資料3号 宝厳寺二十六世 其阿覚住 著 「宝厳寺縁起」

◎寶厳寺略縁起
遊行元祖一遍上人御誕生舊跡たる伊予国道後場之町時宗寶厳寺は、人皇第三十七代斎明天皇の勅願に依り、天智天皇即位四年国司散位乎智宿禰守輿命を奉して伽藍を創建し子院十二坊を置く、曰く法雲、善成、輿安、醫王、光明、東昭、歓喜、林鐘、正傳、来迎、浄福、弘願是なり、今の松ケ枝町は其址なり、本尊は春日作三尊阿弥陀如来なり、
初め法相宗にして主僧法興律師之に任す、此地道後温泉の東方奥谷と呼び斉明天皇並に天智天武三帝御行在の古跡なり、大同元年弘法大師九州より皈途当山に留錫す、貞観十三年勅許に依ら出雲岡及び伊佐爾波二社神殿に於て祈雨の修法をなし、大に霊験あり爾来二社の別當を兼ぬ、天慶三年又勅命あり逆徒降伏の祈願をなし、主僧定照丹誠を抽んで奏功の後国守散位好方より橘郷饒田の里を寺領に賜る、
建暦三年當山十一世真恵和尚京都鞍馬山より毘沙門天の御像を勧請す、国守伊豫之介通俊厄除のため友月台に其堂宇を建立す、嘉禎三年前相国西園寺實氏下向の砌當山に入り如意輪観世音を信仰して霊験を蒙り厚く之を供養せり、延應元年河野通廣の二男松壽丸當山別院に於て誕生す、之を時宗の開祖一遍上人とす、
天長七年天台宗に改宗し建治元年又時宗となる、明徳三年河野通範鐘棲閣を建立せり、文明七年河野刑部大輔通直本堂庫裡開山堂を再建す、天正十二年国守小早川隆景従来の寺領たる永田十五町三反歩を寄附す、然るに天正十六年国主福島正則故なく之を没収せり、寛文二年鐘楼門修繕四大柱は明徳三年の物を用ゆ、
延寶五年松平隠岐守定直公寺禄二十石を寄付せり、寛永七年観音堂再建同九年縁應和尚梵鐘を再鋳せり、現在の本堂は安永三年の改築にして庫裏は元禄十三年の建築なり、現境内六百六十餘坪北東南の三面山を繞らし、松樹蓊欝として青翆滴るが如う、南伊佐爾波神社に界し西遥に松山戚を望見す。開基以来大正十五年千二百六十年の星霜を経過せり。
◎遊行上人の巡化
一遍上人は遊行の元祖なり、破衣一笠一所不住にして諸国に遊行し、芳躅殆んど全国に普ねし、爾後代々の上人亦祖師の遺風に随って広く全国に遊行せらゝること今も昔の如し、
而して遊行十二代尊観法親王以後は朝廷に於ても特に南朝門流の格を以て破格の優遇を給はり、将軍義満宣旨を奉して之を諸国守護職に令しければ、遊行上人の巡化せらるゝところ、宿所食膳の設備、駅伝夫馬の使役等悉く其行先領主より支辨せられ教況盛大を極めたり、然れば随行の僧俗も常に七八十人に達せり。去れど當山は交通不便の地なるを以て、上人の巡化も餘り頻繁ならず、
寛文年間には遊行四十二代南門上人當山に巡化せられて後醍醐天皇の御遠忌を奉修せられ、元禄十三年には四十六代尊証上人、享保元年には四十九代一法上人、延享二年には五十一代賦存上人、安永三年には五十三代尊如上人、文政七年には五十六代傾心上人、明治十三年には五十九代尊教上人、明治二十年には六十代一真上人、大正十年には六十四代尊昭上人當山に巡化せられたり。
【文献】 「寶厳寺略縁起 一遍上人略伝並に和歌」 小林覚住著 昭和二年三月三十日発行 寶厳寺