資料9号 宝厳寺を訪ねた文人たち【継続作業中】

夏目漱石 正岡子規
明治廿八年十月六日         子規子

 今日ハ日曜なり天気は快晴なり 病気ハ軽快なり 遊志勃然漱石と共に道後に遊ぶ 三層楼中天に聳えて来客の旅人ひきもきらず
     温泉楼上眺望
   柿の木にとりまかれたる温泉哉
     驚谷に向ふ
   山本やうしろ上りに蕎麦の花
   黄檗の山門深き芭蕉哉
     道後をふり返りて
   稲の穂にに温泉の町低し二百軒
     しる人の墓を尋ねけるに四五年の月日ハ北■の山墳墓を増してつひに見当たらず
   花芒墓いづれとも見定めず
 引き返して鴉渓の花月亭といへるに遊びぬ
   柿の木や宮司か席の門がまへ
   百日紅梢ばかりの寒さ哉
   亭ところところに渓に橋ある紅葉哉
 松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ こゝは一遍上人御誕生の霊地とかや 古往今来当地出身の第一の豪傑なり 妓廊門前の揚柳往来の人をも招かでむなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあはれに覚えて
   古塚や恋のさめたる柳散る
宝厳寺の山門に腰うちかけて
   色里や十歩はなれて秋の風
 ー 以下略 ―
(「散策集」より   講談社版『子規全集』第十三巻 小説 紀行P609 〜622  自筆稿 明治28・10 )
(注)『一遍会報』第313号・314号「宝厳寺内の文学碑(上・下)(今村威執筆)をご覧ください。
長塚 節
明治四十五年七月二十四日
福岡 久保より江宛 (其二九)  長塚 節 絵葉書
十九日に別府を立って直ぐに道後へ行って二日ばかりごろごろしてしまひました。昨日は雨の中を伊予農業銀行頭取で村上霽月といふ御人に案内されて正岡先生の旧宅だの夏目先生の下宿だのぐるぐる見てあるきました。夏目先生の方は表から見た計りですが大変見掛けは綺麗に改造されたのだ相で大分新しくなつてゐました。あなたの御出でになつたのはあそこなんでせう。五色素麺も気に入りました。

石手寺、大山寺には全く驚きました。よくあんないい寺が今日まで保存されてあつたと思ひます。さうして太山寺の観世音六体国宝に成っているのは後冷泉天皇から近衛天皇まで六代共に即位の時必ず納めたのだそうで十一月十七日とかより外は決して見せないといふのを、私は執拗く請うて漸く許を得ました。
それも参詣人が絶えた時といふので今夕六時頃から再び太山寺へ行くはずです。
道後の宝厳寺の上人の木像も国宝ですが此も最初の日に和尚さんに叱られて次の日に行って漸く見せて貰ひました。私は大いに伊予国に満足いたします。

(伊予高嶺より (名所絵ハガキ) (長塚節全集第五巻 書簡集)
(注) 当時の長塚節は病のため婚約者と別れて旅に出ており、より江を柿か母のように頼っていた。より江宛に延べ百通の手紙を出しており、一日に二通以上の便りをすることもあった。
長塚節を叱った和尚とは、明治大正期<明治40年(1907)〜大正11年(1922)>の宝厳寺の学僧 第45世 橘恵勝師です。当時、宝厳寺に「時宗学問所」があり、師は「宗学林学頭」でもありました。詳しくは、『一遍会報』第370号「明治・大正期の宝厳寺学僧 第四五世 橘恵勝師について」(三好恭治執筆)をご覧ください。記事中に明治十一年(1922)とありますが大正十一年の誤りです。訂正してお詫びします。
斉藤茂吉
伊予道後 昭和十二年五月(前略))
 酒井博士の世話で道後温泉八重垣旅館に宿った。道後では三等類の湯(一等霊の湯、二等神の湯、三等養生の湯)に入った。伊佐爾波岡、湯月八幡宮(今伊佐爾波社と云ふ)、宝厳寺(時宗一遍上人開基)等を見た。松前女(売魚婦)。鯛の鋤焼(金竹旅館)。草鞋一足三銭。湯太鼓の音。大正十年三月に私は長崎に去った時、別府から紅丸に乗り、高浜から道後に来て一泊し、松山に一寸立ち寄って直ぐ高松に向かったのであったが、記憶がもはや朦朧としてゐた。以上十八日、十九日、二十日の三日間松山及び道後滞在。

(『柿本人麻呂雑編編』昭和十五年刊)
(注)斉藤茂吉は昭和十二年五月十八日松山に来て3日間滞在した。愛人永井ふさ子の招きである。念願の正宗寺を訪ね子規埋髪塔に詣でた。戦争をはさんで二人の交際は消滅した。茂吉の十周忌に「小説中央公論」に総ての恋文が公表された。茂吉はふさ子を捨てたが、女に対する一切の罪悪感は感じていない。詳しくは『一遍会報』第317号「斉藤茂吉と永井ふさ子〜四国なるをとめ恋しも〜」(菊池佐紀執筆)をご覧ください。
茂吉の記述と菊池佐紀には微妙なずれがある。茂吉は愛人永井ふさ子との松山の三日間を「記憶がもはや朦朧としてゐた」として一切ふれていない。この情事が明るみになるのは、ふさ子が茂吉との恋文を公表してからである。茂吉のずるさとエゴを感じさせる情事であった。
ところで、斉藤茂吉は宝厳寺に立ち寄ったのか。郷土資料には記録がない。茂吉の記述のみである。