資料5号 『一遍の跡をたずねて』 (一遍生誕750年 没後700年 記念事業会 平成元年(1989)7月刊 )
1、正岡子規 『散策集』 |
「古往今来当地出身の第一の豪傑なり。」 |
2、『一遍聖絵』第十 大三島の条 越智益躬 |
「聖の曩祖越智益躬は当社の氏人なり、幼稚の年より衰老の日にいたるまで朝廷につかへては三略の武勇を事とし、私門にかへれては九品の浄業をつとめとす。○髪をそらざれども法名うをつけ十戒をうけき。つゐに臨終正念にして往生をとげ、音楽そらにきこえて尊卑にはあつまる。かるがゆへに名を往生伝にあらはし誉を子孫の家にをよぼす 」 |
(注)曩祖 のうそ |
3、吾妻鏡 河野通清 |
「治承五年閏二月十一日戊牛、伊予国住人・河野四郎越智通清為反平家 率軍兵押領当主国之由」 |
4、予章記 河野通清 |
「三島大明神の実子なり」 |
5、吾妻鏡 河野通信 |
「河野四郎通信、土器を持たしめ、食事の毎度これを用う ・・・・ 椿事の由人口にあり」 |
6、吾妻鏡 河野通信 |
「承久三年(1221)六月二十八日、伊予国の住人河野入道(通信)、当国の武士等を相従へて合戦するの間、一方の張本人たり、よって討罰すべきの由・・・」 |
7、地蔵霊験記 河野通広七郎左衛門 |
「伊予の国に河野七郎通広とて物の哀れをも知らぬ傍若無人のものなりしが入道して如仏とぞ申しける 」 |
8、宝厳寺蔵 河野系図 河野通広七郎左衛門 |
「出雲岡烏谷に葬る、小祠建営、称河野父神廟」 |
9、一遍上人古細集 河野通広七郎左衛門 |
「河野七郎は承久元年己卯後鳥羽上皇院の時、病気に依り予州に留り院の催促に応ぜず、故に院敗北の後、通信流浪と雖も嫡子通信関東に属して軍忠あり、故に本領安堵せり」 |
10、予陽郡郷俚諺集 河野通広七郎左衛門 |
「七郎明神是は一遍上人の父河野七郎通広を祝ひ祭る宮也。湯神社石壇の端に祠有り」 |
11、伊予国旧蹟考 河野通広七郎左衛門 |
「七郎明神は湯神社の坂中右脇の小社也。七郎大明神児守の御前と有是也・・・・・。此御神ハ小児を守り玉ふ也」 |
12、宝厳寺蔵 河野系図 河野別府七郎左衛門 |
「拝志郷別府庄領以(?)氏矣 (拝志郷別府庄を領す 以て氏となす)」 |