資料1号 江戸期における四国の時宗寺院一覧 

1、時宗 藤沢 遊行 末寺帳(内閣文庫蔵)
伊  予 奥谷元祖出所 寶 厳 寺
讃  岐 記載なし
阿  波 記載なし
土  佐 記載なし
2、遊行派末寺帳 (京都七条道場旧蔵)
阿波 四郡 常 福 寺 賀茂
. 善 成 寺 画間
. 弘 願 寺 二階堂
. 光 摂 寺 八万
伊予十四郡 定 善 寺 松前
. 寶 厳 寺 奥谷(後筆)道後村
. 入 仏 寺 八蔵
. 円 福 寺 .
. 願 成 寺 宮床(後筆)内ノ子村
. 保 寿 寺
土佐 七郡 乗 台 寺 佐河
. 善 楽 寺 一山
. 西 念 寺 一野
讃岐十三郡 輿 善 寺 爾保
. 江 照 寺 宇多津郷(後筆)足(後筆)
. 浄 土 寺 由佐 尼
. 興 勝 寺 勝間
. 興 徳 寺 太田 尼
. 高 称 寺 観音堂 尼
. 荘 厳 寺 一宮
3、各派別本末書上覚 (水戸彰考館蔵)
清浄光寺末寺 讃岐国宇多郡宇多津 江 照 寺
清浄光寺末寺 伊予国 松山道後奥谷 宝 厳 寺
清浄光寺末寺 伊予国喜田郡内之子村 願 成 寺
願成寺末寺 伊予国喜田郡知清村  吟 松 院
4、各派別下寺院諜(会津弘長寺蔵)
伊予国 松山道後奥谷 宝 厳 寺
伊予国 内子村 願 成 寺
讃岐国宇多郡 江 照 寺
土佐国 記載なし
阿波国 記載なし
5、時宗十二派本末惣寺院名簿(竹野弘長寺蔵)
阿  波 カモ 常 福 寺  
. 昼間   善 成 寺 
. ニカイドウ 弘 願 寺
. 八万 光 照 寺
伊  予 松前 定 善 寺  
. 奥谷 宝 厳 寺  
. 八蔵 入 仏 寺  
. 円 福 寺
. 宮床 願 成 寺  
. 保 寿 寺  
土  佐 佐河 乗 台 寺  
. 一山 善 楽 寺  
. 一野 西 念 寺  
讃  岐 ウタツ 江 照 寺
. 爾保 輿 善 寺 
. 由佐 浄 土 寺 尼
. カツマ 興 勝 寺
. 太田 興 徳 寺  
. 観音堂 万 称 寺 尼
. 一宮 荘 厳 寺 
【文献】 時宗本末帳 時宗史料第二(昭和40年4月9日)大橋俊雄編著 教学研究所発行
【研究メモ】
一遍時衆(時宗)を研究しておられる方にとっては興味深い史資料もあろうかと思います。四国には、時衆(時宗)寺院は室町期には少なくとも20寺院〜30寺院は存在したと考えています。(伊予国では15寺院以上で、宝厳寺の塔中12院を加えると30寺院。)各地の歴史研究会からの情報をお待ちしています。
伊予国の「陽」に所在した「保寿寺」について、小字あるいは「ほの木」の「陽」を調査しています。愛媛県出身で記憶の中に「陽」なる地名をご存知の方は是非ご教示下さい。
@【定善寺 松前】
○松前町大字西古泉六五番地にある「金蓮寺」は古くは「性善寺」といった。尚「性善寺」は「定善寺」の転訛と推定する。(『俚諺集』)
○定善寺は金蓮寺の一塔頭寺院。同寺の「鰐口」の銘に「佐川備中守寄進天文廿二発丑三月日 伊予松前定善寺」とある。(『県史』)
○「松前村に在り。本尊薬師如来。後堀川院寛喜三年(1231)の草創にして、唐僧明海上人開基也といへり。
『俚言集』に云ふ。後堀川院(86代天皇 (1221〜1232))」御悩の時、明海を召され 修法有ければ御悩平癒し玉へり。其賞として永世此地を賜はり、伽藍を建立せり。中頃松前住人武内正勝と云人、法華経を一字一石に書写し、新田を寄付せり。
文禄四年(1595)、加藤嘉明朝臣此寺を引て其跡へ松前城を築き給へり。この寺、古は性尋寺と言ひけるを、この時玉松山十二光除金蓮寺と改む。四方八町免許地なり。大森彦七盛長の鬼女に逢しは此ところの所の事なりと云へり。」(『面影』)
○太平記に大森彦七猿楽をして色々怪事あり、楠木正成、源義経などの亡霊出たるといふは此寺也(『俚諺集』)
○「松前城、筒井村に在り、此城の創業時代詳ならず。」(『伊予温故録』)
○或曰、松前古城は、元弘、建武の此、其以前よりありしと云えり、三島大祝家記に見えたりと云々、(『俚諺集』)建武3(1336)年、北朝方の祝安千親が南朝方の合田貞遠が籠る松
前城を攻め、攻略した事が、大山積神社文書に残されている。湊川の合戦に功のあった大森彦七が松前城主となったが、後には荏原城主の平岡氏が城将となった。
⇒『松前町誌』中「金蘭寺」参照されたい。(p973〜977)
A【宝厳寺  奥谷】
○豊国山遍照院宝厳寺、本尊阿弥陀慮来。松山市道後湯月町。
○天智四年(665)斉名天皇勅願、越智守興創建、開山法興律師。法相宗寺院<熟田津来湯661対応>
○天長七年(830)天台宗改宗。<風早出身 天台別当光定の影響>
○正応五年(1292)時衆寺院(奥谷派)。中興開山 仙阿(一遍弟<伊豆坊>)
○元弘四年(1334)河野系・得能通綱再建「一遍上人御誕生旧跡」碑建立。
 本堂内大位牌@東禅寺殿観光(河野通信)A得能通俊<通信長子>B河野通広夫妻
○康永三年(1344)二世珍一房(尼)遊行七世託何に帰信→遊行派<『条条行儀法則』>  
 (注)珍一房は河野家(嫡流・得能)、仙阿娘、河野家の支援?後継者?
(メモ)宝厳寺蔵「河野系図」
一遍聖の兄通朝の項に「女 得能弥太郎通村妻」とある。「一遍上人御誕生旧跡」碑を建立した得能道綱の母にあたる。しからば仙阿上人は・・・?
【条条行儀法則】
条条行儀法則
  遊行七祖(託何)他阿弥陀仏述
時也閼逢□灘孟夏澣下、九州利益巳終趣四国之化儀畢、伊予州遊行シケルニ、奥谷菓厳寺開山仙阿一遍上人法弟也、彼弟子尼珍一房住持相続、遺跡共住願往生積行功ケルカ、予、初祖ヨリ以来遊行稟受シテ、利益昔こモ不劣、化導今こ盛ナルコトヲ感歎シテ、同行相伴ヒ来テ十念ヲ受、指カニ而行体思不更古、落涙而招請我道場之間、於是両三日逗留、其後連連音信不絶、帰伏志染ケルニコソ、
亦八蔵ニ送日数ケルノ比、我来同朋常通、此所ノ日数終ケレハ、又道場へ立帰ケルニ、同六月廿一日、坊主珍一房来云、我一大事ヲ為奉申合、参詣之処自路次心地違例ケレトモ、是マテ参レリ、其故、遂我本意後彼道場ヲハ偏ニ可計賜云々、
同廿一日晨、如是契約泣泣帰シケルニ、与阿弥衣著是可往生云云レハ、弥信伏随喜名残ヲ慕ケリ、而、帰、
同廿六日辰時往生畢、是偏仏智所推也、更以風情不可思量、依之任遺言初遊行ヨリ坊主所定置也、彼僧尼等、重先師命、今用我詞、同誓同心入時衆、共住彼遺跡成厭離穢土思、励欣求
浄土志、夫、門下時衆、従今身尽未来際、身命知識譲了、若破一一警戒、出足下程ナラハ、今生成白癩黒癩、来世漏阿弥陀仏四十八願、 堕三悪道永不可浮、成誓打金入時衆者也、此三心発、色顕事相為知知識帰依志、彼誓戒三世諸仏通戒、浄業正困也、サレハ、帰仏心ヨリ所持戒、以不護可云成浄戒波羅密、是他力止持、不可有自力作犯、正成三心正因戒、何有破事、金剛宝戒是ナリ、然、若破誓戒、誓心三心不発不可往生心也、是正行心也、能知識雖帰命、所帰仏体也、是故、(略)
B【入仏寺 八蔵】
○伊予市八倉六一六番地にある。林光山蓮花院。真言宗智山派(京都智積寺末寺)。本尊阿弥陀如来像。当寺は「八倉八社」の別当で、弘法大師開基。(『伊予市史』)
○寺伝では弘仁(810〜824)の初年、峠の谷に毎夜光るものがあり、村人が怪しんだが、地下三尺下から阿弥陀三尊像が出てきた。一宇を建立して入仏寺と称した。山号を林光山、蓮の花が咲いたので蓮花院と称し、谷を蓮花谷と呼んだ。河野氏は代々当寺を崇拝し祭典料や田畑を多く寄進した。(『伊予市史』)
○『大洲秘録』では入仏寺は「京都大覚寺末谷上山宝珠寺末」であり、大覚寺と智積寺(院)との混乱がある。
○「八倉」は「八蔵」であり、浮穴郡・伊予郡二郡の貢米収納で蔵が八倉あったことに拠る。浮穴郡側には「八蔵寺」がある。砥部町八倉に在る。山号は竜雲山で真言宗高野金剛三昧院の末寺で元禄年中(1688〜1703)に建立された。現在は八倉公民館が建てられている。(『地名』)
○「時宗末寺帳」から判断すると1344年から1721年まで約400年間は時宗の末寺であったと想定される。が、入仏寺の真実の歴史が今日抹殺されているのは、同寺が谷上山宝珠寺の末寺であることと関わりがあろう。
C【円福寺    】
○四国時宗20寺院中、唯一 地名が付されていない。何故か。
【円福寺(A)  湯山】
○愛媛県松山市藤野町甲八七番地に在る。永徳山河野院円福寺と称し、伊予十三佛第四番霊場である。本尊は聖観世音菩薩である。貞観二年(860)第五代天台座主安慧により開山した。
【由緒・縁起】
 貞観二年(860)、第五代の天台座主安慧の開基。南北朝時代、新田義貞の子義宗ゆかりの寺で、義宗が残したと伝えられる武具が残っている。当山を含む湯山一帯が南朝に荷担した得能氏の所領であったところから、南朝滅後、当山の衰微もさけがたく、本家(河野一族)の所領となってのち、天文十七年(1548)、河野通直が新田義宗(上新田神社)、脇屋義助の子義治(下新田神社)の祠を建て、再建した。
その後、加藤嘉明と蒲生忠知が廟祠を新造。宝永元年(1704)十一月、三百年祭を松平定直が新田神社と円福寺で行った。円福寺の東北800bの山側(両新田神社の東側)に義宗、義治の五輪塔が残っている。また、明治時代には、夏目漱石が訪れ(1895)、「山寺に太刀をいただく時雨哉」と詠み残している。
【円福寺(B)  祝谷】
○愛媛県松山市木屋町にある。真言宗豊山派である。寛永年間(1624〜1643)松山藩主蒲生忠知<ただちか>の祈願所として祝谷に創建、松平氏の入封にともない常信寺拡張の為現在地に移建し円福寺とした。この寺に一遍筆と伝えられる名号札が所蔵されている。『県史』<執筆:越智通敏>
○近江国日野に「永福寺」なる時宗寺院が在る。(『末寺帳』)

【問題提起】
【定善寺 松前】―【入仏寺 八蔵】―【円福寺 湯山?】-―【宝厳寺 道後】を時宗(時衆)布教ゾーンと捉え、四寺院を核にした支院(塔頭)グループを地域的に想定すると、松山平野における歴史上の「ある時期」においては一遍生誕地の時宗(時衆)パワーが巨大、強力であったと推定できる。それは一遍の国中(伊予国)布教の軌跡でもあったろう。      
D【願成寺  宮床】
○宮床山本誓院願成寺、本尊阿弥陀如来、時宗、内子町廿日町。
○願成寺は「願成就寺」の意である。
○推古天皇(593〜628)代に越智益躬が開創した吉祥院が嚆矢である。この地が喜多郡で初期に開発されたところで、竜王城に喜多守が住んだ。
○開基は越智益躬、開基二祖一遍、ニ祖聖戒とし、三祖は貞忍法尼である。貞忍は一遍の従弟である河野道有の後家である。その後河野家の別府がある温泉郡石井村に隠遁した。越智氏の後をついで河野氏のゆかりの寺となった。
○願成寺末寺の「吟松庵」は知清にあるが、跡地は「知清公民館」となっている。
E【保寿寺 陽】
○地名「陽」を調査中である。「小字」にはないので「ホノギ」と考えられる。私見では「一遍にゆかりの寺」として述べる松野町の「正善寺(法林山浄念寺)」と関連して内子願成寺から土佐国に到る街道筋にホノギの「陽」があるのではと考えている。愛媛大学の内田九州男教授も同様の見解である。いずれにしても、場所(陽)を特定して寺名を調査すべきであり、地名「陽」を無視して、寺名から類推、特定することが学問的とは云えない。
土佐国、讃岐国、阿波国並びに「一遍にゆかりの寺」についての記述は省略します。関心をお持ちの方は「一遍会 事務局(三好)」までご照会下さい。【miyoshik@tau.e-catv.ne.jp】 無断引用はお断り致します。