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で、小さな口のやや丸みのある下唇が大人の
色気を感じさせている。中学生の描画モデル
としては難度の高い顔立ちである。
「先生の顔整い過ぎとって描きにくいが」顔の
中の配置がずれているような醜男の酒井利一
が言った。
「酒井、自分の下手さを先生の顔の所為にす
るなよ」づけづけとものを言う安井征夫の大声  
に室内が爆笑になった。                  
「さあ早く描かないと時間がありませんよ」完
一は配られた八号の画用紙に、デッサンを
始めた。構図としては絵に安定感をもたすた
め、全身描写で足元に少し余白を置き、上部
は余白を少なくした。隣を見ると権次は画用
紙一杯に、丸く顔の輪郭を描いている。それ
はまずいと完一は思った。小学生程度の稚
拙な絵しか描けない権次なのに、画用紙一面   9
顔だけではごまかしも効かない。普段ならアド  2
バイスもするのだが、今日はその気になれな
かった。自分だけは先生そっくりに美しく描き
たかった。一人の女性を恋する気持ちが、純
真無垢だった少年の心に世俗の穢れのような
ものを生じさせていた。三十分もすると、水彩
絵の具を溶くための小さなプラスチックバケツ
に、水を汲みに行く者の騒音が始まった。
「なんや、もうデッサンできたのか?」
「わし絵は得意じゃけんのう」
「これ先生の顔か?茂昭、こんな不細工に書
いたら先生に失礼ぞ」モデルになっている弥生
先生もクスクスと笑っていた。鈴木茂昭はあら
ゆる面で優れていて、特にラジオや無線機作
りが得意であったが、絵だけは駄目だった。
権次は焦りを覚えていた。弥生先生そっくり
に描きたいのだが、思いに反して鉛筆は動い
てくれない。まず顔の輪郭からして描けない。