エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第三章 クピード と 山頭火 (平成9年丁丑)
昭和六十年夏から平成元年の夏までの三年間、防府(合繊)工場長として山口県防府市で勤務した。この間の記録は、『工場長の時代』として取り纏める予定であるが、鐘紡では「舎監・工場長・社長」がもっとも「ノブレス オブリージュ」(高貴なる義務)が求められる職位であると諸先輩に教えられ、また後輩にも伝えてきた伝統あるポジションである。  
それはさておき、年一〜二回は、当時の防府で勤務した官庁、企業、自衛隊の幹部が東京で集まっている。それも、吉井惇一防府市長の上京時であり、会場は防府高校出身の小苅米喜久子さんが経営する「クピード」である。場所は新宿四丁目の「ひろみち通り」入り口近くのM&Mビルの地下の飲み屋でもありスナックでもある。お客は近在のサラリーマンが中心ではあろうが、ママの関係で新劇の関係者と防府出身者も結構多いようだ。吉井惇一防府市長を囲む会を「クピード会」といい、航空自衛隊南基地の元指令の臼井治夫さんが会長である。 「クピード」には工場長時代たまたま上京する時に、吉井市長から紹介状を貰って飛び込んだのが始めてである。         
ママと昵懇になって明治大学の出身でカネボウに入社した秋本善郎君と同期ということを知った。秋本君と私は四歳違うが、優秀なマーケッターで、創成期のカネボウセールスクールの教師として活躍しており、私が人事部で教育を担当し、彼のことを良く知っており話題は尽きなかった。三十何歳の若さで、彼は慌ただしくこの世を去った。本当に惜しい人材であった。 明治大学三十三年卒の薬品本社の関川悦夫さん、三十八年卒の大阪支店の盛実勉さんを連れて、この店を訪れたこともある。関川さんとママとが、明治大学の看板ゼミの一つである清水ゼミの先輩、後輩であったとは、まさに奇遇といえよう。        
常連は昭和パックス梶jの小林正道さんだが、東海カーボン鰍フ八幡和三郎さん、日本たばこ産業鰍フ藤村一雄さん、東海カーボン轄kエ萬三男さん、協和発酵工業轄竚進一郎さん、日本バイエルアグロケム轄ヨ藤純一さんの他に、航空自衛隊南基地指令の藤岡禧與さん、北基地指令臼井治夫さんと数え切れない。東京に本社がないので、その後会う機会がないのだが、マツダ鰍フ佐々木哲夫さん、レンゴー鰍フ大友惟稠や中矢民夫さんなど懐かしい人が多く居る。関西でもと思うのだが、あまりに懐古趣味であろうか。年一回吉井市長から防府の現状と将来ビジョンを伺うことは楽しみでもあり、昔話に花が咲くのは当然と言えば当然のことである。私は一時大阪に居たので任命されてはいないが、「防府ふるさと大使」として東京から応援している防府勤務経験のある企業人も多い。 
会長の臼井治夫さんは航空自衛隊北基地指令という、戦時下では近づき難い空軍の将校である。航空自衛隊の幹部と親しく交際して頂いたのは、航空自衛隊南基地指令の藤岡禧與さんのお蔭である。私は三十三年の慶応卒であるが、藤岡さんは三十二年の同志社卒業ということで、私はいつも「先輩・先輩」といって敬意を表した。 同志社卒業で自衛隊というのも直接に結びつかないのだが、職業的な自衛隊の幹部の雰囲気ではなく、いかにもよき時代の京都の同志社で青春を送った雰囲気があった。出身は三重県鈴鹿郡関町であり、鐘紡の工場が松阪、四日市、鈴鹿とあり、関ロッジにも宿泊したこともあり、自然と文化にも共通の話題があった。更に、航空自衛隊の防府教育隊で始めて女子隊員を迎え入れることになり、「女子教育に滅法強い?」といわれてきた私の女子寮での舎監の苦労話に関心持っていただいた。固い事は別として、お互いに酒は好き、カラオケ好き、雰囲気好きとやらで、夜の防府のスナックの常連として毎週一〜二回は行きつけの店で出会った。その藤岡さんといつも一緒だったのが北基地指令の臼井治夫さんで、酒に酔っても姿勢は絶対に崩れないのは、さす が自衛隊だなと感心していた。臼井治夫さんとは、あまり生い立ちについて話したことはなかったが、金融問題の深刻化の昨今、酒の席でも真面目な経済問題が話題となった。   
私が尊敬するバンカーとして、現役では東京銀行の伊夫伎一雄会長(前頭取)の名前を挙げた。十数年前のことだが、伊夫伎氏の頭取就任に当たっての紹介のコラムで、取引先の中小企業の主人が亡くなり、子供を抱えた未亡人が経営の後継者となったが、当時の三菱銀行の支店幹部は融資を承認しない。融資担当の若き伊舞伎氏は「真面目に働いている経営者に融資して報いることこそバンカーの本来の道である。」と力説し、もし融資が駄目であれば、自分が退職してこの中小企業を助けると「退社願」を提出した。この青年の情熱とその才を惜しむ最高幹部は、彼のロマンに報いたというストーリーであった。同時に、伊舞伎氏の実家は伊吹山の日本で最も旧い神社の神官であり、日本武尊の伊吹山から大和への死出の旅は、「古事記」のもっともリアルなヒューマンなストーリーであり、このくだりは私の記憶に鮮明に残っており、高校時代に戻った気分で話をした。併せて、岐阜県大垣市で新入社員時代の五年間を過ごしたこともあり、伊吹山への憧憬を語った。
突然、臼井治夫さんが「三好さんがまた好きになったなあ」と言われるので、意外に思っていたら、臼井さんは関が原・垂井のご出身で、朝な夕なの伊吹山を仰いで成長された話をされた。野口英世にとっての磐梯山、石川啄木にとっての岩手山と同様に、故郷の山ほど印象に残る「有難き」存在はない。すっかり意気統合したところで、臼井家の発祥は土岐一族とのことで、それであれば、多少あやふやな記憶だがと断って、上越の沼田は明治維新まで土岐家が殿様だった筈だと説明すると、是非機会を得て訪ねてみたいということになった。藤岡「先輩」とともに、私にとって、素晴らしい航空自衛隊の幹部と知己になったことは、とても嬉しいことであった。それにしても、一別以来御無沙汰している藤岡「先輩」は体調を一時崩されたようだがお元気なのだろうか。 
暮れ近くになって、防府の関係者というより、工場長として在任中、「愛媛の殿様」とからかわれながらも大変お世話になり、正月にはお宅にお邪魔もした防府商工会議所会頭の大村浩さんのご子息から連絡があった。ご子息俊雄さんは、当時青年会議所の会長をしており、「防府を語る」の取材を受けたことがあった。対談の内容は、防府JC広報誌「わかあゆ」の一九八九年五月号に掲載された。
先年、大村会頭が大村印刷の会長になられ、俊雄さんが社長に就任されたが、来年用に「山頭火カレンダー」を作成したので是非活用してほしいとの案内があった。大村印刷の東京本部は新橋にあり、大村ビルの一階はおでんの「一平」であり、隣のビルは「美々卯」新橋店で、本社から「ゆりかもめ」で二十分ほどだから、この界隈には 月に何回かは立ち寄っている。「ついでに立ち寄りますよ」と連絡したのだが、東京本部長の大村照幸さんに直接持参して頂いた。会頭の実弟である大村昭夫さんのご子息で従兄弟同志だけによく似ているなと思った。 昭夫さんは、当時副社長をしておられ、防府ロータリークラブで毎週お会いしていた仲であった。
「山頭火カレンダー」は放浪の俳人種田山頭火の俳句を林昭男さんが撰し、書と画は戸田勝範さんとのことだが、お二人には残念ながら存じ上げていない。特にユニークなのは、山頭火が、故郷防府(三田尻)で、小郡其中庵で、川棚温泉で、終焉の地松山で、熊本でと、放浪の旅で詠んだその日が、カレンダーのその日になっていることだ。山頭火とともに遍路している気分になる、大変良く出来た日めぐり形式のカレンダーである。話題は山頭火になったが、来年には防府で山頭火セミナーを開催するという。旬日して、アイデアを思いつき、葉書を書いた。     
平成九年十一月二十七日 
大村印刷株式会社 東京本部長 大村照幸 殿 
晩秋の候となりました。 貴社には、益々御隆昌のこととお慶び申し上げます。 
過日は御訪問いただき、久しぶりに防府のニュースを伺うことが出来ました。重なるもので、十一月二十日夜は市長と食事を御一緒しました。
ところで、話題になりました書名は、「山頭火うしろ姿の殺人」(日下圭介著・光文社一九八六年四月刊)で、通勤途上にある中央区日本橋図書館には備えつけておりました。山頭火ブームの今日、この小説が手近に見ることができれば面白いし、防府でも売れのかなと思いますが−−−−−−−。御一読の上、興味が湧けば「仕掛け」られてはいかがでしょうか。  「山頭火ダイアリー」の使い方(活用)を目下思案中です。   
今後とも宜敷くお願いします。まずは御連絡迄。   草々
折り返し返事が届いた。
拝啓    御書状いただきありがとうございました。 
日本橋の図書館に出掛け、入手してからご返事をと思っておりましたが、遅くなりそうですので、先にお礼のみ、読後改めてご報告致します。
来年は、百貨店主催の山頭火の展示が行われ、書籍も数点出ると聞いています。また先頃松山で発見された書句数十点も、まとめて売られることになりそうです。新しいブームに乗って、防府の町も有名になれば嬉しいのですが・・・・・
「美々卯」にお越しの際、よろしければお立ち寄り下さい。また私でお役に立つ事がございましたら、何なりとお申しつけ下さい。 
今後ともよろしくお願い申し上げます。  敬具 
防府には数多くのお世話になった方々がおられるので、私にとっては今後とも「心のふるさと」である。
毛利のお殿様のお屋敷の上にある山口カントリー倶楽部のメンバーとして、鐘紡の工場の煙突を眺めながら、古き「戦友」と是非一戦を交え、チョコレートを獲得したい?と思っているのだが・・・・・