エッセイ 鐘紡(カネボウ)人事部私史
第二章 小林達二先生 (平成9年丁丑)
小林達二先生との出会いは、昭和四十年代始めのNHK高校(通信制)と鐘紡との業務連携を通して始まった。 
先生は、当初は同高校の数学の教師であったが、やがて社会教育を担当され、主事・副校長まで歴任されたように記憶している。同高校を退任された後も、信州大学ほかの非常勤講師として活躍されたことは、年一回ではあるが年賀状を通してお知らせ頂いた。一方、私の方は、本社の人事係長・教育課長から人事課長、人事部長と昭和三十九年から昭和五十一年まで、人事・組織・教育関係業務を担当したので、NHK高校や社会教育の関係者との付き合いはあったが、小林先生ほど気を許したお話できる教育者は数少なかった。私自身の「人見知り」と「察しの美学」が、個人的な深い付き合いを抑制している傾向にあるのだが、小林先生とは本音で語り合えることができるのは幸運であった。
併せて、小林先生が曽って開成高校の数学の教員をしておられ、教え子の中に、部下である井上浩一君がいたことも先生との出会いを深いものにした。その間の経緯は、別の機会に触れることになろうが、平成八年度の先生との出会いは年賀状から始まった。
平成八年末の年賀状で、「先生の教え子である井上浩一君(鐘紡人事部長)が肝臓癌で急逝した」ことを伝え、「鐘紡人事部の真の後継者を失い、私自身はわが子を失った気持である」旨を添書した。先生から早速返書を頂き、私からも書簡を差し上げたが、いろいろな思いを書面でお伝えすることは無理でもあり、二月中旬に勤務先近くの「ホテル ギンモンド東京」(中央区日本橋大伝馬町)で昼食をとりながら、数時間お話がした。今回は教育論は僅かで、先生にとっては教え子、私にとっては信頼に足る部下であった井上浩一君の思い出や残されたご家族のことが中心になった。井上君は、最愛の奥さんと高校生の長女と中学生の長男を残して、五十代早々でこの世を去ったが、思春期の子供にとって、父が偉大であればあるだけショックが大きくかつ深く心を傷つけることになろう。 
小林先生の先生らしい行動なのだが、高校受験を控えた長男の数学の通信教師を申し出られ、進学で悩まれた時には相談してくれるようにと直接電話され、井上家のその後の様子は私よりも詳しいほどであった。先生と生徒の信頼と愛情、尊敬と恩寵など、まったく喪失したと思っていた純粋な師弟関係が今日も存続していることが奇跡のように思えた。私自身も、小学校、中学校、高校、大学と先生のお宅にも伺い私淑させていただいた誇りに足る恩師をもっているが、今は小学校時代(昭和二十年〜二十一年)の二神日満男先生しかこの世でお会いできないのは寂しい限りである。先生には、井上家への今後の精神的なご支援と通信教育のことなどお願いをしてして、お別れした。その後はお手紙と電話で近況をご報告していた。
十月に入った或る日のこと、本社の食堂で、鐘紡の役員をしている和田達雄君から耳寄りな話を聞いた。というのは、和田君も開成高校出身であるが(正直なところ知らなかった)、同期会で小林先生に出会い、故井上浩一君のこと、私のことが話題になり、「宜しく」とのことであった。それでは年末に、井上浩一君を偲ぶ会を三人でやろうかということになり、先生に早速お願いしてみることにした。
平成九年十月三十日 
  小 林 達 二 様 
錦繍の候となりました。 お変わりなく、御清祥にてお過ごしのことお慶びもうしあげます。 十月末から、勤務先が日本橋(サンエス薬品)から港区海岸(本社)に変わりました。  
本社ロビーで和田達雄君に会いましたら、開成の同期会で小林先生にお会いし、NHK高校時代を回顧しましたということでした。また先生の御元気な様子も伺うことができました。 その時、鐘紡でも小林先生を囲む会をやろうかということになりまして、最少メンバーは和田君と私で、先生の御指名なり、御希望の舎監がいれば加えようということにしました。いかがでしょうか。場所は、いつか先生が名を挙げておられた開成出身者のお店でも、「美々卯」のうどんすきでも−−−−−−といったところです。  
井上浩一君の想い出を「浩一抄 その光と翳と」に纏めています。  草々
先生から早速返事を頂いた。和田達雄君に連絡し、所管している化粧品の年末挨拶の繁忙な時間を割愛してもらうことにしたが、なかなか日程が取れず苦労した。十一月中はどうしても日程が無理で、師走に入った十二月九日に決まった。 
平成九年十一月十九日
  小 林 達 二 様    
来年には役員定年かと思いますと、「釣瓶落としの秋」ではありませんが、縁の薄かった関東以北の秋を楽しもうと、奥入瀬、五色沼、高尾、養老渓谷、谷川岳−−−と、貪欲に、旅人の心境を体感しております。 
お便りを頂戴しながら、失礼致しました。私自身は、時間的余裕はありますが、現役バリバリの和田達雄君は、東奔西走の大活躍中で、なかなか時間が取れそうもなく悩んでおりました。 このお手紙より早く、彼から御連絡が入っているものと思いますが、十二月初旬にお会いできるのを楽しみにしております。
時代の流れが早く、社中で井上浩一君の思い出を語る人が少なくなり残念です。なにはともあれ、「生きていなきゃあ駄目だな。」と思います。五十の坂、六十の坂、七十の坂を越えれば、癌にさえならなければ、その後の十年は大丈夫なようです。
急に寒さが厳しくなりましたので、お風邪を召されないようお祈りしております。 まずはお知らせ迄。        草々
十二月九日当日は「人権デー」でもあり、住まいのある江東区の人権セミナーに夫婦で午後出席した。妻と一緒にというのは始めてであるが、意義ある集会になったと思う。
昭和六十年のこと、鐘紡として部落問題に積極的に取り組むことになったが、当時本社の人事部長に在任中であり、全社の事務局長として、鐘紡の責任者として部落問題に取り組むことになった。私自身は、勿論運動体の指導は受けたが、手作りの部落問題の推進を図ることに務め、全社の人事担当者百数十名を集めて初回の会合を、横浜の化粧品教育センターで開催する旨招集をかけたが、開催の三日前に母を亡くした。事務局長のメッセージは福原人事部課長に代読してもらった。あれから二十年近く経ったが、人事管理の原点として、欠かすことなく人権セミナーには参加したり、また講師として招かれて講演したりしてきた。 
映画「サンライズサンセット」−−−−新しい感覚で民宿に取り組んでいる女性の家庭を舞台に、娘の危機を救ってくれた同和地区出身の青年と姪の結婚問題をめぐっての戸惑い、揺れ動く。娘の人権集会での差別への訴えが大きな波紋となり、困難な問題解決への糸口となる。舞台は淡路島で、まさに「日没から日の出」である。講演は読売新聞社解説部田中正人次長の「人権問題と私たちの生き方」で、路地裏の人権問題の提起があった。
会場の江東区文化センターから、小林先生から連絡があった中央区新川二丁目の「香取鮨」に直接出掛けた。主人の杉山広さんの出迎えを受け、カウンターに座った。先客がひとり居たが「何年卒ですか」と聞くので、「三十三年卒ですよ」と答えた。主人は、私を開成高校出身を前提に訊ねたのだろう。先客が突然「大先輩ですね」と話の中に入ってきた。下町の風情である。暫くして小林先生が見え、また暫くして和田達雄君が加わり、賑やかに「井上浩一君を偲ぶ会」は始まった。主人も井上君と同級であり、鮨を握る手を休めては思い出を語り合った。
和田君は三十七年慶応卒業で四年後輩であるが、私が工場長をした防府工場の総務課長を数年経験しており、NHK大河ドラマの「毛利元就」に登場するの武将に話題の人物を見立てて、辛口の人物評を展開した。ここでも井上浩一君に見立てる武将は見当たらず、元就の三人の子供の全体像かなというところで落ち着いた。そういえば、次男・元春の剛毅と三男・隆景の智略と併せ、大成を直前にして刺殺された長男・隆元の優しさと人を信用しすぎる素直さの一面も持っていたように思う。 
程よく酔い、思い出話に花を咲かせ、再会を誓って家路に向かった。小林先生に翌日葉書を認めたが、帰宅すると先生の手紙が届いており驚いた。
平成九年十二月十日 
  小  林  達  二  様   
一年の締めくくりに相応しい一夕となりました。これも故井上浩一君のお蔭と思っています。   
久し振りで、御壮健で御研鑽を持続しておられる小林先生の御姿に接し、嬉しく存じすとともに、頭が下がる思いが致しました。和田君も同様だろうと思います。御推薦のありました杉山廣様の「香取鮨」は、江戸の雰囲気が残り、印象に残るお店でした。今後機会があれば、利用させていただこうと思います。
お手渡し致しました「浩一抄」は習作でありますが、井上君とちょうど十年の年齢差がありますので、このズレを中心に、人事労務の移り行きを併せて描写できれば考え、ぼつぼつ書いていく予定です。
向寒の砌、呉々も御自愛の程お祈り申し上げます。良き年をお迎えになられますように。  草々 
先生からの書簡の一部を抜粋して、この出会いの章を結ぶことにする。 
十二月九日は、誠にありがとう存じました。井上君も喜んだことと思います。  
私は、三好さんと私の間に、あの体の大きい井上君が座っていて、熱心に話を聞き頷いているような気がしてなりませんでした。
「人間こそが企業の生命である」と、きっとカネボウでは考えていたと思います。素晴らしい人間集団を創られることに力を注がれた三好さんに、改めて頭が下がる思いでした。
種々貴重なお話を伺った上に「浩一抄」ありがとう存じました。これの完成によって井上君は甦ると思っています。
本当にありがとう存じました。素晴らしい会でした。 よいお年を!!