資料12号 寳厳寺の再建
(本報告は、伊予史談会の求めにより寄稿し、『伊予史談』第387号<平成29年10月号>の「歴史余話」に掲載された。関係者に面談の上記述したので、平成29年10月時点ではもっとも正確な宝厳寺再建の報告であると考えている。)
はじめに
豊國山遍照院寳厳寺の本堂および庫裡が全焼したのは、平成二五年(2013) 八月一〇日であった。そして、平成二八年(2016)五月十四日、時宗総本山清浄光寺(通称
遊行寺 神奈川県藤沢市)から他阿真円上人法主猊下(第七四代遊行上人)以下約二〇名の僧侶を迎え、寳厳寺本堂・庫裡・一遍上人堂の落慶法要が厳粛に執り行われた。「寳厳寺再建」という壮大なプロジェクトが僅か二年九ヶ月で完成するとは、焼失した直後に寳厳寺の境内で茫然と佇んだ関係者にとって予想しえなかった歴史的事実である。事を成すに「天の時、地の利、人の和」というが、その推進者は一遍上人その人であったのかもしれない。
1、寳厳寺本堂の焼失
平成二五年八月一〇日(土)午後二時一〇分頃、寳厳寺(住職 長岡隆祥)の本堂から出火、棟続きの庫裡にも延焼し、木造平屋計二七〇平方メートルを全焼した。出火原因は特定されていないが、本堂内の漏電によるものと考えられている。火災を発見したのは参詣人で、本堂から煙が出ているのに気付き、住職夫妻に急報し、本堂に駆けつけた時には堂内に煙が充満していたため、国重要文化財「木造一遍上人立像」に近づけなかったという。
寳厳寺史は略するが、古図には、開山堂・奥之院・本堂・毘沙門堂・地蔵堂・鎮守社・庫裡・楼門・総門などを完備し、門前には末坊十二院が並ぶ壮大な伽藍であった(伊予史談会蔵『奥之谷寳厳寺古図蓋慶長以前之図』)。創建以降の火災の記録は不明である。しかし、江戸期に入り時宗教団は、遊行上人の遊行回国が盛大となる一方で受け入れる寺院の負担は増えていた。寳厳寺も疲弊し、歴代遊行上人の四国回国に際しては、松山藩主に寳厳寺の改修をたびたび申し出ている(伊予史談会双書『一遍聖絵・遊行日鑑』)。
焼失直前の寳厳寺には、本堂・楼門・観音堂と庫裡があった。庫裡(第二次世界大戦終戦前建立)を除いて建立は江戸中期とされるが、建築年代は不明である。楼門は現存するが、楼門脇にあった観音堂は老朽化のため平成二六年四月に取り壊された。
2、焼失した寳厳寺の寺宝・史料
本堂内の向拝上の山額、内陣上の名号額、中央の本尊弥陀三尊(春日仏師作)、右壇の国重要文化財「木造一遍上人立像」、左壇の厨子前に「大位牌(河野通信・通広・通俊夫妻)」や『河野氏系譜』一巻などの寺宝は、火災で灰燼に帰した。僅かに焼損した市指定有形文化財(工芸品)「寳厳寺伝来懸仏残欠」一面と「寳厳寺伝来小仏」一躯は、焼失の歴史を伝える歴史資料として平成二六年五月に再指定された。今回の火災について常時公開を批判し、通常は格納しておくべきとの辛らつな批判が行政や博物館関係者に多かった。
時代を遡って述べれば、寳厳寺が無住寺であった時代が長く、本尊の弥陀三尊や木造一遍上人立像は末寺の林迎庵で護持されていた。明治三〇年(1897)
制定の「古社寺保存法」により国内で約二〇〇躯体の仏像などが国宝指定を受け、一遍上人立像も同時期に国宝に指定された。明治三四年日本美術院の岡倉覚三(天心)配下の仏師一行が来松、木造一遍上人立像を修理している。同年七月十二日付で日本美術院と寳厳寺とで交わされた『賓厳寺国宝修繕請負契約書』(奈良国立博物館所蔵)によれば修繕費は一四七円八七銭五厘である。修繕が完了した明治三五年三月中完付で寳厳寺住職中島善應は「国宝之霊像開扉之弁」なる一文を起草して公開に踏み切った。
3、再建への決意
さて、寳厳寺焼失後、再建への決意は早く住職長岡隆祥と檀家総代(烏谷康夫、島崎有三、三好隆、蜂須賀俊一)の初回の総代会は平成二五年八月二四日に仮設の寺務所で開催、平成二八年五月の落慶法要まで毎週一回開催し通算一八〇回を数えた。
同年九月二三日大施餓鬼法要後、檀家総会にて寳厳寺再建案が提案され了承された。浄財勧募目標額は一億五千万円、翌二六年の大施餓鬼法要後の檀家総会で寳厳寺再建のマスタープランが提示され承認された。また、新たに愛媛銀行創立百周年事業として一遍上人堂並びに鋳造一遍上人立像が寄進されることが周知された。しかし、寳厳寺再建に誰よりも尽力され待ち焦がれていた住職長岡隆祥は、寳厳寺再建を確信して同年一〇月十一日遷化された。世寿八二歳。
4、本堂再建と一遍上人堂建立
本堂再建にあたって数社から提案があったが、新本堂の様式監修・設計監理は汎座古典建築様式研究所(主宰 古川禎一)、施工は菅野建設株式会社(代表取締役 菅野隆次)が担当した。時代様式は鎌倉期折衷様とし、屋根は綴葺(しころぶき)で堂内の柱は大木を多用して重厚な構えとした。焼失前の本堂は南向きであったが、再建するにあたり西向きに変更された。さらに、「愛媛銀行創立百周年」にあたり同行から多額の寄付が寄せられ、新たに「一遍上人堂」が新本堂の左方(北方)に建立された。施工は株式会社二神組。平成二六年
十二月二二日、「鍬入れ式」を行い再建工事が開始された。兼務住職に川崎玄倫(当時、時宗第二四教区宗務支所長・尾道海徳寺住職)が就任した。再建の実行本部として建設委員会が設置され、新たに水田茂隆、栗田和夫、水野芳樹が加わった。平成二七年七月四日「上棟式」が執り行われ、「鎚打ちの儀」では、宮大工らが木槌で棟木を打ち工事の安全を祈願した。また、時宗総本山清浄光寺にて修行していた先代住職の次女長岡陽子も読経に加わった。本堂の骨組みは、釘を一本も使わない木組みで組み立てられている。
寳厳寺本堂・庫裡・一遍上人堂の落慶法要は、平成二八年五月十四日午前一〇時から厳修された。法要後、一遍上人以来七百数十年後の現代にも引き継がれている賦算(「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と記されたお札配り)が行われ、他阿真円上人法主猊下より参列者全員に手渡された。
5、浄財寄進
当初の浄財勧募目標額は一億五千万円であった。檀信徒、地元財界、文化団体などへ呼びかけ、平成二八年九月時点で一億八千万円に達した。なお、一遍上人堂と鋳造一遍上人立像は愛媛銀行の寄進であり、浄財総額には含まれていない。
次に、主な寄進について説明する。
〇一遍上人堂 愛媛銀行寄進。堂内には、鋳造一遍上人立像と一遍上人生誕地に因み、総本山清浄光寺の協力により『一遍聖絵』複製が陳列された。
○鋳造一遍上人立像 愛媛銀行寄進。焼失した「国指定重要文化財木造一遍上人立像」の複製。竹中銅器(社長 竹中伸行 富山県高岡市)制作。
○阿弥陀三尊像 二代目南雲(西川隆一)寄進。大正五年一月、温泉郡道後村に生を得た仏師 初代南雲(西川譲)が昭和六一年正月から六三年八月まで約二年半の歳月をかけ精魂込めて制作した絶作。翌六四年一〇月死去。行年七二歳。
○大位牌(河野通信・別府通広・得能通俊夫妻) 福井県鯖江市在の「小黒町河野一族会」(代表河野通弘)寄進。同会は、河野備後守通治の子河野七郎通弘を祖とし、脇屋義助らとともに戦った鯖江の戦いで敗退し土着した河野(得能)氏の末裔。「大位牌」を得能通綱(通俊の曾孫)が寄進したことによる。
○松寿丸(一遍上人幼名)童像 一遍研究家足助威男(大正九年生―平成一五年没)制作。一遍会顧問中川重美寄進。一遍上人生誕会の「湯浴み式」に用いる。同氏は『一遍聖絵』に描かれた窪寺閑室跡発見の最大の功労者である。
○本堂内陣荘厳具 法王山正覚院阿彌陀寺(住職河野哲雄 宮城県仙台市)寄進。寺伝によれば、阿彌陀寺は一遍上人開山とされ、開基は伊達氏四代目当主伊達政依で現在の福島県伊達市に創建、その後、宮城県仙台市新寺小路に移転した名刹である。
〇境内の文学碑七基(一遍上人・正岡子規・酒井黙禅・斎藤茂吉・川田順・河野静雲・黒田杏子)中、上人歌碑「旅衣 木のねかやのねいづくにか 身のすてられぬところあるべき」は、火災時の高熱で石碑に亀裂が走り崩壊の恐れがあるので、窪野の念仏堂に建立した上人歌碑「身をすつる すつる心をすてつれば おもひなき世にすみぞめの袖」を移設。
おわりに
時宗寳厳寺は、一遍生誕地として見事によみがえった。八〇〇年後、二一世紀の善意の寄進が寺宝として燦然と輝いてこそ「寳厳寺再建」の意義があると信じたい。寳厳寺焼失直後の平成二五年秋、『明教』(松山中学・松山東高同窓会誌)第四四号に「寳厳寺炎上す〜在りし寺の記憶の継承の試み〜]を寄稿した。一読願えれば幸甚である。