資料4号 宝厳寺の大位牌 〜河野通信夫妻・河野通広夫妻・得能通俊夫妻〜
一、はじめに |
毎年三月第二土曜日に宝厳寺で開催します一遍聖生誕会並びに松壽丸(一遍聖幼名)湯浴み式に、本年も一遍会員のみならず多くの一遍さんフアンの方々がお参り頂きまして主催者の一人として御礼申し上げます。 三年前から一遍聖生誕会と同時に開催しております例会での講話を「道後学の試み」としてシリーズ化致しました。 第一回は一遍会理事の田中弘道氏が「湯築城下町、湯之町と寺井内川水系」、第二回は宝厳寺の檀家でもあります伊予史談会監事の二神将氏が「子規『散策集』と宝厳寺界隈〜記録収集を通して〜」を発表いただきました。第三回は生誕会法要が執行されます宝厳寺本堂で参拝者のほとんどの方が気付いておられない由緒ある「大位牌」を主題にお話して、ご一緒に一遍さんのご生誕をお祝い申し上げたいと思います。 |
第一章 一遍生誕寺 宝厳寺 |
(1)宝厳寺の大位牌 |
本堂の正面には春日作の「阿弥陀三尊」が安置されています。向かって右側(法師席)にはご存知の国指定重要文化財の「一遍立像」が今にも歩き出そうとする遊行姿で立っておられます。左側(尼席)の御簾の前にこれからお話しする「大位牌」があります。位牌の高さは約六〇センチもあります。 |
大位牌の中央上部に「南無阿弥陀仏」とあり、中央に東禅院殿観光大居士通信 智光院殿玉慧大姉の戒名があり、右側に 東源院殿観山大居士通広 大智院殿恵性大姉、左側に 東勝院殿観誓大居士通俊 智應院殿恵琳大姉」の戒名が刻まれています。河野通信夫妻 (一遍祖父・祖母)・河野通広夫妻(一遍父・母)・得能通俊夫妻(一遍伯父・伯母)の戒名ですが、越智・河野家の氏神「三島明神」の本地仏が「大通智勝仏」で男子には命名に当って「通」の字を付けました。室(夫人)の戒名には「智」を付けていますので「通智」で完結することになります。因みに「大通智勝仏」は「法華経化城喩品」に書かれている過去に出現して法華経を説いたという仏で阿弥陀如来・釈迦如来の父に当たります。大は空、通は仮、智は中道で、空仮中の三観を表しています。 |
(2)宝厳寺縁起 |
宝厳寺については数多くの解説書がありご理解いただいていると思いますが、大正五年(一九一六)宝厳寺二十六世其阿覚住住持が著した『宝厳寺縁起』の紹介を兼ねて解説してまいります。 |
【遊行元祖一遍上人御誕生舊跡たる伊予国道後場之町時宗寶厳寺は、人皇第三十七代斎明天皇の勅願に依り、天智天皇即位四年(六六五年)国司散位乎智宿禰守輿命を奉して伽藍を創建し子院十二坊を置く、曰く法雲、善成、輿安、醫王、光明、東昭、歓喜、林鐘、正傳、来迎、浄福、弘願是なり、今の松ケ枝町は其址なり、本尊は春日作三尊阿弥陀如来なり】、 (注)春日(春日定慶。鎌倉時代の仏像師)。散位(官名・四位または五位で国府分番勤務)。乎智(越智) |
【初め法相宗にして主僧法興律師之に任す、此地道後温泉の東方奥谷と呼び斉明天皇並に天智天武三帝御行在の古跡なり、大同元年(八〇六)弘法大師九州より皈途当山に留錫す、貞観十三年(八六一)勅許に依り出雲岡及び伊佐爾波二社神殿に於て祈雨の修法をなし、大に霊験あり爾来二社の別當を兼ぬ、天慶三年(九四〇)又勅命あり逆徒降伏の祈願をなし、主僧定照丹誠を抽んで奏功の後国守散位好方より橘郷饒田の里を寺領に賜る、】 (注)逆徒降伏(藤原純友の乱) 好方(越智押領使好方、純友を備前児島で誅す) 橘郷(越智支族の橘氏所領) 饒田の里(饒田+津=熟田津) |
【建暦三年(一二一三)當山十一世真恵和尚京都鞍馬山より毘沙門天の御像を勧請す、国守伊豫之介通俊厄除のため友月台に其堂宇を建立す、嘉禎三年(一二三七)前相国西園寺實氏下向の砌當山に入り如意輪観世音を信仰して霊験を蒙り厚く之を供養せり、延應元年(一二三九)河野通廣の二男松壽丸當山別院に於て誕生す、之を時宗の開祖一遍上人とす、】 (注)国守伊豫之介通俊(得能通俊) |
【天長七年〈八三〇〉天台宗に改宗し建治元年(一二七五)又時宗となる、明徳三年一二七五()河野通範鐘棲閣を建立せり、文明七年(一四七五)河野刑部大輔通直本堂庫裡開山堂を再建す、天正十二年(一五八四)国守小早川隆景従来の寺領たる永田十五町三反歩を寄附す、然るに天正十六年(一五八八)国主福島正則故なく之を没収せり、寛文二年(一六六二)鐘楼門修繕四大柱は明徳三年の物を用ゆ、】 (注)建治元年(『一遍聖絵』のよれば「熊野をいで給て京をめぐり西海道をへて本国にかへりいり給。」) |
【延寶五年(一六七七)松平隠岐守定直公寺禄二十石を寄称せり、寛永七年(一六三〇)観音堂再建同九年縁應和尚梵鐘を再鋳せり、現在の本堂は安永三年(一七七四)の改築にして庫裏は元禄十三年(一七〇〇)の建築なり、現境内六百六十餘坪北東南の三面山を繞らし、松樹蓊欝として青翆滴るが如う、南伊佐爾波神社に界し西遥に松山戚を望見す。開基以来大正十五年(一九二六)千二百六十年の星霜を経過せり。 (注)製作年月は不明ですが「宝厳寺古図」の写し(伊予史談会所蔵)が残っており、上述の「宝厳寺縁起」に記載されている塔頭・御堂に対応しています。すなわち、総門 地蔵堂 塔頭十二房(法雲・善成・興安・医王・光明・東昭・歓喜・林鐘・正伝・林迎・浄福・弘願)毘沙門堂、厨裡、鎮守社、楼門、本堂、開山堂、奥の院です。 |
(3)湯築城と宝厳寺 |
道後公園(湯築城址)に河野通有の懇請で一遍聖が六字名号を記した湯釜薬師が現存していますが、これを以って一遍の時代に湯築城が既に築城されていたと誤解している向きが多いので正しておきます。 |
「湯築(湯月・湯付)城」の初出史料は@興国三年(一三四二)忽那氏「湯築城責」(『忽那一族軍忠次』)A貞治三年(一三六四)河野通堯「温泉郡湯月城ヲ細川武蔵守奪ヒ取レ」(『予章記』)B貞治四年(1365)河野通堯「囲湯築城令攻之」(『予陽河野家』)です。一遍の逝去は正応二年(一二八九)ですから死後五〇年近く経過しています。尚、一遍と通有は従兄弟です。(注)一遍父通広と道有父通継は異母(新居太夫玉氏女・北条時政女)兄弟です。 |
第二章 河野通信夫妻 |
(1)河野通信の生涯 |
伊予の豪族河野家の中興の祖であり、源平合戦の時代から源氏方に立ち、平家追討の功績により鎌倉殿源頼朝に直接臣従を許され所領を安堵された。鎌倉に常駐し北条時政の女「谷」を迎え三男一女を儲ける。生年は不明である。 文治五年(一一八九)の奥州合戦、正治元年(一一九九)の梶原景時排斥にも参戦、その奉公を賞されて建仁三年(一二〇八)伊予国帰国に際し守護に属さず道後七郡の近親・郎従を統率する権限を与えられ、伊予国内に勢力を拡大したが、承久の乱で京方に立ったため伊予国他国領所五十三ケ所、公田六十余町、一族百四十余人、旧領これを没収せられ、奥州江刺に流され、配所で貞応二年(一二二三)五月没した。 |
(2)通信の室について |
通信の室は少なくとも三名は確認できる。最初の室は道前(現愛媛県東予地方)の豪族である新居太夫玉氏の女で長子通俊と次子通広をもうけた。通俊は得能氏の祖であるが、一族とともに宮方として承久の乱に加わり戦死する。実子通秀は武家方であったので本領(得能庄)は安堵され、その子通純・通村(通純実弟)を経て、通俊の曾孫に当る道綱が「宝厳寺の大位牌」で祖霊を供養した。次男の通広は別府七郎左衛門とも呼ばれ、一遍の実父であるが別項を設けて詳述する。 次の室には鎌倉の有力武将二階堂信濃民部入道の女を迎え(『予章記』)、一子通末をもうける。通末は承久の乱後、信州小田切に流刑されるが、二階堂信濃民部は武家方でその功により阿波国の地頭となっている。 次の室が北条時政の女で、源頼朝の室である政子の妹「谷」である。異説もあるが三男一女をもうける。 長子通政は、後鳥羽院の寵愛を受けた姫を室に迎え、承久の乱後、通説では信州広葉にて斬殺された。次子通久、三子通継は鎌倉に在って武家方として功績を挙げ、承久の乱以降河野家の正統として伊予国(道後七郡)を支配することになる。尚、河野通有は通継の実子で一遍の従弟に当る。通有の懇請で一遍は六字名号を記し現在湯釜薬師として奉られている。一女は将軍頼家に仕え竹の御所(将軍藤原頼政室)を生む。通称美濃局である。美濃国二木郷(岐阜・墨俣)、肥後国砥河・木崎郷(熊本・益城)の本主で美濃河野氏の起因となっている。そのほかに通宗がいるが、諸説あり、母は不詳である。 |
(3)通信の剃髪について |
通信は北条時政の女「谷」を室に迎えたが、時政の女婿である梶原景時や畠山重忠らは幕府内の勢力抗争の中で弾劾や謀反嫌疑を受け悲惨な最期を遂げている。北条時政自身が「牧氏事件」(一二〇五)で出家追放になり伊豆国で幽閉中に死去するが、時政に重用された河野通信も連座を恐れ剃髪し入道となり「観光」を名乗った。鎌倉に居た通広(一遍父)も父と同じく剃髪したと推定されるが、「如仏」を名乗るのは後年であろう。 通信は鎌倉初期における優れた武将であるが寄進した社寺は不明である。幕府から道後七郡の統治を委任され、宝厳寺が在る温泉郡も含まれているのだが、風早・高縄を拠点とする通信にとって、宝厳寺界隈は戦略的に重要な拠点ではなかったらしく記録がない。 |
(4)承久の変前後の伊予国統治 |
奈良・平安時代から伊予国は中央からは上国と位置づけられ、社寺、公家の荘園が数多く点在した。伊予国守護は源氏が握り地頭には配下の宇都宮氏が任ぜられている。年代別に記すと守護は源頼光・源満仲・源満政・源頼義・源義家・平重房・源義仲。源義経と続き、地頭職は佐々木盛綱・宇都宮頼綱・宇都宮頼業・宇都宮豊房宇都宮貞宗らが任官されている。 承久の変では土佐・阿波・讃岐・伊予(道前)の守護であった佐々木氏が宮方に加勢したので、讃岐・土佐の国司は細川氏、阿波の国司は信濃小笠原氏(土着して三好氏)となり、配下の二階堂氏が地頭に任ぜられている。 伊予(道後)の守護河野氏も、@道後七郡守護職A久米郡以下諸所地頭職B奥州三迫領(宮城県旧栗原郡)C宇都宮領(栃木県)ほか五十三箇所の領地没収、一族百四十九人の所領が没収された。鎌倉武士である多賀谷氏(周布郡、桑村郡、越智郡)、江戸氏(風早郡、和気郡)金子氏(宇摩郡、新居郡)らがその没収地の地頭・目代に任ぜられているが、河野氏の本拠地である高縄山や風早郡河野庄の地頭は不明である。河野氏の復権までは幕府が直轄したのではあるまいか。 |
第三章 河野(得能)通俊夫妻 |
(1)河野(得能)通俊の生涯 |
通俊の実像はほとんど伝わっていない。生年は不詳である。父は河野通信、母は伊予国の豪族新居太夫玉氏の女である。桑村郡徳能荘(丹原町徳能)を所領し得能氏の祖となる。 通俊は通信の長子であり、鎌倉幕府の成立後は父通信とともに鎌倉に在って幕府に仕えている。文治五年(一一八九)頼朝による奥州藤原氏(平泉)討伐には通信とともに従軍しており、戦功により伊予国久米郡と陸奥国栗原郡三迫郷(のち葛岡村)を与えられた。(『予章記』)、この地に残った通俊の子通重が地頭として奥州河野家の礎になる。一遍を陸奥国江刺の祖父通信の墓に道案内したのは通重の次男通次であった。 承久の乱(一二二一)では宮方になった河野通信らを討伐すべく鎌倉軍は高縄城を包囲し、通俊は戦死し、通信、通政、通末らは捕縛され流刑となった。長子通秀と叔父河野通広は、承久の乱後も、ともに伊予国に住し、遍照院(宝厳寺)を支援し「湯の館」(友月台の堂宇)を設けた。なぜ通俊と通広は本領が安堵されたかについては次項で触れたい。 |
(2)通俊の母と室について |
通俊・通広の母は新居太夫玉氏の女である。ここで伊予国における小千(越智)氏と新居氏・河野氏・別宮氏・得能氏の関連にふれておきたい。伊予の名門越智氏は、通説では、小千益躬(越智益躬)から始まり・・・・守興(宝厳寺創建)─玉興─玉澄と続き、やがて為世(新居祖)、為朝(別宮祖)、為時(河野祖)に分立する。河野通信と新居玉氏女との結びつきで強固な結束が図られたと考えられる。 輿入れに当って相応の財産権を付与されたと考えると、通俊の得能庄と通広の別府は元来新居氏の所領で新居玉氏女の財産とすると、河野氏の所領ではないので、承久の乱後、両家とも「本領安堵」されたとも理解できる。 (注)承久の乱では通俊男通秀、通広男通真は武家方(北条方)との資料もあり、年少でもあり実母とともに(人質として)鎌倉に引き留められ、通久(北条時政女の男子)軍に編入されたとも推察される。今後、史料による検証が待たれる。通俊の室については皆目不詳である。 |
第四章 河野通広夫妻 |
(1) 河野通広の生涯 |
一遍の父である河野通広について正確な史実は殆んど不詳である。河野通信の二男(または三男)とも通信の弟通経の子とも云われる。(『河野系図』) 生年月も不詳であるが七〇才以上の長命であった。没年は弘長三年(一二六三)五月二四日、一遍二四歳の時であった。 (注)承久の乱(一二二一)時、長子「通真」が北条方で元服を前提にすれば通広は当時三〇歳以上である。死亡した弘長三年まで四二年が経過している。 『一遍聖絵』によれば京都で浄土宗西山派の証空の下で聖達、華台とともに浄土門の修行をしている。一方、別府七郎左衛門を名乗り後年、四人(または三人)の男子とともに伊予国の「別府」で所領を管理しつつ僧形で過ごした。その面影は一遍の九州出立に当り家の軒下から見送る場面から見て取れる。(『一遍聖絵』) 所領は「別府」であるが、@拝志郷別府A北条郷別府B府中別府C「道後郷別府」説があるが、宝厳寺別院(塔頭)で一遍が生誕したとすると、奥谷・宝厳寺(当時は天台宗)が「河野氏菩提寺」であり「道後郷別府」説もあながち否定できない。 通広の墓は拝志郡別府(旧重信町仙幸寺部落)の五輪塔であるとの伝承があるが、河野一族の墓としても通広の墓とは特定できない。一方、道後には通広を祭る神社が湯神社(子守社)と岩崎神社(湯築城跡)にあり、歴代遊行上人の伊予国巡察時には必ず参拝している。(『遊行日鑑』) 『宝厳寺系図』には「出雲岡烏谷に葬る、小祠建営、称河野父神廟」とあり、この伝承を裏打ちしている。 |
(2)通広の母と室 |
母は新居太夫玉氏女で得能通俊の実弟である。 妻、妾は少なくとも三人は上げることができる。長兄通真の母は不明である。次兄(一説では実弟)仙阿(伊豆坊)と一遍の母は鎌倉有力幕閣である大江広元につながる大江氏の女である。(『一遍上人年賦略』) 通説では、一遍の異母弟とされる聖戒(通定・伊予坊)の母は不詳である。『宝厳寺系図』によれば、聖戒の父は通広の末弟「道康」(法名弥佛))である。 |
(3)出家の経緯 |
出家名は「如佛」であるが、出家時期は不詳である。元久二年(一二〇五)、北条時政が妾「牧」と結託して娘婿「平賀朝雅」を新将軍に担ぎ出そうとするも義時・政子の反対で失脚し、出家の上、鎌倉を追放された。時政に長年仕えた武将の多くがこの時期に出家して「入道」となっており、河野通信も剃髪し「観光」を名乗った。通広も父通信に倣い、出家を決意したとも考えられる。出家場所は不詳であるが@鎌倉かA京都の西山善峰・往生院で証空上人の下で、兄弟弟子にあたる聖達、華台とともに仏道に勤しんだ時期が考えられる。承久の乱(一二二一)以降の伊予国での出家は、自領である別府の所領安堵を考慮すると無理がある。 |
おわりに |
宝厳寺と「大位牌」に刻まれた河野通信、河野通広、河野(得能)通俊について説明してきたが、おわりに祖霊を供養した得能道綱についてふれたい。 |
道綱は得能通俊の曾孫に当る。通俊・通秀・通純・通村・通綱と続く。通村は通純の実弟である。通綱は通村の子で通称又太郎。生年は不詳であるが没年は建武四年・延元二年三月(一三三七)である。 (注)通純の事績としては国重要文化財「宝筐印塔」三基を一遍示寂三十回忌の節目に氏寺である大三島に建立した。また松山の中心部に在る大林寺に得能氏の大五輪墓があり、得能通純の墓と伝わっている。 河野通信室である越智玉氏女の実家である新居家の菩提寺は観念寺であるが『観念寺文書』によれば当初は時宗寺院で後に臨済宗に改宗している。玉氏の子・新居盛氏の室は尊阿であり、定阿・智阿・弥阿と阿号がつながっていく。一遍も「国中あまねく勧進し」(『一遍聖絵』)た折、観念寺を訪ねたかもしれない。得能庄と観念寺は近いので通綱も訪れたに違いあるまい。 通綱の事績として建武元年・元弘四年(一三三四)に@宝厳寺再建(塔頭十二坊)A「一遍上人御誕生旧跡」碑建立があり、その法要に大位牌を供えたと考えられる。『太平記』などによれば、 正慶二年・元弘三年 (一三三三)年に後醍醐天皇方として伊予国で挙兵し幕府方の軍と戦う。その後、新田義貞軍に属し、建武三年(一三三六)年二月には摂津国打出浜(芦屋市)で、同年五月には湊川(神戸市)で足利軍と戦った。さらに一〇月には恒良親王を擁して北陸に下る新田義貞軍と合流するが、翌建武四年(一三三七)三月越前国金崎城(敦賀市)で斯波高経らの攻撃を受けて戦死した。 承久の乱(一二二一)で宮方に加担した河野通信以下の伊予河野衆の衰亡から一世紀を経て再び宮方と武家方の「南北朝の抗争」が勃発する。戦乱の暫しの安穏の時期に宝厳寺を再建し「一遍上人御誕生旧跡」碑を建立し、華やかに法要を執り行ったのは、単に先祖供養ではなく、通信・通俊への弔い合戦であり、宝厳寺を得能氏の菩提寺(氏寺)として、一遍時衆による未来永劫にわたる伊予河野家ならびに得能家の供養を念じたのではあるまいか。 |
宝厳寺本堂の阿弥陀三尊をはさんで一遍立像と大位牌が法師席と尼席に奉られていることに深い感動を覚えるのは私一人だろうか。 江戸期に入り、道後温泉を管理した「鍵屋」は新居郡金子城主金子備後守の末裔で「明王院金子氏」を名乗った越智一族であることを付言しておきたい。(『松山俚人談』) |