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特別寄稿 わが父一洵と山頭火 高橋 一誠 H17・07・25 18号
 「一殉さんはおられるかな」とあのシルエットの山頭火が門口に直立した。度の強い黒緑の眼鏡をかけ山羊髪を生やし口を真一文字に結んで門に直立したのを覚えている。私の幼い頃は、よく網代笠をきた墨染めの托鉢僧が戸口に立ち誦経むたものだ。二銭程恵むかお米一合頭陀袋に入れてあげるか、お通りなさいと断るかしたものだ。その汚らしい乞食を父は飛び出して出迎え抱くようにして真新Lい座敷の正座にすえ襖をぴしゃりと閉めたのに驚いた。汚れる!暫くして襖の向こうから父の得意の高笑いが聞こえた。独特のこの笑いは、そこに居合わさなくても自然とおかしさを誘発する笑いである。顔見合わせて私たちも笑い出した。山翁もすっかりこの笑いのなかに巻きこまれ、果ては後に、この一洵の話芸のなかに包み込まれていく。また一洵は相手の話には驚いたように相槌を打って聞く習性があるから、話し手は佳境に乗って弾んでくる。ー愚者は語り賢者は聞くーという。どちらも中々の聞き上手。しかし翁は言っているのも興味深い。「言い過ぎは足らないよりもよくない。おしゃべりは何より禁物なり。言葉多きは品少なし」と。以来あれこれと一年のたまゆらではあったが互いに百年の 知己を得て往き通った。
 一洵はフランス語教師として、またトルストイ、ガンジーを敬慕し、愛の哲学を語り清貧と無欲無一物を心に、その講義は天衣無縫の名物教授 として学生に慕われた。参禅会に生徒を連れ、また仏教にも親しませ薫陶した。
 山頭火はツルゲーネフの翻訳もしたという、禅僧として出家得度した山頭火の思想と一洵は何か気脈の通ずるものがあったと感じている。山頭火の落ちつく先を探していた一洵のもとに御幸寺山麓の黒田和尚からわが隠宅ではどうかと申し出をうけここに一草庵が設けられた。山麓から遥か遠望すると気が晴れる。太陽も月の出も拝める所。水も風も清らかだった。山頭火の米びつも一洵はときにふれのぞきこんだ。遠方俳友からも援助はあったろうが、行乞に自信がなくなった翁は腹を空かせた。面倒見のよかった藤岡政一 さんのところや、父が留守のときの私の母のところによく無心にきた。十銭かりては返してまた来た。父が不在のとき玄関先の縁側に待つ淋しくいとほしい姿も見かけた。亦ふんどし一つで座敷に泥酔して昼寝しているのは厭な姿だった。父は酒を飲まないので家で飲ませることはなかった。飲ませては句を書かせる俳友を父は憤慨していた。父の伝言を持って小学生の私は母の作った日の丸弁当を持ち赤い自転車に乗って届けた記憶がある。丸干し二匹に酒二合瓶がついていた。父が在宅のときは「あんた絵をかかんのんた」と山翁がすすめる。父は元々びっしり書いた短歌のノートを二十冊程もっていたし絵も上手だった。これは疎開先でみんな焼いてしまった。惜しまれてならない。「絵は下手だから」「いいや下手なほどええんぞなもし。その絵にわしが賛をして」と伊予弁まじりで合作を楽むんだ。遊びちらかして送りに外出したあとの座敷は、笠も漏りだしたか、道が遠くてカラスないてゆく。杖を持った遍路姿の絵が半切に描かれていた。道後公園の堀の端にかき舟という舟の形をして浮かんでいる飲み屋で山翁が無銭泥酔して父の名を語らい暴れているのを藤岡さんと父 が請け出しに走っていった後ろ姿が目に浮かぶ。後日、丸谷才一の「横しぐれ」という本に、あれは確か山頭火ではなかったかという件がある。それは正しく山翁ですと私は感動したこともある。温泉にもともに遊び心暖かい俳句友達もできて柿の会句会にも遊び明るい山頭火もあった。しかし歩行禅と称ししぐれて山を、まなっすぐな道を、歩き命の句作の道をいくこそ山頭火なのに、ここに落ちつくことが果してよかったのか。自嘲、涙、矛盾、死んでも死にきれない、自分にもそむいて、何も解決していないというこの断章を思うとき、一草庵に樹つ「鉄鉢の中へも霰」に釘づけになる。父はいう。山翁は世間で伝えられるように決して清らかな人ではなかった。だがさすが秀ぐれたところも多かった」と。山頭火ブームが起る前にそれを知らずに父は逝ってしまった。
NHK「朝の訪問」の番組で広島や松山で山頭火を語った一洵は一番よく山頭火を理解してあげた人だったと思っている。
(筆者 高橋一誠さんは、高橋一洵さんの長男で、当時小学生ではあったが、直接、山頭火と接した数少なくなってきた生き証人の一人である。)