資料11号 宝厳寺 新「弥陀三尊像」謹刻   仏師 初代南雲 西川 譲

初代南雲 西川 譲
 大正五年一月十一日(1916)温泉郡道後村に生を得た初代南雲(本名 西川譲)は父重次郎、母フサヨを両親に十三歳まで道後の町で育ちました。十三歳の春、香川県善通寺 大西三郎氏に師事し、厳しい徒弟制度の中、仏師としての技術の研鑽に励み終戦を迎えました。
戦後全ての価値観が一変し習得した技術を活かす場もなく、家族の生計を立てるため郷土玩具の研究制作に精進し、それが伊予一刀彫の始りとなります。昭和三〇年(1955)西堀端の奥まった借家に伊予民芸工房を設立し、当時の観光振興策の道筋にも乗り糧を得ることが出来るまでになりました。
二代目南雲   西川 隆一
 昭和四一年私(隆一、二代目南雲)は高校卒業と同時に先代に師事し、親子ともども悪戦苦闘の連続の中、昭和五〇年を機に先代は造仏活動に専念し、私は実質事業を担当することとなりました。先代は死に至るまで仏師として以来十五年日々精進を重ねてまいりました。
 ある時、私に「隆一、仕事は修行だと思え」と語りましたが、自分自身にも言い聞かせていたのだと今は理解出来ます。寒中の冬、酷暑の夏、工房での父の作業する後姿こそまさしく修行そのものでございました。数多くの仏像を手掛けましたが、先般平成二八年(2016)五月十四日の宝厳寺落慶法要開眼供養の儀においてやっと本当の心、魂を得た弥陀三尊となり、ここに父との宿題を果たせたことに安堵する私です。
 平成二五年八月一〇日午後、紅蓮の炎に消える宝厳寺の光景は、さながら地獄絵を見る思いで、何をすることも出来ずただ茫然として上人坂下から見上げるだけの無力な私でした。煙燻る黒い残骸を前に先代長岡住持、総代、檀家各位の再建に向けての実践活動は使命感に満ちた「機敏」そのものでした。私のできることは何か問い詰めました。父より受け継いだ弥陀三尊を寄進させていただくこと―――「そうせよ」と父の声が聞こえたような気がしました。早速、長岡住持にお伝えしたところ大層お喜びになり「これで宝厳寺のご本尊をお迎えすることが出来る」と語られた柔和なお顔を今も忘れることが出来ません、
 当弥陀三尊像は、昭和六一年正月より六三年八月までの約二年半の歳月を懸け精魂込めた先代の絶作となりました。ふと気がつけば、私も当時の父の齢とほぼ同じに達しました。父の古里道後に、そして宝厳寺に寄進させていただくご縁を結べたこと、ただただ有難く思っています。
 濁世に生きる私たちは、自らの力過信し「我が、俺が」と言いたいものですが、人と人との出会いこそ不思議そのもののように思われます。縁を深く意識し一つ一つの出会いを大事に、そのことが仏縁であろうかと軽薄な私は解釈するまでになりました。多くの人たちに支えられ、この小さな私が今ここに生きている。
 先代謹刻の弥陀三尊像完成以来三〇年の歳月が経とうとしています。道後宝厳寺、時宗開祖一遍上人のご誕生寺に新たに安置され、多くの方々に拝仏していただくこのご縁こそ、父と私との言わない、そして見えない約束であり、最後の宿題であったのです。父であり師でもあった初代南雲、西川譲は昭和六四年(1989)一〇月三一日享年七二歳で永眠した。
 おわりに、十三歳の春、父が道後を去るにあたり、善通寺修行に入る朝、母フサヨに残した一首を記します。
 五十年日は暮るるとも嬉しけれ  身には称名残り入るかな 西川 譲
詳しくは『一遍会報』第三八一号掲載の「仏縁 宝厳寺弥陀三尊像謹刻  初代南雲 西川譲について」」をご参照ください