下村 為山 (しもむら いざん) 本名を 純孝 別号 留華洞、不觚庵、雀蘆 俳号を 冬邨、百歩、牛伴 |
洋画家であり,俳人であり,後年は俳画(近代南画)の第一人者家。 |
慶応元年5月21日松山藩士下村純の次男として松山城下出渕町(現松山市三番町)に生まれる。幼少より絵を好む。 |
明治15年18歳で上京,初め岡松甕谷の紹成書院に漢学を学び、のち本多錦吉郎の画塾「彰技堂」に入塾, |
23歳にして小山正太郎の不同舎に学ぶ。 |
明治23年の内国勧業博覧会出品の「慈悲者殺生」は二等妙技賞を受賞,新鋭洋画家として活躍する。 |
続いて24年の明治美術会春季展に「池辺秋暁」、同秋季展に「敗荷鴛鴦図」を連続出品し好評を博し、 |
中村不折らと同門の四天王また双璧とうたわれ大いに将来を嘱望される。 |
その頃,従兄の内藤鳴雪を介し同郷の正岡子規と知り合い、俳句の研究に熱中する。 |
俳句については門弟、絵に関しては師匠格で互いに協力、啓発し合う仲となる。 |
子規も幼少から絵を好んだが、子規も負けずその論争はしばらく続くが、 |
新鋭洋画家の専門理論には子規も歯がたたず、ついに屈服する。 |
彼の説く写生論は子規の俳句革新に大きい影響を及ぼす。 |
その後俳画の研究に没頭し、改めて南画を見直し、次第に日本の伝統絵画にひかれ、 |
ついに本業の洋画を投げうち日本画に回帰することとなる。 |
子規の没後は郷里に帰り,俳画の研究に没頭、俳画家として名声を博す。 |
後年彼は「俳句は日本特有の文芸,俳画もまた日本芸術の光」といい,古今独歩, |
俳味横溢の画境を開拓し現代日本水墨画に新境地を開く。 |
彼は一切の画流から孤立し、世評を外にその水墨を追い続け、現代日本水墨画の創始者といわれながら、 |
戦後の混乱期、疎開先の富山県で、昭和24年7月10日、85歳で没す。 |