男鹿半島のオガは恩荷なる蝦夷の首長名(日本書紀)でもあり、「陸の奥」であったにしても「海の奥」では決してなかったと思う。 払田柵と総延長三・六キロの雄勝城柵跡に立って、北出羽の古代ロマンに浸りたかったが残念ながら時間の都合で割愛した。  
翌五月二日、佐竹藩二十万石の城下町である秋田市に入る。残念ながら土地勘が全くないので男鹿半島巡りの周遊バス「はまなす」に乗り込み、夫婦で最後尾の五座席を独占してバス観光を楽しむ。コースは、寒風山展望台(鳥海山の雪の山容の雄姿、八郎潟の展望)→男鹿水族館→入道崎(北緯四〇度ラインの石柱、白黒の灯台)→真山神社(円仁慈覚大師ゆかりの天台宗から真言密教へ移り明治の神仏分離で神社への遍歴)と男鹿真山伝承館での「なまはげ」披露と続く。 
説明では男鹿地方の古い形式のなまはげを踏襲しており、先立・主人・なまはげ(二人?)のやりとりが面白い。足さばきは七・五・三で入室し、食事し、退室する。 「なまはげ」は明らかに「鬼」であり、観光用の「なまはげ」には角があるのだが、祭礼用には鬼に角がない。ということは、男鹿の鬼には元来角がないことになる。皇室行事も同様であるが、儀式の神秘性を保持するには村人以外には祭礼用の鬼面を見せないことは大賛成である。余所者はレプリカ(模倣)で満足すべきであろう。修験者も子供の眼には鬼に見えよう。鬼は一匹二匹と勘定するにしては、あまりに人間的過ぎる。幽霊は一人二人でもなく、一匹二匹でもなく、ひとつふたつと勘定している。 柳田民俗学ではないが、ゆっくりと調べてみたいなと思った。暗くなって青森に到着し「JALシティ青森」に宿泊する。
翌五月三日は、十和田湖が忘れられず、奥入瀬渓流を昨年秋と同じく妻と石ケ戸から子ノ口迄歩く。所々で観光バスのショ−ト散策組に出会うが、やはり歩いてみないと本当の良さは分かるまい。紅葉も良いが新緑も素晴らしい。緑の渓谷美を満喫する。下手な文章力では表現できないので佐藤春夫の「奥入瀬渓谷の賦」を借用して、我が思いを表現しておきたい。
 1)瀬に鳴り淵に咽びつゝ 奥入瀬の水歌ふなり しばし木陰に佇みて 耳かたむける旅人よ
 2)うれしからずや谿深み 林のわれを養ふは 水清くして魚住まず 望すぐれて愁あり 
 3)十和田の湖の波の裔  身の清冽を愛しめども 深山を出でて野に向ふ 身の現実こそ是非なけれ 
 4)友よ谷間の苔清水 歯朶の雫よ滝つ瀬よ やがて野川に濁るべき あすの運命は欺かざれ 
 5)しばしは此処にいざよいて さみどり深く閉したる 高山の気を身に染めん 花も楓も多なるを
 6)林に藤の大蛇あり  谿に桜の鰐朽ちて 何をか求め争うや  わが幻をにくむかな 
 7)さもあらばあれ木漏日の 漂ふ波に光あり 水泡に白く花と咲き 鶯老いて春長し 
 8)もしそれ霜にうつろへば 狭霧のひまの高麗錦 流るる影も栄えあり みな一時の夢ながら
 9)わが行く前の十四キロ ここに歌あり平和あり また栄あり劣らめや 浮べる雲のよろこびに
大町桂月の歌も又、我が思いと同感である。 
十和田湖の「乙女の像」は高村光太郎にとっての永遠の女性である千恵子の「明と暗」であろうし、「理性と直観」でもあろう。下流の十和田市に育った新渡戸稲造の名前が象徴る新渡戸家の来歴を思う時、山と水と田と稲に日本の原点と豊饒を直観する。                                            その夜は青森に戻り、「西むら」なる飲み屋でみちのく料理を地酒でゆっくり味わう。 質、量、値段とも満足であった。観光の目玉アスパム(青森県観光物産館)で「ねぶた展示」と「ねぶたコンクール」と「白神山地」のビデオを観る。夜はNHKで「津軽じゃみせん高橋竹山」を放映しており、御当地ムードで土着の良さを味わった。
青森は、明治以降に開けた町であり、津軽藩の弘前と南部藩から組み入れた八戸との中間地点として県庁を置いたとかいう話を、四十年も前に八戸出身の慶応の学友である目時孟君から聞いたことがあるが、青森駅に下車しても「さいはての町」の感じが一切しないし、明治の雰囲気すら感じない。
五月四日は朝出掛けにホテルの周りを散策した。青森の「原籍」でもある善知鳥村と称せられ、謡曲「善知鳥」の因縁のある善知鳥(うとう)神社もビルに囲まれた近代的な神社であり、新宿は歌舞伎町近くの花園神社とあまり変わらない。そこからバスで二〇分、三内丸山遺跡は今回の「みちのくの旅」の感激を増幅させてくれた。マスコミや学術書に詳細は発表されており、素人がなにもいうことはないのだが、縄文時代のイメージを描くには、夕暮れか或いは深夜の星空の下が最高だろう。
大和から見れば「道なき陸奥」だろうが、縄文の彼らにとっては素晴らしき楽園であったに違いない。西は日本海沿岸に沿って糸魚川まで、北は当然北海道の沿岸、東は三陸海岸沿いまでが活動の領域だったのだろう。くりぬきの丸太舟を巧みに操る縄文人など、今までに想像したこともなかった。森の神を崇め、恐れ、おののき、栗などの果物の樹木を栽培し、定住生活を送る。その数は群れではなくて、ムラの構成にまで大きくなってきている。梅原猛氏はじめ多くの歴史学者、宗教学者の書物に目を通したが、その場所に立って夷文化の源流を知った。幾世代後に安倍、清原、藤原となって華を開くことになるが、天皇家文化とは異質の文化の担い手に対する興味は尽きない。 
棟方志功記念館での棟方の板画のエネルギーと魂を揺り動かす墨の魔色は、縄文人の血と体熱かもしれないなと思った。
夕暮れに盛岡に着く。不来方の城に立って夕日の沈むのを眺め、北上川の聞こえる筈のない川音を耳にすると盛岡中学が浮かび上がり、石川啄木の歌が口に出てくる。不来方の城に立って夕日の沈むのを眺め、北上川の聞こえる筈のない川音を耳にすると盛岡中学が浮かび上がり、石川啄木の歌が口に出てくる。「不来方の城の草原に寝ころびて 空に吸われし十五のこころ」  暗くなるまで城の周辺を彷徨う。宿泊先の「ホテルリッチ盛岡」に近い啄木庵で「南部はっと」(うどんすき)を薦められて夕食とする。 
平泉では、最後の一日(五月五日)を優雅に過ごした。毛越寺では、庭園の浄土の世界の静寂さは、観光客の騒音に完膚なきまでに駆逐されたいた。新緑の柔らかな緑の中で大泉ガ池を巡り、堂行堂で僧侶から曲水の宴と延年の舞の説明を受ける。本堂の舞台で「延年の舞」(国重要無形民族文化財)の「路舞」「若女禰宜」「花折」を拝見できた。住職とその血筋の「人でない人」が踊るこの踊りは、能や謡曲や歌舞伎、お囃子の原型だろうと率直に感じた。陸奥平泉の暗闇の中に薪を燃やしてこの踊りを演じたなら、多くの人は恐らく神や鬼の存在を直観するに違いあるまい。今日、日光の輪王寺と毛越寺にしか残っていない貴重な舞である。この舞に出会えたのは幸運そのものである。 広場では角懸鹿踊が賑やかに観光客を引き寄せている。   
中尊寺は五年振りである。妻にとっては学生時代以来ということらしい。月見坂から本堂、鐘楼、金色堂、経堂、旧覆堂、能楽堂から収蔵庫を廻る。中尊寺の旧覆堂の空虚な空間にこそ、光堂が「実在」し、芭蕉の世界が見えてくるようだ。まさに「空即是色 色即是空」の雰囲気であり、古り残してや光堂の感慨である。
卯花清水から高館(義経堂)を廻ったが、義経堂の管理人から「奥の細道」の義経の絡む一節を朗々と語ってもらった。義経が身近な存在になり、日本脱出のロマンを信じたくなり、詩情をまったく排除した柳之御所遺跡や伽羅御所跡の発掘現場の合理性に却って疑問を感じた。歴史がそれほど客観的なものだろうか。何故非条理な人間行動に科学的な根拠を求めようとするのだろうか。 むしろ田圃と共存する無量光院跡に佇んで、蛙とともに藤原三代の往時を合唱したくなった。
歴史学は科学かも知れないが、遺跡や出土品の客観的分析から、人間像は決して生まれてこない。みちのくの縄文人の遺伝子は、今日確実に現代人に受け継がれているのだろうから、歴史のロマンを覚醒さす歴史的な環境が、平泉にもっともっとほしい。 かつて、日本に東国政権と西国政権があり豊かな文化を誇ったが、やがて東国武士団によって東国政権は壊滅する。明治十一年(一八七八年)、英国女性イザベラ・バードが東北、蝦夷をまわり、「日本奥地紀行」を残したが、粗野ではあるが、平和な民と村があったことを教えて呉れる。
今回僅か五泊六日の「みちのくの旅」であったが、文明が文化を駆逐しつつある現状を直視し、なんとか「山と湖の文化」を守ろうとするささやかな鬼と縄文人と藤原三代のため息が、薫風とともに、この身に染み込んだような気もする。無性に縄文人に会いたくなって、八月には青森ねぶた、秋田竿灯祭りに再び妻と陸奥を訪れ、暗闇の光の中で坂上田村麿やみちのくの英雄たちと再会する機会を作りたい。
津軽の桜      角館・弘前・五所川原・金木 (平成16年甲申)  B
四月二十四日(土)曇り、一時雨。氷雨。                     
【角館の桜】    
 「日本海三号」は定刻八時四一分秋田駅に到着、九時発の「こまち一〇号」に乗り換えて角館には九時四三分に着く。大曲で座席の進行方向が逆になるのは特急列車では日本では例がないのでは・・・まさに大曲である。 「勝手知ったる」とまでは言わないが角館は三度目であり、観光情報センター「駅前蔵」でパンフレットを手に入れ、いざ出陣である。桜見物の期待が大き過ぎたのか氷雨の大歓迎を受ける。物凄く寒い、四月下旬と云うのに震え上がる。慌ててセーターと手袋で完全武装する。駅通りには地元農家の露天の屋台が並び野菜、果物、お餅やスナックが所狭しと並んでいる。ぞろぞろと観光客と前後しながら突き当たりの角館郵便局を右折する。 
 中町から武家屋敷が立ち並ぶ東勝楽丁に入るとシダレサクラが色鮮やかに・・・と書きたいところだが、観光ポスターとは違って何だか寒そうに色気も薄れて寂しく咲いている雰囲気である。ソメイヨシノの華やかな雰囲気とはまったく異なるので正直なところ期待とのミスマッチがあった。武家屋敷の佇まいと時間の経過とともに枝垂れ桜の虜になっていった。数えた訳ではない角館には天然記念物の枝垂れ桜が一五三本あり、明暦二年(一六五六)佐竹義隣が入部したが、義隣は京都の高倉大納言の子で入り婿であり、二代義明の奥方も三条西家から迎えており京風のまちづくりがなされていった。佐竹北家がこの地に入部してから植え育てられて三〇〇年以上の老桜が四〇〇本余りあると云う。結構桜は見慣れてはいるのだが、一本一本の老桜にそれぞれ年輪が感じられ、美しく老いていく姿に感動すら覚える。休憩を兼ねて角館町樺細工伝承館で地元の民謡踊りを見る。秋田美人を期待したが、それらしき美人を舞台で見つけることが出来なかった。角館の乙女は美貌も桜の精に吸い取られてしまったのであろうか。近くの広場でNHKが明日(四月二五日)公開放映する「丸ごと一日秋田県」の 最終リハーサルを行っている。こちらの方には秋田美人がいる筈なのだが・・・    
 表町上・下丁から国道を右折し角館高校手前の山道を上り約二〇分で古城山の頂上に着く。その昔の芦名、佐竹氏の居城址であるが、山頂の本丸跡からの眺望は素晴らしく檜木内川の両岸二キロに及ぶ桜並木が手に取るように見える。寒風の中で弁当を食べて下山する。山腹の桜は比較的新しく一〇年〜二〇年であるが、数十年後の成熟した桜の花姿を見ることは出来ないだろうが楽しみではある。古城橋を通り檜木内川の南岸を横町橋まで一キロ程散策し角館プラザホテル近くの食堂「桜蛍」で特大の棒に刺したキリタンポに齧りつく。若者の立ち食いスタイルである。二回目の武家屋敷散策はゆっくり時間をかけて、山田洋次監督初の時代劇で藤沢周平原作の初映画として話題を呼んだ映画「たそがれ清兵衛」の舞台になった松本家、岩橋家に立ち寄り、試食自由の店をのぞき、ご婦人方のパワーに圧倒されながら口に入れる。 
 今秋公開される山田洋次監督時代劇第二作で同じく藤沢周平原作の第二作に当たる「隠し剣 鬼の爪」のロケ地は同じ武家屋敷通りの青柳家である。上流武士に当たる青柳家跡は「角館歴史村」になっており見学する。がらくた物のコレクションも多いが、建物は重要文化財でもあり流石である。柱の仕組みは精巧とは言い難いが、入り口の薬医門と黒板塀は堂々たるものである。映画「たそがれ清兵衛」は秀作であっただけに、第二作目の「隠し剣 鬼の爪」も期待して鑑賞したいものである。夕暮れにはほど遠いので、檜木内川の東河畔の桜のトンネルを歩く。この桜はソメイヨシノであり、枝垂れ桜とは対照的に鮮やかである。風強く寒くもあり河原で食事をしながらの桜見物する人を殆ど見かけない。夕暮れまで御食処「藤八堂」で体を温める。 
 三度目の武家屋敷散策は照明に浮かぶ枝垂れ桜を期待したが、都会ほどには明くるなく朧桜の風情である。その暗さの効果なのであろうか。宵の明星(金星)の輝きは明るく、西から南方、中天にかけて恐らくは土星、火星、木星、もしかすると水星も加わって一、二等星が散らばっている。陸奥の東西に分かれているが盛岡の地で宮澤賢治も同じような星空を仰いで「銀河鉄道」を走らせたのだろうか。丸一日を角館で過ごし桜に満喫して角館一九時一一分発「こまち二一号」で秋田に一九時五五分着。インターネット予約した「アルファワンホテル秋田」に宿泊する。夜汽車で睡眠不足でもあり、シングルルームに夫婦別々で寝るのは結婚以来初めてのことである。設備も申し分のないビジネスホテルで、駅前だが騒音も聞こえず熟睡できた。お薦めしたいビジネスホテルの一つである。 
四月二十五日(日)曇り後雨。  
【弘前の桜】   
 昨日に較べれば結構な日和ではあるが花冷えの日が続いている。秋田発九時四一分特急「かもしか一号」で弘前に一一時四九分に着く。弘前駅は目下大改修中であり臨時改札口から駅前ロータリーに出る。早速弁当を買いに、というより探しに歩き回る。コンビニの弁当で我慢する。弘前公園まで直行バスで二〇分程である。弘前さくらまつりは四月二三日から五月五日まで開催中である。五所川原迄の乗車券をうっかり改札に渡してしまったのでNHK弘前局の公衆電話でJRに連絡し忘れ物の確認できた。やれやれである。 
 弘前城は出入口が一〇カ所もあり外堀の中に市民会館、市立博物館、弘前城植物園、工業高校、靖国神社、グランド、興行街もあり四八ヘルタールの広大な敷地である。入園料は三〇〇円である。さすが津軽藩津軽家の御城下である。東門から入り東内門、南内門に抜けて天守閣、本丸跡に近づくが、満開から散り始めの桜の乱舞に目を奪われる。今までに見てきた桜見物では最高であり、恐らく絶後になるだろう。本丸跡から眺める雪を頂い岩木山の山容が満開の桜を通して見ることが出来る。「絶景かな。絶景かな。」である。 
 通称「桜のトンネル」を抜けて西の廓にある樹齢三〇〇年以上のイチョウの気根、正徳五年(一七一五)のカスミザクラとヤエザクラ、日本最古の明治一五年(一八八二)のソメイヨシノなどをチェックして歩く。蓮池には桜の花びらが浮かび一幅の屏風絵となっている。四の丸に出ると演芸場で津軽三味線が響き、屋台(露店)が所狭しと並んでいる。一〇〇軒はあろうか。バター付きじゃがいも、黒こんにゃくなどを食べる。物産館をのぞき武徳殿で休憩する。やや薄暗くなり始め、照明がついた頃合いを見て逆コースで本丸跡を経由して追手門口に出る。照明に浮かび上がった天守閣と桜をカメラに納める。その頃から雨足が強くなり、市内バスで弘前駅に向かう。途中でバスの乗換えがあったが、運転士の言葉が意味・発音共に不明瞭で乗客が一斉に不満をもらす。松山の伊豫鉄バスと比較すると雲泥の格差がある。弘前市バスよ、見習うべきであろう。 
 五能線一八時一五分発の普通列車で五所川原に一九時〇六分到着。駅前商店街はあるが七時には閉店している。ネット予約の「サンルート五所川原」でチェックインする。夕食はホテルに程近い喫茶店が開いておりカレーライスを注文する。隣の席では「保険のおばさん」四人が今日一日の反省会を開いている。契約まで漕ぎつけるのが大変らしい。さもありなんであろう。コンビニで明朝のおにぎり、サンドイッチを調達する。このホテルは津軽半島唯一のシティホテルとのことである。 
四月二十六日(月)曇り後雨。  
【金木の桜】   
 五所川原の「ねぶた」は「立佞武多」(たちねぶた)で市内の中心部に高さ三八米の「立佞武多の館」が建設されている。明治四〇年頃に作られ大正時代は行事としては消滅していたが、平成一〇年(一九九六)に復元された。ねぶたの高さは二〇米もあり、架線の妨げになり運行が困難になったという経緯らしい。今回は時間の余裕がなく見物できなかった。津軽鉄道で八時三八分津軽中里行きで金木駅に一〇時二一分着。ホームから岩木山がよく見える。今回の旅行まで金木なる町名を知らなかったが、太宰治と吉幾三の出生地である。「よし!行くぞ」である。駅に付属した「金木交流プラザ」に立ち寄る。休憩室に樹齢三五〇年、幹回り三・七米の青森シバ(ヒノキアスナロ)がでんと座っている。 
 津軽三味線会館に入館する。展示コーナーで歴史(仁太坊〔秋元仁太郎〕・嘉瀬の桃〔黒川桃太郎〕・白川軍八郎)や津軽三味線の特色を要領よく取り纏めている。ホールで昭和四二年東京生まれの武内哲也氏の三味線演奏を聴く。
 お目当ての太宰治記念館「斜陽館」は明治の大地主津島源右衛門(太宰治〔本名 津島修治〕の父)が建築した入母屋造りの建物で明治四〇年(二〇〇七)六月に完成している。宅地約六八〇坪で階下一一室、二階八室の豪邸である。戦後津島家が手放し、旅館「斜陽館」として受け継がれ平成八年に町が買い取った経緯がある。一巡して明治の成金趣味で飾り立てているという印象だが、建物内の蔵、高い煉瓦塀など小作人の襲撃に備えた防禦施設が散見する。町の貴重な観光資源として将来にわたって保存されることになるが、『故郷』津軽への『思い出』は切なくとも、『斜陽』の中で『人間失格』し『グッド・バイ』した太宰にとって生誕した家屋の保存に異論があるのではと思う。近くの曹洞宗雲祥寺本堂で、太宰が「思い出」の中で描いた「地獄極楽の御絵掛地」なる「十王曼陀羅」七軸を拝観する。観光客よろしく物産館「はな」で名代「太宰らーめん」を食べる。 
 活動源を得たところで二キロ先にある芦野公園まで線路沿いに歩く。この地も太宰が幼少時代に遊んだと云う。太宰治文学碑〔ヴェルレェヌ『撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり』〕、津軽三味線発祥之碑、津軽三味線之碑〔藤本義一〕、津軽平野〔吉幾三〕などなど公園の池の周辺に数多く建てられている。松山の俳句の碑ではないが、石を投げれば必ず当たるといった愚行はこの素晴らしいみちのくの自然の中では絶対に避けてもらいたいものである。公園内を一時間ほど散策し芦原公園から五所川原駅に向かう。五所川原駅発十六時十一分で弘前十六時五八分着、日本海二号指定席に乗車し、秋田に十九時二九分に着く。車中で明日岩手の北上の桜を見ることに旅程を変更する。 
【秋田の桜】   
 駅前のイトーヨーカ堂七階の和風レストラン「旭川」で東北最後の夕食はキリタンポ鍋付きの「ふるさと定食」である。生ビールがおまけである。JR秋田駅は最近の建築ではあろうが地方の拠点都市駅とは云え堂々たる駅舎である、都市計画に組み込まれた広小路・仲小路・中央通りのレイアウトは一度で頭に入る。この三通りが竿燈大通りに収斂してしていく。元来城下町は城を中心という先入観で見るのだが、秋田市の場合はどうもこの範疇には入らないというのが旅人の直感である。宿舎はネット予約のワシントンホテルだが、室内の仕様や備品は宿泊料とは反対にもっとも貧弱であった。新宿ワシントンホテルも同様だが過去のランクは当てにならない様だ。入浴後早めに就寝する。 
四月二十七日(火)雨。    
【盛岡の桜】   
 朝七時二分発「こまち六号」で盛岡に向かう。案内所で北上の桜情報を仕入れたが「弘前・角館の桜を見物したのであれば失望しますよ」と説明を受ける。途中下車を取り止め 「こまち八号」で東京へ直行し十二時八分到着。   
 朝から雨で強風が吹いており、時間潰しに亀戸天神社に参り、都バスで西大島経由で北砂二丁目の寿司屋「海鮮」に出掛ける。生憎日中休業の看板が出ている。遙々四国から昔馴染みの寿司屋を訪ねたのに休業とは!  頭に来たがどうしようもない。 付きがなければ敢えて無茶をせずということで羽田空港に向かう。十六時五十分発の大型ジャンボ機に間に合い、十八時半に松山空港に着く。自宅で夕食を取り、椿湯で汗を流す。八日間の旅行であったが無事終了した。今夜はゆっくり熟睡することだけが楽しみである。