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愚陀佛庵
 夏目金之助






松山市二番町二八番地
イヨ






岡 










八二番地 東京下谷区上根岸








漱石から子規あての

はがき


















なんだか松山とはおかしな國ですね







狸あり
汽車に化けたる 枯野原











昨夕こんな句が出












東京下谷区上根岸八二番地とは 現在の子規庵 住所 東京都台東区台東2丁目5-11 "139,46,54.22","35,41,58.36"
東京根岸に病む正岡子規居士が郷里の松山市にある八股お袖狸の榎大明神を詠んだ望郷の歌に
餅あげて 狸を祀る枯榎 紙の幟に 春雨ぞ降る
百歳の 狸すむてう八股の ちまたの榎 いまあるやなしや
てふ句あり
子規と漱石  狸の句
霽月や蝙蝠つかむ豆狸 子 規 狸死に狐留守する秋の風 子 規
獺を狸の送る夜寒かな 子 規 小のぼりや狸を祀る枯榎 子 規
古家や狸石打つ落葉かな 子 規 秋の暮狸をつれて帰へりけり 子 規
戸を叩く音は狸か薬喰 子 規 猿松の狸を繋ぐ芭蕉かな 子 規
枯野原汽車に化けたる狸あり 漱 石 冬ざれや狢をつるす軒の下 漱 石
愚陀佛庵 元 愚陀佛庵 松山市二番町3丁目 二番町三丁目料亭天平横跡地
1896年(明治29年)松山中学校で教鞭を執っていた漱石が東京の政論新聞「日本」で活躍中の正岡子規に送った葉書です。
枯野原 汽車に化けたる 狸あり
この句の元は以下の如く柳原極堂翁の話を聞き知った漱石が読んだと思われます。。
ロープウェイ街にある東雲神社前の三叉路付近、毘沙門坂にあった毘沙門堂(現在市坪南法龍寺内に移転)に住み着いた老狸の「毘沙門狸」は汽車に化けたといわれる。
「坊っちゃん列車」に化けた毘沙門堂狸に化かされたのは「歌人 柳原極堂」その人です。
「化けて来し狸と秋を語りけり」 極堂 句碑 伊予郡中山町 盛景寺(しょうけいじ) 山門
松山市駅前緑地帯 墓銘碑に曰く
正岡子規、
又ノ名ハ 処之助(ところのすけ)、
又ノ名ハ 升(のぼる)、
又ノ名ハ 子規、
又ノ名ハ 獺祭書屋主人、 「獺祭(だっさい)」とは書物や資料などを散らかしている様子を意味します。
又ノ名ハ 竹の里人・ 香雲 (こう‐うん)・ 地風升 (ちふうしょう)
慶応3年9月17日伊豫松山ニ生レ東京下谷区根岸82番地ニ住ム。
父隼太松山藩御馬廻加番タリ、卒ス。
母大原氏ニ養ハル。日本新聞社員タリ。
明治三十五年九月十九日没ス、享年三十七歳、月給四十圓也。 
正岡子規 1867年 慶応3年9月17日 生まれ 1902年 明治35年9月19日 没 享年37歳 墓所 東京都北区・大竜寺
慶応 3年〜15年 1867〜1882 少年期   松山時代
明治16年〜24年 1883〜1891 青年期   学生時代
明治25年〜27年 1892〜1894 活動期   記者時代
明治28年〜30年 1895〜1897 病床前期 俳句専念時代
明治31年〜35年 1898〜1902 病床後期 充実期
「絶筆三句」
    糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな     痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず      をとゝひの へちまの水も 取らざりき    
卯の花の 散るまで鳴くか 子規(=ほととぎす)
子規は長男で、本名を常規(つねのり)幼名を処之助(ところのすけ)と称す。外祖父の大原観山によって処之助の名は升(のぼる)にあらためられる。明治22年と突然喀血し,鳴いて血をはく子規(ほととぎす)の雅号を使う。本名の常規の字も入っている。明治25年、新聞「日本」に獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)の連載をはじめ,「獺祭書屋主人」という雅号を使う。竹の里人は短歌・新体詩の子規の雅号。父は常尚(つねなお)通称を隼太(はやた)と申す。松山藩御馬廻役。母の名は八重。松山藩藩儒、大原観山の娘。注 はん‐じゅ【藩儒】藩主に仕える儒者。
獺(かわうそ)  獺祭(だっさい)  子規のペンネーム
夏目漱石の詳しい略歴 より抜粋
1867年 2月9日(旧暦1月5日):夏目小兵衛直克、知恵の五男三女の末子。江戸・牛込で生れ。幼名 金之助。
1868年(1歳) 塩原家の養子となる。
1870年(3歳) 夏の終わりごろに受けた種痘が原因で、疱瘡にかかり、あばたが残った。
1874年(7歳) 塩原家の家庭不和で一時夏目家に引き取られたが、12月ごろ浅草寿町の塩原の家に戻った。
1876年(9歳) 養父母が離婚したため、この年の始め(1875年暮の説もある)塩原家在籍のまま夏目家に戻った。
1879年(12歳) 3月:神田一ツ橋の東京府立第一中学校正則科に入学。
1883年(16歳) 8月:大学予備門の受験準備のため、神田駿河台の成立学舎に入学。
1884年(17歳) 大学予備門予科に入学。
1885年(18歳) 神田猿楽町の末富屋に下宿して通学した。
1888年(21歳) 1月:夏目家に復籍し夏目金之助となった。 7月:第一高等中学(大学予備門が改称)を卒業。
1889年(22歳) 5月:子規の『七艸集』を批評し、始めて漱石と署名する。 8月:学友と房総を旅行し、
1890年(23歳) 7月:第一高等中学校第一部本科を卒業。 9月:帝国大学文科大学英文科に入学。
1892年(25歳) 5月:東京専門学校(現=早稲田大学)の講師に出講。 8月:松山に子規を訪ね、高浜虚子に逢った。
1893年(26歳) 10月:東京高等師範学校の英語教授に就任。
1894年(27歳) 8月:松島に旅行。 漱石ゆかりの地:松島 9月:菅野虎雄の新居に寄宿。
1895年(28歳) 4月:愛媛県尋常中学校(後=松山中学)の教諭に就任。中根鏡子と見合いし婚約。
1896年(29歳) 1月3日:子規庵の初句会に参加、森鴎外と会った最初。鏡子と結婚。
1897年(30歳) 1899年(32歳) 長女筆子誕生。
1900年(33歳) 英国留学。
1903年(36歳) ロンドン留学から帰国、東京帝国大学講師 『自転車日記』を発表
1904年(37歳) 『吾輩は猫である』を文章会で発表
1905年(38歳) 『吾輩は猫である』や短編を発表、作家としてデビュー。
1906年(39歳) 『坊っちやん』『草枕』を発表。
1907年(40歳) 朝日新聞社に入社 『虞美人草』などを発表。
1908年(41歳) 『坑夫』『三四郎』などを発表。
1909年(42歳) 『それから』などを発表。
1910年(43歳) 胃潰瘍のため入院、『門』を発表。
1911年(44歳) 文学博士号を辞退。
1912年(45歳) 『彼岸過迄』『行人』を発表。
1913年(46歳) 神経衰弱再発。『行人』中断。
1914年(47歳) 『心 先生の遺書』を発表。
1915年(48歳) 『道草』を発表。
1916年(49歳) 『明暗』を発表、胃潰瘍により死去。 夏目漱石の墓所 東京都豊島区・雑司ヶ谷墓地
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