ツクツクボウシ
 

  
 秋は深まりつつあるという言葉がふさわしい、爽やかな今日この頃であるのに、奈津美の耳の奥ではいまだに蝉が鳴いている。それは耳を澄ませば、季節にもそして時間にさえも関係なく聞こえてくる。どうやら、彼女の耳の奥に、1匹の蝉が住みついているらしい。
 山崎奈津美の住む朝日が丘団地は、ひとつの山を切り崩したなだらかな斜面の上に建っていた。
 英夫と結婚した年から住み始めたが、その年の夏に裏山から聞こえてきた蝉の鳴き声は、街中育ちの彼女にとって、情緒というものを通り越した騒々しいものとしか言いようがなかった。そのうちに剛志と由香が生まれ、夏になると虫取り網を持った彼らが、虫かご一杯に蝉を捕まえてくるようになった。
 そのために虫の名前には疎かった奈津美だが、蝉の種類だけは言い当てられるようになった。
 裏山で夏1番に、それも早朝から鳴き始めるのはクマゼミで、これは透き通った羽をもつ大型の蝉だ。それからアブラゼミ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ。そしてツクツクボウシの大合唱で、朝日が丘団地の夏は終わる。
 奈津美の耳に住みついている蝉は、そのツクツクボウシだった。
 去っていく夏がつくづく惜しい鳴く蝉の声を聞けば、暑い夏が終わるという安堵しか覚えなかった彼女が、気がつけばこの夏はツクツクボウシと一緒になって、去りゆく夏を惜しんでいた。 蝉は夏という季節を、彼女は夏という人生の季節を……。
 人の一生を4つに分けて、春夏秋冬に例える方法があるとは、以前に読んだ本に書いてあったことだ。
 人の寿命を80年として、20年ごとに区切って、春夏秋冬。芽吹きの春、繁栄の夏、収穫の秋、そして訣別の冬だったか。するとこの8月末で39歳の誕生日を迎えた自分は、ちょうど夏の終りにいるのかと思う。
 夏に生まれたから奈津美、そして3歳年下の妹は4月生まれで晴美と、彼女の両親は娘たちの名前を安易に考えたようだ。
しかしその名前のおかげもなくこの頃の彼女は暑さに弱く、それでも毎年その夏が終わるのかと思うと、後ろ髪の引かれる思いがする。
 体力が衰えたから気力が萎えたのか、気力が萎えたから、30代が終わろうとしている自分の毎日が退屈なのか。そう考え始めると、決まって彼女の耳の奥で、ツクツクボウシが鳴き始める。

  
 確かに体力は衰えた。風邪くらい暖かくして寝ていれば治ると、自分の体力を過信出来たのも、昨年までだった。
 9月の初旬の季節の変わり目に、鼻風邪をひいて、その後すっかり拗らせてしまった奈津美は、反省を込めてつくづくそう思った。
微熱も咽の痛みも1週間でひいたが、鼻水だけが止まらない。毎日、たくさんのティッシュペーパーのお世話になりながら、「ただの鼻風邪だ。そのうちに治るだろう」と、日々の生活の忙しさにかまけてほうっておいた。
 1ヵ月が過ぎた。
 あちらこちらから秋祭りのお囃子が聞こえ始めたころ、あれほど煩わしかった鼻水が、ぴたりと止まった。鼻の奥に乾いた感じがあったが、これで治ったと思った。
 長袖ブラウスの上にもう1枚羽織るものが欲しいと思われる、夕暮れ時のこと。その道は毎日のように、夕飯の買い物のために、近所のスーパーマーケットまで自転車で通う道だった。そのときもいつもと同じ時刻に、奈津美は自転車のペダルを踏んでいた。
 ふと目をあげると、ずっと先の道がオレンジ色に染まっている。近づいてわざわざ自転車から降りて、自分が足で踏んでいるものを確かめた。それは道を染めるほどに散り積もった、金木犀の花だった。
 見上げると、屋敷の土塀を覆うようにして、金木犀の木の枝が伸びている。その枝のひとつひとつにオレンジ色をした星型の小さな花が、びっしりとついていた。
 この町に住み始めたときから、ここに金木犀の大木があることは知っていた。他人の庭の木でありながら、毎年、花の咲くころを楽しみにしていた。しかし見上げるような大きな木でもあったし、石垣の上に築いた高い土塀もあって、いつ蕾がついたかは気づかないこともあった。
 それでも、花が咲き始めれば、その芳香ですぐわかる。今年の金木犀の花は匂わないのか。彼女は鼻を何度も犬のように鳴らしてみた。 実のなる木に表年裏年があるのは知っているが、花の匂いにも、表年裏年があったのか。自分の考えが馬鹿げていると気づくのに、少し時間がかかった。
 家に帰ると、すぐにキッチンに飛び込み、調味料の容器の蓋をはずして、片っぱしから鼻を突っ込んでその匂いを嗅いでみた。醤油、味噌、カレー粉、ソース……、すべての匂いがもどかしかった。かろうじて匂いが鼻の奥でひっかかって、記憶の中の匂いを呼び覚ましているような感じだ。
 鼻水が止まったことで安心していたら、匂いを感じなくなっていた。ただの鼻風邪だとほうっておいたばかりに、ひどく拗らせてしまった。
「ほら、みてよ。なあんにも、匂わないのだから」
 中学生の剛志と小学生の由香が、それぞれの学校から帰って来るのを待ちかねて、奈津美は2人を相手に、まるで理科の実験でもして見せるかのように、いろいろなものの匂いを嗅いでみせた。子どもたちも面白がって、「これも嗅いでみてよ」と、いろいろなものを持ってくる。石鹸、シャンプー、匂いつきの消しゴム、湿布薬……。
 そのうちに夫の英夫が帰宅した。それで着替えている夫の背中に、奈津美は子どもたちに言った言葉と同じことを言った。英夫は振り返ると怒鳴った。
「バカが! はよ、病院に行け」
 奈津美は首をすくめて、おどけて舌をぺろっと出した。そのときもふいに、彼女の耳の奥で、ツクツクボウシが鳴き始めた。

  
 夫に叱られてから10日が過ぎたが、それでもまだ自分の鼻は自然に治ると、彼女は信じたかった。
 匂いがしないと味まで感じなくなるとは、経験しなければ知ることもなかったに違いない。3度の食事が、砂を噛んでいるように味気ない。そしてついに、インスタントコーヒーの瓶の中に鼻を突っ込んでも、何も匂わなくなった。
 奈津美は電話帳をめくった。住み始めたころは、街中から遠く離れた辺鄙な場所だと思っていたこの団地周辺も、いつの間にか見渡す限りの家並みとなった。新しい病院もいくつか出来ていにちがいない。 ここまでひどく拗らせた鼻風邪だ。しばらくの通院は覚悟しなくてはならないだろう。
 自転車を走らせて20分ほどのところに、浅井耳鼻咽喉科医院はあった。
 建物が新しいだけあって、浅井医院の待合室は明るく広々としていた。
しかしその混雑ぶりは、10年前に剛志や由香の手を引いて、バスを乗り継ぎ通った総合病院の待合室と少しもかわりはない。剛志や由香も小さいときは、風邪をひくとすぐに中耳炎を併発したものだ。
 浅井医院の待合室も、泣き叫ぶ子どもたちと看病疲れした母親たちが、いくつもある長椅子を占領している。週刊誌の1冊を手にして、奈津美は長椅子の1つの隅に、壁に身を隠すようにして腰をかけた。子どもたちの鳴き声とそれを叱りつける母親たちの声から、少しでも離れていたかった。
 奈津美の目の前が診察室に通じるドアで、細長くはめ込まれたガラス越しに、人影の動いているのが見える。そしていちだんと甲高くなった子どもの泣き声と、それを叱咤する医師らしい男性の声も、ドア越しに聞こえてきた。
 日ごろ、英夫の男にしてはよく通る高い声を聞き慣れている奈津美には、その医師がなんと言っているのか、はっきりした言葉までは聞き取れない。しかし、頭ごなしに叱りつけているのではないことは、その声の調子でわかった。諭すような励ますようなその低い声が聞こえてくるたびに、彼女は読んでいた週刊誌から目をあげて、診察室のドアを見る。首をのばして視線の位置を変えても、細長いガラス越しには、人影の全体像ははっきりとは見えない。
大きな診察椅子の向こうで動く、黒い頭と白衣。まだ顔さえも合わせていない相手なのに、その声のせいで、奈津美は浅井医師に好感を持った。
「山崎さん、山崎奈津美さん。診察室にお入りください」
 新しい病院にふさわしい淡いピンク色の白衣を着た看護婦に名前を呼ばれたとき、受付を済ませてからすでに2時間が経とうとしていた。しかしその時間の長さを、奈津美は苦痛だと思うことすら忘れていた。これから診察室に入るのだと思うと、彼女の胸は高鳴った。それは久しく忘れていた感情だった。


  
 咲きほころびようとしているバラの花が、こんなに美しいものだったとは……。これもまた20歳のころの自分に戻ったような、、久しぶりに味わう感動だった。奈津美はいま、淡いピンク色をした1本のバラの花を、テーブルの上に頬杖をついて眺めている。この花の色は、浅井医院の看護婦が着ていた白衣と同じ色だった。
 頬杖をついてバラの花を眺めている彼女の頭の中は、振り払っても振りはらっても、つい1時間ほど前の浅井医師の言葉や仕草でいっぱいだ。先ほどから何度も何度も反芻しては、胸をときめかしている。彼女が牛であれば、テーブルの上は唾液の海となっていただろうが、彼女の口からこぼれ出るのはため息ばかりだった。
 山崎奈津美が浅井医院に通い始めて、10日が過ぎようとしていた。浅井医院では、木曜日の午後は手術日に割り当てられていて、一般の患者は診察しない。そして今日の木曜日の午後、彼女は鼻の軟骨を砕いて、その下に溜まった膿を洗い出すという手術を受けてきたばかりだ。
10日前の初診の日、奈津美の鼻風邪は急性副鼻腔炎と診断された。その時に撮った2枚のレントゲン写真に、その溜まった膿は白くモヤモヤと写っていた。
今日の浅井医院には、患者は奈津美が1人きりだった。
 手術用の椅子に緊張して座っていると、この製然とした診察室もピンク色の白衣の看護婦たちも、そして目の前の浅井医師までもが、彼女のためにだけ存在しているような気になってくる。自分の置かれた立場を、まるでテレビのメロドラマの主人公のようだと思ってしまった。この十数年の奈津美の生活の中で、ヒロインになったことがあっただろうか。
 浅井医師は診察に入る前に、必ず、あの穏やかな声で「こんにちは」と、患者に向かって先に挨拶をする。それが彼の人柄だった。彼の声には誠意があると、奈津美は思う。「こんにちは」の1言で、彼の人柄と生い立ちのすべてが想像できる。
 この日も手術を始める前に、浅井医師はその声で言った。
「こんにちは」
「こんにちは。よろしくお願いします」
 精一杯に浅井医師の言い方を真似て言ったつもりだったが、奈津美の声には当然のことながら、彼女の現在の生活しか出ていなかった。それでも自分をヒロインに置き換えた厚かましさを持って、彼女は勇気を出して言葉を続けた。
「手術、痛いのでしょうか?」
 厚かましく言った言葉の語尾に、自分でも恥ずかしくなるような甘えの響きがあった。
「出産の経験は?」
「えっ?」
「お子さんは、何人?」
「あっ、子どもは2人います」
「じゃあ、大丈夫。出産の経験がある女性は、大抵の痛さには耐えられますからね」
 既婚女性の手術を何度も手掛けた医師としてのジョークだった。しかし奈津美には、大人の洒落た会話のように思えた。まるでテレビドラマの中の男と女が口にするような会話。それにしても、咄嗟に気の利いた言葉で言い返せない、自分の才気のなさが悔しい。
 そんな奈津美の胸の内を浅井医師が知るわけもなく、彼は手術に使用するらしい器具の点検に忙しそうだ。自分でも少々ずうずうしいとは思いながら、彼女はその姿を目で追っていた。才気はなくしたが、厚顔にはなった。これだけは40歳を目の前にしての、年の功だろう。
 浅井医師は、夫の英男とあまり変わらぬ年格好だった。英男のほうが、少し背は高いように思われる。そしてそのぶん、浅井医師のほうが肉付きはよいかもしれない。
 夫もそうだが彼も、テレビドラマに出てくる男優と比べるまでもなく、美男子とは言い難かった。しかし、そのことがなおさらに、奈津美の胸をときめかせる。それは彼も自分自身も、テレビ画面の向こうの別世界にいるのではないことを実感させた。
 主婦のありふれた日常では、働いている男性を惚れ惚れと見つめる機会などないにひとしい。夫のそう言う姿すら、みたことはない。
 外出するといえば、子どもの学校参観の日か、近くのスーパーマーケットまでの買い物か、女ばかりの趣味のサークルくらいだ。奈津美にとって、夫と息子以外の男性と話す機会など、月に1度もないことさえもあるのだ。
「じゃあ、始めますよ。ほんとうに、あっというまだから」
 そう言いながら、浅井医師は奈津美のこわばった肩に手をかけて立ち上がった。 その瞬間に奈津美の心臓は咽元まで跳ね上がって、激しく鼓動を打ち始めた。それはこれから始まろうとする手術のせいだけではなかった。
 麻酔の注射は、言葉通りに、あっというまに終わった。鋏に似た器具が鼻の奥に差しこまれる。浅井医師は力をこめるために息を大きく吸い込み、そして奈津美は生れて初めて、自分の骨が砕ける鈍い音を聞いた。それは彼女のづ骸骨の中でしばらく反響した。
 顎の下に押し付けられていたステンレストレーの意味が、このときやっと理解できた。鋏のような器具が鼻の穴から引き出されたと同時に、膿を含んだ鼻血が流れ出たからだ。この10日間の通院と投薬の結果、彼女の鼻は嗅覚をとりもどしつつあった。自分の血の匂いがした。
 そして彼女の正面30センチと離れていない浅井医師の吐きだした息の中に、夫とはまた違った口臭も嗅ぎ取ることができた。


  
 手術を終えての帰り道、いつもの習慣で、スーパーマーケットに立ち寄った。夕飯の献立の材料とこまごました日用雑貨……。店内にはクリーニング店と並んで、花屋もあった。いつもなら素通りしてしまうその花屋の前で、彼女は足を止めた。
 来客のために花を買ったことは何度かある。しかし自分のために花を買ったのは、結婚以来、これが初めてのように思う。それほど家事と時間に追われていたのだ。
 たった1本のピンクのバラだったが、透明なセロファン紙に包みリボンをあしらってもらった。いまの気分に1番ふさわしい、それはちょっとした贅沢だった。
 そのバラの花が、まにあわせのガラスのコップの中に差しこまれて、奈津美の目の前にある。
 いまさらこの歳で、不倫願望というものでもない。白馬にうちまたがった王子様の出現を夢見ているわけでもない。
 鏡に映るおばさんそのものといった自分の顔と姿は、ひいき目を差し引いて心得ているつもりだ。そしてたった10日間とはいえ、他の男に胸をときめかして過ごしてきたことを、夫に対して申し訳ないとさえ思っている。
 しかしこの夏より、彼女を悩ませ続けた耳の奥のあのツクツクボウシが、浅井医院に通い始めたこの10日間、ツクとも鳴かないのも事実だ。人生の夏が終わってしまうと、40歳を目の前にして悲観していた。しかしいまはそうでもないと、安堵の尻尾を掴んだと思えるような心楽しい毎日だった。
 浅井医院には、その年も越して、半年近く通ったことになる。
 毎週火曜日に診察してもらい、受付で薬をもらって帰る。そしてその帰りには、必ず、スーパーマーケットの中にある花屋により、花を買った。温室咲きの春の花を、1本か2本。ちょうど寒い季節ということもあって、花の日持ちはよい。
 その冬の山崎家は、一輪ざしやコップに活けられた花で溢れかえった。


  
 3月初めの火曜日。昨夜は一晩中、春何番目かの温かい風が吹き荒れて、テレビの天気予報は4月半ばの陽気だと告げていた。
 この朝、夫と子どもたちをそれぞれの職場と学校に送り出したあと、奈津美は押し入れの中に頭を突っ込んで、春夏用の服をしまってあるプラスチックの衣裳缶を引っ張り出した。衣裳缶から取り出した春物のセーターとスカートにアイロンをかけて、染み込んでいた樟脳の匂いを消す。春めいた装いに合わせて、化粧も念入りにした。
 そして家を出る前に、鏡の前で、ポーズをとってみた。
 若い女の子のように、スカートをひるがえす自分の姿は、彼女自身でさえ、今年で40歳になるおばさんにはとても見えなかった。
「もう、浅井医院に行くのは、今日が最後」と、彼女は声に出して言い訳を言い、ひるみそうになる自分の心を励ました。
 先週の火曜日、診察の途中で、浅井医師はカルテに書きこみながら首をかしげた。
 彼は何も言いはしなかったが、しかし奈津美にはわかっている。
「もう完治してもよさそうなのだが……」と、その仕草は言っていた。
 治療の途中で風邪をひいてしまい、治りかけていた副鼻腔炎を悪化させている。それにしても通院し始めてから、5か月がたっている。確かに、この1か月の暖かい日中は、自分でも治ったと思えるほど鼻の具合はよい。しかし朝晩の冷たい空気を吸い込めば、まだまだ鼻水はとまらず、鼻の奥がひりひりと痛むような気がする。
 浅井医師に首をかしげられるまでもなく、奈津美自身、これ以上通院する厚かましさに耐えられなくなりつつある。
 ここ数週間の火曜日は、また匂いのない世界に戻るかもしれないという恐怖を勇気にすり替えて、診察椅子に座っているのだった。

  『お知らせ
   本日は、学会出席のために、院長は不在です
   E大学付属病院の前田医師が、代診しております』

 浅井医院のドアに貼られた『お知らせ』を読んでも、奈津美は出直そうという気にはなれなかった。夫以外の男のために着飾ったというやましさを認めたくなかった。そしてこれでまた、来週も浅井医院に来る口実が出来たとも思った。
 院長の不在は、他の患者には知れ渡っていたことであるらしい。今日は珍しく待合室に人は少なかった。泣き叫ぶ子どももいなければ、それを叱りつける母親もいない。壁時計の時を刻む音さえも聞こえてくる。
 いつもように週刊誌を1冊手にとって、奈津美は待合室のソファーに腰をかけた。しかし目は活字を追っていても、その内容は頭の中を素通りしている。
……代診の岡田という医者が、浅井院長をさしおいて、患者の病状に意見を言うことはないだろう。まして、首をかしげることもないはず……
 看護婦が彼女の名前を呼んだ。
「山崎さん、診察室にお入りください」
 奈津美が1週間の思いをつのらせて会いにきた浅井医師のいるべき場所に、岡田医師は座っていた。彼は頬杖をついて、奈津美のカルテを読んでいる。若い男だった。年齢はまだ20代の半ばだろう。

 若いということは、髪の毛の1本1本まで若いということなのか。思わず手を伸ばして触れてみたいような綺麗な長髪が、その横顔を隠していた。浅井医師と同じ白衣を着ていながら、浅井医師にはない若さを見せている。
 自分の若作りした今日の服装と化粧を思い出し、彼女は気おくれを感じた。本物の若さと見せかけの若さはまったく別のものなのだ。恥ずかしさが体中の毛穴から噴き出した。
……出来るものなら、この場から、すぐにでも逃げ出したい。
 40歳になるという自分の年齢に、まだ患者のほうを見ようともしない山田医師の横顔を見ながら、つくづく思った。年齢とは、体力とか気力とか化粧とか服装とかの問題ではない。
 「よろしくお願いします」と、奈津美は言った。
 カルテを読み終えてやっと岡田医師は顔を上げたが、浅井医師のように「こんにちは」の挨拶もなかった。無言の彼は奈津美の顔も姿も見ていない。その目は患者の鼻の穴にしか興味がないようだ。
 そして挨拶もなく病状を訊ねるでもなく、まだ心構えのできていない奈津美の鼻の穴に、乱暴に診察用の器具を突っ込んできた。
 無理やりに鼻の穴を金属製の器具で押し広げられ、痛さのあまり彼女の目には涙がにじんだ。悲鳴をあげるか抗議するかしてもよかったにちがいない。しかし声が出なかったのは、最初に彼の若さに圧倒されたせいもあるが、何よりもふいに目の前に迫ってきた、岡田医師の顔のせいだ。
 若い男のこれほどまでに整った顔立ちは、テレビの画面か映画のスクリーンでしか見られないものだと思っていた。
 涙でぼやけてきた視界だが、彼の浅黒い肌と形のよい眉毛とくっきりした二重瞼の目は見える。女でも羨ましくなるような長くて濃い睫が、その目を囲んでいた。そして黒い瞳……。
 その瞳に、治療を受けている奈津美が映っている。それは年相応のおばさんの姿をしていた。八百屋の店先で、籠盛りにして売られているジャガイモやタマネギと同じく、壱把一絡げの普通のおばさんの姿だった。


  
 治療のあと、受付の窓口で治療費と薬代をいくら払ったのかおぼえていない。病院備え付けのスリッパをどうやって靴に履き替えたのか、自転車の鍵をどうやってはずしてその自転車に乗ったのかも、おぼえていない。 この半年、毎週、自転車で走り慣れた道だったが、どこをどう曲がったのかさえも、頭の中にはなかった。
 ただ、いつも立ちよるスーパーマーケットには止まらなかった。
 買い物などする気にもなれなかったが、籠をさげて店内を歩いているおばさんたちの中の1人になるのは、もっと耐えれないことだった。無我夢中で家に帰りつくと、奈津美はテーブルの上でバッグを逆さまにして、力まかせに振り回した。
 小さく折りたたんだハンカチ、ポケットティッシュ、キーホルダーのついた家の鍵、そしてここ数日分の買い物レシートが何枚か。財布と浅井医院の診察券と、1週間分の薬の入った紙袋も、その中にあった。
 それらのどれも忘れずに持ち帰った来たことすら、不思議な気がする。彼女は、呆然と、それらを眺めているしか出来なかった。
 テーブルの上には、黄色のチューリップの花弁も散らばっている。
 先週の浅井医院の帰りに買ったチューリップだった。暖かい日が続いたので、花持ちが悪くなっていた。今朝見たときは、花が開きすぎていると思ったが、いまは5枚ある花弁のうち4枚までがテーブルの上に散っていた。
 かろうじて1枚の花弁だけが、茎の先にしがみついている。花芯がむき出しになっていて、それがいまの自分の姿を思わせて、奈津美にはひどく醜く見えた。
 この半年、1人相撲をとっていたいたことくらい、彼女自身にも初めからわかっていた。あの若い代診の医師にあからさまに見せつけられなくても、浅井医師の言葉の1つ仕草の1つが、開業医の心配りから来ていることくらい知っていた。
 この半年、胸ときめき心躍る日々だった。しかしいい歳をして、叶わぬ恋に舞い上がっていたのではない。過ぎ去ろうとしている人生の夏がつくづく惜しいと、奈津美の耳の奥で鳴くツクツクボウシから逃げるのに、これが最上の方法だと信じてしがみついてしまった。自分の愚かさに、座り込んでいるしかなかった。
 どのくらい時間がたったのだろうか。
散らばったバッグの中身をかき集め、萎れたチューリップの花を始末するために、奈津美は立ち上がった。
 これからの自分の人生の中で、花を美しいと思う日はもうないのではないか、彼女はふとそう思った。そして自分のために花を買う日も、決して来ないだろう。なぜなら、どんなに美しい花も萎れそして枯れていくことを、我が身を持って体験したからだ。
 日めくりカレンダーの8月31日を破り捨てるように、彼女の人生の夏は、今日この日で終わった。泣こうとは思わない。涙は出てこない。
 いま確かにセミの羽音が、彼女の耳の奥で聞こえた。再びツクツクボウシは奈津美の耳の奥で鳴き始め、明日より、彼女の人生の秋が始まる。