…文章を書くことを、これからの人生の楽しみとしたい…
 そう思ったものの、何をどう書けばよいのか、迷いの日々が続きました。
 愛媛新聞の家庭欄にある女性のための投稿欄『てかがみ』は、
そんな私にぴったりでした。
 20年間で、37篇が採用され掲載されました。




bP 『読書』  1981年3月30日(29歳)
本のセールスマンの決まり文句「お子さまを本好きにするために」とか、お母さん方の「子どもを本好きにする良い方法はありませんか」というのを聞くにつけ、このセールスマンやお母さん方自身、果たして本がお好きなのだろうかと考えてしまう。
なぜなら私の経験から言わせてもらえば、本好きとはそんなにいいものではないようだから。 

小学生のころ、1冊の本を手に入れるために半年かけておこづかいをためたまでは、確かに美談だった。
しかし、中学生になって、図書貸し出しカードが黒くなるほどに、成績のほうは下降していなかっただろうか。
文学少女の読書時間というのは、読み終えた後の空想の世界の散歩までをいうのだから、読書後にすぐ教科書を開いて勉強するというわけにはいかない。 
高校の3年間では、ついに図書館で宿題をすますという人達を理解できなかった。
図書室とは1冊の本との出合いを求める所と思う。
その結果、卒業時に私に残ったものは作家を夢見た未完の小説と、みっともない通知表だけだった。
そしてOLとして同じ職場に5年もいたのに、1度も職場恋愛なるものを経験しなかった。
自分の容姿と性格は棚に上げて、これも本の中で数多くのすばらしい恋愛を体験し、その悲惨な結果を味わってきたからに違いないと、本のせいにしている。 

現在、月に6、7冊ぐらい読んでいる。
「読書はよい趣味だ」と言ってくれる夫も、私の本を読んでいる姿を見るのは好きではないようだ。
どうしても4歳の長男が幼稚園に行き、2歳の長女が昼寝している時間に、本を開くこととなる。
ところが読書を楽しんでいると、耳の奥で声がするのである。
「本ばかり読んでいないで、子供服の1枚でも縫ったら…。
読書というのはもしかしたら現実からの逃避ではないかという焦燥感は薄れつつあるけれども、あの声はますます大きくなっていくようだ。 
読書が趣味なんて、本人にしてはそんなにいいものじゃないのだが…。




bQ 『かぶと虫』 1981年11月19日(29歳)
カブト虫の幼虫のために、えさとなるクヌギマットを取り替えた。
すでに彼らは体長8センチ。私の親指よりも太い。
カブト虫の死骸(しがい)をかたづけていて、子供の指ほどに成長した彼らを8匹も発見したとき、家中の者が興奮した。
この夏もザリガニ、金魚、そしてたくさんのセミやチョウが虫かごの中で死んでいった。
そのことに私はうんざりしていた。
まさかベランダの片隅で、新しい命の誕生があったなんて。

彼らの親は、夏休みに主人の里に帰省したときに見つけた。
夫の父母が、孫たちのために裏やぶを掘って、サナギや成虫になったばかりのものを採集してくれた。
その時に、そのあたりの土も持って帰ったが、これを別の容器に移す時、ミミズやヤスデがのたうちまわって、虫のきらいな私は卒倒しそうになった。
そして大切なサナギの時期にさわったので、羽化したカブト虫は羽がどれも奇形となる。
胸が痛んでしかたがなかった。

さっそくカブト虫の飼育について書いてある本を買い、子供たちに読んでやった。
交尾の図があって、4歳の長男が「これは何をしているの?」と聞いた。
初めての性教育とおもい、私は内心ドキドキしながら、「オスとメスが結婚したのよ」と答えたら、彼は「そう」と言ったきりで一件落着。
オス同士のケンカで、背中に大きなかみ傷を2ヶ所に受けたのが最後に死んでしまって、虫たちの夏も終わってしまった。

私は、カエルも、バッタも、手でつかめない。
それでカブト虫の幼虫を割りばしではさんでは、クヌギマットの取り替えをする。
この様子を見ていた長男は「お母さん、何しているの。僕なんか手で持てるよ」と、生意気にも親に向かってお手本をみせた。
ここで親の権威を失墜してはならじと、私も気持ち悪いのをこらえて、素手で1匹つかんでみせる。
「あら、意外とかわいいわね」と私。カブト虫の幼虫のほうがびっくりして、手の上で大きなウンコをした。




bR 『100冊の絵本』  1982年1月16日(30歳)
移動図書館「椿」号で借りたばかりの筒井康隆のSF小説を夕食の後片付けもそこそこにして、1人ニタニタと笑いながら読んでいた時のこと。
「おい、たまには子どもにも絵本ぐらい読んでやれよ」と、夫が不機嫌な声で言う。
「本好きは天性のもので、好きな子は親に隠れてでも読む。この私がよい見本でしょうが。私は親に絵本なんて読んでもらった記憶ないね」という持論を固執している私は、夫の言葉を聞き流して読み続けていた。
夫はまだ何か言っている。
「絵本100冊買ってもたかが5、6万円…」 
ここで毎月のやりくりに苦労している私はカチンときた。
売り言葉に買い言葉。
「そんなら絵本100冊買わせてもらいます」

今までに自分の本を買うついでに子どもにせがまれてということはあった。
絵本の立ち読みは数分でできる。
有名な「3匹の子豚」の話も、3匹の子豚たちは狼(おおかみ)をやっつけた後仲良く暮らしましたというのもあれば、小豚を食って満足げな狼をリアルに描いた絵本もあることを知った。
外国の絵本を訳したもので、こんな言い回しが日本語にあったのかと首をかしげたくなるものもあれば、方言で意味はよくわからなくても言葉のリズムがおもしろく、読んでやると子どもが喜ぶ絵本もある。
私も子どもに字を覚えてもらいたくて、絵だけの絵本はさける傾向があることに気づき反省したりした。
あれこれ考えていると、たかが絵本1冊を選ぶのも大変なことであることを知った。

絵本コーナーに足を運ぶうちに、お気に入りの絵本作家もできるようになる。
また児童図書や絵本に関係がある記事が新聞や雑誌にでていると、注意して読むようになった。
月に2冊くらい買って、今のところまだ20冊。
夫との口ゲンカから始まったことだが、100冊の絵本が並ぶころには、私もたくさんのことを勉強させてもらっているに違いない。




bS 『やさしい人』 1982年5月14日(30歳)
学生時代でさえ文芸部と縁のなかった私が詩を書きたいと強く思ったのは、長男が生後6ヶ月のときである。
「これから子育てが大変というときに、まして才能もなくて」という四面楚歌の中で、「やりたい事をやらないのは一生の心残り」と夫だけが賛成してくれた。
そのときから私の書いたものを読ませろと言っては批評してくれるが、いつも褒め言葉だけである。

5年の間に私も2児の母親となったが、なんとか同人誌の締め切りだけは守ってきた。
そんな私に夫は最近、「家事は最低限度すれば文句は言わない」とまで言い出した。
妻の両親と同居という気苦労もそれなりにあると思うのだが、私の夫はなぜこうもやさしいのだろう。
友人たちも「うらやましい」から「巨大なお尻にしいちゃって」と、いろいろ言う。
しかしちょっと待てよと、私は考える。

私の父は、母など文句の多い家政婦くらいに考えて、40年間仕事一筋に生きてきた。
その結果、退職後の母との共通の話題は孫のことだけという情けないことになっている。
そういう父の姿を夫は毎日見ていて、粗大ゴミ的扱いを受けない老後を期待するなら、夫は若いときから妻にやさしくあらねばならない、いや理解あるふりだけでもみせておかねばならないと、悟ったのではないだろうか。

夫がやさしいのは口だけだと通関させられるたびに、私はそう思うのである




bT 『私の書いた童話』 1982年4月3日(30歳)
時々はおもいついたように反省はしているが、私はよい母親にはなれそうにないと思う。
「人は希望という名の馬を、次々と乗りつぶしながら生きていく」という言葉を最近知った。
私もそうして生きてきた。
しかしその馬が夫や子供であったことはないようだ。
1日に何回かは頭の中から家庭そのものが消えていて、そういうときに子供に呼ばれてふりかえった私はどんな顔をしているのだろう。

この思いは夕刊の「ママが作ったお話」を読むと、いっそう強くなる。
書くことが好きでありながら、この欄には手が出ない。
童話の発想ができないということは、よい母親ではないという証明そのものだと、自分を責めてきた。

そんなとき、ある雑誌で創作童話を募集していることを知り、よし書いてみようと決心する。
今までの罪ほろぼしのために、2人の主人公は子供たちの名前をそのまま使った。
そして子供たちは正義の味方が悪い怪獣やロボットとたたかうテレビ番組に夢中なので、話の筋もこれを使わせてもらうことにした。
書き上がってみると、原稿用紙にちょうど20枚。

5歳と3歳にこんな長い話の読み聞かせは無理であろうと思いながら、読み始めた。
自分たちの名前がでたとたんに、2人の顔が輝いたのがわかった。
そして悪いロボットとたたかう場面になると、下の子はしがみついてくる。上の子は読んでいる原稿用紙の上に身を乗り出してくる。
読み終わってもしばらく興奮のさめぬ2人の顔をみていると、子どもってこんなことがそんなにうれしいものかと、だめな母親は驚きのほうが先に立ってしまった。

後日、「お母さん、また僕の格好いいお話を書いてね」と、上の子が言う。
「いいわよ、でも格好悪いってどんなこと? おしえてくれないと書いてしまうぞ」「ええとね……」
書かれたくない一心で秘密にしていた失敗談を話す子どもの顔を見ていると、こんな下心ある質問をする私にはやはり童話は書けないなあと思う。




bU 『万年筆』 1982年(30歳)
会社勤めをしていた10年も昔の話、たった1本しか持っていなかった万年筆をなくしてしまった。
ある日、新しい万年筆が欲しいと思いつつ上司であったNさんの横を通りかかった時、Nさんの持っていた万年筆が目にとまった。
「素敵な万年筆ですね」と思わず言ってしまった。
Nさんはにっこりと笑って机の引き出しをあけた。
中にはパーカー、モンブラン、ペリカン、などなど…。
「フロイト流にいうと、万年筆は男性そのものの象徴なんだよ。若い女の子が万年筆に関心をよせるなんてよくないねえ」

しかし5年間の会社勤めの間に、なにもかもボールペンで書いてすますという悪い習慣がついてしまった。
そして結婚のために退社して、私は夫になる人のために自分が欲しかったパーカーの万年筆を買い、プレゼントした。
「普段に使うにはもったいない万年筆だと友人に言われたよ」とうれしそうに言う言葉を聞きながら、私には「あなたの物はいずれ私の物」という下心があった。
ところが夫のワイシャツのポケットで場違いのように輝いていたその万年筆が、7年経った現在自然な感じでおさまっている。
夫が素敵な中年男性になりつつあるのか、それとも万年筆がくたびれてしまったのか、いずれにせよ私はその万年筆のことはあきらめた。

ところが先日どうしても原稿用紙に万年筆で書きたくなった。
ああなつかしいブルーのインクの色よと思い始めると我慢ができない。
同居している父にねだることにする。
「ねえおじいちゃん。万年筆のいらんのない?」
「ある、ある」
父が持ってきた箱をあけると万年筆が3本、そしてきれいに削られた鉛筆が数十本。
昨年退職して毎日を孫を相手に暮らしている父が、こういうものをまだ大切に持っているということに、私は知らない父の一面を見たような気がした。

それにしても男の人と万年筆の間には、それぞれ物語り(ロマン)があるなあ。
女の私にも万年筆の似合う日がくるだろうか。




bV 『お年玉』 1982年5月14日(31歳)
わがやの2人の子どもたちも例年通りお年玉を集めて、にわか成金となった。
そこで2人のお年玉をいかに有意義に活用させるか、親である私の出番となる。

まず2人に向かって、「お母さんにもお年玉をくれる賢い子はいないかな?」と言ってみる。
予想通り3歳の長女がひっかかってきた。
お年玉全額と引き換えにほっぺにチューをしてもらって、彼女はご機嫌である。
もちろん、子どものお年玉をいただこうというのではない。
大金なくさないための親心である。(本当かなという陰の声あり)

さて問題は6歳の長男。
去年は安いおもちゃと引き換えにお年玉を素直に渡してくれたが、今年はこの方法は使えない。
簡単な計算が出来るようになって「これはいくらだから……」とおもちゃの広告をみながら指を折っている。
ああ、すぐに飽きてしまうゲームウォッチを買うことになるのかと心配していると、彼に心境の変化が起きてきた。

朝夕に貯金箱をながめていると、お金に愛着を感じだしたらしい。
「もっとたくさんのお金になったら、もっともっとすてきな物が買えるのよ」という私の言葉に、初めは「いやだ」の一点張りだったのが、少しずつ耳をかすようになってきた。
「貯金する」と彼の口から言わせるまで、あとひと押し。

今年のお年玉騒動は子どもの名前の貯金通帳が出来て、一件落着となりそうだ。




bW 『逆上がり』 1982年12月1日(31歳)
6歳の息子の通う幼稚園では、運動会とは別に鉄棒・マット運動を中心にした体育発表会というのがある。
その体育発表会を控えたある日、「僕ね、逆上がりが出来るようになったよ」と、彼は言った。
私は思わず出かかった「ウソ」という言葉を飲み込んだ。
先日のこと、近くの公園で、いくら振り上げても鉄棒より上に足が上がらないぶざまさを見たばかりである。
そのうえ彼は体格と運動神経の鈍さにおいて、私の血を濃く受けついでいる。

それでも「ウソ」と言えなかったのは、この夏に水泳について苦い経験があったためだ。
「プールの横(6メートル)が、泳げるようになった」と言う彼の言葉を、私はウソだと決めつけた。
息継ぎは出来ないし、水しぶきだけが派手なあのバタ足では、1メートルがいいところだ。
ところがプール参観の日、彼はプールの横を泳ぎきった。
「公園の鉄棒は出来ないけれど、幼稚園のは出来る。発表会の日に逆上がりが出来たら、プラモデルを買ってね」
もしかしたらプラモデルが欲しくて、とも思ったが、「いいよ、がんばってね」と返事をしておいた。

前日の夜、「きょうの練習で逆上がりが出来なかった。あす出来なくても、プラモデルを買ってね」と、彼は言い出した。
そして執拗に言い続けたあと泣き寝入った。やはりと思う。
6歳を過ぎて、かわいいだけでは育てられなくなったことを、このごろ痛感させられている。
ちょっとした事件を起こして、私も一緒に謝りに行ったということが最近あったばかりだ。

さて、晴天に恵まれた体育発表会の日、プログラム2番が彼の出番である。
親の不安をよそに、彼は友達とふざけたりしている。
おもむろに立ち上がった。助走…。
出来た! あざやかな逆上がり。




bX 『SFかあさん』 1983年2月27日(31歳)
私は年に1度のわがままと許してもらって、宇宙人やロボットの登場するSF映画を1人で見に行くことにしている。
先日の「E・T」もそのつもりで、子守りを頼むべき夫の都合のよい日を待っていた。
そして待ち続けて2月も終わりとなり、あわてた私はしかたなく3歳と6歳の2人を連れて見に行った。
なんとか「E・T」を見たという喜びはあっても、「スター・ウォーズ」を「スター・トレック」を1人で見た時の満足感にはどうしても欠ける。

暗い映画館に1人で座っていると、横に感動をともにしてくれる同年輩の友人がいたらなあ、と思うこともあった。
しかし子どもや家族のことは話題になりえても、この歳でSFというほうがおかしいのだ、とあきらめている。

私の愛読しているSF雑誌のお便りコーナーに、「この歳でSF大好き、アニメ大好き」などということが知れたら、近所の人たちがどう思うか心配です。
ただ小学生の息子が時々私の本箱からSF小説を持ち出して読んでおり、今によい話し相手になると楽しみにしています」とあった。
もちろん匿名希望。ああ、広い日本のどこにいても、SFかあさんというのは連帯感に飢えた孤独な存在であるらしい。

話は変わって、一昨日のこと本屋で散在した。
ハインラインにスタージョンにディックに光瀬龍。青色の帯封のあるハヤカワ文庫だ。
さてどれから読もうかと悩む心境は、幸福としか言いようがないと思っている。




bP0 『勉強机』 1983年4月9日(31歳)
私の家の長男も4月から1年生。
制服と学用品とランドセルもそろえて、あとは勉強机だけとなった。
「机はおじいちゃんがこうてやる」という言葉と、すでに持っている友達のを観たりして、新しい机に対する長男の希望はかなりふくらんでいたらしかった。しかし、私の家に古い勉強机が2台もあるのだ。1台は父が使いそして兄が使い、現在は物置の中でほこりをかぶっている。もう1台は私自身が使ったもので、現在では台所で調理台に変身している。

スポンサーもついている新しい勉強机を買おうか、それとも古い勉強机を使わせようかと私も悩んだが、ついに決めた。「かわいそうだ」と言う父に、「机くらいのことで我が子が説得できんようでは、これからの子育てができますか」とたんかをきって、日曜日に夫に手伝ってもらい古い勉強机を物置から出した。

長男の一言、「こんなぼろいのはいや」ところが「お兄ちゃんはいらんのだって」と、長女が自分の絵本を引出しの中に入れだした。こういう時は、しばらく様子をみているのにかぎる。しばらくして「机がぶっこわれるほど勉強したら、新しいのを買ってくれる?」と彼なりの妥協案をだしてきた。すかさず「イスとマットと本立てをそろえたら格好よくなるぞ」と言ってやる。

先ほどの不満顔はどこへやら、うれしそうな長男の顔を見ていると、きびしかったかなとも思い、大人の机を小学生に使わせる不安も感じる。しかし新しい勉強机はいつでも買える。しばらく様子をみてもいいだろう。




bP1 『園芸の効用』 1983年4月26日(31歳)
花をいつくしむことが嫌いというのでもなかったが、狭い庭はすでに父母の草花でいっぱいで私の自由になる場所がなく、切り花も子どもに花器をひっくり返されるのを恐れて飾らなかった。
園芸が趣味の一つとなるには、もう少し歳をとってからと思っていた。
そんな私が花よ花よと言い始めたのは、昨年の晩秋のこと。
すでに種をまくには遅い季節であったので、もっぱら花屋さんで温室咲きの鉢物を買いこんだ。
結婚8年目にしてある日、突然のように部屋の中に並んだ30余りの鉢を見て、夫があっと仰天したというのは大げさだろうか。

そもそもの始まりは、手紙に必ず花便りを添えてくれる友人に触発されて求めたリンドウ1鉢だった。
しかし、それが30にまでふえたのにはもう1つ訳がある。
そのころの私が少々気の重い人間関係の中で右往左往していたことと、どうも無関係ではないようだ……。
ところで私は草花の世話をしているうちに、心を慰めるだけではない別の園芸の効用を発見した。

子どもたちの兄弟げんかが始まったある日、1つの鉢を手にして「花はかわいいわね」と私はつぶやいたのだ。
すると不思議なことにけんかがおさまり、子どもたちは仔猫のように私に身をすりよせてきた。
またある日のこと、家庭サービスがおろそかになりつつある夫に同じポーズで「いいのよ、別にあてにしていないから」と言ったところ、あとで「まくしたてられるよりもこたえた」ときかされた。

暖かくなった現在、鉢は全部ベランダに出している。
洗濯物を干すのに差し支えはあるが、それでも1日に何度もベランダに出ては、花をながめるのを楽しみにしている。




bP2 『子どもの足』 1983年6月7日(31歳)
夕方の6時のサイレンが鳴ったら、どこで遊んでいても帰って来なさいといつも言ってあるのに、小学1年生の男の子には腹時計と日時計しか通用しないものらしい。
日の長くなった今ごろでは7時も近くなって、息せききって帰ってくる。

そして玄関の戸を開けると靴をそろえた気配もなく、台所までの廊下を「お母さん、お母さん」と叫びながら走ってくる。
私の「おかえりなさい」という言葉は、いつもドタバタの足音にかき消されてきこえないのだ。
それなのに「なんだ、おるのなら返事してよ」と言うものだから、私も「靴はそろえたの?」と問い返す。
しかし、もう子どもの目はテレビの漫画にクギづけになっていて、返事の返ってきたためしがない。

毎日のことではあるけれど、きょうも両手両足と服が泥だらけ。
「ああ、そんな足であがってきたらいかん。はよ風呂場に行きなさい」
子どもを裸にして風呂場のホースで頭からお湯をかけていると、私は犬を飼ったことはないのだけれども、犬の子もこんなにして洗うのじゃないかと思えてくる。

「どこでだれと遊んだの?」
「中川くんとザリガニ捕りをした」
「中川くんって?」
「きょう友達になった」
「どこの川?」
「あそこをこっちに曲がって、曲がった所をあっちに行って……」
「遠い所へ行ったらいかんよ」
「お母さん、あの川をしらんの?ウッソー」
こういう会話を続けていると、私の母親としての部分が寂しさを感じてくる。

バスタオルでふいたあとは、きょうこしらえてきた傷の手当て。
両足とも青あざとすり傷だらけだ。
「たまには赤ちゃんの時のようなきれいな足をみてみたい」と私が言うと、生意気にも子どもは「カラスの勝手でしょう」と言い返した。
そこで私もオキシフルをたっぷり含ませた消毒綿を、傷口に押しあててやる。
「くすぐったい、くすぐったい」と、子どもは足をかかえて転げまわっている。
「痛い」とは絶対に言わないのだから。




bP3 『編み物』 1983年10月9日(31歳)
暑い夏のあいだ見るのも触れるのもいやだった毛糸が、秋風が立ち始めるとともに無性に恋しくなる思いは、何度経験しても不思議に思うものの1つ。
この秋1番に編む毛糸を、ワクワクする心をおさえつつゆっくりと慎重に選ぶ。
といっても私の編み物はまったくの自己流で、「好きです」とは言えても、「出来ます」とは言えない。
昔々1度先生についたが3か月とは続かなかった。
「高い月謝を払っているのだから、おそわり上手にならないと損よ」という先生の言葉を、全身冷や汗で聞きながら教室の隅で1人ゴソゴソしていた。
本当に損な性格だと思う。

それでもその後、独習法なる本を何冊も買い込んで、なんとか編めるようになったのは、洋裁よりも、何度でも編み直しのきく編み物のほうが、私の性格にあっていたからだろう。
解いて編み直すことを私は苦に感じたことがない。

夫は今でも編み物のことを、手だけ動かせばよい単純作業とみているようで、「よくもまあ、そんなことに何時間も熱中していられるものだ」と言う。
私が編み棒を機械的に動かしている間、頭の中ではどんなことを考えているのか、彼はご存じないのであろう。

 それは時々は「愛の手編み」という言葉にふさわしく、夫や子供たちへの愛であふれていることもある。
しかし、それは時々のこと。我が家の未来への展望といったまじめなものから、とりとめのない空想まで千差万別。
中でも映画や小説の主人公を自分におきかえて、ストーリーを組み立てるのは、大好きなものの1つ。
そうそう、夏樹静子さんの小説を読んだあと、編み棒を動かしながら、私の頭の中は夫を完全犯罪で抹殺する方法でいっぱいだったこともあったけ。
くれぐれもご油断めされるな、ご主人さま。




bP4 『サンタクロース様』 1983年10月9日(31歳)
前略、サンタクロース様。子どもたちの手紙はもうお手元に届いたでしょうか。
今年のプレゼントは、7歳の男の子はラジコンカー、そして4歳の女の子はお人形と絵本と折り紙とハンカチとチョコレートと……。
ラジコンカーはたいそうな出費となりそうですが、女の子のほうは、メモ用紙を片手にそろえるのがひと仕事となりそうです。

ところでサンタクロース様、今年のクリスマスにはぜひとも、私にもプレゼントしていただきたいものがあるのです。
それは「サンタクロースに関する子どもたちの質問への模範解答例文集」という小冊子をたった1冊だけ。

「うちには煙突がないけれども、サンタさんはどこから入ってくるの?」
「どうして子どもが眠ってしまわないと、サンタさんは来ないの? ありがとうが言いたいのに」
「サンタさんはどこのおもちゃ屋さんでプレゼントを買うの?」
「どうしてサンタさんは、大人にはプレゼントをくれないの?」
「お友達がサンタさんなんていないと言ったけれど、本当?」

たかが子どもの無邪気な質問だと、30年の人生経験にものをいわせ、その時の気分とたくさんのウソとほんの少しの真実をごちゃまぜにしてなんとか答えてまいりました。
しかしこの数年の中で、今年は1番苦労いたしました。そろそろ限界だということを痛切に感じ始めております。
そしてまた近ごろでは、納得したような子どもの顔をみると、私の胸にはチクリと痛みさえ走ります。

サンタクロース様、わが家の中であなたの存在が危うくなりかけております。
来年のクリスマスのことを考えますと、もう私には自信がありません。どうか、私のささやかなお願いをおききとどけください。




bP5  『読書の秋』 1983年11月22日(32歳)
「3,260円のお買い上げです」という店員さんの言葉に、内心ドキリとする。
文庫本ばかりであるけれども、8冊は買い過ぎかなあ。
いや、こんなに安くて気軽に楽しめるものは読書以外にないと、ひらきなおることにしよう。
8冊のうち5冊はミステリー。
やはりこの季節の夜長はミステリーにかぎる。

そもそも本日、私が本を買い込んでしまったのは、
「連城三紀彦の『戻り川心中』を読みました。久しぶりに堪能しました。自分の好みにあった本を読むということは、自分の世界をみつめるということです」
という手紙をもらって、私も『戻り川心中』を読んでみたくなったからだ。
読書とは1人でページをめくるしかない孤独な楽しみのはずだが、それでもいつのまにか本を通じての友人ができる。
昨年の秋、おそまきながら名探偵フィリップ・マーロウ氏と知りあえたのも、この手紙を下さった人のお陰だった。

そしてまたこの秋はもう1つ、本の情報をたくさんつめこんだ手紙を、はるばると岩手県からもらった。
「これから57年度江戸川乱歩賞の『黄金流砂』を読むところなんですが、今年度の乱歩賞も岩手県の人でした。来年はこの私!なんて言ってみたいなあ。私の頭の中はすでにすてきな名探偵ができあがっているのです。しかし肝心の殺人事件がまったく思いつかない。何かいい殺人事件?があったら教えてください」

では再来年の乱歩賞はこの私が、という返事は書きたくても書けない。
しかし妻・2人の男の母親・農家の嫁・公務員・作家志望の1人5役をこなしている岩手県の彼女に、せめて読んだ本の冊数だけでも負けたくないものだと発奮してしまう。




bP6  『さめない夢』 1984年1月18日(32歳)
夫は年に数度は悪夢にうなされるという。
得体の知れないものに追いかけられたり、泳いでも泳いでも岸にたどりつかないとか。
そのたびに体の不調が夢にあらわれた、とぼやいているが、私は楽天的な性格が幸いしてか悪夢とはまことに縁がない。

夢の中で何者かに追いかけられたとしても、なぜかしらそのスリルが楽しい。
また泳げないことがわかっているので、夢の中でも水のあるところには近づかない。
恥ずかしい話だが、私の見る夢は、いつも自分に都合よく出来ているのだ。
片思いの恋でも、夢の中ではかならず成就するし、宝くじはいつでも当たることになっている。
長男を出産した時は、生まれたばかりの赤ん坊が話すというので、見物人が家のまわりを囲んでいる夢を見た。
こうなるといくら夢とはいえ、そ調子のよさにわれながらあきれてしまって、家族に話すのさえ気のひける思いがする。

先日の亡父の49日の法事の夜には、父が生きかえった夢をみた。
夢の中で父が、「わたしの体がこんなに軽く感じられるのは、もしかしたら死んでいるためなのかもしれない」と、しきりにたずねる。
「この世に神も悪魔も幽霊もいないというのが、お父さんの口癖だったでしょう。焼かれて灰になってしまった人間の体が元通りになるわけがない。お父さんは病気にならなかったし、死にもしなかった」
そう私が答えると、父は納得したようなうれしそうな顔をした。
そして目がさめた。

闇をみつめながら、夢の中の自分のせりふをおもいだして苦笑してしまった。
本当に私は自分の都合のよい夢ばかりをみる。
しかし、さめない夢はまだみたことがない。




bP7  『チーター』 1984年2月29日(32歳)
小学1年生の長男が、こたつに足をつっこんで、動物の図解という図鑑に見入っている。
幼い頭でどこまで理解しているのかは知るすべもないが、彼は小さい時から図鑑の好きな子だった。
そしてひとしきり図鑑をながめおわると、いま仕入れたばかりの知識で、彼は母親の私を試しにかかってくる。
カリウドバチの狩りのこと、エリマキトカゲの襟のこと、チョウチンアンコウの提灯のこと。
しかしまだまだ私のほうに勝ち目はあるのだ。

さあ、きょうも図鑑をパタンと閉じると、「ねえ、お母さん、人間は昔は猿だったんだね」 おやおや、進化論できたな。
「いまのゴリラやチンパンジーが、そのうちに人間になることはないのだから、猿が人間になったというのは間違いで、猿によく似ていたものが進化して人間になったというべきかな。
人間が高い知能を持つことが出来るようになったのは、2本の足でまっすぐに立つようになって大きな頭を支えやすくなったからよ。
試しによつんばいになってごらん。
そのうちに首が痛くなってくるから」

私は人間が猿によく似たものから進化して、いかに他の動物とは違った素晴らしい動物になりえたか、という話を続けたのだが、しかし彼はいつものように、目を輝かせてこの話にのってこない。
やはり小学1年生に進化論はむつかしかったと考えていると、突然のように「チーターがあんなに速く走れるようになった訳を教えてよ」と質問してきた。
チーターが速く走るために失った大きな頭や2本の手のことを考えて、返事につまっていると、「チーターは時速100キロで走れるんだ。お父さんの車より速い。僕はチーターに生まれたかった」と、彼は言葉を続けた。
「そうだね、チーターってすてきだね」と答えながら、私は彼に完全に負けてしまったことを感じた。

目を閉じると、草原を疾走するチーターの姿がみえた。




bP8 『春になると…』 1984年3月(32歳)
春になると猫が鳴き始める。「猫の恋」と人間様は季語にしてしまったが、気温か日照時間の変化に脳のどこかが刺激されるらしい。
一晩中、本能の命ずるままにニャーニャーと鳴き続ける猫には失礼かもしれないが、蒲団の中で聞いている身には、騒がしいも哀れも通り越して、こっけいですらある。が、私に猫を笑うことはできない。

空の色も風のにおいにも春を感じる日、私は街に出た。
もちろんいつものように、ウインドー・ショッピングだけのつもりだったのだが…。
布地屋さんで春柄の木綿地をみつけると、素通りできなくなった。
これらで子どものブラウスを縫ってやったら、かわいいことだろうと思い、店員さんを呼びとめてしまう。
文房具店では、花模様の便せんと封筒が目にとまった。
冬の間に疎遠になってしまった人に、これで手紙を書きたいと思うと、どうしても欲しくなる。
本屋に入った時は立ち読みのつもりだった。
だが、本の1冊のやり繰りができぬことではなし、それについでということもあるのだからと考え始めると、1冊が2冊になってしまう。

家に帰って買ったばかりの木綿地をしまっていると、まだ縫っていない布地のあることに気がついた。
このチェックは昨年の春にスカートを縫おうと思って買ったもの。
あっ、これはパジャマを縫うつもりだった。確か一昨年の春に…。
花模様の便せんと封筒はみればみるほどかわいいが、私は気恥しくなってくる。
残念ながら使えそうにない。
本はすでに本箱からはみ出している。
ステレオの上に山積みになっている。その上に新しく本を重ねる。
「本はもう買わない」と決めていたことを思い出したが、もう遅い。

春になると鳴き始める猫よ、こっけいといわれようとも、その胸の内はさぞや切ない思いでいっぱいであろう。
私も切なくてたまらない。



bP9  『お母さんの絵』 1984年6月2日(32歳)
今年の「母の日」は、5月13日だったが、この日、私は長女からビッグなプレゼントをもらった。
長女の絵が「うちのお母さんの絵」コンテストで金賞を射止めたのだ。
2年前の同じコンテストで、長男の絵も金賞だった。
偶然の結果にしても、母親の私としては信じられないくらいにうれしかった。
ついつい横にいた夫に「母親に愛し愛されている幸福感が絵にでていて、それが審査員の目にとまったのね」と言ってしまった。
ところが、夫の返事は予想に反して冷たかった。
「母親に愛し愛されたいという願望が絵にでていて、それに審査員が同情したんだと思うよ」

以前から私は、「ユニークな子育てと手抜き子育てというものは、似ているようで全然違うものだ」と、夫にしかられてばかりいる。子どもの絵についてもそうだ。
絵は才能の問題、才能のない者はいかに楽しむかを考えるしかない、という独断的主張をもとにして、私は子どもに画材類は与えたが、描く絵については口出しも手出しもしなかった。
そのために、長男は幼稚園で「みんなと同じような絵がかけない」と泣いたこともあったらしい。
しかし、それすらも私の反省とならなくて、現在でも、長男が画用紙1枚に大きくキン肉マンの顔をかこうとも、「ウアー、すごい迫力」と言ってしまう。
長女がペーパークラフトの切り線、折り線におかまいなく、ハサミで切りきざんでも「チョキチョキが上手ねえ」

真実を言いあてている夫の言葉に、一瞬、私はクシュン。
でも、と考え直して、「母の日」に子どもたちからビッグ・プレゼントをもらった幸福な母親であるという事実を、もう1度確認する。
そしてさりげなく「そういえば『父の日』というのが6月にあったねえ?」
今度は、夫からの返事はなかった。




bQ0 『3年の計』 1985年1月20日(33歳)
今年の1月1日から、日記帳が新しくなった。
10年近く愛用してきたH館の3年連用日記から、思うところあって、T書店の3年連用ビジネス日誌にしてみた。
それを昨年の12月の初めにかまえて、ことあるごとにながめたり手にとったりしていたものだから、年が明けて1月1日を記す時は、敬虔なくらい新鮮な気持ちになった。

3年分の空白に、これから私は何を書いていくのか。
期待がふくらむ。いや、日記は夢をあがく未来誌ではない、自分の行いの結果でしかない。
今までのように、この新しい3年間もまた、自分のふがいなさをめんめんと綴ることになるのだ。
そしてそれを時々読み返しては、それでも自分なりになんとかやっているじゃないかと、自己弁護のよりどころにする。
これが私にとっての日記の効用だったのではないか。

だからこそ、あえてこの新しい日記の第1ページには「努力も才能のうち」という言葉を記しておこう。
この10年間、「私だってその気になれば出来るにちがいない」という甘い現実逃避に酔い続けてきた。
言い訳はいくらでもあった。「夫と子どもに迷惑はかけられない」「時間がないから、そのうちに」「人がどう思うか心配で」……。
言い訳は誰にでも山とある。
だが、何かを成した人は、言い訳などせずに、不断の努力を続けたにちがいない。

今年は結婚10年目。
末っ子が小学生になる。私も33歳になった。
これからの3年間、日記帳の空白に、私の甘い現実逃避の1つ1つをさらしていこう。
そして、その結果として、自分にも他人にも言い訳できないものを、必見つけよう。
早過ぎるという歳ではないし、遅すぎるという歳でもまだないはずだから。




bQ1 『テストの点』 1985年2月27日(33歳)
今の小学校では、2年生で九九を習う。
私が習ったのは、3年生になってからだったと思う……。
わが家の長男も2年生で九九暗唱の真っ最中。
毎日のように1分間20問テストというのがあって、先生も子どもたちに覚えさせるのに苦労されているようだ。

ところで初めのころ、長男はこのテストの点がとても悪かった。
本を読むとか九九を覚えるとかいう"証拠″の残らない宿題は、長男にとって宿題のうちに入っていないらしく、テストの点はその結果なのだ。
そのくせそのテストを母親の私に見せる時、長男は真剣な顔をして、「笑うなよ」と言う。
もう1年も前になるが、長男がおずおずとさしだした算数のテストの点(非常に悪かった)をみた時、私は怒ることを忘れて、思わずふきだしてしまった。
そして笑い転げてしまった。

わが家の長男、勉強は好きではないらしい。
しかし、時には親の私でもほろっとするような優しいことを言ってくれる。
かと思うと、私のほうが言葉に詰まるような理屈をこねてみたりする。
テストの点が悪い結果、長男にはどんな人生が待ち受けているかはわからないが、それでも20年後、なんとか1人前の大人としてやっているのではないか。
そして結婚もして父親になっているに違いない、この私がそうであるように……。
以来、長男のテストの悪い点をみても、おかしさのほうが先に立ってしまうのだ。

しかし、こう度重なっては、笑ってばかりもいられない。
ついに母と子で九九暗唱の特訓を始める。
2人とも性格は似て短気だから、暗唱に詰まると長男は泣き叫び、私のほうは手がでる。

そして特訓開始より2週間たった日、長男がニヤニヤしながら台所に入ってきた。
そして「別に珍しくもないんだけど」と言いながら、九九のテストを目の前でひらひらさせた。
そのテストのくっきりと赤い100点という数字をみて、私はほめるよりもさきに、やっぱり笑いころげてしまった。




bQ2  『捨てる』 1989年5月23日(37歳)
部屋を片付けるといえば、散らかっている物を押し入れの中にしまうことだった。
が、子どもたちが成長するにしたがって、その押し入れもいっぱいになってしまったのは、何年前の事だったろうか。
「片付けるという事は捨てる事なり」と悟ったが、しかしそれを実行することはとてもむつかしい。
どのような物にもそれぞれに愛着があり、また今は不用品であっても、この先いつかはという思いがある。
だがやはりなんとかしなくては、この狭い家、そのうちに足の踏み場もなくなってしまうことだろう。

「衣類については、3年間そでを通さなかったものはその後も着ることはないと決め、処分してしまおう。
本と雑誌についても読み返すことはないとし、ちり紙交換に出すか古本屋に売り払ってしまおう。
そして日用雑貨については、なるべく来客用とふだん使いの境をなくして、しまい込まないようにする」と、書いてしまえば簡単だが、なんとか行動に移せるようになったのはごく最近だ。

何度も手に取って捨てようかどうしようかと散々に迷い、ええいと目をつむって、ゴミ袋にギュッと押し込む。
初めのうちはもったいないことをしているという罪悪感で胸が痛んだが、何度か繰り返しているうちに、捨てるという行為には爽快感もついてくることを発見した。

ガチャンと皿を割るようにウツウツとした日のストレス解消になかなかよろしい。
ただし、後日、家族の者から「あれはどこにある?」と聞かれて、その返答に窮することだけは覚悟しておかなければならない。




bQ3  『ザリガニ』 1989年7月8日(37歳)
ザリガニを1匹だけ飼っている。
このザリガニは、昨年の夏に長男がどこかの川で捕ってきたもので、はじめは私の親指ほどの大きさしかなく、体も土色をしていた。
それがこの1年間に何度も脱皮して、今では大きなハサミを持つ赤い立派なザリガニとなった。
子どもたちの観察では雄であるらしい。

砂利を敷いた水槽に水を半分入れて、その中で飼っている。
1日のほとんどを、隠れ家としている縁の欠けた湯呑み茶碗の中で過ごしている。
身の安全を保障されている半面、孤独で退屈な毎日ではないかと思う。
エサはペットショップで買ってきた「ザリガニのエサ」というのを与えている。
人影をみとめると、隠れ家から出てくる時がある。
そして、エサが落ちてくるのを待ちきれないで腹をみせてひっくり返る。
野生では考えられない行動だろう。
そういえば、このごろでは水槽を少々たたいたぐらいでは、驚きもせず憎らしいほどに悠々としている。

「うちのザリガニは精神がたるんどる」と、子どもたちは言う。
そして刺激を与えてやらんといかんと言っては、棒でこづいたりしている。
この間は、金魚すくいですくってきた金魚を入れてやろうかと、2人で相談していた。
それでも残酷と思うのかまだ実行はしていないが、子どもたちの予想では、はじめて見る生きた魚に、うちのザリガニは狂喜して踊りだすんじゃないかということだ。

いまさら川に戻してやっても、この状態ではたちまち鳥にでも捕まって食われてしまうのだろう。
かわいそうではあるが、このままで飼い続けるしかない。

しかしザリガニを見ていると、狭い水槽で暮らす身の不幸なんて考えたこともないといった顔をしている。
かわいそうにと思うのは、ザリガニに感情移入してしまった私の心の問題かもしれない。




bQ4 『金魚』 1989年8月21日(37歳)
「金魚すくいを楽しむのもいいけれど、すくってきた金魚は自分たちで世話しなさい」と、子どもたちに言い聞かせたのはもう何年も前のこと。
その時だけは元気な返事が返ってきても、結局は3日坊主という夏を何回か繰り返した。
そして今は水替えもエサやりもも当然みたいに母親の私の仕事なってしまっている。
暑い最中、口うるさく言うのもいやでというのは言い訳で、やはりしつけに関して甘いところがあったのだろう。
子どもたちに手がかからなくなっていくのだから金魚の世話ぐらいと、このごろは楽しみな日課とさえおもえるようになった。

それでも夜市からビニール袋に入れた金魚を持って帰るたびに、さすがの子どもたちも申し訳なくはおもってくれるらしい。
「お母さん、またまたごめんね」とか「お世話かけます」とか、一応のかわいらしいことはいう。
しかしいくらなんでも15匹は多すぎだ。
世話の手間については数の多少はあまり関係ないのだけど、あのなぜか1匹ずつ死んでいくのがつらい。
昨日まで元気に泳いでいたのが、朝になると水面にぽっかりと浮いている。
それを始末して子どもたちにも報告するのだけど、わかったようなわからないような顔をしている。

「死ぬのがわかっているのに、金魚すくいなんかしなさんな」と、のどまで出かかっている言葉を飲み込む。
これは親として言ってはならない言葉のような気がする。
何十年か先、子どもたちもそれぞれ親となり、今の私と同じ思いを味わうにちがいない。
その日を楽しみにしていよう。

15匹の金魚は6匹になってしまったが、この6匹は元気で倍ほどの大きさに育った。
水替えをすませたばかりのきれいな水の中で泳ぐ金魚をみていると、暑さも忘れて心がなごむ。
外ではアブラゼミに混じってクツクボウシが鳴き始めた。




bQ5 『夫のセーター』 1989年11月30日(37歳)
この秋、4年前に編んでいた夫のセーターをほどいて編みなおした。

編みなおすまえのそれは、まだ私が手編みをはじめて間もないころ、初めて編んだ夫のセーターだった。
自分のを編むよりも気を使った。
毛糸もデザインも寸法も、編み物の本の中で一番気にいった作品と同じにした。
完成に1ヵ月ぐらいかかっただろうか。
編み目もきれいにそろい出来上がりは上々だった。
ところが夫が着ると、どうしたことだろう、見られたものではないのだ。

本の中では格好いいはずのゆったりした腰回りも袖付けも、夫が着るとブカブカという言葉でしか言い表せない。
鏡に映った自分の姿を見た夫にも、それはすぐわかったようだ。
さすがに傷つく言葉で批評はしなかったが、2度と自分から着たいとは言ってくれない。
そのセーターはタンスの引き出しの奥にしまいこまれてしまった。

おさまらないのは「本の通りに編んだのに……」と思う私の気持ちだった。
頭の中では「着る人に合ったデザインや寸法で編もうとしなかった自分が悪い」と、わかってはいる。
しかしどうにもムシャクシャする。
夫のセーターなんか2度と編むものかと思った。
この4年間、「いいなあ、ご自分のセーターばかり編んで」という夫の皮肉に聞こえないふりをしてきた。
だがあのセーターが消えてなくなる訳でもない。

この秋やっと、悔しいけれほどいて編みなおそうと決心する。
夫の気に入っている既製品のセーターと形も大きさも同じにすれば、なんとか着られるものにはなるだろう。
ほどいて湯のしして編みなおすのにまた1ヵ月。
よかった!今度は着てもらえそう。

うれしくて今、2枚目の夫のセーターを編み始めている。




bQ6  『尾崎豊が死んだ』 1992年5月1日(40歳)
ロック歌手の尾崎豊が26歳の若さで死んだ。

彼の歌を初めて聴いたのは、もう5年も前のことになるだろうか。
台所に1人立って料理する時間が寂しくて、私専用のラジカセを買った。
毎夕、FM放送の音楽番組をテープに録音しながら聴いていた。
その中に彼の歌があった。
そのころに聴いたいろいろな歌手の歌の中で、いいなと思ったり、思わわず体が動いてしまうノリのよい曲というのもたくさんあったが、衝撃を受けたというのは少ない。
彼の歌はその中の1つだった。

著名人たちが彼の歌やカリスマ性についていろいろ語っている。
しかし、彼の歌が好きなだけで私生活には興味のなかった私は、だれの言葉が真実を言い当てているのかわからない。
ただサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を30歳で読んだとき、この本を多感な10代に読んでいたら自分の人生はかわっていたかもしれないと思った。
尾崎豊の歌にも、そう思わせるものがあった。
彼の歌とともに今を生きる10代の若者たちがうらやましかった。

そのうちにラジカセも流行歌に興味を持ちだした長女にとられてしまい、私は、尾崎豊の歌も含めて音楽から遠ざかってしまった。
例の覚せい剤事件もあった。
それでも私は、彼はいつまでも歌い続けるだろうと信じていた。
いつか30歳になった彼が大人の歌を歌い始めたとき、また衝撃の再開をさせてもらうのも楽しみでいいなと思っていた。
それがあまりにも早過ぎる彼の死でかなわぬこととなり、とても残念だ。




bQ7  『ドラゴンクエストY』 1996年9月26日(44歳)
1時間に及ぶ死闘の末に、デスタムーアを倒した。
テレビに向かって、Vサインをする。
春から始まって、4か月にわたる長いゲームが終わった瞬間だ。

しかし、テレビの前には私1人。
すでにクリアしている大学生の長男は、「がんばれよ」のひと言を残して、どこかへ遊びに出かけてしまった。
高校生の長女は、部屋でファッション雑誌を読んでいる。
今、彼女の関心は家庭用テレビゲームよりもおしゃれのこと。

10年前、「するなとは言わない。しかし、やるのなら自分の力で最後までやれ。そして、お母さんもする!」我が家に家庭用テレビゲームが入ってきた時、私は子どもたちにそう言った。
あの日から、「ドラゴンクエスト」シリーズは私と子どもたちに、悲喜こもごもの話題を提供し続けてくれている。

発売日に「ドラゴンクエスト」をだれが買いに行くかに始まって、だれが1番初めにゲームするかも譲れない重要な問題だった。
そしてもちろん、3人のうちでだれが1番先にクリアできるかも……。
しかし、その間のそれぞれに知り得たゲームの情報交換のとても親子とは思えないシビアなこと!
「T」から「Y」まで、「あんなことがあった、こんなことがあった」と思い出せば、それはすべて子どもたちの成長と重なり合う。
懐かしさのために胸の詰まる思いさえする。

こんな私たちのために、またまた素晴らしく面白い「ドラゴンクエストZ」をなるべく早く作ってくださいませ。



bQ8 『ピアス』 1996年10月24日(44歳)
デパートの宝飾売り場に立っていると、店員が「お客さま、こちらはピアスしか扱っておりませんが……」と言う。
そしてまじまじと私の顔を見つめた後、「失礼しました」と言った。
誰から見ても、こんなおばさんがピアスをしているとは想像できないのだろう。

耳朶(みみたぶ)に穴を開けて、ピアスを始めてから1年。
きっかけは、娘に勧められて。
イアリングはどうしてもその構造から大きいデザインばかりだし、留め金の耳への圧迫感が気になって仕方がなかった。
そして何よりも、娘の耳で小さくかわいらしく存在を主張しているピアスが、うらやましかった。
しかし私があまりにも素早く実行に移したので、勧めた娘自身も驚いたようだったが……。

「親からもらった体に傷をつける」というセリフを吐くほど、私の頭は固くない。
また「ピアスで人生が変わる」と信じるほど、若くもない。
ただ、耳は顔に近い場所なので、鏡を見るたびに目に映る。
顔のほうは年相応の少々疲れの出たいつもと同じ顔なのだけど、その顔をちょっと傾けてポーズをとれば、奮発して買った誕生石のピアスが私の両耳でキラリと光る。
「さあ、もう少しがんばってみようか」と、自分自身に声をかけたくなる瞬間だ。

最近、気力体力の衰えを感じる。
更年期がすぐそこに迫っていると実感させられる体調の変化がある。
女性特有のしんどいこの時期を、小さなピアスの力で乗り切れたらと思う。




bQ9 『がんばれ』 1996年12月22日(45歳)
「涙は星より重く、立っているだけで精いっぱい……」 
朝の8時15分、テレビから流れてくるこの歌を聴くと、切なさで胸が痛くなる。
「香子ちゃん、がんばれ!」と、ドラマの主人公に声援を送るのが、最近の日課になってしまった。
しかし、ドラマの主人公に「がんばれ!」と言うのは簡単だが、実際の生活の中でそれも身近な人の夢を応援するというのは、簡単そうでいて実は1番難しい。

昨年共通1次を目の前にした長男の呑気(のんき)ぶりに、「志望校を変えたら」と言ってしまった。
そうしたら普段は穏やかな長男が、「おれの人生はおれのものだ」と、泣きながら殴りかかってきた。
その時、励ましたり注意するよりも、見守るという行為のほうが、数段難しく、かつ思いやりに満ちたものだということを、つくづく思い知らされた。
そして見守るという行為は、意外と他人には簡単だが、1つ屋根の下に住む家族の間では、努力を必要とするほどに難しいということも……。

私も原稿用紙の上に夢を追い続けて、もうすぐ20年になる。
その間育児で中断したり、パートに出ることであきらめかけたりもした。
それでも続けられたのは、家族が見守っていてくれたおかげだろう。
ある朝突然に、自分たちの日常が赤裸々につづられた文章が、新聞に載るというのはどんな感じなのだろう。
「お母さん、やったね」と言いながらも、複雑な表情を見せている彼らの背中に、私は手を合わせるしかない。
「がんばれ!」と、自分に言い聞かせながら。




bR0 『迷い犬』 1996年(45歳) 
犬を散歩させていると、小学生数人が子犬と戯れている光景に出合った。
首輪をしていないその子犬の行く末を案じながらすれ違った時、私は7年前に経験した動物病院での出来事を思い出した。
わが家の犬も7年前の小雪のちらつく日に、子どものジャンパーに包まれて、やって来たのだった。

動物病院には予防注射の相談をしに行ったのだが、そこで犬の入手方法を聞かれた。
子犬といえども1つの命、捨てた拾ったという言葉は使いづらくて口ごもっていると、受付の女性は用紙に「迷い犬」と書いたのだ。
「捨てられたのじゃない。生き方にちょっと迷っていただけ」 その字は、子犬のそんな気持ちを代弁しているように思えた。

地球が人間だけのものでないとしたら、子犬を捨てた拾ったという表現は、人間を中心に考えた不遜な言葉ではないだろうか。
ある動物学者の言った「1つの地球に住んでいるのだから、クマに食われる人間がいるのは当然」という言葉を思い出す。
孤島に群れる野生馬、大海原を泳ぐイルカだけが、「地球に優しい」光景ではないだろう。

しかしながら、3年前に犬に噛まれて大けがをした私は、いまだに「迷い犬」を遠くに見かけただけで足がすくんでしまう。
自然破壊、動物愛護、それらの知識と理論はいつも頭の中を渦巻いているのだけど、実際にどう行動すればよいのかと考えると手も足もでない。
私は「迷い犬」ならぬ「迷い人間」である。




bR1  『髪を染める』 1997年6月14日(45歳)
前髪にまとまって生えている白髪を、月に1度、自分で染め始めて、もう何年になるのだろう。
「染め始めたら、やめることができなくなる」と聞かされていた言葉を、つくづくと実感している。
昔、母の神を染めるのを手伝っていた時は、染めむらのないように気を使ったものだ。
今はメッシュなどという、おしゃれな言葉もある時代だから、自己流に気軽に染められるようになった。
(と、自分1人が思っているだけかもしれない……)

先日は長女が「クサクサするから、気分転換する」と言って、ワインレッドの液体で髪を染め始めた。
手伝ってやりながら、どうなるか気をもんだが、つややかで自然な赤茶色の髪に仕上がって、さすがに今の若い子の感覚はいいものだと、感心してしまった。

ずっと昔、私の前を歩いていた、半白髪の髪を3つ編みにした女の人のことが忘れられない。
着ていた服はピンクハウスだったように思う。
失礼なこととはわかっていたが、足早に追い抜いて振り返った。
お顔を見ずにはいられなかったからだ。
年齢不詳というのは、こういう人のことを言うのかと、あの時の驚きを今もおぼえている。

私も白髪が目立つようになったら、あんな人になりたいものだと、ずっと思ってきた。
しかし実際にこの歳になって、わかったことがある。
白髪を染めるとか染めないとかの問題ではなく、あれは生き方の問題なのだと。




bR2 『娘と外出』 1997年8月29日(45歳)
この春から、毎日が私服で通学となった長女に誘われて、夏服のバーゲンの始まった街に出かけた。
たまたま土曜市とかち合わせて、大変な人出の中、長女がすうと私の腕に手を絡ませてくる。
その瞬間、ふと私の胸の中にあふれてくる感情があった。

長女の言うことがすべて反抗のための反抗としか思えず、また母親の私の言うことがすべて長女にとっては押しつけとしか思ってもらえなかったのは、5年ほど前のこと。
その時に長女の提案で、月に1度、必ず母子2人だけで外出するという取り決めを作った。

ちょうど私はパートに出始めた時で、体力的にも金銭的にもつらい時だったが、夫の協力も得て、3年間実行した。
口げんかから、娘と私が別々のバスで帰宅ということもあった。
お互いに本音の探り合いという綱渡りをしているようなしんどさの中から、母子でも価値観の違う人間同士と認め合って協調するということを学ぶのに、やはり3年かかった。

仲のよい母子のことを「一卵性母子」というらしいが、かぎりなくよく似た遺伝子を共有していても、価値観や考え方がまったく同じということなどあり得ない。
まして従属関係を期待すること自体間違っている。

あの薄氷の上を歩くような3年間、私を支えていたのは
「親子関係のこじれは、やはり親が悪い。と、考えなければ、親である意味がない」
と言ってくれた、ある人の言葉である。




bR3 『同窓会』 1998年1月19日(46歳)
卒業から30年目の中学校の同窓会に2日に出席した。

父の仕事の都合で、私は小学校を4回、中学校を3回、転校している。
そして現在までに、20回に及ぶ転居を繰り返してきた。

学校生活の思い出はハサミで切り刻んだみたいで、その上に歳をとるにつれて、その細切れな部分にかすみもかかってきた。
中学校の担任の名前も、何組だったかも忘れていた私に、同窓会の案内が届いたのは、偶然と幸運がうまく絡み合ってくれたおかげだと思う。
「私がだれもおぼえていないように、だれも私のことを覚えてくれてなくてもいい。中学校の同窓会というものがどんなものかを、経験してみたい」
と、少々悲壮な決意を抱いて、会場のホテルに向かった。

案の定、指定されたテーブルに座っている元級友たちの名前を、私はおぼえていなかった。
しかし私自身は、当時は少なかった転校生ということで、おぼえられていた。
そのうちにお互いの住んでいる町の名前を知っている、勤め先を知っているということろから、私も会話に加わった。
2次会も終わるころには、2年後の再会を楽しみにしている自分があった。

何度もの転校と持って生まれた性格もあって、「なじめない、友達がいない、だから忘れたい」、そんな学校生活だった。
しかし頂いた名刺や名簿を整理しながら、「あの暗かった日々に、今からでも、明るい色を足すことができるのではないか」と、そんなことを考えている。



bR4 『迷子さんいろいろ』 1998年6月5日(46歳)
スーパーの中で働いているので、店内で迷子さんと出会っては案内所までお連れするということが、時々ある。
案内所までの短い距離を、小さな子の手つないだり抱っこしたりと、忘れかけていた自分の子育てのころを思い出す。
それにしても十人十色とはよく言ったもので、迷子さんもいろいろだ。

しゃがんで商品の補充をしている私の前に座り込んで、顔をのぞき込んでくるお子さんがいた。
お母さんの買い物に付き合うのにも飽きたのかなとも思い、「おばちゃんの仕事、面白そう?」などと、仕事の手は休めずに、しばらく話し相手をしていた。
ついに顔と顔がくっつくほどにのぞき込まれた時、ひらめくものがあった。
これは迷子さんだ。

ある時は、迷子さんに「お母さん、あっちから来るよ」と何気なく言ったら、その子はまばたきもしないで私の言った方向を見つめている。
大人同士には何てことのない言葉のあやなのに、こんなに純粋に信じられると、ちょっと自分の舌をかみたくなった。

先日は、泣きわめいてパニック状態で走り回っている迷子さんに遭遇した。
こういうときこそ『むかし取った杵柄』だ。
「迷子のままでいたいのなら、ずっと泣いていなさい」 ちょっと大きい声を出したら、泣くのも走るのもピタッとやめて、「うん、(案内所に)行く」と言った。
本当は抱きしめたいほどかわいいと思ったのだけど、私のこの気持は伝わらなかっただろうな。




bR5  『虫取り』 (47歳)
風もなく薄日さす穏やかな日、長男について山歩きを楽しんだ。
軍手をはめフルイと幾つもの布袋を持った長男は、積もった落ち葉の下で冬眠中の虫取り、そして私は邪魔にならない程度のその手伝い。

長男に頼まれて縫った布袋の実際の使われ方を、この日初めて見た。
フルイで土も一緒に入れることを考えれば、袋の口はもう少し広いほうがいいかもしれない。
縫いしろを外にしたのは正解だった。
小さな虫はすぐに縫い目のすき間に逃げ込もうとする。

22歳でつかれたように「虫、虫」という長男は、時々手を休めては今までに行った山、そしてこれから行く予定の山の話をする。
その言葉に相づちを打ちながらも、30年前に受験勉強のしんどさから生物学への道をあきらめた私の心境は複雑だ。

長男が幼いころは、捨てきれなかった私の古い生物図鑑を絵本の代わりに読んでやった。
「理科の教科書は、お母さんの話と同じだ」 そう言われたこともあった。
現在の長男の姿は私がそそのかした結果かもしれない、時にはそんな不安にとらわれる。

山を下りるとき、長男は「実体顕微鏡で見た虫の姿は、まるで宝石のようだ。そのうちに見せてあげる」と言った。
「そのうちに」というその日が来るのが楽しみでもあり、子離れしなくてはと思いつつ、長男の人生に自分の夢を重ねてしまう自分の気持ちを持て余してもいる。



bR6 『手編みに再挑戦』 2000年12月30日(49歳)
「初めて編み棒を持つお母さんでも、絶対に編める」という雑誌のタイトルにひかれて、子どものベストを初めて編んだのは20年前。
初心者の常で編み目がきつくなり、5歳児用の寸法で、3歳の長女にちょうどよかった。

それから、朝編み棒を持ったらいつのまにか夕方になっていた、というくらい夢中になった時期もあった。
しかし、子どもたちが既成品のセーターを格好良いと言うようになり、私もパートで働き始めるようになって時間に追われ、編み物から遠ざかって10年。
この冬、時間の余裕もできて、もう1度、手編みに再挑戦と思う。

この10年で、街に出ればのぞくのを楽しみにしていた毛糸屋さんが閉店していた。
最新の編み物の本を手に取れば、編み物界のプリンス広瀬光治さんに代表されるような、繊細で複雑な模様編みが流行のようだ。
そしてなによりも私には、老眼鏡が必要となった。

この年齢で編めば一生着ることになるのだろうと思い、地味な色合いの毛糸を買い、あえて難しい模様編みを選ぶ。
そのためにゲージを取り直すこと3回。
しかし後ろ身ごろが編み上がるころには、「細かい手仕事は若い時に体に覚えさせておけば、年をとっても楽しめる」という先人の言葉を、「あっ、指が編み方を覚えている」と実感する自分に気づく。

手を動かして何かを作るということは、本当に楽しい。




bR7 『あっ、納得』 2001年(49歳)
講演会の最後には、講師から「何か、ご質問はありませんか」と聞かれることがよくある。
興味ある話を聞いて、「それは、なぜ?」と思うことが1つもないほうが変だと思うから、私は「はい」と勢いよく手を挙げる。

しかし「質問などしなければよかった」と思うことがあるのも事実だ。
「私の質問が的を外れていた」
「2時間も話されて講師はお疲れになっている」
「せっかくのお話に、疑問など挟むべきではない」
 そのたびに、私もいろいろ考えて反省する。
「恥ずかしい」という言葉が、頭をよぎる時もある。
だが、知りたいものは知りたい。

先日は、社会人講座で「女性と経済」の話を学んだ。
内容が北欧諸国の整った社会福祉となった時、私の手が挙がる。
「どうして、それらの国は福祉国家となったのですか?」
「国民が、そういう政策をとる政党を、選挙で選んだからです」
と、講師のあまりに明確な答えに「あっ、納得」と思うしかなかった。

自分で選んで自分で行動して、結果は自分にはね返ってくる。
政治も生き方も、結局根っこは同じなんだと思う。