資料10号 宝厳寺の「大位牌」奉納について (寄稿 小黒町河野一族会 代表 河野通弘 氏)
はじめに 宝厳寺の再建をお慶び致しますとともに、大位牌奉納の栄誉を賜りましたことに、心から感謝申し上げます。和田文典氏(元 北条ふるさと館館長)を介して、中立的な立場にある一遍会の三好恭治氏のご協力を頂き、奉納に至った経緯をお知らせしたいと思います。 |
大位牌との対面と大位牌奉納の奇縁 振り返りますと、平成二一年秋に、私達小黒町河野一族会(約三五名)が予定を大幅に遅れて宝厳寺を夕刻六時三〇分頃訪問し、故長岡住職の暖かいおもてなしを受け、一遍上人立像、大位牌と初対面したことを鮮明に覚えております。その日は奥道後で一泊し、翌日北条ふるさと館を訪問しました。以後、和田氏と交流が始 まり、同氏を通じて各地の河野氏とも知り合うことができました。そして、私達「河野家のルーツ」についての長年の疑問が解明できるよう になってきました。 それは、当家の家系図には、[始祖を「河野備後守通治」とし、その子「河野七郎通弘」(系図上正式には「河野七郎 越智通弘」といいます。)が脇屋義助等とともに戦った鯖江の戦い(日野川の戦いともいいます。その時、太平記には「河野七郎」も出てきます。)で深手を負い、近村小黒町村山本道林宅に匿われ、傷の保養をした]と記されております。さらに[傷の保養中に、新田義貞の戦死、脇屋義助の美濃脱出があり、詮方なく道林の娘を娶り居を構える]とあります。 また、なぜ河野備後守通治を始祖としているかについては、[河野備後守通治は金ヶ崎落城を予期し、息子である河野七郎通弘に護持神を渡し、義貞ら(太平記には上下七人とあります。)とともに杣山城(福井県南越前町)に行くことを諭した]とあります。その護持神を祀った八幡神社が現在も当家の隣に存在しています。 私達は、金ヶ崎から後の動きは解っていたのですが、その前が不明でした。和田氏にその点を明らかにしていただきました。大きくは、得能通綱と河野備後守通治との関係(両者は同一人物であること。)、なぜ得能通綱ではなくて河 野備後守通治なのか、等々です。 平成二四年秋、二回目の宝厳寺の訪問をさせていただきました。和田氏、北九州市小倉の河野直重氏、そして私の三人でした。河野直重氏は自分のルーツや河野氏を研究している元ジャーナリストです。本堂で、故長岡住職と懇談しているとき、大位牌の写真撮影を許可していただき(添付写真)、改めて得能通綱(河野備後守通治)が奉納した大位牌を近距離で見ることができ感動したことを覚えております。 得能通綱が奉納した大位牌を、再びその末裔(歴史的には、北国下向をした伊予の一族は金ヶ崎城ですべて戦死で終わっていますし、河野備後守通治と河野七郎通弘の関係についても太平記は触れておりません。)が奉納出来ることの不思議さを痛感し、奇縁を感じた次第です。 |
落慶法要と大位牌入魂式 大位牌の奉納予定を三月吉日としながらも、和田氏からの宝厳寺再建の進捗状況を受け、落慶法要の案内に合わせ前日に奉納する運びとなりました。五月一三日の昼過ぎに、大位牌を両手で抱えて松山駅に着き、和田氏ご夫婦と共に宝厳寺を目指しました。 落慶法要の準備をされていた遊行寺の僧侶に、和田氏が大位牌の経緯を説明し、大位牌を安置する場所の指示を頂きました。その場所はご本尊の足元近くでありました。そこまで厚遇されるとは思いもよらないことでしたので、大変驚き感激した次第です。 さらに落慶法要当日、開眼法要等一連の行事が終了した後に、再び本堂に入られた遊行上人他阿真円師ほか時宗僧二六名一同により、特別に入魂式を執り行っていただき、さらなる感激をおぼえた次第であります。 平成二七年一〇月より大位牌製作者と打合せを重ね、製作者も当方の事情を理解し、出来るだけ忠実に再現すること、そしてこれから長く宝厳寺に残るものなので良いものを作りたいと冬場の漆の乾きにくい時期に細心の注意を払っていただきました。完成予定の三月末日の二週間前、漆を塗って乾いたあとを彫る工程でアクシデントが発生し、製作者からやり直したいとの申し出があり、完成納入日に遅れが生じました。 大位牌(添付写真)への入魂式が終了したとき、「何とか責任が果たせてよかった」という安堵感を覚えました。奇縁を結んでいただいた方々に感謝し、宝厳寺の安寧とご繁栄を願いつつ帰路に着きました。 |
(注記)鯖江市小黒町について 河野通弘氏が居住しておられる鯖江市小黒町は、古くは「越前山本の庄」の中に位置し、江戸時代は福井藩で、古より小黒町村と呼ばれていました。村は元々田が約二三町歩、山が約六町歩で、東側に長泉寺山、西側に日野川が流れ、堤防が完成するまでは、洪水に悩まされていた地域でした。昭和三〇年頃は世帯数が約五〇戸の小さい村でした。 近年は、鯖江市が力を入れている「西山公園」の西側に隣接し、近くに道の駅も出来て、県外からの観光客も訪れるようになり、現在は三五〇戸(共同住宅を含みます。)に増えて、さらに宅地化が進んでいます。その元々の五〇戸のうち現在残っている河野姓の家は一三軒です。その一三軒で「小黒町河野一族会」を結成しており、年に一度の親睦会等を開催して交流しておられます。 【大位牌】 詳しくは『一遍会報』第三三六号掲載の三好恭治理事「宝厳寺の大位牌 〜河野通信夫妻・河野通広夫妻・得能通俊夫妻〜」をご参照ください |