「松山城史」 伊予史談会 影浦 勉 著 |
加藤暁台の俳諧復興運動
このころの松山の俳壇に黄金時代をもたらせたのは、栗田樗堂とその一派であった。俳聖芭蕉が逝去してから九〇年後の天明時代に、俳諧復興運動がおこり、「芭蕉に帰れ」の叫びは俳壇を通じての強い願望となり、またこの運動の推進力となった。
その中心は与謝蕪村・加藤暁台・大島蓼太らであったが、なかでも最もひろく知られたのは暁台であった。殊に名古屋の井上士朗、伊予国の栗田樗堂らを擁して俳諧復興の実際的運動に関与し、これを遂行した点において、蕪村とともにその功績を忘れることができない。
栗田樗堂の家庭
樗堂はこの暁台門の俊才であって、彼の名は単に地方にとどまらず、天明以後の俳壇にあって全国的に喧伝せられた。彼は寛延二(一七四九)年に後藤昌信の三男として、松山に生れた。後藤家は松前町に居をかまえて酒造業を営み、屋号を豊前屋と称し城下町における富豪として知られていた。彼は通称を貞蔵、諱を政範といい、長じて栗田家に入夫し同家七代の主となり、襲名して与三左衛門といった。
栗田家は代々酒造業を営み、屋号を廉屋といい、その屋敷は松前町にあった。栗田家第五代を継いだ与三左衛門政恒は俳諧に心を寄せ、天山と号して地方の俳壇に名を知られた。後に樗堂によって再興される二畳庵を創設したのも彼であった。
栗田家に入った樗堂の妻となったのは、第六代政賀の未亡人のとら女であった。彼女は三津浜の豪商松田信英の女で、後に閨秀俳人として名を知られた羅蝶であった。松田家は代々屋号を唐津屋といい、信英は俳諧を山口羅人(松木淡々系)に学んで含芽と号し、地方俳壇の重鎮であった。隠退の後に剃髪して号を岸雅と改めたが、文人墨客の来遊するものが多かった。したがって、信英の女であった羅蝶がこの松田家の雰囲気のなかに少女時代を送ったこと、また樗堂がこの義父の感化と影響とを受けたことは見逃してならないであろう。要するに樗堂がこの栗田家のなかで生活し、その配偶者に文学的才能のあった羅蝶を得たことは、彼の生涯にとって幸運であったに相違ない。
樗堂の公職と俳諧研究
樗堂は家業に精励するうち、明和八(一七七一)年一二月に大年寄役見習となり、はじめて公職に関係する身となった。二年後の安永二(一七七三)年三月に大年寄に進んだが、寛政三(一七九一)年一二月に退役して大年寄格となるまで、およそ十九年の長い間その職にあった。
またこの間に俳人としての生活も展開されることになった。彼は天明年間に政恒の創建した二畳庵を復興して、俳諧の研究に当たるとともに、地方の俳人たちとも句作に耽った。彼ははじめ俳号を?室・蘭芝といったが、後に息陰・樗堂と改めた。『樗堂俳譜集』によると、天明六年の夏に俳友とともに二畳庵で連句を闘わしたのが最も古いものであるが、翌年に上京して師の暁台と両吟し、また彼自身の俳譜旅行記とも称せられる『爪じるし』を編集している事情からすると、彼の俳諧に対する経歴は相当古いと考えられる。
樗堂と師暁台と俳友たち
樗堂は天明七(一七八七)年以降、京都に上ってたびたび暁台の教示をうけた。彼が暁台のもとで俳諧の研究に努力を続け、師弟の間の交情の濃かであった事情は、樗堂の『爪じるし』の序文を暁台がみずから執筆したこと、『暁台七部集』のなかにこの書が収録されたこと、また『樗堂俳諧集』のなかに暁台・樗堂の両人が京都の宿舎で唱和したものの多いことによって想見される。
樗堂の経歴をたどると、大年寄格であった彼は寛政八(一七九六)年に再び大年寄に帰任した。この間に最も注目されるのは、小林一茶が彼を訪ねて二度も松山へ来たことであった。その最初は同七(一七九五)年一月〜二月であり、その再遊は翌八年の初秋から翌九年の春までであった。そのほかに暁台門の俊才と言われた井上士朗も同年の秋と同一二 (一八〇〇)年の春に海を越えて松山の二畳庵を訪れた。樗堂はこれらの俳友を迎えて大いに歓待し、あるいは紅葉のもとに、あるいは桜花を賛しながら、連句を闘わして旧交を暖めた。
樗堂は同一二(一八〇〇)年に味酒郷に六畳の草屋をつくり、これを庚申庵と名づけ、ここで俳諧の道に精進した。さらに二年後の享和二(一八〇二)年九月に、病のために大年寄役を辞した。
御手洗島における樗堂
彼は公職に与かること、およそ三〇年の長きにわたったが、その後に安芸国の御手洗島に隠退して、専ら風雅三昧の生活にその身をゆだねた。彼は羅蝶の逝去の後、安芸国三原藩の宇都宮氏から後妻を迎えた関係によって、ここに隠棲の地を求めたのであろう。
彼はこれから盥江老漁と称し、その没するまでの一二年間、旅に出た外はほとんどこの地にあって専ら風月を友とした。彼はここにも小庵を結び、これを松山に在住した時の名をとって二畳庵と称した。御手洗島を中心とした瀬戸内海の風物が彼の詩情を培い、その文藻を豊富にさせたことであろう。この地が内海の要衝に当たり、各地との交通の至便であったこと、また彼自身が風光明媚なのに心をひかれたことなどは、彼をしてこの島を終焉の地たらしめたのであろう。その後も彼を訪ねて来島した俳人たちは非常に多く、一度『樗堂俳諧集』をひもといたものは、その数の多いのに驚くであろう。
樗堂の逝去
文化一一(一八一四)年六六歳となった樗堂は老衰の次第に加わって来たのを覚え、余命のいくばくもないことを知った。彼は親友の一茶に「生きているとは申すばかり」の老境を卒直に書き送っているが、その時の書簡は一茶自筆になる『三韓人』のなかに載せられている。
七月に樗堂は病の床に臥して筆もとれなくなり、八月二一日に俳友や門弟たちに惜しまれながら逝去した。彼の遺骨は荼毘に付して、栗田家の菩提寺である松山萱町の得法寺内の先塋の納骨塔のなかに葬られた。なお『栗田家系譜』および得法寺の『過去帳』によると、諡(おくりな)して観甫といった。また御手洗島の満舟寺の境内に「樗堂墓」と刻した石碑が建てられているが、彼の終焉を記念するために、その遺骨を分葬したのであろう。
樗堂の俳諧集
樗堂の作品を知るうえに重要なのは『樗堂俳諧集』・『樗堂俳句集』・『萍窓集』・『筆花集』・『爪じるし』・『山蟻集』等である。
『樗堂俳諧集』は樗堂の門人であり、また樗堂の孫娘の夫に当たる松田三千雄が筆録のうえ編集したものである。『樗堂俳句集』も前者と同様に三千雄の編集にかかり、樗堂の句を季節別に配列し総数二三五六?(末尾にある補遺五三?を含む)にのぼる。『萍窓集』は日本俳書大系のなかにも掲載せられ、最もよくその名を知られている。樗堂の門人であった静嘯慮鹿門・葛盧才馬の両人が師の坐右に置かれた文庫のなかから抜萃してこの句集をつくった。『筆花集』は三千雄が編集した樗堂の文集である。
樗堂の俳風
これらの俳諧集・句集・文集等を通じて、彼の俳風を見ておこう。樗堂は師の暁台を深く敬慕し、その俳風を遵奉して俳諧復興運動の伝播に尽力した。彼の作品はこの傾向を基盤としてつくられた。その句は一般に典雅であり優麗であって、そのなかには懐古的なものさえ存在する。
したがって革新的というよりは、むしろ穏健であり平明である。それは彼が蕪村や暁台に見られるような気韻や活気に欠けていたことによる。また樗堂が俳人として活躍したのは、江戸文化の爛熟した文化年間に当たっていたから、俳諧復興の精神が稀薄となった当時の俳壇の傾向に負うところもすくなくなかったであろう。しかし、彼がこの雰囲気のなかにありながら、その俳風が平俗に堕することなく、真面目であり荘重であることに留意しなければならない。要するに俳譜復興の精神は彼のこの真摯な性格を通して純化せられ玉成せられて、地方の俳壇の刷新に貢献し、新鮮な飛躍時代を形成した。