資料7号  宝厳寺第五三世住職 長岡隆祥師  平成二六年一〇月一一日ご逝去(『一遍会報』第366号  掲載)


 昨年平成二五年八月一〇日午後二時一〇分頃本堂から出火、本堂並びに庫裏が全焼し、重要文化財一遍木像も焼失しました。その再建に尽力されておられましたが、ご心労も重なりお元気な姿を見せることなく他界されました。ご住職には一遍会の顧問をお願いしていました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 告別式は一〇月一五日一三時から松山市溝辺町の「高須賀想苑」で執り行われました。導師は時宗第二四教区区長・川崎玄倫師(海徳寺)、脇導師は安藤慈善師(浄福寺)・川崎誠師(常称寺)、役僧は長岡義尚師(願成寺)、村瀬映次師(観音寺)の各住職でした。

 野志克仁松山市長、伊予史談会の武智利博名誉会長・高須賀康生会長、宝厳寺再建の施工を担当する汎座古典建築様式研究所代表古川禎一氏(松山市文化財専門委員)はじめ道後湯之町のお歴々、信徒の有力者も顔を見せており、列席者は二五〇人位で盛大でした。一遍会からは、今村威、中川重美、田中弘道、蜂須賀俊一、三好恭治理事と岩田克之監事が列席しました。

 法要の後、島崎有三檀家総代の弔辞では宝厳寺発展の「戦友」として、俳人黒田杏子氏(代理 夏井いつき氏)の弔辞では「文化人」としての師の面影を伝えました。特に弔句五句にこめられた哀悼は列席者の涙を誘いました。

銀杏の落ち尽くしたる宝厳寺
月蝕や伊予の青石露に濡れ
御僧の安らかに発つ秋の虹
上人坂銀河ながるる訣れかな
雁の声長岡隆祥師長逝 

 参列者一同がご遺体に花を添えてお別れし、一四時半頃お見送りをしました。

 ご遺族は、佳子夫人、ご長女まどかさん、次女陽子さんです。参列者への挨拶で、次女陽子さんが語る、厳格でやさしい亡き父への想いが印象的でした。
一〇月一三日愛媛県人権対策協議会主催「第四回人権啓発土曜講座」で武智利博氏(伊予史談会名誉会長)が「『捨聖一遍に学ぶ』―一遍上人と人権―」のテーマで講演され、佳子夫人、次女陽子さんも出席されました。主催者から紹介された陽子さんが「私が宝厳寺を継ぎます」と決意表明し、万雷の拍手となりました。関係者としては「やれやれ。よかった。」と安堵致しました。故・長岡隆祥師も安堵されたことでしょう。

 一遍会例会では小沼大八代表から「宝厳寺五三世 長岡隆祥師の長逝を悼む」と題した講話を通して、長年にわたり一遍会活動を支援していただいたご厚意に深く感謝の念を捧げご冥福を祈りました。
秋の「窪寺まんじゅしゃげ祭り(一遍忌)」や、早春の宝厳寺境内での「松寿丸湯浴み式」(一遍生誕会)でのご住職の姿を思い浮かべられた会員も多いことでしょう。
昨年の宝厳寺の出火時刻には一遍会八月例会「一遍聖絵」を講話中でしたし、また住職のご逝去当日は一〇月度例会で「宝厳寺の再建計画」と「一遍上人の木像」についての卓話中でした。不思議なめぐり合わせを感じております。 合掌    (文責 理事 三好恭治)


宝厳寺五十三世桂光院其阿上人隆祥老和尚(長岡隆祥師)略歴

昭和八年二月二一日
愛媛県喜多郡内子町時宗願成寺にて父(恵文)母(トク)の六人兄姉の末子として誕生。九歳で父と死別。  
昭和二三年四月
愛媛県立内子高等学校入学
(旧制大洲中学校入学、教育制度改革により新制内子高校に移る。)
(注)二五年作家大江健三郎同高校に入学。
昭和二七年四月
龍谷大学教育学部哲学科入学
(注)龍谷大学二七会の結束は固く第三二回総会は道後で開催された。
昭和三一年三月
同大学卒業。
西予市宇和中学校教諭(音楽)として約五年間勤務。
(注)宇和中学校の教え子との交流は終生続き同期会招待を楽しみにしておられた。
昭和五八年五月
時宗宝厳寺に赴任。
浅山佳子と結婚。
昭和五九年一〇月九日
長女まどか誕生
平成元年八月一五日
次女陽子誕生
平成二六年一〇月一一日
逝去 享年八二歳
墓所  宝厳寺 墓地(歴代住職墓地)

注:長岡隆祥師)略歴は「個人情報」につき、資料として公開するときは、必ず一遍会事務局に事前にご連絡ください。事前連絡なき場合は、内容に関して一切責任を持ちません。
一遍会事務局アドレス miyoshik@tau.e-catv.ne.jp