登場する歴史上の人物 |
【聖武天皇】しょうむ‐てんのう 西暦701年(大宝元)年〜756年(天平勝宝8)年第45代の天皇。名は首(おびと)。 第四五代の天皇。名は首(おびと)。文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を信じ、全国に国分寺・国分尼寺、奈良に東大寺を建て、大仏を安置した。(在位 724ー749)(701ー756) 【神功皇后】じんぐう‐こうごう‥‥仲哀天皇の皇后。名は息長足媛(おきながたらしひめ)。開化天皇第五世の孫、息長宿禰王の女(むすめ)。熊襲 (くまそ)叛するに及び天皇とともに西征、天皇香椎宮に崩御の後、新羅(しらぎ)を征して凱旋し、誉田別皇子(ほむたわけのみこと)(応神天皇)を筑紫で出産、摂政七○年にして崩。(記紀伝承による) 【応神天皇】おうじん‐てんのう‥ 記紀伝承で、第一五代の天皇。名は誉田別(ほむたわけ)。仲哀天皇の第四皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。 【仲哀天皇】ちゅうあい‐てんのう‥ 記紀伝承で第一四代の天皇。名は足仲彦(たらしなかつひこ)。日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二王子。皇后は神功皇后。熊襲(くまそ)征伐の途中筑前国の香椎(かしい)宮に崩じたという。 越智姓(河野氏の祖)に関わる説(愛媛新聞平成9年1月6日(3面総合)より)’97しまなみシンポジュウム「瀬戸内の海人たち」から(同志社大森浩一教授考古学) 大山積神の子孫とされる小千=越智は伊予の大豪族であると同時に典型的な海人族である。従って中国江南周辺の「越」との関わりも深いと思われる。小千(小知)=越智は「越」と関連があり、二文字漢字の流行に沿って改名したのではないかと。(越は中国南方系の音読みで「オチ」である) 【越智】おち 姓氏の一。 〓中世、伊予の豪族。一族に河野・土居・得能氏などを分出、水軍を構成して海上に勢力を張る。 〓中世、大和南部の豪族。応仁の乱前後、高市郡越智城を中心に力を伸ばす。 越智(小知)玉興(おちたまおき) 小知姓を越智姓に変えた人物。考霊天皇を河野家祖とする説をとれば二十一代目河野(越智)家頭領という事になる。 越智玉純(澄)(おちたまずみ) 越智玉興の子供。 河野息利(興利)(こおのやすとし/おきとし) 玉興から数えて6代目河野家頭領。 河野息方(興方)(こおのやすかた/おきかた) 息利(興利)の息子。 河野道有(こおのみちあり) 弘安の役(元軍10万、高麗軍と共に日本に大挙襲来、筑前、長門を侵す。大風雨起こり敵船悉く沈没。この時敵船に夜襲を掛け、火を放ち強大な敵元軍と高麗軍に大和魂の真骨頂を見せ有名を馳せた。) 【河野通有】こうの‐みちあり 鎌倉後期の武将。伊予の人。弘安の役の際、敵船を襲ってその将を虜にし、敵船を焼いて帰還。( ―1311) 【河野水軍】こうの‐すいぐん 伊予の豪族河野氏が率いた海上勢力。源平合戦では源氏に応じ、南北朝動乱にも活躍したが、徐々に衰退。 【空海】くうかい ご存知 弘法大師(こうぼうだいし)松山ではお大師さま(おだいしさま)の愛称で呼ばれている。讃岐の国は善通寺(香川県善通寺市)の生まれ。子供のころ、お遍路さんは「お大師様と御一緒じゃけん大事にせんといかん」と言われていました。(同行二人の事)玄関で鈴の音とお経が聞こえるとお遍路さんでした。、お金や、お米を恵んでいました。 平安初期の僧。わが国真言宗の開祖。讃岐の人。灌頂号は遍照金剛。初め大学で学び、のち仏門に入り四国で修行、八○四年(延暦二三)入唐して恵果に学び、八○六年(大同一)帰朝。京都の東寺・高野山金剛峰寺の経営に努めたほか、宮中真言院や後七日御修法の設営によって真言密教を国家仏教として定着させた。また、身分を問わない学校として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立。詩文に長じ、また三筆の一。著「三教指帰」「性霊集」「文鏡秘府論」「十住心論」「篆隷万象名義」など。諡号(しごう)は弘法大師。(774-835) 【行基】ぎょうき‥奈良時代の僧。和泉の人。道昭に師事。畿内を中心に諸国を巡り、民衆教化や造寺、池堤設置・橋梁架設等の社会事業を行い、行基菩薩と称された。初め僧尼令違反で禁圧されたが、大仏造営の勧進に起用され、大僧正位を授けられた。(668-749) 【藤原純友】ふじわら‐の‐すみとも‥平安中期の武将。伊予掾。瀬戸内海横行の海賊の棟梁となり略奪・放火を行い、追討軍に殺された。(―941) 平安中期の貴族。藤原北家の出であったが中央に志しを得ず、瀬戸内海の海賊の首領となり、平将門(たいらのまさかど)と時を同じくして、腐敗した政治に抗して西国で乱を起こす。父 藤原良範(ふじわらのよしのり)太宰小弐(だざいのしょうに)曾祖父藤原長良(ふじわらのながら)天慶三年平将門の乱が鎮圧されて住友討伐が始まる。天慶四年六月伊予国警固使橘遠保(たちばなのとおやす)に捕らえられ殺される。武士階級台頭の一つの転機となる。 【平将門】たいら‐の‐まさかど‥平安中期の武将。高望(たかもち)の孫。父は良持とも良将ともいう。相馬小二郎と称した。摂政藤原忠平に仕えて検非違使となることを求めて成らず、憤慨して関東に赴いた。のち、伯父国香を殺して頻りに近国を侵し、九三九年(天慶二)偽宮を下総猿島(さしま)に建て、文武百官を置き、新皇と自称し関東に威を振ったが、平貞盛・藤原秀郷のために討たれた。(―940) 【承平天慶の乱】じょうへい‐てんぎょう‐の‐らん‥‥承平・天慶年間に起った平将門(たいらのまさかど)と藤原純友(ふじわらのすみとも)の反乱。将門は東国で同族間の私闘を続け、九三九年(天慶二)常陸国府を襲撃して公然と朝廷に反抗するに至ったが、翌年藤原秀郷や平貞盛のために敗死。純友は西国で海賊討伐を命ぜられていたが、九三六年(承平六)自ら海賊を率いて朝廷に反抗、九四一年に敗死。いずれも律令国家崩壊を象徴した事件。 |