運がいい


    
 ……殺すつもりはなかったが、死んで欲しかった……
 凶器となったナイフの刃を、上向きに持っていたか下向きに持っていたか、それで殺人者の殺意が図れる。
 それは、奈津子が以前に読んだことのある推理小説から仕入れた知識だった。しかし、実際に人を殺してみると、それは本に書いてあった知識でしかなかったと、彼女は思う。
 ほんの少し前まで魂があった男の体を眺めていても、自分に殺意があったのかなかったのか、彼女自身にもわからない。ただ、分別があるはずの40歳の奈津子が、人生はこれからだという26歳の淳一を殺してしまったことだけは、確かな事実だ。
 この3か月、淳一は、あからさまに奈津子を避けていた。 
 しかし、もし彼が再び彼女の元に戻ってくるのであれば、責め言葉は口にせず、彼を許してやるつもりでいた。だが、キッチンで、「あちらがダメになったから、こちらに戻ってきた」と、そんな下心でずっしりと重い淳一の手土産であるメロンを切り分けていると、言うつもりのなかった言葉が口をついて出てきた。
「女には、体の繋がりや食べ物よりも、もっと嬉しいものがあるのよ。それは……」
 と、言いかけて振り返ると、フルーツ皿を2枚、両手に持って立っていた淳一は、奈津子の手に握られた果汁に濡れた洋包丁を見つめながら言ったのだ。
「俺を、その包丁で、刺せる訳がないだろう」
 その言葉の意味が分からないという表情を見せた奈津子に、淳一は笑いながら同じ言葉を繰り返した。
「俺を、刺せる訳がないだろう」
 笑顔を見せると、実年齢よりももっと若く見えるその顔が、声に出さない言葉を語っていた。
「俺を、刺せる訳がないだろう。えっ、そうだろう、おばさん」
 その言葉に奈津子の頭ではなく、体が反応した。洋包丁を構えたまま、彼女の足が一歩前に出た。先の尖った洋包丁の先が、柔らかな肉に突き刺さって埋まっていく感触に、彼女自身が驚いた。
 背中を見せて逃げる淳一を追いかけたのは、本気で傷つけるつもりではなかったことを、話せばわかってもらえると思ったからだ。廊下を逃げまどう彼の背中を、もう1度刺したのは、彼に冷静になって欲しかったからだ。
 そして、3度目に刺したのは、白いシャツを赤く染めて、「人殺し」と奈津子には身に覚えのない言葉で叫んでいる淳一を、このマンションの部屋から外に出す訳にはいかなかったからだ。4度目からは、無我夢中で、覚えていない。
 何が起きようと、2DKのマンションのこの部屋を手放すことなど、奈津子には考えられないことだった。彼女の唯一の財産だ。住み始めてから5年、まだ20年のローンが残っている。
 40歳という年齢になれば、ここに、女1人で一生にわたって住み続けるという覚悟がある。だから、知り合って1年も経っていない若い男の心変わりよりも、彼女にとっては守らなくてはならない大切な物だ。しかしながら、そういうことを話し合ってわかってもらう前に、玄関に続く廊下にその体を横たえて、淳一は死んでしまった。
 リビングに敷いたビニールのピクニックシートの上に、まだ体の上数十センチの所に魂が彷徨っているような男の体を引きずってきた。
 
    2
 世の中には、世間というものから身を守るための、鎧の役目をもった服というものがある。
 40歳で独身で、大学病院で検査技師の仕事にたずさわって同年代の男と同額に等しい給料をもらっている奈津子のような女が着れば、「充実した日々を過ごしていますから、余計な詮索は御無用」と、雄弁に語ってくれる服のことだ。もちろんお値段のほうもそれなりにするが、世間の容赦ない好奇の目から身を守る代償と思えば、我慢できる。
 1年前、淳一は、そういう服を売っている店にいた。
「服の見立ての確かさに、感謝して」と、淳一を誘ったのは奈津子からだった。
 決して結婚を言いださないであろうハンサムな若い男は、ちょうど人生の折り返し地点にさしかかった自分へのプレゼントだった。
 それは、毎年の誕生日にいつも自分で買う、自分の年齢と同じ数だけの赤いバラの花束と同じもの。しばらくはそれで心を慰め、萎れれば、惜しげなく捨てることができる。

    3
 聞こえてくるのは、洗面所にある洗濯機の遠慮したような水を撹拌する音。
 その洗濯機の中では、壁に飛び散った血や廊下に溜まった血を拭き取ったタオルと、返り血で汚れた奈津子の服と下着が、赤い渦を巻いているはずだった。いつもの使用量の倍の洗剤を入れたのは、気休めが欲しかったからだと思う。
 飲みたくもないコーヒーでカップを満たし、奈津子はリビングの隅に両足を抱えて座り込んだ。その場所だと、、淳一の亡骸が見えて、そして淳一から一番離れている。
 「運が悪い……」
 今の奈津子には、この言葉しか思いつかない。
 起きてしまったこと、そしてこれから為すべきこと。考えれば考えるほど、永遠に上がることの出来ない双六ゲームのように、「運が悪い」という言葉の上で、足踏みしてしまう。
 淳一の手土産がケーキのようなお菓子だったら、包丁など持ち出さなかっただろう。メロンを切っていた時、気を利かした淳一がフルーツ皿を持って、彼女の真後ろに立ったりしなければ。それにしても、昨日、キッチンにある3本の洋包丁を研いだばかりだった。
 1人暮らしの気楽さで、奈津子はあまり料理をしない。職場からの帰りに立ち寄るスーパーでは、食材を買うよりも、出来合いの総菜を買うことのほうが多い。
 そのスーパーの駐車場に、月に1度、定期的に、傘の骨や靴の踵のお直し、そして包丁研ぎの移動サービスカーがやってくる。
 奈津子は、月に1度の、その日を忘れたことがない。買い物の前に、サービスカーの店主に包丁を預け、買い物が終わると、研ぎ終わったそれを持って帰る。
 それで、顔なじみとなった店主とは、言葉も交わすようになっていた。
「毎度あり〜〜。奥さん、料理上手なんだろうね」
 それから彼は、奈津子の体の上から下にと視線を這わせ、言葉を続ける。
「おっと、奥さんなんて言っちゃ、まずいか」
 1人暮らしの中年女性のわびしい私生活を探ろうとする、下心の透けて見える男の声。「普通の主婦はね、そんないい服を着て、スーパーに買い物には来ないんだよ」と、彼の目はそう言っている。ある年齢を過ぎたころから、男たちのこういった好奇心を、奈津子は目くじら立てずにかわせるようになった。
「お母さんの作る料理は、世界で一番おいしいって、いつも子ども達が言ってくれるのよ」
「へえ、料理上手でお洒落な美人の奥さんを持って、ご主人は幸せ者だ」
「ありがとう。主人に、そう言われたと言っておくわ」
 律義といってもよい几帳面さで、あまり使わない包丁であるが、奈津子は研いできた。生まれ育った家で、彼女の母親がそうであったという理由で、切れ味の落ちた包丁はもう包丁と呼べる代物ではないという思い込みが、彼女にはある。

    4
 奈津子の母の和代は、料理が上手だった。
 花嫁修業のつもりで通った料理教室で、彼女は見た目もよく味もよい料理を作るという才能を開花させた。
 そのうちにその料理教室で、生徒から助手としての役目を任されるようになった。そうなると、当初の目的であった結婚など、縁がなければどうでもよいとさえ、彼女は考えるようになった。将来のためにもう1度学校に通って、栄養学の勉強をしたいと言ったら、慌てた親たちが見合いの話をすすめた。
 結婚したあとも、時間の都合のつく範囲で料理教室を手伝って欲しいと頼まれたが、和代は断った。夫となる人に遠慮があった。夫にもそして夫の親族たちにも、彼女に対して、嫁にもらってやったという威圧感があった。そういう時代だったのだ。
 しかしその和代は、一男二女を育てながらも、その2人の女の子どもにたいして、女のたしなみとしての料理を強制しなかった。それで奈津子は、和代の美味しい手作りの料理を食べて育ちながら、料理には興味がない。
 人の一生分の時間とそれに費やすことのできるエネルギーは、人それぞれに生まれた時から決まっている。それをどのように使うかは、その人の生まれ持った才覚であろう。あれにもこれにも時間とエネルギーを注いでいると、何もかもが、そして人生さえも中途半端で終わってしまう。
 奈津子は、ずっとその不安感に追われて生きてきた。そのお陰で、手に職をつけることができて、大学病院に勤めて男と同じ給料をもらっている。
 料理教室で先生と呼ばれる夢を捨てて、気の進まぬ見合い結婚をして、3人の子どもを育てた母とは、奈津子は180度違った生き方をしているように見える。しかし、彼女は、母の生き方に逆らった訳ではない。そして母の和代も、娘の生き方を咎めるようなことはしなかった。それどころか、40歳にもなって独身でいる奈津子の生き方を理解できないでいる父から、ことあるごとに、庇ってきてくれた。
 生まれた時代が違うだけで、母と娘の性格の芯は似ているのだ。だから和代がそうであったように、奈津子も包丁だけはいつも研いでいた。

   5
 淳一の遺体の上に、夏布団をかける。青白い顔が隠れるようにと、夏布団をひっぱったら、長身の彼の2本の足がむき出しとなった。
 マンションの窓の外の7月の空と同じ、色の褪めた薄青色のジーンズの擦り切れた裾。高級婦人服を売る店に勤めながら、彼はそのような服装がよく似合っていた。
 強冷で効かせているエアコンが、部屋の空気を氷の塊のように冷やしていた。部屋の温度が下がっていくほどに、時間の流れも凍りついて止まってくれるのではないかと、奈津子は思った。被せた夏布団から突き出た淳一の素足が、昔々、学校の美術室で見た石膏の彫塑のようだ。
「淳一の体の中で、足の形が一番好き」
 睦みあうベッドの中で、奈津子はそう言ったことがある。
 若さとは、顔の造形や皮膚の張り具合、お腹の贅肉のあるなしに表れるものだと思っていたが、こんな人目に触れにくい場所も、やはり若いのだ。若い男の足を愛でて言葉にする、それは密やかな楽しみであり優越感でもあった。
「奈津子さんは、変なところが、好きなんだな〜〜。でも、俺も、奈津子さんの足が一番好きだよ」 と、その時、心にもない言葉を返されて、課の地は思わず両足を、淳一の視線の届かぬ所に隠した。
 長年にわたってヒールのある靴を履いたために、変形した爪と小指。黒ずんでいる座りダコ。冬になると、かさついた踵にストッキングをひっかけて伝線させないように、いつも細心の注意を払っている。入浴時の軽石と栄養クリームの手放せない、母似の足だ。
 その母も昔、若い男の素足を、言葉にして褒めたことがある。

    6
 「羨ましいわ、亮介さんの足。踵なんか、赤ちゃんの足みたいに、すべすべして」
 父とは一回り年の離れた叔父の亮介を交えて、夕餉の食卓を囲んでいた。和代は席に座ることもなく、給仕として、何度も台所と茶の間を行ったり来たりしていた。大皿を持った和代が、まだ20代半ばだった義弟の亮介の後ろを通った時、言った言葉だった。
 当時、小学生だった奈津子に、将来、母親似の足に悩まされる予感があったわけではない。夫以外の男の体を褒める母の言葉に、女としての華やぎが感じられて、それは幼い奈津子の心の奥にずっと残った。
 亮介は、和代の嫁いだ石部金吉揃いの田代家にあって、ただ1人の困り者だった。年老いてひょっこりと授かった末子の男の子ということで、母親のキヨに溺愛された。その結果、どうしようもない我がままで自己中心な男に育った。
 しかし、そういう男の常で、それを許したくなるような魅力的な容姿と口のうまさを持っていた。
 しかし、そのことを母親のキヨ以外の家族は苦々しく思っているのは、亮介自身にもわかっている。だから18歳で家を飛び出してからは、長続きしない仕事を辞めたか辞めさされたたびに、親の家に戻ってくることはなかった。しかし、30年前、あの時ばかりは、さすがの彼も戻ってきた。理由は、女と金だ。
 亮介が戻ってきて、すぐそのあとを、女が追いかけてきた。何もかもうっちゃらかして逃げた男への愛情はさすがに冷めていて、その代わり貸していた金を返せと、彼女は対応に出た亮介の親たちに言った。「返さなければ、警察に行く」と。
 こうなると、問題は亮介から離れて、田代家の世間体とすり替わった。親たちが女の言うなりに払った金額は、どのくらいだったのか。その後、田代家の親類縁者が亮介の顔を見るたびに、苦々しく思うほど、そして亮介を、1年近く、この田舎町に縛りつけておくほどのものだったらしい。
 代わりに払ってもらった金の代償として、亮介は、親たちと同居して勧められるままに食品卸会社の配送の仕事についた。それでも末子が可愛いキヨは、ことあるごとに「仕事ぶりがよいので、正社員に昇格する日も近い」と、誰彼となく言っていたものだ。
 そんな母親の気持ちを知ってか知らずしてか、亮介は奈津子の家に頻繁に出入りするようになった。
 機嫌をとることしか知らない母親と、厄介者としてか彼を見ない父親のいる家に比べたら、時々不機嫌な顔をする年嵩の兄の存在さえ我慢すれば、こちらの家は天国だったに違いない。この家には、魅力的な容姿と話しぶりの彼を称賛する幼い子ども達がおり、何よりも、彼のためにいそいそと美味しい料理を作る兄嫁がいた。
 
    7
「お母さんね、自動車の運転免許をとろうかなって、考えているのよ。奈津子ちゃんは、どう思う?」
 ホワイトクリームがぐつぐつと煮えている鍋を覗きこみながら、和代が言った。彼女が鍋につきっきりなのは、この日の夜に、亮介が食事に来るからだ。
 先日、和代に「亮介さん、次に来てくださる時は、鶏肉のクリーム煮にしましょう」と言われて、亮介は「そうと分かれば、赤ワインは、俺が用意するから」と、答えた。きっと和代を喜ばすようなワインの銘柄を選んでくることだろう。そして、子ども達にも、味はともかくとして見栄えの良い外国製のチョコレートも忘れずに。
 30年昔も今も、男は女の気を引く手っ取り早い手段として、胃袋に収まるものをプレゼントすることしか考えつかないものらしい。そして、いつも、女はそれにひっかかる。
「お母さんが、自動車の運転が出来るようになったら、奈津子ちゃ達と、お母さんの運転で、どこにでも行けるようになるでしょう。お父さんが運転すると、お父さんは『疲れた、疲れた』ばかり言って。お母さんはね、お父さんの『疲れた』を聞かされると、楽しかった気持ちが萎えてしまうのよ」
 和代は、「奈津子ちゃんは、どう思う?」と訊いていながら、娘の返事など期待してはいなかった。
「亮介叔父さんがね、『お義姉さんに、その気持ちがあるのなら、俺が教えてあげるよ』って、言ってくれているの。それでね、奈津子ちゃん達が学校から帰ってきても、お母さんのいない日があるかも知れないの。みんなで、仲良く、留守番をしていてね。あっ、それから、このことは、お父さんには言わないでね。ほら、お父さんは、亮介叔父さんがご飯を食べに来ることでさえ、あんまる嬉しそうじゃないでしょう。だから、この話は、まだしないほうがいいと思うの。これはね、奈津子ちゃんとお母さんだけの、女同士のひ・み・つ……」
 そう言い終えると、和代は、鍋の中のものを少し小皿に掬った。時間をかけて煮込まれたホワイトソースに包まれて、鶏肉の小さな塊がある。箸の先が触れただけで崩れる、和代特製の鶏肉のクリーム煮だ。和代は言った。
「奈津子ちゃん、味見してみて」
 料理上手な和代に育てられながら、奈津子はある年齢まで、鶏肉を口にすることができなかった。「ニワトリさんが、かわいそう」という理由で。通った幼稚園に、飼育小屋があって、そこで小鳥とウサギとニワトリが飼われていた。鶏肉が「ニワトリさんの肉」と知った日から、奈津子は鶏肉が食べられなくなった。
 奈津子が10歳になったある日、小学校から帰ってくると、台所の土間の隅に新聞紙が広げられて、その上に白い塊が置かれてあった。白い羽と鉤爪のある黄色い足で、それは「死んでいるニワトリさんだ」と、彼女にもすぐにわかった。
 しかし、「死んでいるニワトリさん」にしても、不自然な形だと不用意に近づいて、彼女は血も凍る思いに立ちすくんだ。この「ニワトリさん」には、頭がない。頭がついていたであろう場所には、黒い血がこびりついた肉と骨の切断面があった。
「ニワトリは、食べてもいいのよ。神様が、そのように作っていらっしゃるの」
 奈津子の背後から、母の声がした。その声には、決意が滲んでいた。
 頭のないニワトリの羽を抜き、腹を割いて内臓を掻き出す。包丁の先で関節を外し、肉を細切れにする。
 その作業の間、娘を横に立たせて、和代は陽気な声でずっと喋り続けていた。骨を切る時の腕の力の入れ方、筋の切り方、色とりどりの内臓の名称……。そして最後に和代は娘にもう1度言った。
「ニワトリは、食べてもいいのよ」
 その夜のスパイスを利かせたチキンカレーは、奈津子の喉をするりと通った。
 小皿に盛られたホワイトソースのかかった鶏肉をスプーンで掬い、奈津子は口に入れた。
「お母さん、とっても美味しい。心配しなくてもいいよ。私、ちゃんと、留守番できるからね」

    8
「亮介さんに、車の運転を教えてもらう」
 そう言って出かける和代の外出は、どのくらい続いたのだろうか。たった1か月のことだったのか、数か月続いたのか。30年も経つと、奈津子の記憶も曖昧だ。。
 しかし、母の顔が華やいでくるほどに、父の顔がゆがみ、ささいな言葉に小さな棘が含まれてきた。母との秘密を共有する喜びよりも、夕立ちを含んだ黒い雲を見上げるような家の中の不安を、奈津子は感じ始めていた。
 その亮介が、ある日を境にして、ぷつりと奈津子たちの家に遊びに来なくなった。と言うよりは、突然、彼は姿を消した。
 親たちによって無理やり押し付けられた、地味な配送という仕事に、もともとの性格からして嫌気がさしたのだろうと、大人たちは話していた。1年の間、こんな田舎町にいて定職についていただけでも、彼にしては上出来だったとも。
 それにしても、その時から現在まで、亮介から親元には音信の1つもない。遠い他の街で見かけたという噂もない。渋るキヨを説得して、10年後に失踪届が出された。今は、田代家の戸籍からも外されている。懲りもせずまたどこかで金銭トラブルを起こして、もう姿を現わせない状態になっているのだろうと、誰もが思っている。
 亮介がその姿を忽然と消した日より、和代は体調を崩し、精神的にも不安定な日が続いた。車を運転したいとも言わなくなった。更年期というものだと、子ども達には教えられた。
 しかし、すべては、歳月が癒してくれる。今では、年老いた和代は息子夫婦と波風なく、平穏に暮らしている。30年経ったいまでは、亮介の名前を言うものは、誰もいなくなった。
 亮介は、いったい、どこに隠れてしまったのだろう。30年前は、おぼろげな不安でしかなかったものが、いま、奈津子にははっきりとわかる。
 娘は母に似る。似ていたのは、包丁を研ぐ習慣だけではなかった。年下の若い男に心惹かれるというのも、似たのだ。そしてもしかしたら、その恋の終わりも、似たのかもしれない。いや、まったく同じだったに違いない。
「そうだ、久しぶりに、母に電話をしてみよう」 
 奈津子は立ち上がった。
「私は、お母さんの娘。その一言で、母は、娘の身に何が起こったのか、理解してくれるだろう。淳一の顔を見て、亮介の面影があると、きっと驚くに違いない」
 そして、電話機の前で、手にしていた冷たいコーヒーカップに気がついた。母に電話をかける前に、入れ直した熱いコーヒーで、まずは冷え切っている体と心を温めよう。
「運がいい……」
 ふと、そう思う。洋包丁は3本とも、昨日、研いだばかりだ。



                                       ・・・・・了・・・・・