エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第四章 鐘紡退職の日々&定年旅行(カナダ) (平成10年戊寅)
人事部生活二十二年−−−−その間で人事部長として五年間、多くの退任役員の悲喜こもごもを目の当たりにしてきた。 それだけに、自分にとっての退任の日々は、自分にとって決して悔やむことのない日々にしようと十年以上も前から決心していた。  
役員任期は役付役員は六十四歳迄で、任期中に到達しないことが前提であるから、本年六月二十六日の定時株主総会で「任期満了退任」となる。妻にもその旨伝えてあり、将来設計も一応出来ているので特に心配することはないのだが、自分なりに納得のいく形でその日を迎えたいと思っていた。平成九年度は平成十年三月末日で終了し、平成十年度は四月一日から開始になる。   平成十年三月二日、三月末日付けで常務取締役の「辞任届」を墨書で認め、社長宛提出する。賽は投げられたのである。四十年の会社生活でも、こんな意味のある日はそんなにある訳ではない。午前中で執務を終わり、日比谷に出る。 
明治生命内にあるマッカーサー記念館に入る。入館者は誰もいない。静寂そのものの室内で、連合軍司令長官としての故マッカーサー元帥の執務机(引出しのない机)を前にする。サミュエル・ウルマンの「青春とは」のレリーフ、五十年前の日本の悲惨な姿、昭和天皇との会見写真などなど−−−−−−−そしてマッカーサー元帥の「死なず、ただ消え去るのみ」の離別の一節が現実の言葉として甦ってくる。会社を去るにあたっては、一切の説明や苦情は語るまい。「ただ消え去るのみ」の孤高の姿を持ち続けていきたいものだ。
東京商工会議所で工業部会の講演会(東京工業大学渡辺利夫教授「アジアの通貨、経済危機と今後の展望」)を聞く。八重洲迄歩き、ブックセンターで、東洋経済創業百周年記念出版の「最終講義」を求める。目次だけぱらぱらと目を通す。今日という日に相応しい書籍を手にした喜びが残る。講義録は 西脇順三郎(慶応)、矢内原忠雄(東京)、大内兵衛(東京)、渡辺一夫 (東京)、沖中重雄(東京)、石田英一郎(東京)、田中美知太郎(京都)、吉川幸次郎(京都)、大塚久雄(東京)、桑原武夫(京都)、貝塚茂樹(京都)、清水幾太郎(学習院)、中村元(東京)、芦原義信(東京)、宮崎義一(京都)、中根千枝(東京)、鶴見和子(上智)、加藤秀俊(特別講義)、中村真一郎(特別寄稿)からなる。日本の英知が集結した講義録ではあるが、最終講義は個性が自然と滲み出ており、一種独特の香りがしている。 
夕、妻と江東区文化センターで落ち合い、市川段十郎丈を中心にした鼎談を聞く。国立劇場の養成部副部長の織田紘二さん、深川不動堂主監の広田昭滋さんがお相手。「成田屋」の謂われや深川との因縁、それに歌舞伎の話題と大いに楽しめた。今回の国立劇場の出し物は、「ひらがな盛衰記」と「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」というより「白浪五人男」だが、これには段十郎と息子の新之助、それに男寅が出演する。五日後の七日には、段十郎と国立劇場の舞台姿で再会する。 
このようにして、三月二日が過ぎる。充実した一日だったと思う。
四月一日から、平成十年度が開始された。 この日、改めて「役員退任届(六月二十六日付)」を社長宛提出し、残り二ヵ月で鐘紡(カネボウ)を去ることを改めて決意した。四月三日午後、石原總一新会長と帆足隆新社長の就任式が横浜の化粧品教育センターで開催された。鐘紡の新体制である。プレスのコメントは好意的であり安心する。当日午前中、みなとみらい21内にある「放送番組センター」に元NHK宮内庁担当の明神正ディレクターを訪ねる。昭和皇太后の御近況や天皇家のこと、桜井アナウンサーの復活や母校松山東高校の後輩である武内陶子アナウンサーの評判などを聞く。昨年冬同センターで開催され、NHK第二でもTV放映された「時代劇と日本人」〔パネリスト/井沢元彦(作家)、山内久司(朝日放送専務)、近藤普(東北新社クリエーツ社長)、司会 内藤啓史NHKアナウンサー〕と山田太一(脚本家)氏の記念講演「テレビ・ドラマ三十二年の体験を通して」掲載の冊子を頂戴する。
日本型人事管理を遂行したリーディングカンパニーの人事担当者としては、自らの思考と実践には誇りこそあれ時代逆行とは微塵も感じないが、昨今の歴史観も倫理観もない薄っぺらいアメリカン・デファクト・スタンダードは「ビッグバン」の歴史的な転換期に増幅されて二十一世紀前半は吹き荒れるのだろう。若者にとって「時代劇」が無縁になってきているが、歌舞伎や浄瑠璃、能、常磐津、長唄という日本を代表する古典美まで次世代は受け付けないのだろうか。「和魂洋才」ではないが、歴史と美意識をもつ欧州(EU)的な発想との対応が望まれるのだが、このアメリカの嵐は目下止まりようがないのは残念である。「日本的人事管理」の自己弁護を記録として残したい誘惑もあるが、「滅びの美学」は記憶の中でこそ美しいのかもしれない。   
さだまさしの「退職の日」という歌がある。あまり評判にもならなかったし、一般的でもないので殆どの人には記憶はないと思うが、人事部長当時に定年退職の辞令を手渡した後、対象者によく歌の内容を話し「今日はあまり遅くならないようにしてお宅にお帰りなさいよ」と言ったものだったことを思い出す。歌詞は、さだまさしの親御さんの退職かなと思う臨場感がある。
          退 職 の 日                      詩&曲  さだ まさし    
公園のD−51は  
退職したあと 
ほんのわずかばかりの
レールをもらって 
もう動かなくなった 
父は特別他人と違った生き方をしてきたわけでない
ただ黙々とむしろ平凡に歩いてきたのだ 
戦争のさなかに青春を擦り減らし  
不幸にも生き残った彼は  
だから生きる事もそれに遊ぶ事もあまり上手ではなかった
そういう彼を僕は一度は疑い 
否定する事で大人になった気がした けれど 
男の重さを世間に教えられて    
自分の軽さを他人に教えられて
振り向いて改めて彼をみつめたら       
やはり何も答えぬ不器用な背中 
退職の朝空はいつもと変わらずに母のこさえた弁当を持って  
焦れったい位あたり前に 家を出て行った 
母は特別倖せな生き方をして来たとも思えない
ただあの人との長い道を歩いて来たから   
いつもと違って彼の帰りを待ち受けて   
玄関先でありがとうと言った 
長い間ご苦労さまとあらたまって手をついた  
そういう彼女の芝居染みた仕種を  
笑う程僕はスレて無かった様で そして 
二人が急に老人になった気がして  
うろたえる自分が妙に可笑しくて   
 「おとうさん」「おかあさん」なんて懐かしい 
呼び方をふいに思い出したりして
父は特別いつもと変わらずに静かに靴を脱いだあと 
僕を見上げて照れた様に ほんの少し笑った    
公園のD−51は 
愛する子供達の 
胸の中でいつでも 力強く   
山道をかけ登っている  
白い煙を吐いて 力強く
いつまでも いつまでも  
道後小学校、御幸中学校、松山東高等学校、慶応義塾大学(日吉、三田)そして鐘ケ淵紡績株式会社(都島)の思い出の建物は、三田の演説館と図書館以外は総てこの地上から消え失せてしまった。一見頑丈に思える建造物も実に空しいものである。思い出だけは鮮烈に残っているのだが・・・・・芝浦埠頭のカネボウの新しい建物が、どこまで持ち堪えられるのだろうか。それに比べて、これから生活を始める郷里の陋屋は、もっとも古い大黒柱で三百年は経過しているしもっとも新しい応接室でも五十年余りの風雪を刻んでいる。鐘紡(カネボウ)生活も、数年たってから振り返ってみると、案外短かったということになるかもしれない。 
武藤絲治社長は別として、伊藤淳二、岡本進、石沢一朝、永田正夫、石原總一、帆足隆歴代社長とは本社のスタッフとして身近に接し、多くの影響と啓発を受け、同時に率直な提言をしてきただけにそれぞれの方への印象は深い。同時に昭和三十九年以降五十年入社組までの二十一年に及ぶ新入社員は、採用、教育、配置、考課、昇進などで直接接してきたし、自ら「教育的人事」を遂行してきただけに、彼らの成長をこれからも見守っていきたいと思う。一方では人事部の立場上、残念ながら多くの先輩や友人を失い、また傷つけてきた人も多くあったろう。   
カネボウ薬品鰍フ役員としての最終出勤は、というのも可笑しいのだが、平成十年六月二十六日の鐘紡の定時株主総会に出席し、帆足新体制でのカネボウの門出を祝いたかったし、名門鐘紡に自分としては告別したかった。総会も間近い迫って来てから心境が少し変り、株主としては今後も株主総会に出席することにしているので、最終出勤としての意味付けは無用と判断した。その日の午後は、株主総会の会場に程近い同じお茶の水の、中央大学駿河台記念館で開催された「第八回読売論壇賞記念講演会」に出席する。 
講演テーマは「新世紀の日本をどうつくるか」で、講演者は榊原英資大蔵省財務官と川勝平太国際日本文化センター教授である。 
川勝教授の「海洋の文明史観」は、四十年近く前に「中央公論」で発表された梅棹忠夫京大助教授(当時)の「文明の生態史観」とどうしても重ね合わせてしまう。恐らく日本の多くの知識人も同様であろうと思う。                       両氏のタイプは違うが、歴史観をしっかり持ち愛国心が旺盛であるのは共通である。榊原氏の情報「戦争」論、川勝氏の文明海洋史観に基づく文化(ウエイ オブ ライフ)論には大いに共鳴した。ここ数カ月で網野善彦「日本社会史(上・中・下)」(岩波新書)、丸谷才一・山崎正和「日本史を読む」を通読したが、農村社会と違う非定着集団(流通、海の民、山の民、神仏の民、賤民)の積極的な歴史上の位置づけに猛烈なショックを受けた。「海洋の文明史観」における時代区分なり、東西文明の発展は、粗削りの大胆な史観だが、マルクス史観や生死再生の宗教観から演繹される「古代・中世・近代」三区分史観からの脱却した時代把握としては物凄く魅力的ではある。カネボウの役員としての最後の日に、このような知的興奮を味わえるとは幸運であったと思う。  
カネボウの関係者は別として、東京を去るに当たって送別の宴をしていただいた、嘉村武夫御夫妻、明神正御夫妻、萱森敬一御夫妻、小林達二先生、慶応の旧友達、松山東高校(東京在住)の仲間達の御好意に妻共々深く深く感謝の念を捧げたい。是非松山にお迎えして、家族同志で旧交を温めたいものである。     
第四章(続)   定年旅行   
平成十年六月二十六日付にてカネボウ薬品株式会社の常務取締役を退任したが、妻とは退職したら海外旅行をしようと予て話し合っていたので、近畿日本ツーリストサービス本社に電話して七月中のコースを照会した。合わせて妻の還暦祝いを兼ねることにした。 真夏でもありカナダ又は北欧を希望したが、「JALで行く素敵なホテルに泊まるナイアガラ・カナディアンロッキー・バンクーバー八日間」の七月十五日出発分の空席があったので早速に予約が出来た。往復ともJALであり、ホテルは一応高級クラスで費用一人四十万円はそれなりの価格ではあったが、記念すべき海外旅行でもあり、日数の余裕もなく即決した。簡単に旅行中の「三行日記」を記述しておこう。
七月十五日(水)曇り(日本)・晴れ(トロント) 
本日から二十二日まで、妻と一緒の初の海外旅行(カナダ)。十八時、日本航空で成田出発。バンクーバー経由でトロントに二十二時着。時差十三時間−−長い一日である。ユニオン駅傍のロイヤルヨークH泊。一行三十三名(新婚一組)。 
七月十六日(木)晴れ(ナイヤガラ)  
朝散歩。トロント市内観光(州議事堂、市庁舎ほか)後、オンタリオ湖に沿いナイガラ・オンザレイクからナイアガラ滝見物「霧の乙女号」。スカイロンタワー展望室で昼食。カジノは大盛況。アメリカ滝正面のスカイラインブロックH泊
七月十七日(金)晴れ(バンフ)  
トロントからカルガリーまではカナダ航空、バスでバンフ。上高地プラス旧軽井沢の雰囲気。サルファー山ゴンドラで三百六十度のロッキー眺望(カスケイド山、ランドル山)。リムロックリゾートH泊。アッパー温泉立ち寄る。アルバータ肉の夕食。                                                         
七月十八日(土)晴れ(レイク・ルイーズ)
カナディアンロッキー周遊。キャッスル山、ボウレイクを経てアサバスカ氷河の上に立つ。巨大な氷原の水は太平洋、大西洋、北極海に注ぐ。大自然に埋没す。シャトウレイクルイーズ泊。ビクトリア山の氷河を眺め神秘的な湖畔を彷徨い時間を忘る。  
七月十九日(日)晴れ(バンクーバー)  
カルガリーからバンクーバーまではカナダ航空。クイーンエリザベス公園、スタンレー公園からダウンタウン観光。免税店に立ち寄る。夕食はサーモン料理。夜はロブソン通り散策、大道芸人多し。ランドマークH泊。
七月二十日(月)晴れ(ビクトリア) 
フェリーでバンクーバー島に渡る。ブッチャード・ガーデン、州議事堂、ブリティッシュ博物館、エムプレスホテルに立ち寄り、古き良き時代の大英帝国の余韻を体感する。昼食カツレツ、夕食にぎり寿司。船旅でシャチに出会う。ランドマークH泊。 
七月二十一日(火)晴れ(バンクーバー)  
朝、妻とスタンレー公園(ローズガーデン、水族館、トーテムポール公園)散策。 十三時過ぎ、日本航空にてカナダを離れる。機中で映画「仮面の男」「ニュースハイライト」を楽しむ。日本語に飢えているのか、雑誌「ニュートン」に夢中となる。
七月二十二日(水)雨(東京) 
約十時間の機中は、一睡もせず映画、読書、食事(そば)、ワインを楽しむ。十四時半過ぎ成田空港に着き、十七時、八日振りに帰宅。時差の影響と旅行の印象が強烈でなかなか眠れない。梅雨明けは、まだまだらしい。 
□七月十五日にバンクーバーに着き、七月二十一日に同空港から帰国したが、カナダ人に出会ったのかなというのが率直な印象である。  
歴史的にみても、イギリス人、フランス人が主力を占めているのは事実だが、町では東洋人特に中国人が多く、東南アジア系やネイティブ系、メキシコ以南の東インド系も多く居住し、隣国アメリカからの観光客と母国ヨーロッパからの観光客も多いらしい。日本人も結構多く、ワーキングビザで働いている若者も散見した。関西に住んでいた時、和歌山県御坊市近くの「アメリカ村」が話題になったが、明治初年に貧しい漁村から集団移住した先はバンクーバー近くらしい。人種の「モザイク社会」といわれるが、カナダに居ると「人種博覧会」が抵抗なく受け入れられる。   
大陸横断鉄道(カナディアン パシフィック レイルウェイ)はバンクーバーからオタワまで通じているが、この鉄道がオイル(石油)と金鉱(ゴールド)のラッシュを支えた貴重なアクセスであった。バンクーバーの市内に高級住宅街が広がっていたが、かっての同社の高級幹部の邸宅だったとのことだ。アメリカと同様に「フロンティア精神」としてその「西漸」が讃えられ、素朴にフロンテイアスピリット(開拓者精神)を無邪気に信仰し、ケネディー大統領の就任演説に感動したこともあったが、アメリカン(カネディアン)フロンティアとは、結果としては、自然の完全な破壊と人種(ネイティブ)の差別以上の隔離ではなかったかと思う。     
欧州列国の植民地政策がキリスト教の伝道を合理化し、文化の移植であったと公言する欧米の高慢な歴史の正当性は、「自己無謬性」の強弁以外のなにものでもないのだが。カナダには、日本人同様に、自然に対する畏敬の念を持ち続けているネイティブこそが相応しい。   
□ナイヤガラ瀑布は絵葉書以上に巨大であり、「霧の乙女号」での船上見物は一度は体験すべき臨場感に満ち溢れている。
一七九一年から五年間、英国植民地時代のオンタリオ州の州都だったナイアガラ・オン・ザ・レイクはビクトリア朝時代の雰囲気を残すのどかな田園の町だが、ここからナイアガラ瀑布への道(ナイアガラ・パークウエイ)には、血の匂いが残っている。一八一二年米軍が突如クイーンストン村を占拠したのに対し、カナダ軍を指揮して奪回したブロック将軍の像が、クイーンストン・ハイツの古戦場跡に堂々と立っている。このクイーンストーン・ハイツ・パークの五〇米の記念塔は、一八一二年の米・英戦争の激戦の跡を鮮やかに蘇らせてくれる。この戦争については詳しいことは知らないが、北緯四十九度線のカナダ・アメリカ国境ラインやフランスの植民地であるケベックシティが自らの独立の為に英国と同盟して米国の進攻を防御した歴史的事実が、東洋の旅人に切々と訴えかけてくる。 「力には力を」は平和ボケした今日の日本では正当な主張とならないが、一国の独立の為には「血と汗と涙の結晶」があることを忘れてはなるまい。    
今日、経済的にはアメリカに完全に依存しているカナダではあるが、カナダの初等・中等教育では、アメリカとの「独立戦争」をどのように教育し、愛国心を醸成しているのだろうか。同様に、アメリカの傘の中にある日本にとって、興味ある教育問題ではないかと思うのだが・・・・・
□カナディアン・ロッキーは悠久の歴史を感じさせてくれる。「時間と存在」(ハイデッカー)は哲学の問題ではあるが、コロンビア大氷原の一部であるアサバスカ氷河の更に一点である氷の上に立つと、人は自然に哲学者になる。   
最後の氷河期は一万年前であり、北は現在のジャスパーの町から南はカルガリーの先まで数百キロに及んでいたらしい。現在は間氷期であり、冬期の蓄積される雪量より夏期に溶ける水量が多い為、アサバスカ氷河の場合年間一五〇米後退している。この事実から、昨今喧しい「地球温暖化」は、氷河次元での「時間と存在」からはどのように解釈すべきなのだろうか。何万年後には、氷河は消え失せ、洋上の島々は海中に没し、砂漠化した大地が再び甦る頃、人間は「次なる氷河期」を迎えるのであろうか。
仮説かも知れないが、 
1) 始めに、ひとつの海とひとつの大陸(パンゲア大陸)があり、 
2) やがてパンゲア大陸はローラシア大陸とゴンドワナ大陸に二分し 
3) 一億五千年前には、ローラシア大陸はユーラシア大陸と北アメリカ大陸に再分割さ れ、一方ゴンドワナ大陸は南アメリカ大陸、アフリカ大陸、オストラリア大陸、南極大陸に再分割されていく。 
氷河期と間氷期の繰り返しのなかで、植物や動物が誕生し、一七〇万年前には人類の原型である猿人が誕生し、二〇万年前には最初の人類が誕生する(イブ仮説)ことになるらしい。ヴェルム氷河期(二万年五千年前)の古モンゴロイド、五千年前には新モンゴロイドの大移動で、日本も例外ではないのだがカネダのネイティブの先祖も移住することになる。 「氷河時計」でカナディアンロッキーを観察すると、地球と人間のドラマとロマンを感じてくる。妻が汲んでくれた何万年前かの氷河の水を口に含むと、冷たさと同時に「色即是空 空即是色」のミネラルが体内を巡った。   
□バンクーバー島の南端にあるビクトリア市は「ガーデン シティ」と呼ばれている。  その名の通り、美しい花に囲まれた美しい島であり、町であり、郊外であり、道路である。一見の客には「桃源郷」のようにも思える。特に、ブッチャートガーデンのサンクンガーデン、バラ庭園、日本風庭園、イタリア風庭園は、バロック風の幾何学でなく複雑系であるので、東洋人には落ち着いた印象を与えてくれる。           
ブッチャートガーデンはロバート・ピム・ブチャー氏の資金援助でジェニー・フォスター・ブチャー(旧姓 ケネディ)夫人の手により築かれていった。一八八四年結婚した二人はイギリスで、ハネムーン時代を送ったが、夫はポルトランドセメント工法を学び、一八八八年帰国し、これを企業化し大成功する。  
英国では、十八世紀のビクトリア時代に入って、お茶文化と合わせ、日本に於ける庭園文化(大名から庶民の路地裏)が普及しており、ガーデニングとアフターヌーン・ティのライフスタイルは貴族階級から中流クラスに大流行しており、ブッチャート夫妻は、洗練されたガーデニング文化を直に味わったに違いあるまい。日本庭園の併設が極めて初期であることは、このことを如実に物語っていると思う。
ところで、ヨーロッパにおける茶の導入については、異論もあるが、一六〇九年平戸の商館からオランダ東インド会社の船で持ち帰った茶がきっかけであり、ヨーロッパの茶の流行の最初の中心地はオランダであった。もっとも、十七世紀当時は茶は「薬品」としての位置づけであり、胡椒もまた「薬品」であった。現代でも、胡椒などは「薬味」として日本語に定着している。同時代に、アメリカからココアが、アラビアからコーヒーがヨーロッパにもたらされるが、ココアもコーヒーも男性の飲み物であり、女性の飲み物ではなかった。 十八世紀に入って、江戸期の日本において男女老若を問わず、都市農村を問わず、貧富を問わず、茶を楽しむ風情を目の当たりにしたヨーロッパ人の日本の喫茶の文化が、同じ島国である英国で普及したのは、極めて興味深い歴史的事実といえよう。石灰を採掘した窪地跡の「沈んだ庭(サンクン・ガーデン)」や工場を覆い隠す高い樹木が植えられた。二〇世紀初頭には大勢の客が訪れ、一九二八年にはブチャー氏が、一九三一年には夫人が、ビクトリア市から表彰を受けている。尚、同園には毎年百万人近くの人々が訪れ、美しい花と庭園を楽しん でいる。    
昨今のガーデニングブームは結構だが、ガーデニングの原型は日本であることを日本人は承知しているのだろうか。同時に、岡倉天心の「茶の本」と鈴木大拙の「禅について」に目を通しているのだろうか・・・・・形でなく心を理解してほしいものである。
□帰国しての生活パターンで変わったことがある。 
一つは、短パンでの散歩(ジョギング)である。短パンはあるにはあったが、着用するのは主に家の中であり、人前には出なかった。カナダでは短パンが一般的であり、夏にはこの方が自然であろう。思い切って帰国後、朝散歩から短パンを着けたが快適であり、人が短足をどうみるかなど気にせず町中を歩くようになった。
二つ目は、サマータイムである。朝五時には、空はすっかり明けているし、自然に目覚めてくる。自分なりに、サマータイム(五月初〜九月末)を宣言して「早寝早起き」を実行することにした。「グローバル スタンダード」が叫ばれているが、ひとまずサマータイムで国際基準に参加することにした。 結構快適であり、知人に吹聴したいものである。
三つ目は、海外旅行が身近な話題になり、年一回は出掛けるつもりになって、来年は是非、北欧か地中海沿岸でのんびりしようかと夢物語をするようになったことである。
松山では、短パンは勇気ある行動になるし、サマータイムしなくても時間は今後たっぷりあるし、・・・・・もっとも実現しそうなのは海外旅行になりそうだ。 ということは、古希までは犬を飼えないのかなと寂しい気分にもなる。