小学校以来の友人であった伊賀ちゃんこと伊賀上湛君が、平成八年三月二十四日脳内出血で急逝してから、はやくも二年になる。五十歳を超えてからは、世間的には必ずしも恵まれた生活とは言えなかったかもしれないが、七夕ペースで会う限りはあまり変わった様子はなかった。 三月二十五日、本社の会議で上京中に彼の逝去を妹の禮子さんの連絡で知り、枕元に駆けつけたのだが、翌日は大阪でスケジュールが入っており、葬儀に出席できなかったことが心に重い負担となっていた。一周忌までにはなんとかその償いをして、彼の霊前で詫びたいと思っていたのだが、月日の流れは早く具体化する前に平成九年の正月を迎えた。 |
正月からかなり無理をしながら夜平均二時間程の時間をつくり、大学三年から卒業までの二年分の「日記」を中心に、『学生の時代 就職・卒論・友情 』を纏め上げたが、目標の三ヵ月には間に合わず、やっとお盆に間に合わせることができた。卒論、就職、映画、文学、一人旅−−−−−は、誰もが一度だけは経験する素晴らしき青春であり、貧しくも密度の濃い友情と葛藤が当時の日記には書かれていた。二人だけの私家本と割り切り、失恋話も、昭和三十三年初春の吉原「見物」まで加え、妻には読んで聞かせた。 |
七月三十一日、彼の位牌がある妹の禮子さんのお宅を訪問して、「二人だけの私家本」を「法光院春望湛然居士」の霊前に供え、禮子さんと思い出話をした。思い出話の中で、学生時代、女性問題のちょっとした諍いから疎遠になった村上公平君が現在跡見学園で教鞭をとっており、伊賀上君の逝去後数カ月経ってからお悔やみに来られたと聞いた。昔通りの、律儀な男の美学を守る姿勢は変わっていなかったと思った。 無性に会ってみたい気持ちも湧いたが、過去は過去として葬り去るのも人生の知恵かと思い、現在も彼とは会わないでいる。 『学生の時代 就職・卒論・友情 』の「まえがき」を記載しておこう。 |
(注)村上公平君とは平成18年秋、道後温泉山の手ホテルで四十数年ぶりで再会し、延べ10時間以上話し合った。上野高校の女生徒IM嬢や伊賀上君の話が彩り添えたのは勿論のことである。 |
|
|
|
|
|
まえがき |
小学校四年から書き始めた日記であるが、今日まで中断はあったものの「博文館当用日記」にその日の出来事を率直に書き綴ってきた。自分だけの心の部屋に飾っておくつもりであったが、ある出来事から昭和三十二年の日記の扉を開くことになった。 |
平成八年春、小学校以来の友人である伊賀上湛畏兄が突然にこの世を旅立った。穏やな顔で眠る彼と最後の対面をしたが、慟哭を抑えることなど出来なかった。大阪に戻る新幹線の車中で五十年に及ぶ彼との付き合いが自然に思い出されてきた。故郷松山に帰省した時、書庫から青春時代の日記を取り出して、子供のころ薄暗い部屋で大人の本を誰にも見つからぬようこっそり読んだ日のことを思い出しながら、一冊また一冊と読み耽った。 |
日記を初めて纏めるに当って昭和三十二年を選んだ。この年は大学四年次であり、学生から社会人となる人生の通過儀礼の年であり、最も学生らしく生きた時代でもある。「就職・卒論・友情」と副題をつけたが、まさにこの三点に凝縮される疾風怒濤の一年であり、伊賀上湛畏兄との学生時代最後の交流でもあった。 |
最初の一冊を今は亡き伊賀上湛畏兄の霊前に捧げ青春時代の挽歌とするとともに、多くの友人の今日までの厚誼に心から感謝したい。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
伊賀上湛君を含めて十名の仲間が集ったのが「蛍雪会」であり、小学校四年〜五年時代(昭和二十年〜二十一年)のグループの名前である。思いつくままに、蛍雪会の印象を取り纏めてみた。 |
|
わがグルッペ 「螢雪会」 |
「螢雪会」は、小学校時代の仲間でも特異な仲間といえる。小学校四年の担任であった二神日満男先生の発案で、地区別にグル−プ編成された。 祝谷地区、湯之町地区、石手地区、道後地区などに分けられ、グル−プの名前を付け、班長(会長)は仲間から互選された道後地区は、上市・今市・南町からなり、十名編成となった。 |
上市は松村正俊君と岩田有人君、今市は宇都宮信寿君と西本恵幸君と私、御出町は古茂田聡君と小山平君、南町は嘉村武夫君、満野久君、伊賀上湛君が元々のメンバ−である。 五年生になってから、嘉村武夫君が東京に転校したので、その後祝谷地区の酒井完五君が参加し、十名体制が堅持された。グル−プ名は「螢雪会」で、班長は私になった。蛍雪会の歌詞は父が作詩し「予科練の歌」に合わせて歌った。三番まであり、登校・下校の時は、意味も分からないままに、よく口づさんだ。 |
上市は松村正俊君と岩田有人君、今市は宇都宮信寿君と西本恵幸君と私、御出町は古茂田聡君と小山平君、南町は嘉村武夫君、満野久君、伊賀上湛君が元々のメンバ−である。 五年生になってから、嘉村武夫君が東京に転校したので、その後祝谷地区の酒井完五君が参加し、十名体制が堅持された。グル−プ名は「螢雪会」で、班長は私になった。蛍雪会の歌詞は父が作詩し「予科練の歌」に合わせて歌った。三番まであり、登校・下校の時は、意味も分からないままに、よく口づさんだ。 |
|
今歌ってみると、敗戦直後(昭和二十年〜二十一年当時)の気分・・・・・苦しかったけれども未来に限りない夢があった・・・・・が蘇ってくる。 |
|
1) |
|
螢の光 窓の雪 |
|
心も直く 学びの道に |
|
|
|
|
|
|
|
誓いも固く 集いたる |
|
その名も床しき 螢雪会 |
|
|
|
|
|
2) |
|
赤き心の 健男児 |
|
智徳を磨き 身体を鍛え |
|
|
|
|
|
|
|
科学の扉 我が手で開く |
|
今こそ励まん 蛍雪会 |
|
|
|
|
|
3) |
|
松の緑の 色も映え |
|
永遠に変わらぬこの友情 |
|
|
|
|
|
|
|
再建日本 我等のつとめ |
|
今こそ立てり 蛍雪会 |
|
|
松村は卓球の名手で、松山商業から三越に就職した。現在は、連絡が取れていない。 有田は小野村に転居し、専業農家の道を選んだ。名字が渡部に変わった。宇都宮は新田高校を出て、一時父の後を継ぎ佐官業もしたが、会社員に落ち着いた。 |
西本は、地元の銀行に勤めた。バンカーらしく真面目な一生を送った。 古茂田は中央大学から郷里に戻り愛媛県庁に勤めた。現在は県の外郭団体の要職についている。小山は大学卒業後、日本住宅公団に入った。定年で、関東に落ち着いた。嘉村は疎開組で五年の時東京に戻り、学芸大付属,慶応を経て三井生命に入社、重役になった。満野は京大の建築を卒業後独立し、潟Qンブランの代表となる。多忙な仕事をこなしながら、故郷長浜町や卯之町、松山の建築にも思い入れがあるのは嬉しいことだ。 |
伊賀上は松山南高校,東洋大学から中堅商社に勤務したが、その後会社を転々としたのは残念だ。文筆で生きていきたかったに違いない。酒井は日本大学の修士を経て、新日本製鉄に入社、今は関連会社に勤めている。私は慶応から鐘淵紡績鰍ノ入社,鐘紡一筋に定年まで勤めることになろう。残念ながら、成人してからは揃って会うことはないが,小学校時代の思い出は強烈で、今でも鮮明である。 |
|
(注) 令和2年10月現在 消息 |
死 亡 西本恵幸 伊賀上湛 宇都宮信寿 嘉村武夫 岩田(渡部)有人 |
消息不明 松村正俊 |
消息あり 古茂田聡 小山平 満野久 三好恭治 |
|
放課後は,全員わが家に集まった。宿題を教えあったこともあったが,遊び中心の仲間であった。 「缶蹴り」「相撲」「卓球」「手打ち野球」「釘打ち陣取り」「駆けっこ」など遊びにこと欠くことはなかったが,所謂「苛められっ子」は小柄で生意気な伊賀上であり,最後は何時までも鬼の役をやらされたし,よく泣かされていた。 |
仲間の呼び合いは当時、松村「ま−しゅう」有田「あ−しゅう」宇都宮「う−しゅう」三好「み−しゅう」南町組の嘉村「か−しゅう」満野「まんしゅう」だったが,伊賀上を「い−しゅう」と呼んだ記憶はない。西本は「けいこー」と呼んだ。後年、彼から随分恨まれたのだが、残念ながら、なんと呼んだのかも記憶していない。 彼にとっては、忘れられない屈辱的なあだ名だったのかもしれない。 |
(注)「*しゅう」は「*の衆」だろうかと思うが,案外股旅映画から当時流行していたのかもしれない。 |
|
「缶蹴り」は子供時代の共通の遊びだが,千坪近い我が家では鬼になれば泣き出すか、途中で飽きがくるかでもないと,最後まで鬼をやらされる羽目になる。必死のジャンケンポンであった。最後の鬼は、決まってように伊賀上だった。 |
「相撲」は小柄な松村と大柄な嘉村が強かった。土俵の砂は石手川の岩堰まで大八車二台で採りに行った。往復二時間はたっぷりかかる距離である。土俵は玄関脇に作った。 |
「卓球」は隣の愛媛県立母子寮付属の保育園の机を集めて即席の卓球台をつくり,勝ち抜き戦をした。圧倒的に強いのが松村で始めから終わりまで卓球台を独占していた。 |
「手打ち野球」は前庭でやったが,長屋門を越してしまうことはあまりなかった。子供にとっては,まづまづの広さであったらしい。大柄の岩田,宇都宮,嘉村,満野が名プレイヤーで、私や伊賀上は出番がなかった。 |
「釘打ち陣取り」や、肥後守で広げた指の間を速く刺すといったやや不良っぽい遊びの指導者は宇都宮であった。彼から新しい遊びを教わったものだ。 |
遊びの外にそれぞれが特技を持ち宿題を助け合った。図画は嘉村,満野,小山が抜群,工作は岩田,書道は松村,綴り方は伊賀上と私であった。 |
音楽は戦時下から敗戦直後であり疎んじられたのか教室での唱歌の印象は薄い。二神先生に頭を叩かれながら覚えた歌が共通の歌である。 |
|
イッヒ ハット アイネン カメラーデン |
|
アイネン ベッセルン フィンデゥー ニヒット |
|
ディ トゥロンメル シュルスン シュツライテン |
|
エル ギンガンマイネン ザーイテン |
|
イーン グライヘム シュリツンツリット |
|
イーン グライヘム シュリツンツリット」 |
|
|
(独逸出征兵士を送る歌)とか |
|
シュツ オールド ケンタンス ビーファゴット |
|
アンド ネバア ブロチューマイン ・・・・・ |
|
|
(螢の光)を原語で覚えさせられ、一方「昭和維新の歌」「敵は幾万ありとても」の軍国調の歌もよく歌った。昭和二十年九月占領軍がいよいよ松山に上陸進駐することになった時、全員で御幸寺山に登り,教わった軍歌を合唱し,「鬼畜米軍」に殺されてもこの日の秘密は語るまいと誓い合ったことは,子供心にも死を意識しただけに妙に印象に残っている。 |
|
小学校入学が昭和十六年(一九三一年)であり、敗戦の年は小学四年生そして昭和二十三年春に卒業した。 |
小学一,二年生が男女同級,三,四,五年生が男女別学級で、卒業の年が再び男女同級になった。国民学校から小学校に変わり,教科書も一八〇度内容が変わり,聖職だった筈の先生が赤旗を掲げてメ−デ−に参加するのを幼い目で眺めた。正直なところ「革命」についていくのはたいへんなことだった。まさに時代の変革期にあって,男の友情を育ててくれた恩師二神日満男先生と「螢雪会」は、私自身の成長の機軸となり又原点ともなった。 |
二神日満男先生は喜寿で、お元気ではあるが、伊賀上と西本は還暦を待たずにこの世を去っていった。お互いの古い記憶を持ち寄って、「蛍雪会」の記録を纏めてみたい気持ちで一杯である。 |
|
【二神日満男先生】 |
|
南海放送の常務で企業文化局の総取締役である山本敬喜君からの年賀状の添え書きが、私の胸に潜んでいた埋め火を大きく燃やすことになった。 添え書きには、「今年の四月に二神先生の版画展を予定しています。ご協力下さい。」と書いてあった。早速、山本敬喜君宛に、我が燃える思いを伝えた。
平成十年一月十二日 |
賀状にて、二神先生の版画展の吉報、本当に嬉しく存じました。大いに期待しております。 昨年の御幸中学同窓会でも話題になりましたが、この機会に「二神先生を囲む会」を郵便貯金会館でやりましょうよ。 御多忙と思いますが、呼びかけていただきたいのですが。勿論、関東地区は、私が積極的に動きますし、関西では満野久君や古茂田一雄君、酒井完五君とも連絡がとれます。 |
遠隔地を想定すると、土曜または日曜日の午後、又は夕方の企画にしていただくと有難いのですが−−−−−−−。 是非是非お願い致します。二神先生もお喜びになりましょうし、「最初の最後」になるかもしれません。 |
尚、蛍雪会は、松村正俊君以外は連絡可能です。(嘉村、小山、宇都宮、古茂田、岩田、満野、三好。〔死去〕伊賀上、西本。〔不明〕松村) 祝谷、道後、湯之町、石手、岩崎町 の五グループだったのでしょうか。 |
十五日午後から十七日一杯、道後に帰省しておりますので、有志が集まるのであれば参加致します。宜しくお願いします。東京は二年振りの大雪になりました。 「降る雪や 昭和は遠くなりにけり」の実感です。 草々 |
|
|
|
山本君からの電話で、二神先生の受持ち学級のクラス会構想は大きく変更し、昭和二十三年三月卒業の同期会になったこと、併せて発起人に私の名前を加えるので了承してほしい旨要請を受けた。肝心の帰省だが、成人の日は東京地区は大雪で、羽田空港迄出掛けたがANAの欠航で断念せざる得なくなった。一緒に版画展覧会の会場である南海放送サンパーク美術館に立ち寄ることにしていただけに残念至極であった。 |
一月末に、メッセージを送る。 |
平成十年一月二十六日 |
雪の為、楽しみにしていた帰省もままならず、残念な気持ちを引きずっています。昨二十五日、ペンギンクラブ(ペンギンを愛する会)に出掛けたら、「SHALLWE DANCE ?」の周防正行監督が、「年末に松山東高校の女子ボート部の物語を上映します。一月末クランクインで宜敷く。」とのことでした。年初からグッドニュースだなと、一先輩としては喜んだ次第です。 |
昨年秋は、淡島千景が主役の「ゴーイング ウエスト」で道後、松山のシーンを楽しみましたが、今年は母校の姿が本当に映るのでしょうか。 詳しいニュースがありましたら、是非ご案内下さい。今春の小学校同期会と二神先生の展覧会を楽しみにしています。呉々もご自愛ください。 |
|
|
同時に、二神日満男先生にもお手紙を差し上げた。 |
平成十年一月二十六日 |
拝 啓 連日 寒さが続き、東京でも今年になってから三回も大雪に見舞われました。お変わりございませんか。お見舞い申し上げます。久しく久しく御無沙汰致しております。 |
年賀状で、南海放送の山本敬喜君から「二神先生と御令嬢の版画と彫金展を開催するとに賛成して戴いた。桜の季節の開催で、会場はサンパーク。」と連絡がありました。当初は五年竹組で「二神先生を囲む会」を企画したのですが、集まりが集まりを呼び、二十三年卒業の同期会にまで発展した模様で、県外に居る者にとってはこの上ない喜びでもあります。 |
もう十五年近く前になるのでしょうか。大街道の画廊で先生の版画展を、偶々帰省中で鑑賞させていただきました。先生から、「君の家の隣りの『雅夢』に陶器を見に行ったよ。昔の儘だな。懐かしかったよ。」と話していただいたことを鮮明に覚えております。母の十三回忌、父の七回忌も終わり、私自身も六十三歳になり、ぼつぼつ鐘紡での現役生活から足を洗わないと「老害」と言われるのかなとの思っております。 |
春四月は、会社にとりましては新入社員を迎える多忙な月だけに、四十年近く道後の桜を眺めておりません。今年は桜を眺め、先生の版画を拝見し、美酒を酌み交わしながら五年竹組の「悪童仲間達」と貧しかったけれども純粋で楽しかった二神学級の話を語りあえるのかと思いますと今から心が弾んでまいります。 県外の、特に東京・大阪の旧友に声を掛けて、大勢の友人たちと一緒に参加したいと思います。山本敬喜君も、神尾修君や女子軍とも情報を交換し、素晴らしい当日の企画を考えているようです。ぜひ先生と肩を組み合って、我ら五年竹組の「悪童達」「イッヒ ハット アイネン カメラーデン」の大合唱をしたいなと希望しております。 |
昨年秋は、淡島千景主演の『ウエスト ゴーイング』で、初恋の相手である道後尋常小学校の同級生(山村聡)と道後の旅館(葛城旅館)で再会するシーンがあり、なんとなくジーンときました。今年の秋には、「シャル ウイ ダンス ?」の周防正行監督の最近作の舞台が松山のようですし、先生の版画展から始まる今年の故郷との出会いを、本当に待ち遠しく感じております。 |
まだまだ寒さも厳しい折柄、呉々も御自愛専一にてお過ごしになられますようお祈り申し上げております。まずは御挨拶まで。 敬 具 |
二 神 日 満 男 先 生 |
|
|
恩師とは毎年年賀状は差し上げているのだが、折り返し懐かしいお便りを頂戴した。 |
平成十年二月五日 |
拝 復 なつかしいお便り有難うございました。 今のところカゼもひかずに暮らしております。今年はいやに早く椿祭りがやってきて連日混んでいるようです。が、オサイセンにはオサツが少ないそうです。展覧会の件−−−−−−私の作品全部、箱や袋に収納していたのですが、彼(山本敬喜君)のすすめもあって、封印を破ることになったのです。 |
二月二日で八十二歳になりました。生涯最後のイベントと思い、約六十点の作品を額装しております。展覧会が同窓会を呼び、えらく大げさになってヘキエキしております。長い間会っていないので諸君の顔−−−−−−思い出せないかもしれませんが(君の顔は大丈夫)楽しみにしています。教師という職業から足を洗って今年の三月三十一日で二十五年、今はタダの独居老人−−−−−−センセイ、センセイ−−−といわれるのが閉口です。 |
淡島千景−−−−−お母さんはこの女優に似ておられたように記憶しています。 御両親すでに亡く、松山も遠くなりましたね。松山はゲイジュツのない淋しい町です。愛媛県展の役員、松山市美術展の審査員、郵政省主催年賀状四国四県の審査員−−等から身をひき、今は版画も作らず(目を悪くして)油絵を少しづつ描いて、無為の毎日です。 四月に会えるのを楽しみに。 |
|
|
二月下旬に、同期会の案内状を受け取った。 幹事の筆頭に私の名前があり恐縮したが、今井洋子さんと五年竹組当時の仲間である、宇野直資、八塚豪、神尾修、山本敬喜君の六名が幹事として列記されていた。二神学級の県外者には、私から直接電話して参加を要請した。家庭事情や本人の健康状態もあり、それぞれに人生の重荷を抱えていることを実感した。今回の企画は極めて好評であり、企画者の一員としては嬉しい思いであった。 |
現地判断では、出席者は五〜六十名程度と考えていたのだろうが、二神学級中心ということで集まりは三十名であり、現地幹事の活動は大いに評価されるべきだが、結果としては盛り上がりは今一つであったというべきか。 |
□道後小学校五年竹組(二神日満男学級) 総員四十五名 |
出席者 十五名 |
一柳吉彦、上田淳、宇野直資、梅木賢正、柿原邦夫、神尾修、 小山平、白石巌、中西和雄、日和佐善朗、 満野久、三好恭治、 山本敬喜、八塚強司、渡部(岩田)有人 |
欠席者 二十二名 |
省略 |
死亡者 五名 |
伊賀上湛、木村功、西本恵幸、三原修司、山本享広 |
不明者 三名 |
一色久和、円義男、松村正俊 |
転校者 三名 |
白石恒夫、西村桂、嘉村武夫 |
|
|
還暦までに五名の学友がこの世を去るとは、残念至極である。そのうち、もっともよく遊び学んだ蛍雪会(十名)の仲間が二人(伊賀上湛、西本恵幸)もいるなんて−−−−。住所不明者の中には、事情により現住所を明示できない友もいるようだ。新派劇ではないが、晴れてクラス会で名乗り会える日が来ることを切々と祈る次第である。蛍雪会の松村正俊、会いたいなあ。 |
女性の中には五十年振りの再会もあったが、苗字はわからなくても名前はすぐに口に出てきた。○○ちゃんというのに一瞬口ごもったが、相手からも「恭(治)ちゃん」と返事が帰ってきた。幼なじみの有難さである。 |
(六年竹組同級) 今井洋子、柏井正子、重田淑江 (一年梅組同級) 鮒田久野さん 和田和子さん
(?年?組同級) 二神良子、西原美和さん |
|
翌四月五日に慌ただしく帰京し、またビジネスの世界に入り込んでしまった。 山本敬喜君宛に礼状を送る。 |
平成十年四月六日 道後小学校二十三年卒同窓会という素晴らしい「春の宵の夢」をプレゼントしていただき有難うございました。 お元気な恩師二神日満男先生のお姿、人生の集積である版画の数々、懐かしいカメラーデン、サンパークの素晴らしい雰囲気、接遇していただいた館長さんと楚々とした「春風さん」と呼びたい和室でのお嬢さん達−−−−−ありがとうございました。 お疲れ様でした。神尾君からの「来年も」という呼びかけ、是非実現したいものです。
「散る桜 残る桜も 散る桜」であっても、散る迄は楚々として咲き続けたいものです。 草 々 |
|
|
併せて二神日満男先生にも礼状を差し上げた。 |
平成十年四月九日 |
散り急ぐ桜を惜しんで、千鳥ケ淵、靖国神社、皇居北の丸公園を散策しました。隅田川畔も同様ですが、東京は桜が随分多いなあと実感しております。昭和二十〜二十一年頃も、道後公園の桜はあった筈でしょうが、あまり印象は残っていません。子供ながら、生活に追われていたのでしょうか。五十年振りに小学生の悪童が集まり、二神先生を囲んで、英語や独逸語で、当時習った歌を歌う−−−−−−「春の夕の夢」を味わせていただきました。ありがとうございました。 |
版画展は、年代の集積とでもいうのでしょうか、具象からやがて抽象化の中での人生へのメッセージといったものを感じました。鮮やかな色調よりも、くすんだ黒の沈積したトーンの方が受け入れやすかったのは、現在の私の気持ちに投影しているのかなとも感じました。先生のお気持ちを尊重しながら、長期展示可能なスペースづくりを山本敬喜君とも語り合いました。また、神尾修君達が中心になるのでしょうが、毎年一回は、次回は是非男メンバーで集まって改めて「授業を受けるか」といった提案も出て、ますます面白くなってまいりました。楽しみであります。 |
鐘紡、大学の先輩であり高野連の会長である牧野直隆氏は八十八歳で矍鑠としておられますし、お元気な先生のお姿を拝し、今後共クラス会にご出席いただけるだろうと信じ、グルッペ全員の結束を更に固めなくてはと考えております。 |
嘉村武夫君(三井生命常務)にも同窓会の雰囲気を伝え、次回は是非とアピールしておきました。気に留めていただいております宇都宮信寿君ですが、私自身会えるのを楽しみにしていただけに残念でした。インフォーマルなボスであっただけに、顔を出したくとも出席したくない気持ちがあるのであれば−−難しいものだと思います。 |
先生には呉々も御自愛いただきまして、ますます御多幸の程お祈り申し上げます。 御息女様にもお宜敷く。 久しぶりにお会いでき、嬉しうございました。 またまた、「先生」と認めさせていただきましたが−−−−−−−−。 |
まずは御礼と御挨拶迄。草 々 |
|
|
一度蒔いた種は、是非育てていきたいし、「一粒万倍」になればどんなに素晴らしいことだろう。慶応の親しい仲間とは、毎月第三水曜日に銀座のBRB(ブルー・レッド&ブルー)で会っているのだが、小学校、中学校、高等学校の仲間達と、なんとなく集まって青春時代と同様に語り合うことができればと思う。 |
そして、先生の健康が許せば、毎回顔を出して頂き「イッヒ ハット アイネン カメラーデン」(私は素晴らしい友を持った)を合唱できれば、何と素晴らしいことであろうか。 |
|
|