斉藤茂吉 |
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伊予道後 昭和十二年五月(前略)) |
酒井博士の世話で道後温泉八重垣旅館に宿った。道後では三等類の湯(一等霊の湯、二等神の湯、三等養生の湯)に入った。伊佐爾波岡、湯月八幡宮(今伊佐爾波社と云ふ)、宝厳寺(時宗一遍上人開基)等を見た。松前女(売魚婦)。鯛の鋤焼(金竹旅館)。草鞋一足三銭。湯太鼓の音。大正十年三月に私は長崎に去った時、別府から紅丸に乗り、高浜から道後に来て一泊し、松山に一寸立ち寄って直ぐ高松に向かったのであったが、記憶がもはや朦朧としてゐた。以上十八日、十九日、二十日の三日間松山及び道後滞在。
(『柿本人麻呂雑編編』昭和十五年刊) |
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(注)斉藤茂吉は昭和十二年五月十八日松山に来て3日間滞在した。愛人永井ふさ子の招きである。念願の正宗寺を訪ね子規埋髪塔に詣でた。戦争をはさんで二人の交際は消滅した。茂吉の十周忌に「小説中央公論」に総ての恋文が公表された。茂吉はふさ子を捨てたが、女に対する一切の罪悪感は感じていない。詳しくは『一遍会報』第317号「斉藤茂吉と永井ふさ子~四国なるをとめ恋しも~」(菊池佐紀執筆)をご覧ください。 |
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茂吉の記述と菊池佐紀には微妙なずれがある。茂吉は愛人永井ふさ子との松山の三日間を「記憶がもはや朦朧としてゐた」として一切ふれていない。この情事が明るみになるのは、ふさ子が茂吉との恋文を公表してからである。茂吉のずるさとエゴを感じさせる情事であった。 |
ところで、斉藤茂吉は宝厳寺に立ち寄ったのか。郷土資料には記録がない。茂吉の記述のみである。 |