福浦湾の歴史

昭和54年3月の西海町誌より(各地区の写真は拡大できます。)

樽見地区
 昔は木戸表と言った。  樽見と改名した年月は不明。船越から移り住んだ人々によって開かれた土地。南に面した斜面に、家並みが海岸まで並び冬季でも暖かい日差しに恵まれ西海町で一番温暖な地区だといわれている。
 文久、元治(1861〜1864)のころ鹿児島の前田喜右衛門が船越に来て木戸表開墾を勧めた、と伝えられている。慶応元年、善吾、滝蔵両名が、藩に開墾を出願し同3年8月10日許可され移り住んだ。又山下善吾氏は、明治8年の樽見英明学校創設に、世話人として活躍している。
樽見の由来
 時代は不明であるが、殿様が巡視に来て、現在の樽見の丘で休んだとき、会場はるか沖に、何か浮かんでいるのを見て、「あれは、何であるか」と、郷人に下問した。「大敷網の浮に使用している樽であります」との答えに対し、「樽の見える地、樽見」と命名したという。
樽見地区の全景 現在の戸数(平成22年3月末 )   44戸      人口    92名
大成川地区 
 西海町で一番新しい地区明治13年に4戸の入植があるがいずれも樽見地区の籍を持っており独立地区としての扱いを受けていない。後、内泊から移り住んだ人が多い。

 大成川は、西海町で一番新しく開けた地区である。始めは、樽見に籍を置いて開墾を行い、開墾の完成に伴い移住した。内泊地区から移った人が多い。

 明治14年ころ大成川には六戸しか住んでなく、現在の規模になったのは後年のこと。後の分村独立運動の中心的役割を果たした.越智田嘉七が住んでいた。

大成川地区の全景 現在の戸数   34戸      人口  74名
小成川地区 
 明治の初め福浦から移り住んだ人々と、宇和島、小池,三浦地区から移った人々によって開かれた。

 明治初年、小川辰三郎他40名が、領主伊達家に開墾を出願して、小成川を開いたが、移住したものは三戸にすぎなかったと、記録されている。明治12年の戸籍によると、40戸が小成川籍を持っているから、移住開拓を出願した人々が、その間に次々と移住したのであろう。
 移住者の中で異色なのは、宇和島から来た堀江儀仙である。浦人の医療にあたった。 注目したいのは、小成川開拓に北宇和郡三浦と、宇和島からの参加があり、医者までいることから、宇和島藩庁の開拓計画によった、大事業であったのではと、推察できる

小成川地区の全景 現在の戸数  34戸  人口  81名
 
福浦1
 
 福浦-2
 
福浦-3 
西海町で一番早く人煙を 見た地区とされており、お薬師様権現さん、数多くの屋敷神等がそれお物語っている。

「今より1200年前養老年間一本松正木の者、来り住し子孫18戸・・・・・・・」と村誌の記録にあるが、養老年間(717〜723)の来住は、少し飛躍がありはしないかと思われる。
 しかし、福浦は、町内で一番早く人煙を見た地域であり、他地域に比べて、戸数の増加が著しかったことも事実である。  現存する墓石からみても、元禄、天和、寛延、宝暦、安永寛永、と、二百年以前のものが、他地区に比べて歴史の古さを物語っている。また、墓石の多さからも、地区の大きさを推測することが出来、その規模は、経済的事情が豊かであったことを物語っている。
 地名の示す福浦は、豊かな浦であったことを表したものといえよう。

古い福浦の記録は、たび重なる火災によって全地区が焼失する災いに遭っている。  万延元年(1860年)の大火では、わずか2戸しか残らなかったようである。そのため、すべての記録を失い昔を知る手がかりがない。 東前が福浦起源の場所であることは、間違いない。
福浦地区全景 現在の戸数 327戸   人口  744名
麦ケ浦地区 
明治元年6月30日内泊から移り住んだ。
浦の名は話合いにより、「麦が、段鼻作のもっとも大切な作物であるということから、決定された」。と古老は語っていた

屋敷、段畠も、共同で造成し、平等に分かち合った。


 明治4年内泊地区を中心に30戸が集団移住した。
麦ケ浦地区の全景 現在の戸数   27戸   人口  44名
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